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【レディは月光仮面スタイルで】
その時は、ホテルの前がメインストリートだから、通勤時間帯で混むのだろうとくらいに思っていましたが、旅を続ける間にこの街のバイクの多さに改めて驚きました。表通りだけではなく、裏通りに入ってもバイクの数は変わりません。この国の人は、全てバイクに乗って移動しているのではないかと思われるほど。事実、歩道を歩いている人はまばらで、車道を埋め尽くしたバイクが川の流れのように流れていると言った感じ。ガイドの説明では、ホーチミン市の人口は現在530万人、バイクの数は250万台とのこと。子供や年寄を除けば、殆ど全員がバイクを持っている勘定になる。 走っているバイクは殆どが HONDA や SUZUKI 等の日本ブランドを付けていますが、これは、全て Made in China のコピー商品。日本から輸入した本物は日本円換算20万円くらいしますが、中国製のコピー商品は5万円くらいで買えるとのこと。外観だけでは本物かコピーか区別がつかないほど精巧に作られていて全く分かりません。 バイクもこれだけ普及すると、それなりの文化が生まれてきて、乗り方からファッションに至るまで、眺めていても飽きることがありません。この国では4人まで乗ることが許可されているとのことで、乗り方も実に様々。 中でも、今流行のトップファッションは女性の月光仮面スタイルのようでした。深々と帽子を被り、黒のサングラスにマスク。そして、長袖の手
このバイクの流れは、決して止まる事がありません。大きな較差点にはロータリーや信号がありますが、殆どの交差点には信号は有りません。バイクや車、中には自転車も混じってどんどん交差点の中へ流れ込んで行きます。交差点には横断歩道もありますが、バイクや車は絶対に止まってくれません。私たちのように交差点毎に信号があり、歩行者優先の国からきた人が先ず戸惑うのは、道路の横断です。バイクの流れは留まることなく流れ、歩行者が待っていようが、横断中であろうが、絶対止まってはくれません。 歩行者は、バイクなど全く無視して渡り始めればいいのです。丁度水の流れている川を渡る要領です。バイクは、歩行者の速度と進行方向を計算しながら上手に避けて通り過ぎてくれます。渡り始めたら同じ速度で渡りきってしまうことがコツで、途中で止まるとオートバイも計算が狂ってぶつかって来る可能性があります。滞在中に交通事故を一つも見ませんでしたから、この国ではこれが最適の交通ルールなのかも知れません。 夜の街がまた壮観。エアコンの無い家の多いこの街では、夜になると涼を求めて皆外へ出てきます。そして街の中心部はアベックの乗ったバイクで埋め尽くされ、彼らは当て所も無くバイクの流れに乗って走り回っていました。中央分離帯や道路はしの縁石には、走りつかれたアベックがバイクを止め寄り添って腰掛けている姿が延々と続いていました。正に壮観の一言。
【幻のアオザイ娘】
今回の旅で、私が期待していた楽しみの一つが、アオザイを着た女性たちが優雅に歩いている街の風景でした。「アオザイを着た女性はほんとうに綺麗だよ」と皆が言うし、ガイドブックや本などの写真でもアオザイを着た女性が街を歩いている姿やバイクに乗っている姿が必ず載っていました。 到着するまで、インドの女性が殆どサリーを着ていたように、ヴェトナム女性も日常的にアオザイを着ているものだと思っていました。しかし、ホテルの中でも、街に出ても、アオザイを着た女性は全く見かけません。 現地のガイドにたずねてみると 「今は学校が夏休みですから。」 と言う。 学校の夏休みとどういう関係があるのか直ぐには理解できず、もう一度たずねると、 「アオザイは高等学校の生徒が着ていて、登下校時には白いアオザイを着た女子高校生が町中に溢れ華やかですよ。」 と言う。 レストランや土産物屋のように観光客の出入する場所にはアオザイ姿の女性を見かけることもありました。しかし、皆、観光客用というか日常的ではないと言うか、私がイメージしていたようなアオザイ姿とは程遠いものでした。
このラウンジの受付カウンターにいた若いアオザイ姿の女性に目が止まりました。知的で清楚な感じのこの女性は、私がイメージしていたアオザイ娘そのもので、早速写真を撮らせてもらいました。最初は恥ずかしがっていましたが、なんとか応じてくれポーズをとってくれました。今回の旅では、アオザイ姿の女性の写真を写す機会は全く無く、この写真が唯一のアオザイ女性の写真でした。 この国では、写真を写すという習慣はあまり無いようで、この女性からも、ぜひ写した写真を送って欲しいと住所を書いてくれました。そう言えば街中でもカメラを持った人は全く見かけませんでした。そのかわり、街の所々にはカメラを持った写真屋さんがいて、皆その写真屋に写してもらっているようでした。 時代は刻々と変化していて、一地域の風俗や習慣もどんどん変わっているのでしょう、街で見かける若い女性は、ジーパンにティシャツ姿が多かったような気がします。
【ヴェトナムの歴史はヴェトナム戦争に始まりヴェトナム戦争で終わる】
先ず最初に訪れたのは、統一会堂と呼ばれるかっての南ヴェトナム大統領官邸でした。ここの庭には、サイゴン陥落の時、大統領官邸に一番乗りした戦車が二台ヴェトナム統一のシンボルとして置かれていました。 次に訪れたのは、戦争証跡博物館でした。 ここには、ヴェトナム戦争当時米軍が使った重火器や戦車、それに飛行機などの戦利品が屋外展示され、屋内展示場には、小火器類や、米軍や南ヴェトナム軍が行った残虐行為の写真がたくさん展示されていました。ベトコンの生首を手に下げて記念写真を撮る米兵、共産ゲリラに対する拷問等、正に目を被いたくなるような写真が部屋一杯に展示されていました。 戦争は、人を狂気にすると言いますが、本当にこんな事が行われたのだろうかと、戦争の恐ろしさ悲惨さを痛感した次第です。
「アメリカは、日本に原爆を落とし、ヴェトナムに枯葉剤を撒いた。」 と端的に表現していましたが、 後世に至るまで人を苦悩の奈落に陥れた遺伝子異常を来たす兵器が使われたことは、正に悲劇でした。 戦争証跡博物館には、枯葉剤の影響を受けて生まれた奇形児の写真やアルコール漬け標本がたくさん陳列されていました。 こうしたことの二度と無いようこの事実を後世に伝えるのがこの博物館の目的で、最近では米国人の来訪者も多く、みな自分たちの行った行為を反省して帰って行くとガイドは説明してくれました。 ヴェトナム戦争の悲惨な有様を世界に報道し、自らもこの戦で命を落とした、日本人写真家沢田教一氏は、この国では知らない人がいないほど有名で、戦争証跡博物館にも彼のために一部屋を設けて展示室がつくられていました。 ヴェトナム戦争では、4人の日本人写真家が命を落としているとのことで、同じ部屋に影像写真とともに紹介が書かれていました(名前は控えてくるのを忘れてしまいました)。 ヴェトナム戦争の被害が余りにも甚大で記憶に新しいためか、この国では、外国の人に見てもらいたいものの殆どがヴェトナム戦争の悲惨な実証であったよな気がします。
【雨季のメコンデルタを行く】
ミトー市までの国道1号線沿いは、すでにメコンデルタの中なのか、延々と水田が広がっていました。水の絶える事の無いこの地域は、米の
田園地帯に入った時から、私は、水田のあちこちに白いものが見えるが気になっていました。ガイドに聞くとお墓とのこと。この地域では、現在でも土葬が行われていて、ドイモイ政策(開放政策)になってからは土地の個人所有が認められたため、自分の田の中にお墓をつくているとのこと。家族を共同埋葬せず、一人に一つのお墓を作るとのことで、田の中にお墓がいっぱい散らばっています。 お米が豊富に採れるこの地域では焼酎の生産も盛んで、途中の村では、道路端でポリタンクに入れた焼酎をうっていました。写真のようなスタンドが数キロに亘って並んでいました。 メコン川クルーズのために訪れたミトー市は、現在は学都として栄えていますが、ヴェトナム戦争当時は、米軍の爆撃で徹底的に破壊されつくしたた街だそうです。このミトー市の外れにフランス植民地当時にフランスと中国の様式を取り入れて作られたヴィンチャン寺という古寺がありました。1849年建立ということですから歴史的建造物というほど古いものではありません。この寺が有名なのは、ヴェトナム戦争当時米軍に抗議 して僧侶が4人も焼身自殺をしていると言うことからでした。 やはりこの街にも、ヴェトナム戦争の記憶が一杯でした。 いよいよ今回の旅の本命メコン川クルーズです。ここを訪れる前に私が頭の中で描いていた光景は、雨季で増水したメコン川の濁流がメコンデルタの大地を覆いつくしスコールの中を濤濤と渦を巻いて流れる様でした。
しかし、カンボジア国境を越えたメコン川は、網の目のように幾筋もの流れに分かれてホーチミン市以南の広大な地域を扇情に覆いメコンデルタ
それでも、増水期のメコン川は満々と濁流をたたえ、私の期待を満足させてくれました。何度もこの地を訪れている添乗員のはなしでは、乾季の眺めとは全然違うとのこと。 一支流とは言え、大型フェリーが往来し、船舶が航行するこの川は、日本では見ることの出来ない広大なものでした。 日本流に言えば中州とでも言うのでしょうか、川の中にあるタイソン島に上陸し島のレストランで一服、トロピカルフルーツに舌鼓を打ち、次は増水で豊な水を湛えた島内の水路を小船で探索。 小船を漕いでいた女性にお願いし、漕がせてもらいました。でも、これはたいへんな重労働。汗は滝のように流れ、息は弾み、音を上げそうになりましたが、一旦引き受けた仕事、途中で投げ出すわけにはゆきません。数十分間の航路を漕ぎ切り陸上に上がった時には足はふらふら、呼吸を整えるのにしばし時間がかかったありさまでした。でも、旅の楽しい思い出になりました。
【解放戦線基地クチ】
総距離250kmにも及ぶ手掘りのトンネルは現在も保存され、一部は観光客に公開されています。
この地域には実に様々な仕掛けが作られていました。枯葉の間に張られたピアノ線に触れれば地雷が爆発したり竹槍が落ちてきたり、竹やりの一杯立てられたどんでん返しの落とし穴等々。恐怖心に駆られた南ヴェトナム側兵士は、一歩たりともこの地域に踏み込むことができなかったことでしょう。数台の戦車が危険を冒してこの地域に乗り込んだそうですが、すべで爆破されてしまったそうです。 枯葉剤によって全ての木が枯れてしまったこの地域では、今繁っている木は全て若い木ばかりでした。 この基地跡は現在も軍が管理しているのでしょうか、射撃場があり観光客にも銃を撃たせてくれる設備がありました。 クチへの途上、路端にヴェトナム国旗を掘り込んだ墓石がびっしりと建てられた墓地を数ヶ所見かけましたが、おそらくヴェトナム戦争で亡くなった兵士たちの墓ではないかと思います。
ヴェトナム料理では、生春巻が有名ですが、クチ村は、春巻用のライスペーパーが特産のようで、道路脇に延々とすのこに並べてライスペーパーが干してありました。同行の皆さんの希望もあり通りがかりの家に寄りライスペーパーを作っているところを見せてもらいました。
【カラスは珍鳥だった】
しかし、一羽だけいました。 軍が管理しているというスネークファームへ寄った時、一羽だけいました。それも金網の中に。 このスネークファームは血清研究所があったところから察するに、毒蛇に噛まれた時のための血清を作っている施設のようで、園内にいろいろな毒蛇を飼っていましたが、小さな動物園もあり珍しい動物が幾種類か飼われていました。その中にカラスがいたのです。 写真で見るように、ちゃんと説明書きもありました。 ヴェトナム語で書いてあるので何と書いてあるのか分かりませんが、私が冗談で 「この鳥は、主に日本に生息し、カーカーと鳴く」と書いてあると言うと、 ガイドが、 「ヴェトナム語ではカラスをカーと言う」との説明。 そう言えば説明書きを見てください。QUA(カー)と書いてあります。 殆どの生物は食料の量に比例して繁殖しますが、カラスもその例外ではなく、東南アジアの国々では道路端に生塵を見たことがありません。日本のように街角に一杯カラスの餌が放置されているところでは、カラスも大繁殖するのでしょう。
【物価は日本の三分の一】
まだ、自国での生産能力が無いのか、棚に並んでいる商品も外国製品が多く、日本の商品もたくさん並んでいました。 私は、今回の旅でも安全のため、日本から烏龍茶をペットボトル(500cc)6本、それにインスタント食品をたくさん持って出掛けましたが、余分な労力を費やしただけでした。私が持って行ったものと同じものが日本で飼う1/3位の価格でいくらでも手に入るのです。それも非常に衛生的な環境で。 例えば、 ミネラルウオーターの価格を比較してみると ホテル 1リットルボトル 7米ドル(日本円換算約900円) レストラン 500ミリリットルボトル 1米ドル(日本円換算約130円) ショッピングセンター 1リットルボトル 5300ドン(日本円換算約53円)、500ミリリットルボトル 3000ドン(日本円換算約30円) 日本ではいくらするのでしょうか。(私は、日本で買ったことがありませんので)
私が折角日本から持って行ったカップヌードルは1個25円、どんぶり型の中華蕎麦45円、缶ジュース類(オレンジ、レモン、コーラ、7アップ等々)25円〜40円。 こうなると、同行のご婦人連は、もう我慢できません。 買いまくりはじめました。それも調味料や日常用品をです。そして、ダンボール箱に詰めて別送。 兎に角、買物好きな人にはたまらない国です。 特に、この国では工賃が安いせいか、手芸品は安く豊富にありました。 同行のご婦人は、竹で編んだハンドバックを、日本で買えば1万円以上すると言って1000円で買っていました。 私は、こう言うものを見る目がありませんので何ともいえませんが、確かに竹の表皮を薄くして編んだ手の込んだものでした。私も、竹で編んだティッシュボックスをお土産に買いましたが、4個で5ドル。持って帰るのにかさばるのが唯一の難点。
【街でのスナップ】
【インターネット事情】
【旅を終えて】
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