呪い
午前の仕事として与えられた書類を、控えめな所作で机の端に寄せ、ガッシュは徐に切り出した。
「清麿、話があるのだが」
「そうか。じゃあ、これもだ」
真剣な顔で迫って来たガッシュに相槌をひとつ返すと、清麿は持参した書類の束を机上に載せる。本日の午前の仕事追加分だ。
「そうかって、じゃあって、全く聞いておらぬではないかあ!」
ばんと机に手を叩き付け不平を口にしたところ、振動で書類が安定を失いかけた。ガッシュは慌ててそれを手で押さえ止める。
一枚も逃さずに止めたことを確認してから、再び口を開く。
「話があるのだ」
「何だ」
書類を崩したり床に落とすような失態もなかったので、清麿は妥協してガッシュの言葉に応じてやる。
すると、ガッシュは急に改まったような顔を見せ、幾分硬い口調で言った。
「手を出して欲しいのだ」
「手?」
意図が読めずに、清麿は眉を顰めた。
躊躇いがちに右手を開いて見せると、ガッシュは頭を振った。
「反対。左手なのだ」
「こっちか?」
ここに載せろとばかりに左の掌を差し出され、清麿は戸惑いながらその上に左手を置く。
ガッシュは掌に収まった手を強く掴むと、清麿が着けている手袋の布を引っ張り、手から抜いてしまった。
唐突に施された行為に、清麿は目を瞠る。
「清麿、これを受け取っ…ぐはっ」
恭しく清麿の手を取ったガッシュは、幾らか気取った声で言葉を紡ごうとしていた。
だが、全てを言い終える前に顔面を張り飛ばされて、情けない呻き声を上げる羽目になる。
「な、何をするのだ、清麿」
「いや、つい」
暴漢に襲われた際の防衛策としての護身術とでも言おうか。左手を取られた瞬間、右手が出ていた。
清麿は多少の罪悪感を覚え、ばつの悪い顔を見せる。
ガッシュは左頬を赤く腫らしながらも、再び掌を示し清麿の左手を要求した。
あまり気は進まないが、清麿は大人しくそれに従う。
ガッシュは空いている右手を懐に入れて暫くごそごそと中を漁り、握ったままの拳を懐から出した。
「…何だ?」
左手を取られたまま覗き込もうとする清麿の動きを制し、拳をよく見える位置に差し出した。
手を開くと、中には銀色の指輪があった。赤く輝く小さな石が一粒、埋め込まれている。
「人間は、伴侶となる者に指輪を贈ると聞いた」
ガッシュは少し照れくさそうに笑う。殴られた場所以上に頬を赤らめて、清麿の左手をそっと引き寄せた。
「ヌ」
「あ」
忘れていた。
いや、忘れてなどいないが、うっかりしていたのは事実だ。
「き、清麿っ!!!こ、こ、こ、これは一体全体どういう…」
ガッシュは清麿の左手を力任せに掴み上げ、動揺に声を震わせながら問い詰める。力加減を考えていないらしく、腕が軋んでかなりの痛みを覚える。
痛みに耐えかね、清麿は一瞬の隙を突き、ガッシュの手を強引に振り解いた。
「アホ、痛いだろうが」
「ス、スマヌ。しかし、それは…」
ガッシュの指差す先には、一本の指輪があった。
清麿の左手薬指に、嵌められている。
「エンゲージリングか、マリッジリングとかいうものではないのか?」
「そんなロマンチックなもんじゃない」
「しかし、人間界では、左手の薬指は心臓と直結している特別な指で、結婚する前と後に指輪を着ける場所と決まっているのであろ?」
「…詳しいな」
「ティオがそう言っておったのだ」
そうか、突然妙なことを言い出したのは、ティオの影響か、と清麿は納得する。
自分も人のことは言えないが、王に対するものとは思えない、昔と全く変わらぬ態度でガッシュに接する彼女ならば、指輪の話題を持ち出して焚き付けることぐらいしてもおかしくない。
清麿はひとつ溜息を吐き、ガッシュが未だに握り締めている己の手袋を奪い返した。
「もう一度言うが、これはそんなロマンチックなもんじゃない」
清麿はガッシュから取り戻した手袋をさっさと左手に嵌め、指輪を隠してしまう。
追い縋る視線を、向けた視線で制した。
「これは、呪いの指輪だ」
予想外の返答に、ガッシュは全身を硬直させる。
清麿はそれ以上言葉を続けることはせず、ただ意味深な笑みを浮かべて見せた。
「じゃあ、俺は行くが、その書類を一時間で仕上げてくれ」
「ウヌ…て、ヌウ!?この量をいちじかんでかのっ!?」
惰性で首を振る途中、思考が漸く清麿の言葉を理解し、その内容にガッシュは思わず声を上げる。
清麿が気軽に「その書類」などと指す書類は、机の上、ガッシュの目の前に堆く積まれている。しかも、書類の山は二つも三つも用意されているのだ。
一時間という短時間で仕上げるなど、到底不可能だ。
「一時間だ」
「き、きよまろ〜」
「やれ」
慈悲を求めるガッシュの視線を清麿は軽くいなし、シンプルに強迫する。
ガッシュは無茶な要求に机を叩いて抗議しようと拳を振り上げ、そんなことをすれば書類の山を倒壊させる恐れがあると気付き、空中で拳を止める。
「でないと――」
清麿はガッシュの拳にちらりと視線を遣ってから、彼にしてはやけに穏やかな口調で言った。
「呪いが降り掛かるかもな」
「や、やるのだっ!」
謎の脅迫と圧力に屈し、ガッシュは勢いよく首を振った。
ゼオンからの急の呼び出しに、清麿は心当たりがあった。
王宮の地下深く、重厚な扉をくぐり、よく響く石畳の上を歩いた先に、それは存在する。その存在は限られた者にのみ伝えられ、入室の許される者は更に限定される。
ひとつの房の前に、一切の感情を捨て去ったかのような表情のゼオンが佇んでいた。
「ゼオン」
声を掛ければ、無言で房へと視線を促される。
目を遣らずとも、聞かずとも、何が起こったかはわかっていた。だが、せめてもの礼儀として、房の中へ視線を遣った。
変わり果てた、かつて生きていた者の姿。
きっと、一生慣れることはないだろう。
それでも…。
不意に、ひゅん、と風を切る音が耳に届いた瞬間、目の前に白が広がった。
思考に空白が生まれるのを制し、清麿は瞬時に頭を働かせる。一瞬の隙であっても、命取りになる可能性は大いにあるのだ。
数歩後に下がり、背中を壁に付けた。攻撃を受ける方向を一つでも減らすためだ。
前に立つ白いゼオンの背中越しに、前方へ鋭い視線を向ける。
「ゼオン、」
「心配ない」
用心深く彼の名を呼ぶと、ゼオンはそう言って振り返った。
「くたばる前に、これを仕掛けたんだろう」
「…呪い、か」
示されたものは、ゼオンの指先に収まるほどの小さな木片。ゼオンが少し力を込めると、粉々に砕け散った。
ただの木片だ。だが、魔力を込めたそれは、人間の命など簡単に奪ってしまう、凶器と化す。
己の命を尽きる間際に掛けた魔力――呪いならば、尚更殺傷能力を増すだろう。
「お前のせいじゃない」
「ああ」
ゼオンの言葉に、清麿は小さく頷いた。
この房に入っていた魔物は、清麿を――人間を魔界に受け容れようというガッシュの政策に反発し、反乱を起こした者だった。
何度か面会に訪れた清麿に、罵倒の言葉を繰り返していた。
「お前が、傷付く必要はない」
飾り気のない言葉だが、自分を気遣っての台詞であることを、清麿は充分理解している。
清麿は壁から背を離し、頭を振った。
「こんなことじゃ、傷付かない」
もうここに用はない。格子越しの亡き者を最後に一瞥すると、清麿は房に背を向け石畳の上、歩を進める。
二人分の靴音が、地下の静寂に高く響いた。
人間を同等の存在と見ようとはしない魔物は数多い。王の補佐官を務める自分をそのような者達がどう思っているか、清麿はわかっているつもりだ。
呪いを掛けられたこととて、今回ばかりのことではない。
ただの呪いではない。己の命を尽くして相手の命を奪う、全てを賭して果たそうという呪いだ。
全てを。魔力も、身体も、誇りさえも。
しかし…。
「俺に、呪いは効かないから」
左手の手袋の下に隠された、『呪い』の指輪を握り締めた。
数度扉をノックすると、がたん、ばたん、ごとん、と何やら賑やかな音が返って来た。
内部の様子を想像することは容易で、清麿は返事を待たずに扉を開け放った。
「できたか?」
「ウ、ウヌウ」
扉に向かって両手を伸ばしたままの状態で固まっているガッシュに、柔和な笑みで声を掛ける。
恐らく書類が完成してない事実の発覚を一秒でも遅らせようと、扉が開かないように押さえに走ったのだろう。
そのことにはあえて触れずに、清麿はガッシュの背後にある机へと視線を遣った。
ガッシュの横をすり抜け、机に積まれた処理済の書類を手に取った。追い縋るガッシュの手を、ぺちんと払う。
「完成したのはこれだけか?」
「ウヌ…」
一枚一枚を手に取り、その内容に不備がないことを確認する。ざっと見た限り、量をこなすために内容をいい加減にしている様子はない。
清麿は完成した一山分の書類をぽん、と叩き、言った。
「まあ、一時間でこれだけできれば及第点だな」
「ヌ?」
叱責されることを覚悟していたのだろう。ガッシュは清麿の反応に首を傾げた。
「できなかったのに、怒らぬのか?」
「あれだけの量を一時間でできるわけないだろう」
清麿があっさりと言い放つと、ガッシュは腑に落ちないとでも言いたげに、視線を寄越した。
「大体、俺は一時間で全てをやれとは言ってない」
「そ、そうだったかの。いや、しかし、一時間で仕上げろと確かに」
「全部とは言ってないだろうが」
「ヌゥウ…」
反論の材料を探し求め、空中を彷徨うガッシュの視線が定まる前に、清麿は仕上がった書類を右腕に収める。
「じゃあ、あと一時間で残りを頼む」
「これ、全部かの?」
「それは、お前の判断に任せる」
恨めしげな声音をするりとかわし、一歩後へ下がる。
扉へ向かうため振り返ったところで、ふと思い付きガッシュに向き直った。
使おうとした右手は書類で塞がっているため、やむをえず口を使うことにした。中指の布に噛み付き、左手を覆う手袋を引き抜く。
布に包まれていた掌は、ほんのりと温かい。
「ガッシュ、」
「ヌ?」
ガッシュは残りの書類に手を乗せたまま、顔を上げる。動作に合わせさらりと流れた金色の髪に、清麿は左手でそっと触れた。
「いつも、ご苦労さん」
柔らかい髪の毛に指を絡める。
ゆるゆると手を動かせば、金の髪はくすぐるように指の間を滑っていく。自然に、笑みがこぼれた。
ガッシュは不意の事態に目を瞠り、全身を硬直させていた。手を置いた書類の山が支えを失い、上のほうからばさばさと崩れ落ちる。
「じゃあ…」
「きよまろっ」
髪の毛から手を離すと、ガッシュは椅子を蹴倒して立ち上がり、清麿の手を掴んだ。力強く握り締め、引き戻そうと動く。
身を乗り出したガッシュの腕と身体に押し退けれ、書類の山は残らず崩壊し、床へと舞っていった。
清麿は、重要書類も多数含まれている、床を埋め尽くした書類へ一瞬、意識を遣る。
だが、自分の手を取る者へ、すぐに意識を戻した。
手を振り解こうとはしなかったが、心持ち己の元へ手を引き寄せることで解放を促す。
「ガッシュ」
名を呼び言外に諌めると握り締める力を多少緩めはしたが、決して放そうとしない。
こうなっては仕方がない。取って置いた最後の手段を用いるため、清麿は口を開いた。
「呪いが掛かるぞ」
「ヌ!?」
ガッシュの手は、清麿の薬指に嵌められた指輪にも触れていた。
動揺し力を抜いた瞬間を見計らい、清麿はガッシュの手の内から己の手を引き抜く。再び捕らえようと伸ばされたガッシュの手をかわし、その手が届かない位置まで下がった。
追い掛けようにも、ガッシュの前には頑丈で立派な造形の机が鎮座し、進行を妨害している。おまけに、本人の所業であるが、床一面に敷き詰められた書類が歩行を困難にしている。
ガッシュが途方に暮れている間に、清麿は床に落ちた書類を避けて進み、扉まで辿り着いた。
「しっかりやれよ。片付けもな」
言い置いて部屋を辞そうとする清麿を引き止めるため、唯一届く手段として、ガッシュは声を張り上げた。
「清麿!」
「何だ」
「呪いとは本当なのか?」
ガッシュの戸惑いがちな視線は、清麿の左手薬指へと向けられている。
そう言えば、手袋を嵌め忘れていたのだ。
「本当だ」
「では、それはどのような呪いなのだ」
ガッシュは眉間を寄せ、心配そうに問うた。その瞳が湛える不安と懸念の色は、清麿の身を案じてのものだ。
外気に晒されたままの薬指の指輪を、清麿は反対の手で押さえ付けた。
「誓いを破ったとき、心臓を貫く」
「誓い?」
その疑問には答えず、ガッシュに一礼を向けた後、後ろ手に開いた扉から退出した。追及の声を、扉を閉じることで遮断する。
扉の向こうから、頻りに何事かを叫ぶ声が微かに耳に届き、笑いが込み上げて来る。
無意識に左手を持ち上げ、口元を押さえていた。
唇に金属特有の冷感を感じ、咄嗟に手を離す。指輪が唇に触れたのだ。
清麿は薬指に収まった銀色に光る指輪を暫く見詰め、今度は明確な意志を持って、再びそれを唇に押し当てた。
表面の滑らかさと、刻み込まれた文字の先鋭な触感を、唇で知覚できる。
指輪には、呪いの言葉が彫られている。
清麿自身が、『高嶺清麿』の生涯を呪縛するために掛けた呪いだ。
ガッシュの手を取り、魔界に行くことを選択したとき、清麿は己を取り巻く一切のものを、清麿自身から切り離すことを決めた。
魔界に来るために、多くのものを捨てなければならなかった。中途半端な決意では、そうして傷付けた人に報いることができない。
何より、その選択を清麿に示したガッシュの思いに、応えることができない。
「永遠の忠誠と…」
唇に押し当てた魔界の文字を、覚えるまでもなく心に刻み込まれた言葉を、清麿は口にした。
「命尽きるそのときまで、共に在らんことを」
もしこの誓いを反故にするようなことがあれば、拘束した薬指から、心臓を貫いてしまえばいい。
いずれにせよ、己がガッシュの元を離れるのは、命を失ったときだ。
それは誓いであり、己に科した呪い。
赤く刻まれた文字を見詰め、清麿はおかしくもないのに、ほんの少し笑った。
「さて、」
一つ呟くと、清麿は左手を手袋で覆い隠し、右手の書類を抱え直した。
足早に廊下を歩きながら、入念に書類の詳細に目を通し、それらを回す担当の部署ごとに分類する。
頭の中では、同時進行で今後の王のスケジュールと、自分のスケジュールを確認する。
することは山ほどある。休んだり、立ち止まっている暇などない。
END