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皆さん元気ですか。 今年の夏は、近年に無い暑さ、38度を越す暑さは、過去に記憶がありません。
暑い暑いと言いながらも、何時の間にか秋の風が吹き始め、朝夕はめっきり涼しくなりました。先週から手のかかる孫たちが、嫁の里へ出かけましたので、家内と一緒に久しく中断していた知多四国八十八ヶ所を巡拝してきました。 今回は、知多半島先端の師崎を中心に14ヵ寺を回りました。海水浴シーズン真っ只中のこと、さぞ道中はこんざつすることと思っていましたが、全くのがらすき、夏休みを取ってきたのか、それとも夏休み中の学生か、まばらに若者達の姿を見受けた程度でした。それにしても、子供たちはどこへ行ってし
まったのでしょう。夏休みの海と言えば、子供たちの天国のように思っていましたが、子供たちの姿は殆ど見かけませんでした。急ぐ旅でも無し、身体の都合に合わせて回ることにしていますので、今回も朝の支度を終えて9時少し前に家を出ました。知多半島自動車道を一気に走り抜け、最初のお寺第27番札所誓海寺に着いたのは、10時ころでした。 こうして、古寺を回り始め、何時も私が感じるのは、人々の心の声とでも言うのでしょうか、
古い時代から連綿として続いてきた時の流れの中で、人々は、日常生活の中では満たすことのできない何かを求めて寺を訪れたのでしょう。古寺の重厚な佇まいの中に立つ時、そうした人々の心の声が聞こえてくるような気がします。左の句は、途中の寺で見かけたものです。人それぞれ受け取り方は違うかもしれませんが、 私には、この句を通して時代の流れを超越し奉納した人の心の声が聞こえてくるような気がします。 今回訪れた寺の一つ第28番札所永寿寺は、海岸沿いに寺の多い南知多の寺の中では、珍しく山間の小さな村の中にひっそりと建てられていました。伝えによると、天正10年(1582)、関が原の合戦を遡る事18年前、戦いに疲れた丹波福知山の斎藤小源治たち5人の武士がこの地に落ち延び、山を切り開き造った村とのことです。 一週間ほど前に、伊勢平氏会々員の常磐氏に誘われて、小松三位中将平維盛(内大臣平重盛の長子)が壇ノ浦の合戦の後落ち延び住み着いたと言われている三重県関の成覚寺を訪れた後であったせいか、この寺と落ち武
者によるこの村の開拓の歴史が重なり、しばし遠い昔に思いを馳せてみました。耳を傾ければ、遠い昔の人たちの心の声が聞こえてきたかも知れません。もう一つ、印象的だったのは、第29番札所正法寺でした。がらんとした境内の片隅にある小さな祠に、真っ黒に焼け炭のようになった弘法大師の坐像が祀られていました。 仮祭壇の祭られている小屋の横に建てられていた張り紙(写真左)には、昨年12月に寺が全焼した由の記述がありました。 真っ黒に焼けた大師像は、物言わず悲しげな眼差しを静かに参拝者に投げかけているように思えました。この大師像の前で手を合わせる時、恐らく巡礼の一人一人が大師の心の声を聞くのではないでしょうか。この大師像は、歴史の流れの中で起きたこの出来事を末永く伝え、巡礼たちに語りかけて行くことでしょう。 人は、太古の時代から、宇宙を支配する偉大な力を神(神という言葉が適切かどうかは分かりません)として崇め、時には救いを求め、またあるときには話し掛け、心のよりどころにしてきました。時代は変わり、物質文明が開け、人の考え方が変わって
きたとは言え、地球上の一生物である人間としての共通した心の本質が変わることはないでしょう。私は、無神論者だとか、神なんてと言う人たちもありますが、人が生まれながらにして持っている本質を拭い去ることは出来ず、いつか、しかるべき状況や境遇に置かれた時、神を思い、念じ、縋る時が必ずあると思います。 最近、人の遺伝子や脳の働きの研究が進み、その仕組みが次第に明らかにされてきました。何時の日にか、種としてのホモサピエンスが、長い間営々として遺伝子に組み込んできた本能的な心の動きが解明される日がくるかも知れません。
いよいよ明後日からお盆、先立った人たちの精霊が帰ってくる日です。子供に先立たれた私たち夫婦にとっては、たいへん身近に感じる行事の一つです。私自身は、近代的科学的な理解を十分持った現代人のつもりですが、精霊たちは、私たちの生活の延長線上に生きているように思えるから不思議です。
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