【No.40】 「思いつくままに(解答の困難なキーワード)」 技術士(電気電子、総合技術監理部門) 湯浅達夫 |
いつも心にかかっている言葉(ものごと)がいくつかある。自分の人生から生じたものか、人生に影響をあたえているのか判然としないが、悶々とすることもある。 ■衣食足りて礼節を・・・ 1973年に第一次石油危機が勃発したことは、筆者にとっては未だに記憶に新しいことで、このことを最も大きな要因としてその後の業務上の関心を継続させたことが、現在の省エネルギーや環境問題のコンサル業務に繋がっている。 ところが、最近になって、各所でこれらに関する講習会の講師を務めることがあり、その際、「石油ショック」から話を切り出してもはかばかしい反応が得られない場合がほとんどである。 現在、工場等の現場でエネルギー管理の業務の主体を担っている40歳より若い人々は、当時生まれていないか生まれていてもごく幼少のころであって、そもそも石油ショックの記憶がないのである。彼らは生まれてこの方ずっと衣食足りた人生を過ごしてきており、その存在に疑いを持つという気持ちがそもそも希薄なのである。 人間は自身が経験していないことを概念として認識することが苦手である。近年の我国の政治において、食料やエネルギーの安全保障が国民を含めての重要な政治課題となった記憶がない。少なくとも選挙の争点になったことはない。 これらは必ず充足されるものという認識が前提になっているのであろうか? 世界の人口が今世紀半ばには90億人を超えるという。温暖化に伴う食料生産減少、水不足等が予測され、食料供給に黄信号が灯っているというのに、農政にも確固たる方針が見えない。郊外を走ると車窓に見える休耕田が示すように農業の疲弊が言われて久しい。 今のままの国民の認識を前提にすると、これから顕在化する食料やエネルギー不足への対応は困難を極めるのではないかと思う。話は変わるが、発展途上国の軍事パレードのテレビ報道を見て、独裁政権はどんな相手にミサイルを発射するのだろうかと空しくなる。 最も恐ろしい敵は、今後の大規模な気候変動と食料及びエネルギー不足であり、対抗できる有効な武器は知恵と技術と倫理と人類愛のみではないだろうか? ■文科系と理科系・・・ 自分もその振り分けを受けたのだろうが、どちらにも付かない人間であると自認している。我国ではこの言葉はあたかも人間の基本的属性のように考えられており疑う人が少ない。 文科系の人間、理科的な思考等と言い習わされている。しかしながら、よく考えてみると、文科系の人間とは、たまたまある時期に数学や理科が不得意で、受験の際に選ぶ学科が数学の試験のない分野(卒業すると文科系の人間と見なされる)であったというだけのことで、人間の絶対的な区分けとしての根拠は薄弱である。 現代の経済や経営では統計学等は最も重要なツールであり、文科系の出身者も使いこなしているではないか? 日常の生活を考えても、家事の基本である炊事や洗濯は、そもそも物理や化学や数学の基本原理を含むものではないだろうか。燃焼、熱、時間、圧力、水流等といえばまさしく理工学用語だが、食事の準備にもすべてが関係する事項ではないか? 人間の生存に必須の行動は理科的要素がほとんどである。不要で不合理な仕分けでいわゆる文科系を増産すると、火災や事故が増えエネルギーが浪費され地球環境が悪化する。さらに、朝夕の食事がまずくなり家庭の温かさが崩壊する。国家もその影響を免れない。 ■技術とは・・・ 技術を生業(なりわい)とするものにとって、技術者倫理は最も基本的な要件である。およそ、100年前に定められた筆者の母校の学校訓が「技術に堪能なる士君子たれ」であったことを記憶しているが、これも技術者倫理の考えを含んでいると思う。 しかしながら、連日の新聞報道において、このような考え方から逸脱した事件をいわゆる技術者が起こしている。技術者倫理読本を片手に持って仕事をするわけにはいかないので、多分、倫理を信念として身に着けておかないと、足元がふらつく可能性を払拭できないのではないだろうか? 筆者は以下に述べるような言葉を心の中で繰り返すことで、いろいろな場面でともすれば考えが揺らぐ足元を支えてきた。技術士の称号を用いて業務を行うときに、技術が次のような「ぎ術」になってはいけないと自戒している。 「疑(うたがわしい)術」、「欺(だまし)術」、「偽(にせもの)術」、「戯(たわむれ)術」、「擬(ものまね)術」、「凝(こりかたまる)術」等になってはならないということである。 |