【No.41】 「琉球裂き機」 技術士(電気電子、総合技術監理部門) 五味道隆 |
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はじめに 湖西市白須賀に伝わる琉球裂き機の話を地域の高齢者から傾聴し、古民具を使った回想法を本格的に推進するためのトリガーとして大きな役割を果たしました。本レポートでは予備知識として、「琉球」と「回想法」の概要に触れたあと、回想法としての傾聴の実際とその効果を報告します。 琉球とは 琉球とは沖縄地方原産の「七島イ」(しちとうい)(カヤツリグサ科の植物で断面は三角形をしています)を使った畳表または畳をいいます。琉球畳は光沢があり耐久性に優れた縁無しの畳ですが、原料の「七島イ」の栽培や加工に手間がかかり、現在では原産地の沖縄地方でも生産されておらず、大分県の10数軒と静岡県の1軒の農家で高齢者が細々と生産を続けています。湖西市白須賀地方では、昭和30年代まで「イ草」が多くの農家で栽培され、「畳表」や「ござ」の生産が盛んで、たいへん潤っていました。今回のヒアリングによると、この地方で栽培された「イ草」は丸いものが主で、太いもの、細いもの、断面が三角形のものなどがありました。この地域では原料の「イ草」をはじめ「ござ」「畳表」を含め、て完成品の「畳」などを「琉球」と総称していました。 回想法の起源と日本での始まり 回想法はアメリカの精神科医で医学博士のロバートバトラーが、1963年にライフレビューの概念を提唱したのが起源とされています。バトラー博士が提唱する以前は、高齢者の回想は否定的に捉えられていましたが、バトラーは回想するという経験が以後の人生にプラスとなるとの見方を示しました。 日本での例では、戦後、、アン・O・フリードが、明治、大正、昭和の3代を生きた65歳から95歳の日本女性27人に面接し、ライフレビューを行ったのが始めとされています。このレポートは通訳として取材に同行した黒川由紀子及び伊藤好子、野村豊子らの共訳で1998年に日本語版で出版されており、回想法実践の草分け研究書として回想法関係者のバイブルとされています。その後、黒川、野村らによる回想法に関する理論技法の解説書も発刊され、回想法の原典として関係者の参考書となっています。 それでは本論に入ります。「琉球裂き機」のお話しを聞きました。 平成20年1月29日の13時:30分から15時30分に 福祉ボランティアで、さわやか湖西の世話役をしている川上悦子さん(仮名)宅の車庫兼倉庫に保管されている「琉球裂き機」について、白須賀在住の高齢者お二方のお話しを聞きました。お話しをしてくださったのは、白須賀にお住まいの上田あやのさん(仮名)(84歳)と南川ひささん(仮名)(82歳)です。 プロフィール 上田あやのさんは、白須賀に生まれ、白須賀で育ちました。 南川ひささんは、名古屋で生まれ、幼少時代を鳴海で過ごしていましたが、5歳のときに両親が亡くなり、白須賀のおじさんに引き取られてきました。以後、ずっと白須賀にお住まいです。 琉球裂き機を見て お二方とも、子供のときから白須賀で琉球のお手伝いをされていて、「琉球裂き機」を見て、懐かしさにいっぱいの笑顔をほころばせながら、いきいいきと当時の様子を語ってくれました。悦子さんの車庫兼倉庫に入ってきて、琉球裂き機を見たお二人は、「わぁ懐かしいやぁ」と琉球裂き機を引っ張り出して、子供の頃の手順どおり、琉球の束を掛ける台棒を当然のように手際よく差し込んで、説明を始めました。 ひささんは82歳とも思えぬ、かくしゃくとされた方で、背筋を伸ばして、、きりりとひきしまった顔、よく通るりんとしたお声で、てきぱきと説明を始めました。 あやのさんはひささんと隣同士で仲のよいお友達です。お姉さん格のあやのさんは、お若い頃は活発で働きものだったとはっきりわかるとても明るい豪快なばっちゃんです。「わはっはっ」と大きな声で豪快な笑いとともに、ひささんの説明に相槌をはさみながら愉快に語ってくれました。 動かしてみる 早速動かしてみようと、ひささんが悦子さんに準備していただいた丸いすを琉球裂き機の前に持ってきて、すわり具合を確かめながら作業を始めました。本物の琉球はありませんので、ビニールの梱包テープを琉球に見立てて作業を始めました。てきぱきと琉球を裂く作業の説明をされているひささんの姿を見ていると、おじさんのおうちできびきびとお手伝いをしていた少女の姿が思い起こされました。小学校1年生のときから学校から帰るとすぐにかばんを放り出して、琉球裂きの仕事の手伝いをしました。
写真左 : 琉球裂機の操作を実演しているひささん 写真右上 : 琉球裂機を操作しているひささんの手元 「琉球を左手に持ち、右手で裁きながら裂き機へ通すんだよ」 写真右下 : 田圃の草取りきの実演しているひささんと、見ているあやのさん 「リズムよく少しづつ押して進むんだよ」 琉球の農作業 琉球畑は、潮見坂を下りたあたりから東に旧国道の北から南に広がっていました。琉球は春に植えて秋に刈り込み、作業が全部終わるのは9月末ごろまでかかります。刈り取りの頃は、午前3時に起きて暗い頃から懐中電灯で照らしながら始め、夜が明けるまでに刈り取ってしまわないと一日の作業が間に合いませんでした。刈り込んだ琉球を束にして持ち帰り、この機械で半分に裂きます。裂いた琉球は浜の砂の上に並べて干しあげると、髄の水分が失われて丸くなります。取り込んだ琉球は乾き具合を見ながら、水を掛けたり乾かしたりを繰り返します、適度な乾き具合になったものを、織機にかけて「ござ」や「むしろ」状に織り上げます。織りあがった琉球は10枚ずつ束にして、行商人が買いにくるのを待ちます。入出の方からも買いに来ていました。売りに持って行くこともありました。 琉球の出荷 昭和30年ごろ10枚の束が1,800円から2,200〜2,300円で売れました。織り上げるのは手の早い人では1日3枚程度で、10枚織るのに2,3日かかりました。(当時初任給が4,000円前後の時代でしたからかなりの高額です。琉球の仕事はたいへんでしたが、けっこう実入りがよく、この一帯の多くの農家は琉球栽培をしていました。) 琉球の仕事はお嫁に来てからもやっており、昭和30年ごろまで盛んに行われていました。その後大きな工場などができ、だんだんやらなくなっていきました。 回想法の効果 ひささんも、あやのさんも、琉球裂き機をみてお話しを始めると、目を輝かして次から次へ作業を再現しながら元気よく語っていただきました。昔のことを思い出して語り、次の世代に伝えることで、脳の中ではシナプスが活発にニューロンとニューロンの信号伝達回路を形成していき、ニューラルネットワークが活性化し、脳の働きが高揚します。ご自分の経験を若い人に伝えている、教えているということで、脳の中で喜びが満ち溢れドーパミンが活発に分泌されていきます。ドーパミンは脳に喜びを与え、次から次へとニューラルネットワークを広げていきます。この脳の働きは高齢になっても、きっかけさえあればどんどんと広がっていきます。 湖西市での回想法活動 湖西市地区福祉会では、「思い出話で脳を活性化」することを積極的に福祉活動に取り入れていこうとして、「回想法サポート隊」を立ち上げました。今回のヒアリングはこの活動のきっかけとし、その手法のモデルとするために試行したものです。今回の成果は、ひささん、あやのさんの出身地域で、まず第一に引き続いて、そのほかの地域の皆さんに広めていくこととします。 ひささん、あやのさん、それにお世話をしていただいた悦子さんに感謝します。 |