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H.13.06.05 もう梅雨の季節に入ってしまいましたが、皆さん元気ですか。 去る6日、新四国(知多)八十八ヶ所巡拝の続きを廻って来ました。
今回の巡拝は、野間を中心とした寺々であったこともありまさに歴史探訪の巡拝でした。ご承知のように野間は、平治の乱に破れた源頼朝の父義朝が落延び、その生涯を閉じた地で、今回廻ったほとんどの寺に義朝にまつわる言い伝えが残されていました。 平治2年(1160)正月、京都平治の乱のおり六波羅の合戦で平清盛に敗れた源氏の総帥左馬頭源義朝は、源氏再興を志し関東へ落延びる途中この地野間田上にあった家臣長田忠致の屋敷に逗留しました。そして、正月3日初湯に招かれ入浴中の義朝は、長田父子に謀殺されてしまいました。 この義朝最期の地と伝えられる場所は、第55番法山寺の隣りにあり、美浜町指定文化財(史跡)として残され義朝公の銅像が建てられています。
法山寺を下る事600メートルほどの所に、第50番大御堂寺があります。この大御堂寺の大門を東へ少し行った道路脇に血の池と呼ばれる小さな池があります。この池は、血にまみれた義朝の首を洗った所と伝えられています。 義朝は、この大御堂寺に葬られ、本堂脇には、「義朝公御廟」が祀られています。 湯殿で襲われ、 「われに一本の木太刀なりともあらば・・・。」 との悲痛な一言を残して最期を遂げた源義朝の霊を慰めるため、木太刀を献ずる習わしが生まれ、今でも奉納された木刀がうず高く御廟の上に積み上げられています。 この大御堂寺の隣りに、境内を同じくした白河天皇勅願寺第51番野間大坊があります。
頼朝の開運出世にちなんで、その後、徳川家康、豊臣秀吉をはじめ大願成就を願って訪れた将軍武将は数知れないと伝えられています。 野間大坊より2.5キロメートルほど北に行った所に、第57番報恩寺があります。この寺は、平治の乱で敗れた義朝に従ってこの地に逃れた鎌田政清の菩提を弔うために建立されました。 知多半島は、京大和から紀州を山越えして伊勢と関東をつなぐ最短距離にあり、古くから幾多の秘められた物語のあります。後世、徳川家康も本能寺の変のおり、この知多の地を経て江戸に逃れています。 野間大坊から南に数十メートル離れて第53番安養院があります。 この寺は、承暦年中に白河天皇の発願で、源頼朝菩提のため建立されたものです。 また、この寺は、織田信孝が自刃した場所としても知られています。
「むかしより主をうつみの
の一首を残し自刃させられました。
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