新四国巡拝(第44番札所〜第57番札所)
H.13.06.05

もう梅雨の季節に入ってしまいましたが、皆さん元気ですか。
去る6日、新四国(知多)八十八ヶ所巡拝の続きを廻って来ました。

源義朝が入浴中に殺された湯殿跡(第55番法山寺)
今回は、第44番札所大宝寺から第57番報恩寺の13ヵ寺を廻りました。カーナビのお陰で道に迷う事も無く順調に予定完了。これで、車で行けるところは全部廻ったので、次回は日間賀島と篠島にある3ヵ寺を廻ると満願になります。
今回の巡拝は、野間を中心とした寺々であったこともありまさに歴史探訪の巡拝でした。ご承知のように野間は、平治の乱に破れた源頼朝の父義朝が落延び、その生涯を閉じた地で、今回廻ったほとんどの寺に義朝にまつわる言い伝えが残されていました。
平治2年(1160)正月、京都平治の乱のおり六波羅の合戦で平清盛に敗れた源氏の総帥左馬頭源義朝は、源氏再興を志し関東へ落延びる途中この地野間田上にあった家臣長田忠致の屋敷に逗留しました。そして、正月3日初湯に招かれ入浴中の義朝は、長田父子に謀殺されてしまいました。
この義朝最期の地と伝えられる場所は、第55番法山寺の隣りにあり、美浜町指定文化財(史跡)として残され義朝公の銅像が建てられています。

源義朝の討ち首を洗ったという「血の池」(第50番大御堂寺)
また、銅像の脇には義朝が殺された風呂の跡と言われる石組みの泉があり保存されています。元禄時代、重い病を患った青年と金持ちの妻が、夢のお告げでこの泉の水を風呂に使ったところ、長年苦しんできた病が癒えてしまったと言う事で、法山寺の本尊は、お湯殿薬師と呼ばれています。
法山寺を下る事600メートルほどの所に、第50番大御堂寺があります。この大御堂寺の大門を東へ少し行った道路脇に血の池と呼ばれる小さな池があります。この池は、血にまみれた義朝の首を洗った所と伝えられています。
義朝は、この大御堂寺に葬られ、本堂脇には、「義朝公御廟」が祀られています。
湯殿で襲われ、
「われに一本の木太刀なりともあらば・・・。」
との悲痛な一言を残して最期を遂げた源義朝の霊を慰めるため、木太刀を献ずる習わしが生まれ、今でも奉納された木刀がうず高く御廟の上に積み上げられています。
この大御堂寺の隣りに、境内を同じくした白河天皇勅願寺第51番野間大坊があります。

「義朝公御廟」(第50番大御堂寺)
野間大坊は、源頼朝が、父義朝の墓参と供養のおり、自分の守り本尊を奉安したものです。
頼朝の開運出世にちなんで、その後、徳川家康、豊臣秀吉をはじめ大願成就を願って訪れた将軍武将は数知れないと伝えられています。
野間大坊より2.5キロメートルほど北に行った所に、第57番報恩寺があります。この寺は、平治の乱で敗れた義朝に従ってこの地に逃れた鎌田政清の菩提を弔うために建立されました。
知多半島は、京大和から紀州を山越えして伊勢と関東をつなぐ最短距離にあり、古くから幾多の秘められた物語のあります。後世、徳川家康も本能寺の変のおり、この知多の地を経て江戸に逃れています。
野間大坊から南に数十メートル離れて第53番安養院があります。
この寺は、承暦年中に白河天皇の発願で、源頼朝菩提のため建立されたものです。
また、この寺は、織田信孝が自刃した場所としても知られています。

織田信長の三男三七郎信孝が切腹した安養院(第53番)
天正11年、羽柴秀吉に敗れた織田信長の三男織田三七郎信孝は、同年5月2日、この寺において

「むかしより主をうつみの
  野間なれば報いをまてや
   羽柴ちくぜん」

の一首を残し自刃させられました。
現在、この寺には、信孝自陣の間が復元され、自刃に用いた短刀、自ら腸をつかみ出し投げつけたと言われる血染めの軸などが残されているとのことです。また、信孝の叔父に当たる織田有楽斎の書状なども残されているそうです。残念ながら今回の巡拝では見る事が出来ませんでしたので機会を見てぜひ見たいと思っています。
こうしてみると、この寺には、意に反して切腹を申し付けられた織田信孝の怨念が今でも満ち満ちているような雰囲気を感じます。
足掛け3年目になる知多四国八十八ヶ所巡拝もゴールが見えてきました。後は離島の3ヵ寺のみ、夏休みに孫達を連れて船旅を楽しみながら廻ろうかと思っています。

それでは又!!!

近況報告目次へ