インド紀行
H.12.03.15

 インドと言う国は、幼い頃から、私にとって神秘の国でした。お釈迦様誕生の地、三蔵法師が孫悟空を引き連れ目指した国、ヒンズーの神々、勇壮果敢なベンガル槍騎兵、針のムシロに横たわる修験者の姿、空に投げた綱を昇り漆黒の夜空に消えて行く魔術師、等々と子供の頃の私に限りなく空想の世界への入り口を提供してくれた国でした。いつかこの国を訪れてみたいと言うのが長年の夢でもありました。

旅行々程(2000.03.03〜07)
名古屋 成田 バンコク デリー (デリー泊)@  アグラ (タージマ・マハール、アグラ城)(アグラ泊)A (ファテープル・スィクリ) ジャイプール (ピンクシティ、アンペール城塞、シティ・パレス、ジャンタル・マンタル、水の宮殿) (ジャイプール泊)B (風の宮殿) デリー (クトーブ・ミナール、インド門) バンコク C 成田 名古屋

 インドへ行こうと決めたのは、昨年の11月頃でした。全く予備知識のないインドへの旅は、現地の情報収集から始まりました。数年間仕事でインドに滞在したことのある弟に聞いてみましたが、しつこく物売りが寄ってくることくらいしか話してくれませんでした。そこで、「地球を歩く本」などの旅行ガイドブックを買ってきて読むと同時に、インターネットからも沢山の情報を得ることが出来ました。しかし、どの情報もだまされた話や食べ物にあたって下痢をした話、また睡眠薬を飲まされて身包み剥がれた話などばかり。何か泥棒や追いはぎがてぐすねひいて待っている闇夜の山中に身を投じる覚悟が必要な雰囲気さえ感じる始末。
 まあ、用心するに越したことは無いということで、添乗員付きのセットツアーで行くことにしました。旅行社を回りカタログ集めを始めましたが、インド旅行の企画は殆ど(この時期)ありませんでした。そんな折、新聞広告に某旅行社の「インド紀行」というグループツアーの募集が載っていました。日数は短いが内容は盛りだくさん時期は3月、雨季に入る前の最適の観光シーズン、渡りに船と早速申し込みをしました。しかし、後になって考えると、この短日数で盛りだくさんが災いして辛い旅をすることになってしまいました。
 私が、今まで歩いてきた国とは些か事情が違うことだけは分かりましたので、そのための準備に取り掛かりました。特に、口から入るものには注意が必要と、今回の旅行のために旅行用の電気湯沸器を新調、ウーロン茶のペットボトル5本、それに現地では円よりドルの方が使い勝手がいいとのことでしたので10ドル紙幣で何がしかの米ドルを用意しました。小雪舞う日本から平均気温25度の初夏の国への旅、スーツケースに詰める衣料品はさほど必要なく、空気枕やゴム風船を膨らませて隙間に詰め、中の荷物が暴れないように工夫。

【首都デリーへ】
 インドは、やはり遠い国でした。私の計算では、6〜7時間も飛行機に乗れば着くように思っていましたが、全くの誤算(出発の直前にしか旅行社からの具体的な日程表が届かなかったため)。午前4時起床、名古屋空港へ6時30分集合、成田で乗り換え、バンコク中継、デリー到着は夜の7時頃。夕食を済ませてホテルへ。床に着いたのは夜中の12時過ぎ。時差3時間半を加えると、朝起きてから24時間近く眠っていない勘定になる。その上、翌朝は早いのでモーニングコール5時、荷物は5時半までに廊下へ出してくださいとの説明。この無理が後々まで老体にしっかりこたえることになってしまいました。ホテルの設備は素晴らしく、ミネラルウオーターや湯沸器は部屋に備え付けられており申し分なし。でも、このホテルに滞在したのは僅か6時間、眠ったのはたった4時間。その4時間も時間がずれてしまった私の脳みそは、なかなか眠ってくれませんでした。

【アグラ】
 デリーから200キロ離れた最初の観光地アグラに向かって早朝のデリーをバスで出発。 タージマハールにて 途上垣間見たデリー市街の風景は、私の頭の中にあったインドそのものでした。それにしても、人の多いのには驚きました。道路わきにはびっしり露天の店が並び、車道と歩道の区別も無く雑踏のように人が流れている。女の人は殆どが民族衣装まとい、男性は頭にターバンを巻き、インドに来たのだという実感がひしひしと迫ってきました。それにしても、意外だったのは、車の少ないことでした。どこの国の都会でもこの時間には車のラッシュで大渋滞なのに、車道まで歩く人と自転車に占領されている。まばらに走っている車も殆どがバスかモーターリキシャと呼ばれる軽三輪タクシーで乗用車は数えるくらいしか見かけません。ときどき野良牛が悠然と人の波に混じって歩いている。この人で混雑した道路を警笛をならしながバスは進んで行きました。中国へ行った時、車と人とどちらが優先と聞いたら、度胸優先との返事でしたが、この国も度胸優先の感じです。
 郊外を抜けると流石に人影はまばらになり、見渡す限りの小麦畑。どこの国でもよく見かける農村風景である。日本では動物園でしか見ることの出来ない孔雀が畠の中を群れて歩いている。「孔雀だ、孔雀だ」全員が乗り出して大騒ぎ。「インドの孔雀は全部野生です。」とすました顔でガイドが説明。
 昼少し過ぎに宿泊予定のホテルに到着。荷物を降ろし、昼食を済ませてから再び観光に出発。アグラは、かって栄華を誇った 象のタクシー ムガール王朝の首都、ヤムナー河畔に建つタージマハールは世界遺産として知らない人は居ないほど有名です。
タージマハールは、ムガール朝のシャー・ジャハーン帝が、1631年に他界した最愛の妻のために、世界中から最高の資材を集めて造った大理石造りの霊廟です。その美しさは、ヨーロッパ旅行の目玉になっているノイシュバンシュタイン(白鳥城)を凌ぐものがあります。その美しさに惹かれ何度もここを訪れるひとさえあると言う事です。また、大理石造りの霊廟を傷めないため、500メートル以内へのガソリン車の進入は禁止されているとのことでした。
 ここで、私に最初の悲劇?が起きました。タージマハール入り口の段差につまずき右足のふくらはぎの筋肉を傷めてしまいました。その痛さといったら筆舌に尽くし難いものでした。みるみる足ははれ上がりどうしようもなし。添乗員(若い女性)は、病院へ行きましょうかとおろおろする始末。様子を見てからということにし、家内の使っていた杖を借りてなんとか観光を継続。上の写真は、みっともない姿をさらしての記念撮影です。
 続いて訪れたのは、タージマハールから少し離れた丘の上にあるアグラ城でした。山頂に築かれた城は壮大で、遠くの峰伝いに作られた城壁は、正に中国の万里の長城を髣髴とさせるものでした。
城はけっこう高い所にあり、皆について行けなければバスの中で待っていようと決心していた私を、神様は見捨てませんでした。麓から城まで象のタクシーが歩いて?いました。右の写真は、象の背に揺られる私と家内です。後方の峰伝いに城壁が見えます。
アグラ城  アグラ城は、アクバル帝により築かれた要塞と宮殿ですが、広大な要塞の80%は今でも軍用地として利用されており、観光客は入ることができません。この城の窓から眺めたタージマハールの遠景は正に額に収められた一幅の絵のように美しく見飽きることがありませんでした。
 アグラは、インド随一の観光地とのことで、インド全国から善男善女が観光に訪れたいへんな賑わい。当然、女性のまとっている民族衣装もいろいろな物が見られます。私は、インドの民族衣装と言えばサリーだけしか知りませんでしたが、その種類はいろいろあるようです。また、男性のターバンにもいろんな種類があり、おそらく民族、宗教、カースト等により異なるのでしょう。それにしても、私が今まで訪れた国々の女性は殆どが西洋風のフアションを身にまとっていましたが、この国では、洋服姿の女性は殆ど見かけませんでした。も一つ、私が興味を持ったのは、美人がたいへん多いことです。特に、アーリアン系の若い女性は全員と言ってもいいほど美人ぞろい。日本の町の中を歩かせたら、殆どの男性が立ち止まって振り返るのではないかと思われるほどの美人ばかり。次にインドを訪れるときの写真のテーマは女性にしようかなどと考えてしまいました。でも、中年以降になると皆そうとう太めになってしまうようです。
 この日は、夕方早めにホテル着、7時頃夕食。やれやれ今日は早く眠れると安堵しましたが、添乗員から明朝も早立ちで4時半のモーニングコールとのこと。ロビーで人形劇を鑑賞し部屋に戻ったのは10時。荷物を整理し床に就いたのは11時頃。このホテルは、昨年竣工したばかりの高級ホテルで、ターバンを巻いた従業員も躾がよくたいへん好感の持てる素晴らしいホテルでした。もちろん、ミネラルウオーターと湯沸器は備え付けられていました。水道水を平気でがぶがぶ飲んでいる日本人は些か戸惑いますが、水道水は絶対飲んではいけない、口をゆすぐのも歯を磨くのもミネラルウオーターで、飲む時はミネラルウオーターを湯沸器で沸かして飲む。これは、全て添乗員のアドバイス、すこし用心し過ぎの気もしますが・・・・・。

【ジャイプール】
 朝、まだ暗いうちにホテルを出て、途中寄る予定の世界遺産ファティープル・スィクリに向かう。途中の光景は所々に集落がある以外には見渡す限りの畑の連続。 フアティープル・シークリ  ここで、インドならではの光景?を目にすることになりました。まだ薄暗い畑の中にぽつぽつとあちこちに人影が見えます。畑の中を歩いている人、しゃがんでいる人、皆が手に水壷をもっています。中には、数人話をしながら畑に向かっている婦人達もいました。子供達は数人が並んでおしゃべりをしながらしゃがんでいます。そうです、朝のトイレの時間だったのです。農村では、家にはトイレが無く皆外で済ませてしまうとのこと。そう言えば、インドに着いた時、移動中のトイレについてガイドに訊ねたところ、「畑が全部トイレです」との返事でした。街の中でも公衆トイレは皆無に等しい状況。男性はいいにしても、女性は・・・と心配になりましたが、心配は無用でした。幹線道路には、所々に日本で言う道の駅のようなものがあり立派なトイレ(勿論要チップ)がありました。食堂やみやげ物店もありたいへん便利。みやげ物店では、円で買えば円でおつりをくれますし、ドルで買えばドルでおつりをくれます。おそらく外国人観光客のための設備のようです。ここの食堂で飲んだインド茶(チャイと呼びミルクをたっぷり使ったインド紅茶)はたいへん美味しく旅行中は度々飲みました。と言うのも出発前に読んだガイドブックに、生水は絶対に飲んでは駄目、瓶詰めの飲料も詰めなおしがあるので要注意、チャイは沸騰させてあるので絶対安全、どこでも売っているので咽が渇いたらチャイを飲みましょうとあったからです。
 間もなくファティープル・スィクリ着ですとのガイドのアナウンスがあってから、石造りの門をいくつもくぐり荒れ果てた荒野をしばし進むとやっと到着。とにかく広い範囲に遺跡が散在している。それでも世界遺産というだけに広い宮殿は立派に修復さアンペール城塞 れ花と緑に包まれてかっての姿を偲ばせてくれました。こんな荒地の真中に何故宮殿がと不思議に思いましたが、それはそれなりに理由がありました。この都は、1571年に、ムガール王朝3代の皇帝アクバルが悲願を込めてこの地に造ったもので、それなりの物語がありますが、長くなるので省略です。とにかく、都の所在地としては不適で3年間使われたのみとのことです。
 ゴールデントライアングルと呼ばれデリー、アグラと並んでインド観光の目玉であるジャイプールへ到着したのはやはり昼過ぎになってしまいました。ジャイプールは、ムガール朝が覇権を握っていた時代にアンペール城を居城としていたこの地域のマハラジャ、サワイ・ジャイ・シン2世により1728年に造られた約13キロの壁で囲まれた計画都市です。街の通りは碁盤の目のように整備され、建物は全てピンク色をしていてピンクシティと呼ばれています。この、ピンクシティの中に現在でもマハラジャが住んでいるシティパレスがあります。相続税の無いこの国では、代々の遺産がそのまま相続されてきたのでしょう。広大な居城の塔には、マハラジャが在城の時には、マハラジャの旗が揚げられています。シテイパレスの一部は、博物館としてマハラジャ代々の遺産が展示されていました。以前、インドへ行くと本当のお金持ちとは、貧乏とはが分かると聞いたことがありますが、これが本当のお金持ちなのでしょうね。途中で買った本に、現在のマハラジャの写真が載っていましたが、ターバンを巻き金細工をほどこした刀を持ち髭をたくわえたその姿は、威風堂々たるものがありました。
 アンペール城塞観光中に、第二の悲劇?発生。いいかなとは思っていましたが、やはり起きてしまいました。家内が顔面蒼白に民族舞踊 なってうずくまり、もう歩けないと言うのです。今までも疲れが溜まってくるとこういうことは時々ありましたので、私としては、対応の仕方が凡そ分かっていました。私は足を傷めていて背負うことも出来ず(添乗員が背負って行くと言ってくれましたが、小柄な女性に頼むわけにも行かず)、落ち着くのを待って、操り人形のようになった家内を添乗員と私で両方から支えやっとの思いでバスまで辿り着く有様でした。
 ホテルに着いたのは7時頃でした。ホテルの前の広い湖にはマハラジャの夏の宮殿である水の宮殿が浮かび、景観は抜群のでした。家内も何とか回復し一安心。このホテルでも部屋には湯沸器が備え付けてあり、大枚を叩いて?購入持参した湯沸器は結局使うことなく持って帰ることになってしまいました。夕食後はプールサイドでインド舞踊を鑑賞、床に就いたのは10時ころ、翌朝のモーニングコールはやはり5時でした。

【再びデリーへ】
 今日からは、私が借りていた杖を再び家内が使っての旅行脚。風の宮殿は朝の景観の方がいいと言うことで、薄暗いうちにホテルを出発。風の宮殿を見た後再びデリーへ。ジャイプールからデリーへの幹線道路の建設中で略全線工事中。道路工事と言えば大型機械やダンプカーで集中的に工事を進めて行く日本の光景とは全く違い、実に牧歌的な雰囲気でした。道幅50メートルもあろうかと思われる広い道の工事でしたが、機械やダンプカーは全く見られず、所々でサリーを着た女性達が笊に土をいれ頭の上に乗せて運んでいる姿を見かけた程度でした。道路上にはトラックが落として行ったのでしょうか大きな石のかけらが散乱しているありさま。もっとも、車の数も少ないし、古い車が多いこともあるのでしょう、スピード出している車は殆どありません。平均50キロ位で走っていました。
インド門  デリーには昼頃到着、インド最後の食事は日本料理でした。久し振りの日本食と皆喜んでいましたが、インド人の板前のせいか見かけは日本食でも味は今一。インドでの日本食も旅の味の一つかも知れません。デリーでの観光はニューデリーが殆どで、インド門、国会議事堂、大統領官邸、大学病院等々、国の威信を掛けた場所ばかりでした。道路の舗装状況はあまり良くありませんでしたが、こういう場所はどこの国でも似たり寄ったりです。住宅街も政府高官や上流家庭の人たちの住んでいる地域は広い敷地に木々が植えられ全くの別世界でした。次の旅では、是非旧デリーを見たいと思っています。
 夕方7時50分初の全日空機で来た時と同じコースを帰国の途に着きました。バンコクで乗り換えてから機中で再び家内がダウン。満席のため座席割が自由にできず、離れ離れに座っていた私のところへ、奥さんの様子がおかしいので来て欲しいと隣の席の人が呼びに来てくれました。急いで行くと、蒼白な顔色をしてうつぶせている。こんな時には横にさせるのが一番だが、空き席は無し。それでも横が同じグループ人でしたので無理を言って席を空けてもらい横にさせました。家内はそうとうまいっている様子、成田着前に車椅子の準備を空港に連絡してもらい、着後は車椅子で移動することになってしまいました。
帰宅後も疲れが抜けず、回復に一週間近くも掛かってしまいました。若いつもりでいましたが、やはり歳寄夫婦、歳相応の旅行をしなければと痛感した次第です。
それでも、もう一度インドへ行って見たいと思っています。前評判が良くなかったため出かける前には不安もありましたが、実際に旅をしてみると然程の事は無く、次の時にはもっと余裕のある旅が出来るような気がします。


それでは又!!!


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