99〜不安定編〜
冷たい空気が肌に沁みて、ガッシュは強張った指で自分の身体を抱き締めた。
家着にコートを引っ掛けただけの防備では、冬の冷気に対抗しきれない。
何度、家に戻って防寒具を持って来ようと思ったか知れないが、足が家に向くことは一度もなかった。
ここにいなくてはならない。
強い強迫観念が自分をここに押し止めている。
コンクリートの壁に背を当て、体重を掛ける。ざり、と布が擦れる音が聞こえたが、大して気にもならなかった。
はあ、と息を吐き出せばかすかに白を帯び、すぐに色を失っていく。
ここは、静かだ。
すぐ横では深夜という時間帯にも関わらず、間断なく車が行き交い、エンジン音や風を切る音が耳を襲う。
それでも、その音はひどく非現実的で、現実のガッシュの耳には届いてこない。
清涼な冬の空気が、音すらも凍らせてしまっているように思える。
ガッシュの耳に届くのは、自分の呼吸音、布が擦れる音。
――心臓の、脈動する音。
これはほんの少しだけ煩いよう思う。静かなこの場所で、唯一騒音を立てている。
振り払うのは、少々骨だ。
ガッシュはそれを紛らわすように、もう一度深呼吸をして、体内の空気を入れ換えた。
「……ガッシュ?」
アスファルトを靴が叩く音と同時に、耳ざわりのよい声が聞こえた。
恐る恐る顔を上げると、曲がり角の向こうに清麿が立っている。
ガッシュを見て、僅かに目を瞠っている。自分がこんなところで立ち尽くしているのが、余程予想外であったのだろう。
泣きたいような、笑いたいような、どちらの気分なのか自分でもわからなかった。
どうしようもない感情を持て余し、結局どちらの感情も解決のいかぬまま、泣くことも笑うこともない情けない表情を清麿に向ける。
「清麿、」
「何やってんだ、お前。こんなところで……」
壁から背を離し歩み寄れば、清麿は困惑した様子でガッシュの顔を見た。
ガッシュは気取られたくない感情を必死に押さえ止め、情けない顔に無理に笑みを浮かべる。
「ちょっと近くを通り掛ったもので……」
「近くを通ったなら、うちの店に寄るだろう、お前は」
「ウヌ……」
咄嗟に作った口実など言下に否定されてしまい、ガッシュは口を噤んだ。
「いつからここにいた?」
「少し前、」
「――いい加減、本当のこと言え」
清麿の指が伸ばされ、ガッシュの頬にぴたと当てられた。手袋を脱ぎたての指は、ほっこりと暖かかい。
心地よさに伏せかけた瞳に清麿の渋い顔が映り、慌てて全開にした。
「冷たい。相当ここにいただろ」
「家を出たのは、二時ぐらいだったと思うのだが」
「……今、六時過ぎだぞ。一晩中、何やってた」
腕時計を見せ付けられ、現在の時刻が六時十五分であると確認できた。
時計など持ち合わせていなかったから、何時間ここにいたかなど知らなかった。真っ暗な空がだんだんと色を薄くして、朝になっていく様子は見てわかっていたのだが。
もし持っていたとしても、時間の感覚など全くなかったから、無用の長物だったように思う。
呆れ果てた清麿の顔に情けなさが募り、ガッシュには曖昧に笑う他、術がない。
「全く……」
深い溜息とともに呟かれた言葉に、ガッシュは肩を跳ね上がらせる。
自分は、その後に続く言葉を期待している。
受験生の癖に、何時間も無駄な時間を過ごすな、とか。こんなとこでぼーっと突っ立ってると、勉強したこと全部忘れるぞ、とか。清麿に叱って貰いたがっている。
何もかも上手く行っていないような感覚に襲われ、衝動のままにコートを掴んで家を出た。
全力で駆けて来たのはいいが、ここの角に着いたところで、足が止まってしまった。
いつものように、清麿のバイト先のコンビニに飛び込むことができなかった。ここから先、どうしても進むことができなかったのだ。
自分から会いに行くことはできない。
でも、いつものように清麿に、この馬鹿、と言って欲しかった。
結局、進むことも戻ることも叶わず、この場所でいつ来るとも知れない清麿を待つしかなかったのだ。
清麿がガッシュに腕を伸ばす。
いつものように、その拳を自分の頭に落として、辛辣な言葉を向けてくれるのだろうか。
「この馬鹿」
ふうわり、と。
清麿の両手が、ガッシュの冷えきった頬を暖めるように、柔らかく包み込んだ。
思いもよらない優しい行為に、ガッシュは目を見開いた。
「風邪でも引いたらどうすんだ」
清麿は己の首に巻いているマフラーをしゅるりと解くと、ガッシュの首にあてがう。
清麿の防寒具を奪うわけにはいかないと身を引くと、清麿はマフラーを強引に巻き付け、苦しいほどに締め上げた。
けほ、と僅かに咳き込めば、マフラーの端を握ったままの清麿と至近距離で目が合う。
心臓を打つ音が、高く響いた。
「清麿……」
不意にマフラーを強く引かれ、バランスを崩し前方に倒れかける。
清麿を押し潰しかねないと咄嗟に前の壁に手を付いたことで、何とか転倒は免れた。
ふうと安堵の息を吐いたとき、頬が清麿の髪を掠める。
期せずして清麿の身体を壁に押し付ける体勢になっていることに、漸く気が付いた。
「スマ……」
慌てて身体を離そうとすると、首の圧迫感に妨げられる。
首の圧迫感。巻き付けられたマフラーを、清麿が強く引き寄せているのだ。
そう言えば、清麿以外の者はこの場にいないのだから、先刻マフラーを引っ張ったのも、清麿ということになる。
この体勢は、清麿が望んでいるということだろうか。
都合のいい結論に考え至り、ガッシュは顔を熱くする。思考は混乱を極め、全く役立たずに成り下がっている。
清麿はガッシュの頭を両腕で抱え込み、己の肩口に埋めさせるようにした。
なすがままになっているガッシュの背中を、一つ、ぽんと叩く。
「何か知らんが、今度から店まで来い」
「…………」
「こんなところにいるよりかは、多少マシだろ」
一定のリズムで、清麿の手がガッシュの背中を叩く。
恋人にするものではなく、泣く子どもを宥める大人の、包み込むような優しさで。
清麿の肩口に頭を休めて、ガッシュは己の心が暖かく穏やかなものへと落ち着くのを感じた。
多分、もう大丈夫だ。
もし、不安でどうしようもなくなっても、自分は立ち直れる。
叱って欲しかったのだ、清麿に。いつものように、辛辣な言葉で。
清麿は叱ってはくれなかった。
いつもとはまるで違う風な優しさで、でも、これが清麿なのだとわかる、暖かさで。
早朝の空気はまだ身震いをするほど冷たいけれど、清麿のマフラーが暖か過ぎて、ガッシュはそんなことに気付きもしなかった。
叱ってはくれない清麿の優しさが嬉しくて、ガッシュは泣くように笑った。
END
あとがき
久々の99新作でございます。センター前夜編と多少かぶってる気がしないでもないですが、その辺のところは見ない振りを……いえ、精進します。
清麿が気持ち悪いほど(失礼)優しいような……。優し過ぎますかね?
でも、このシリーズの清麿は、受験生相手ってことで、多少優しくなっているのかもしれません。無意識に。
99シリーズはいつもの赤本より、ちょっとしっとりめを目指しているんですが、叶ってますかね……。
しかし、相変わらずガッシュはヘタレ……。いえ、私、でかガッシュヘタレ同盟に加入しているもので。