インド旅行余話
H.12.03.21

 近況報告にインド紀行を書いて以来、たくさんの方からご感想やインドについてのお話をいただきました。インドという国は、私たちの心に何かをうったえかけてくれる魅力のある国なのでしょう。そこで、前回書きもらしたことや珍しい(私がそう思っただけかも知れませんが)事柄を余話としてまとめてみました。インドへ行ってきたと言っても、ほんの数日、ゴールデントライアングルと呼ばれる北部の主要観光都市を駆け足で回ってきただけですので、その点をお含みの上読んでいただきたいと思います。

【インドにラクダがいた】
 これは、私も全く知りませんでした。いたる所にラクダが居るのです。牛が聖牛として牛権を持っていて、人間並みに街中を闊歩荷車を引くラクダ していることや、象が家畜として使役に供されていることは物の本にも出てくることですし、日本人の常識として誰でも知っていることですが、ラクダがたくさん居ることは、本で読んだことも、テレビで見たこともありません。出発前にはたくさんのインド情報をインターネットで読みましたがラクダの話は一つもありませんでした。
 ラクダについての私のイメージは、童謡「月の砂漠」に歌われているように、背中に人を乗せ、 あるいは荷物を背負って砂漠の中をゆったりと進んで行く牧歌的な姿であったり、また、アラビアのロレンスのように、砂漠の勇者を背に乗せ勇猛果敢に砂煙を上げて敵陣に突っ込んで行く姿でした。何時もラクダは砂漠と一体であり、中近東の動物でした。
 私がインドで初めてラクダを見たのは、二日目の朝(実質的な初日)アグラに向かうためバスでホテルを出て間もなくでした。
「あっ、ラクダだ!!」 思わず声を出してしまいました。私にとっては、実に意外な出来事で、驚きでもありました。
ラクダの群  ラクダは、荷車を引いていて、手綱をもった人が荷台の上に立ちラクダを操縦?していました。荷車は、1車軸2輪で荷台は狭く、丁度中世の戦争映画に出てくる馬に引かせた戦車のような感じでした。ラクダは重い荷物を引くことが出来ないのか、それとも、少し荷を積む程度の乗用車なのか・・・(これ以降も大きな荷車を引いたラクダは見かけませんでした)。
 この時点では、まだ、物好きな人がラクダを飼っているくらいにしか思っていませんでしたが、郊外から農村地帯へ進むにしたがってラクダの数は次第に増えてゆきました。荷車を引いて行き交うラクダばかりでなく、畑仕事に乗ってきたのか畑の木につながれて草を食んでいるラクダ、牧場があるのか、道路を横切るラクダの群(右上写真)。このへんで、やっと私も、インドでは日常的にラクダが使役に供されていることが分かってきました。
 考えてみれば、インドでは、宗教上の理由から、牛を使役につかうことは無いし、食べるなどもってのほか。外の国で牛馬が使われている仕事はラクダが請け負っているのでしょう。それにしても、馬はあまり見かけませんでした。でも、インドの騎兵は有名ですし、パレードの写真を見ても整然と隊列を組んだ騎兵隊が参加しているのですから、何処かにいるのでしょうね。馬は貴重な存在で、使役に使う動物では無いのかも知れません。

【私の胃腸はカルチャーショックでふらふら】
 尾篭な話ですが、帰国した次の日から二日ほど、私はひどい下痢を起こしてしまいました。でも、それほど度々トイレに行きたくなるわけでもなく、時々お腹が痛くなり、トイレへ行くと水のような便がでました。何か細菌でも拾ったのかと心配しましたが、同じ物を食べていた家内は平気、医者に診てもらおうかとも思いましたが、一先ず正露丸を飲んで様子をみることにしました。
 出発前に読んだガイドブックにも、旅行社からの注意事項にも
@生水は絶対飲まないこと
A生野菜は食べないこと
の二つは、特に重点を置いて書いてありましたので、「インド紀行」にも書いた通り、旅行中は歯磨きまでミネラルウオーターを使うほどの注意。その上、泊まったホテルは一流ホテルで衛生管理は十分と思われましたが、念には念を入れ生物は一切口にしませんでした。勿論、観光途中での買い食いなどは一切警戒、飲料は持参したウーロン茶のみ。その上、慣れない食事に胃の負担を考え、持参した三共胃腸薬を毎食後飲んでいました。
それなのに、どうして?
いろいろ考えてみましたが、私の到達した結論は、食べ物に加えられている香辛料が原因ではないかという事でした。
食文化の違いでしょうか、インド料理には種々な香辛料がたっぷり使われているようでした。とにかく、ソースやドレッシング、それに煮物(カレー?)・スープ殆ど激辛。
 昔、私が勤めていた会社の近くにパキスタンの貿易商社がありました。昼になると、この商社に勤めているパキスタン人の社員が近くの喫茶店へ食事にきていました。私もよく行く喫茶店でしたので、近くで彼らの食事風景を観察?したことがありますが、初めて見たときは目が飛び出るほど驚きました。注文したピラフにトマトケチャップでもかけるようにタバスコをかけているでは有りませんか。最初、私は、彼らがトマトケチャップと間違えてタバスコをかけているのではと思いましたが、彼らは、タバスコでカレーライスのようになったピラフを美味しそうに食べているではありませんか。インドとパキスタンは、昔は同じ国だったのですから、恐らく食文化も似たような物ではないかと思います。
 帰国後、インド旅行の経験者達に聞いてみると、インドへ着いて3〜4日後に下痢をする人は多いということでした。また、インドの人でも日本に長く住んでいて日本の味になれた人は帰国して下痢をする人があることも話してくれました。私の下痢の真の原因が何であったかは分かりませんが、3日目にはすっかり治り、以降順調。でも、やはり、原因は激辛食事では無かったかと思っています。と言うのは、腹が落ち着くまで、胃腸全体(胃から肛門まで)に麻酔注射でも打たれたように感覚を失っていました。
 高級ホテルでは、外国人に合うように一味味付けが落としてあるとのことでしたが、胃腸に自信の無い人は、辛くないものもありますから、食べるものを選んで、徐々に慣れてゆくことが必要なのでしょうね。

【野良牛は悠悠自適高齢者】
 インドの街を悠然と歩く牛や道端に寝そべっている牛の写真や映像は、 牛 私たちが日常よく目にするところです。私も、インドへ行くまでは、インドでは、牛は聖なるもので、徳川五代将軍綱吉によって出された生類憐みの令で保護された犬達のように特別な存在で、全ての牛が放し飼いにされ街中をうろつき回っているのだとばかり思っていました。しかし、私の見たインドの牛たちは大半が太い鎖で繋がれていました。街中ではそれほどでもありませんが、農園が広がる街道沿いの集落へ入ると、道と並行に並んだ農家の軒先には沢山の牛がびっしり?と繋がれていました。大きな鉄輪の付いた杭が地面に打ち込まれていて、その鉄輪1個あたり5頭位の牛が3メートルくらいの長さの太い鎖で繋がれていました。とにかく、沢山の牛が街中で飼われているのには驚きます。勿論、放し飼いの野良牛もいました。この野良牛の中には、麦畑の中に入って、麦の穂を食べているものも居ましたが、農家の人が追い払う様子はありませんでした。
 ガイドに聞いてみると、繋がれているのは、若い雌牛で、牛乳を搾るために飼われていて、雄牛や歳をとった牛は放し飼いにされているとのことでした。雄牛は、神様の乗り物で神聖な生き物で、ヒンズー教徒は、牛肉は食べませが、牛乳は飲んでいます。牛乳の出なくなった牛は定年退職悠悠自適ということでしょうか。
 そう言えば、街中をふらついている牛は、動きも鈍く、ぼけーっと立っているか寝そべっているものが多かったのは、高齢牛が多かったのかも知れません。それから、インドの人たちが日常的に飲んでいるチャイと呼ばれるインド茶(ミルク紅茶)は、牛乳で紅茶を点てたと言った方がいいほど牛乳を沢山使っています。10億の民が毎日何度もチャイを飲むわけですから、相当量の牛乳が必要になることでしょう。
 それから、これだけ沢山の牛が街中をうろついているのに、垂れ流した糞は殆ど見かけませんでした。インドの人たちは自然の恵?を実に有効に活用しています。牛の糞を見つけると、これを手で丸め平たくして(勿論、素手でです)乾燥させます。道端には平べったくした牛の糞がずらりと並べて乾してありました。乾燥した牛糞はところどころに瓦を積んだように積んで貯蔵?してありました。この乾燥牛糞は、主に食事を作る時の焚き物にしたりするそうです。特に、インドの人たちの主食であるチャパティ(パンの一種)を焼くときには牛糞が一番よいとのこと(私の記憶が間違っていなければ)でした。普通の薪を使うと火力が強すぎてうまく焼けませんが、牛糞は長い時間掛かって弱火でゆっくり燃えるので美味しいチャパティが焼けるとの説明でした。
 とにかく、これだけ沢山の牛が毎日排泄する糞です。集落の近くへ来ると延々と?乾した牛糞や牛糞の塚が並んでいます。こうなると、野良牛も単なる定年退職悠悠自適だけではなく、燃料製造機として大活躍、人との共生に大いに貢献しているわけです。
「あんなことしておいたら、盗られてしまうのでは」
と言った同行の方がありましたが、所詮所有者の無い牛が排泄した糞、必要な人が必要な都度勝手に持っていって使っているのではないでしょうか。それとも、共有物なのかも知れません。
 どちらにしても、インドの人たちは動物を大切にするようで、豚や犬なども沢山野放しでうろうろしていますが、皆丸々と太っていました。ガイドの話では、余裕のある人は餌を施しているとのことで、牛達も餌の貰える家をよく知っていて、食事時間になるとそこへ集まってくるそうです。そう言えば、樽のような餌鉢を置いている家を時々見かけました。また、これだけ沢山の動物が人と一緒にふらついていれば、食べることの出来るごみは皆食べてしまうのではと思います。事実ごみを漁ってっている牛豚犬を見かけました。日本のように生ごみの処分に困ることなど無いのでは・・・。

【畑は全部トイレ】
 女性連れの旅で一番気を使うのはトイレではないでしょうか。 出発前に読んだガイドブックには、インドの旅は「トイレのないインド」と言う現実から始まる、いざの時のために女性は巻きスカートを持ってゆくと良いなどと書いてありました。今回の旅は半数が女性、その上移動時間は長い。私が、最初にガイドにした質問は、トイレのことでした。
「水分はできるだけ飲まないようにしてください。」
と、いとも簡単明瞭な返事でした。
「どうしても必要になったら・・・」
との私の質問に
「田舎へ出れば、畑が全部トイレです。」
と冗談めかしてガイドは言う。
それでも、当初はこれだけ沢山の外国人観光客が来ているし、事実、ホテルやレストランには立派なトイレが有るのだからと私はたかをくくっていました。
道の駅  畑が全部トイレと言ったガイドの言葉を現実の姿として目の当たりにしたのは、実質的な観光が始まった二日目の朝でした。デリーの中心を離れ郊外に向かう頃、道路から少し離れた草むらや木立の影でしゃがみ込み用をたしている人の姿を所々で見かけました。目の前の道路を多くの人たちが行き交っていましたが、用をたしている人も、通り過ぎて行く人たちも、全く気にする様子はありません。ごく日常的なことなのでしょう。私たちの出発時間が早朝だったこともあって、これ以降も毎朝こういう風景を目にすることなりました。
 特に壮観だったのは、インド紀行にも書きましたが三日目の早朝でした。広大な農村地帯を通り過ぎているとき、朝もやが立ち込めている畑の中に豆を撒いたようにぽつぽつと沢山の人影があるのに気付きました。皆しゃがみこんで朝の用をたしているのです。しゃがんで居る人の脇には皆小さな水差しのようなポットが置かれていました。朝、歩いている人たちの殆どが手にポットを持って歩いているのが何故なのか分かりませんでしたが、これで納得です。
 インドでは(私の知っている多くの南アジアの国が同じですが)左手はお尻を洗う手で不浄な手とされています。ですから、食べ物を食べる時や人に接するときには右手を使います。この作法には、貧富の差は無く殆どのインドの人がやっていることだそうです。事実、私たちの泊まったホテルは水洗式の洋式便器でしたが、横の壁の下の方に水道の蛇口が付いていて、下にやや大きめのマグカップのような容器が置いてありました。余談になりますが、以前インドネシアの友人(上流階級に属する人)を訪ねた時、その家のトイレでも同じような設備がありました。暑い国ですから、紙を使うよりこの方がお尻には清潔かも知れません。
 私たちの旅は、バスで駆け足移動でしたので、車窓からみた景色しか分かりませんが、都市の下層階級の人の家や、農家の家は草やテントの屋根で狭く(6畳間位)土間が一間あるだけのように見受けました。炊事洗濯などはみな家の外でやっているようで、おそらく家の中にトイレのある家は無いのではないかと思います。
チャイを飲む  それでは、私たち観光客はどうすればいいのかと言うことになりますが、大きい方はホテルで済ませてくれば(よほどお腹の調子でも悪い時以外は)先ず心配ありません。問題は小の方です。特に女性の場合が困ります。私が今回の旅行で見聞した範囲では、街中に公衆トイレは、簡単には見つからないと考えなけばいけないでしょう。それでも、一箇所だけ(どこだったか忘れましたが)男性用の公衆トイレを見かけました。人通りの多い通りに沿って、高さ2メートル、幅5メートルほどの四角いコンクリート塀があり塀に沿って溝があるだけのものでした。勿論屋根も囲いもありません。そこに男の人が並んで用をたしていました。立小便と大した変りはありません。
 都会であれば、ホテルやレストラン、またはみやげ物屋(外人観光客相手の)等に入れば立派なトイレがあり、最悪そう言うところを見つけて飛び込むより方法は無いような気がします。でも、急を要する場合はどうすればいいのか、それは今の私には分かりません(これは、インドに限ったことではありませんが)。
 右上の写真は幹線道路を長距離移動中にトイレ休憩で寄ったドライブインです。主要幹線道路には所々にこういう施設がありました。どれも皆建物は新らしく立派で、最近造られたものが多いのではと思います。中には、レストランとみやげ物の店があり、結構立派でした。トイレも清潔で(ホテルのトイレ並)入り口に人が立っていました。入るとき皆が10ルピー札をチップとして渡していましたが、私は小銭が無かったので黙って渡さずに入って行きました。それでも不服な顔をされるわけでもなし、彼は、チップをくれた人にも、くれなかった人にも同じ表情で黙って立っていました。
 街の中をほっつき歩いて見るといろいろな事が分かるかも知れませんが、今回の旅では、その機会が全く無くこの程度の見聞で終わってしまいました。

【施しはお恵ぐみではない】
 インドはどこへ行っても物乞いに会う。都会田舎の区別は無く集落のある場所であれば、一時的にでも観光バスが止まれば直ぐに物乞いが現れます。物乞いに集まって来るのは、主に小さい子供(10歳までくらい)が多かったのですが、時には大人が来ることもありました。こうした大人はたいてい小さい子供を抱いていました。
 インドでは、貧富の差が激しいと同時に、社会構造上、生活のための十分な収入を得ることが出来ず、施しによってしか生きて行けない人達がたくさんいること言うことです。こうした社会では、それなりの社会の仕組みが出来上がって行くもので、物乞いも、私たち日本人が考える「乞食」とは少しニュアンスが違うようです(勿論私たちの概念に当てはまるプロフェッショナルの物乞いもいるようですが)。
 インドの言葉でバクシーシ(Bakhshish)と言う言葉がありますが、これは、「喜捨、心づけ」と言うような言葉で、物乞いはバクシーシと言って手を出します。これは(卑下して)「恵んでくれ」と言う意味とは少し違うようです。私は、ある回教国を旅したときに経験したことがありますが、物乞いは社会の脱落者では無く、そうしてしか生きて行けない人達で、施しは、社会全体でそうした人達も生きて行けるようにしてあげようと言う社会保障的な面があるのではないでしょうか。また、豊かな人が貧しい人達に施すことによって善行を積むという宗教的な背景もあるようです。ですから、物乞いも卑下した様子は全く有りません。
 私のこうした考え方を裏付ける幾つかの経験(バスの窓を通じてですが)をご紹介しましょう。

@観光初日、デリー市内の交差点でバスが止まった時、窓の外に3人の子供が走り寄ってきて、空き缶を差し出しながら何か言っていいました。これが話に聞く物乞いだなと思いましたが、一同皆無視、どちらかと言えば侮蔑の眼差しでその子供達を見ていました。その時、自転車に乗って通り過ぎようとした人(勿論インド人、それほど豊かには見えなかった)が自転車を止めポケットから小銭を出すと、子供達の缶に1個ずつ入れてやり黙って通り過ぎて行きました。
 私たちは、まだインドに付いたばかりで、観光客を鴨にしてと日本から持ってきた先入観そのままで物事を判断していましたが、この様子を見ていて畑が全部トイレ自分達の考えが間違っていたのではと感じたのは私だけでは無かったようです。皆の物乞いに接する(お金を与える与えないは別として)態度が変わったように思います。
Aインドは連邦国家で州を越えるときには州へ入るための税金を払わなければいけません。納税手続きのためバスが州境で止まった時のことでした。窓の下へ男の子が立って何か言っていました。年のころは6才くらいでしょうか。まだ多くの人がセーターを着ているこの時期に、裸足でパンツと素裸の上に大き目のシャツを、それも段違いに一個だけボタンをはめて着ていました。窓を開けると 「シャボン、シャボン」 と言いながら、今まで砂にまみれて遊んでいたのでしょう、砂埃で白くなった頭や手を洗う仕草をしていました。石鹸を欲しいといっているようでしたが、手持ちの石鹸などなどありません。丁度ポケットの中に1ルピア(約3円)の硬貨があったのでそれを与えると嬉しそうな顔をしてポケットにしまい何処かへ行ってしまいました。何処かへ行ってしまったと思ったのは間違いで、間もなく妹らしい2才くらいと3才くらいの女の子(この子たちも埃まみれ)を連れて帰ってきました。そして、この子にもやってくれと言う。しばし思案しましたが、日本から持ってきた金露飴が丁度3個ポケットに残っていたので、一人一人の手に渡してやりました。
 私の印象に強く残ったのは、この後の男の子の仕草でした。私のあげた飴を包みから出すと口に入れ感謝?の印か親指を立てて私の方に差し出し美味しそうになめていました。しかし、直ぐに、口に入れていた飴を大切そうに指でつまんで出し、再び丁寧に包み紙に包みポケットに仕舞うではありませんか。何故食べて仕舞わなかったのか分かりませんが、私なりの勝手な想像をして、ほのぼのとした気分にさえなった次第です。
 この時、気付いたことですが、物乞いを許される子と許されない子の違いが不文律としてあるのではないかということです(この事については、後で少し触れる予定です)。少し離れた所で4人ほどの子供が遊んでいました。この子達は、サンダルを履き季節相応にセーターを着ていて、物乞いに来た子とは違う家庭の子であることは一目で分かりました。小さな子に分別はありませんので、私たちのバスが着いた時、一番下の子がバスに向かって走って来ました。その時、一番年上と思われる子が走って来た子に何か叫ぶとその子は素直に帰って行きました。そして、その子達のグループは、私たちのバスには全く関心を持っていないかのように遊んでいました。
 私たちは、また一つインドを旅する知識?を増やすことができました。この日以降、皆はホテルのバスルームに備え付けられているサービス用の石鹸を持って来るようになりました。これは、物乞いの人でなくてもあげると結構喜ばれたようでした。
施し B前の話に関係が有るので、もう一つ体験を紹介しましょう。
 私たちのバスが、遮断機の下りた踏み切りに差掛り長い停車を余儀なくされた時のことです。やはり、物乞いの人達が集まって来ました。最初に10才くらいの男の子が犬を連れてやって来て、犬に芸をさせてチップをくれと言うのです。続いて、子供が数人、だんだん人数が増え、終わり頃には大人まで混じってきました。左の写真は、その時に写したビデオからコピーしたものです。
 写真で見ると、後ろの方に(頭が欠けていますが)大人の人と一緒に小さい女の子が立っています。この子は、それ程良い身なりをした子では有りませんでしたが、遠くに立って見ているだけでバスには近寄って来ませんでした。それから、写真の左下に顔だけ写っている男の子がいます。年のころは16才くらいでしょうか。皆と一緒になって手をのばしおねだりをしていましたが、後ろに写っているモーターリキシャ(軽三輪タクシー)の運転手(柱の影になって見えない)にひどく頭を叩かれ叱られていました。その人は「見苦しいことをするな」とでも言っているようでした。以前読んだ本に、施しを受けなくても生きて行ける子が、外国人相手にお金を貰う癖がつき、ツーリスト専門のオモライ君になってしまうこともあり、こんな子を殴りつけるインド人を見かけることがあると書いてありました。

 物乞いに施すのにも、ただ施せばいいと言うものでも無いようです。私たちには区別がつきませんが、現地の人にはわかるようです。私たちのインド人のガイドも、観光地で物乞いに小銭を与えているのを見かけました。彼は誰にでも与えるのではなく、特定の人に与えていました。与えるべき人が分かるのでしょう。
 また、一人に施せば、瞬く間に沢山の物乞いが集まってきます。添乗員が「一人にあげれば10人ですよ」と言って教えてくれましたが、一人では済まなくなってしまいます。この辺りが難しいところです。

【物売りも旅の余興】
 物乞いのいる所には大抵物売りがいます。殆どが男で、女の物売りはあまり見かけませんでした。 しつこく付きまとってきますので、皆が嫌がりますが、これも考え方によっては旅の余興で結構楽しいものです。要らなければ、はみやげ物売 っきり要らないという意思表示をすれば諦めてくれますし、お土産になりそうな物も結構あります。殆どの物がまがい物ですが、中には値打ち物もあります。物売りが寄ってくるのはどこの国でも同じで、インドだけに限ったことではありません。特に、日本人には集まってきます。私の訪れた国々の中ではましな方かも知れません。日本人を見ると「千円、千円」で、販売価格の単位は必ずと言っていいほど千円です。私は、最 近外国旅行には千円札を沢山用意して行くことにしています。
 出発前に読んだガイドブックには、物売りの値段は、地元の価格の20倍と書いてありましたので、値切ってみましたが、20倍は少しオーバーな気がします。とにかく、最初は吹っかけてきます。値段交渉が面白い。どうしても欲しいわけでは無いので気楽に交渉できます。今回の旅では、篭に入ったコブラのびっくり箱、金属製の香水入れネックレス、それに象のミニチュア置物の三種類を買いました。
コブラのびっくり箱は、最初1個千円と言ってきましたが、最終的に4個で千円。もう少し値切ろうかと思いましたが、売り子が日本人に良く似た顔つきをした16才前後の少年で、熱心で愛想が良く憎めない子だったので手を打つことにしました。このコブラのびっくり箱は実によく出来ていて、日本の土産物屋で買ったとしても千円くらいはするものでした。日本での相場をよく勉強しているみやげ のかも知れません。
ネックレスも、最初は1個千円でした。これは、3個千円で買いました。相当根気良く交渉しましたが3個以上にはしてくれませんでした。細工は結構細かく孫のみやげにしようと思い買いました。
最後に、象のミニチュアですが、3個千円と言ってきましたが、最終10個千円で買いました。これは、見るからに子供だましのまがい物であまり欲しくなかったので10個千円の条件を出しましたが、相手もさるもの、なかなかOKと言いません。交渉に一番時間が掛かりました。15分以上費やしたでしょうか。要らないから返すと言ってもしつこく付いて来る。目的地へ着いてしまったので品物を返そうとすると、「OK,You are very lucky.」と言って名残惜しそうに品物を置いて行きました。
今回の旅行で、私が円を使ったのは、この3千円だけでした。まあ、値切っても三分の一から四分の一くらいが適当なところのような気がします。たった3千円で十分楽しませてもらいましたし、私の旅の思い出も豊かになりました。
ツアー旅行恒例のお土産屋にも行きましたが、きちんとした店では、値引きはあまり出来ないようで、気は心程度の値引きしかしてくれませんでした。 500ドル用意して行った米ドルは、殆どを家内が服を作ると言ってインド更紗の生地を買うのに使ってしまいました。とにかく、買いたいものがあまり無いということもありますが、物価は安く(日本の基準で)、滞在費の要らない旅でした。

【お給料いくら?】
 私たちが外国旅行をするときに困ることの一つが、訪問国のお金の価値の問題です。チップはどのくらいが適当なのか、買い物の価格は・・・。高いのか安いのか・・・。その国でのお金の価値を知ることは、上手にお金を使うためにはどうしても必要になってきます。 そこで、いつも私は、その国の人達が月に幾らくらいの生活費を使っているか聞くことにしています。
 今回の旅でも真っ先に、これをガイドに尋ねました。彼の話では、デリーで中流の生活を維持して行くには日本円換算で月8万円くらいは必要とのこと。下層の人達は、月5千円相当の金額で暮らしているそうです。彼らの言う中流とは、どの程度の暮し向きを言うのか分かりませんが、下層の生活は、街中を見ていれば凡その見当はつきます。
 生活レベルの基準は、国によって大きく違うので、ただ中流と言われても見当は全くつきません。昔、私の友人が、東南アジアのさる国へ旅行をするので知っている人がいたら紹介をして欲しいと言ってきました。そこで、わたしは、アマチュア無線で親しく交流していた友人(会ったことは一度も有りません)を紹介してあげました。彼は、普通のビジネスマンだと言っていましたので、私は勝手に、日本で言う中流家庭の人のように理解していました。ところが、旅行から帰ってきた友人の話を聞いて驚いてしまいました。彼は、気楽な観光旅行、ティシャツにジーパン姿で気軽に私の紹介した家庭?を訪問したそうです。私が書いて上げた住所を頼りにその場所へ行くと、広大な庭のある大邸宅(友人の目から見て)、門番がいて用件を取り次いでくれましたが、次に女の人が出て来たので家の人かと思ったら、この人も使用人のようで取次ぎに奥へ入って行った。やっと家の中に入れてもらってまた驚いた。空気の上を歩いているような毛足の長い絨毯に、素晴らしい家具調度品。場違いの所に来てしまった気がしたと帰国報告をしてくれたことがありました。この逆の経験もあります。
 とにかく、国によって中流基準は大きく違うようです。私の友人の中には、外国へ行くと、その国の日雇いの日給を聞いてお金の価値を判断している人もいます。日本人が外国旅行で鴨?にされやすいのは、国民性もあるかも知れませんが、お金の価値基準のずれが原因の一つのような気もします。

【ニュータウン誕生】
 帰国の日、デリー空港へ向かう途上、それまでのインドの印象を全く払拭してしまうような光景に出会いました。 ニュータウン 来た時は夜で、周りの景色は全く見えず気が付きませんでしたが、広大な住宅開発の光景です。今まで見てきたインドの民家は、ニューデリーの高級住宅街を除いて殆どが粗末そのものでした。デリー郊外には、かろうじて雨露を凌いでいるような家を沢山見ました。特に農村の家は、これで雨露が凌げるのだろうかと思うものが多く、草屋根が乗っている家はまだましで、テントを張っただけで雨露を凌いでいるような家も沢山見ました。
 しかし、今、目の前に広がる光景は、今まで見てきた光景とは違う国へ来たのではないかと思うほどでした。左の写真は、その時収録したビデオからコピーしたものです。人口10億を抱える広大な国のこと、開発の規模も桁外れに大きいのに驚きました。写真では、建物の様子しか分かりませんが、二階建ての近代的な住宅が広大な土地に遥か彼方までびっしりと建てられていました。おそらく、数千戸、あるいはそれ以上の家が建築済みになっているのでしょう。空地の状況から察するに、先々には数万戸のニュータウンが完成するのではないでしょうか。インドの新しい息吹を感じました。次は、何時この国を訪れることが出来るかわかりませんが、様変わりしたデリーをみることができるような気がします。


それでは又!!!


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