四国八十八ヶ所霊場巡拝記

H.18.06.05

 皆さん、その後お元気ですか。やっと四国八十八ヶ所霊場の巡拝をしてきました。本当にやっとと言う感じです。思い起こせば、定年後の目標の一つとして西国、知多、四国の三霊場巡拝を思い立ち、西国三十三ヶ所第1番札所那智山青岸渡寺を訪れたのは、
第1番札所霊山寺を皮切りに巡拝開始。

平成8年11月20日、勤めていた会社を定年退職して2ヶ月目のことでした。あれから10年、身の回りにはいろいろなことが有りましたが

平成10年10月29日 西国三十三ヶ所巡拝結願
平成13年 8月29日 知多四国八十八ヶ所巡拝結願
平成18年 5月17日 四国八十八ヶ所巡拝結願

と、やっと当初の目標を完結することができました。

〔 四国八十八ヶ所巡拝の足取 〕

第1日(5月10日) 我家を出発(7:00am)、午前中に第1番霊山寺着。第10番切幡寺まで巡拝。御所温泉観光ホテル泊。
第2日(5月11日) 第11番藤井寺から第22番平等寺まで巡拝。千羽温泉ホテル千羽泊。
第3日(5月12日) 第23番薬王寺から第33番雪蹊寺まで巡拝。高知プリンスホテル泊。
第4日(5月13日) 第34番種間寺から第40番観自在寺まで巡拝。ホテルサンパール泊。
霊山寺前の店で先ず巡拝用品を揃える。

第5日(5月14日) 第41番龍光寺から第51番石手寺まで巡拝。道後温泉ホテル八千代泊。
第6日(5月15日) 第52番太山寺から第65番三角寺まで巡拝。三島第一ホテル泊
第7日(5月16日) 第66番雲辺寺から第81番白峰寺まで巡拝。金比羅温泉湯元八千代泊
第8日(5月17日) 第82番根香寺から第88番大窪寺まで巡拝。午後2時半頃帰途につく。

 新(知多)四国八十八ヶ所巡拝以来、両親の介護で暫く中断していた霊場巡拝でしたが、平成14年に母、16年に父を送り出し、時間的な余裕も出来た私たちは、いよいよ四国八十八ヶ所巡拝実現に向けて計画を立て始めました。
 回ってきた人たちの話を聞いたり、本を読んだり、またインターネットのホームページを見たりいろいろと情報収集を始めました。時間は十分にありますが年齢的に気力と運動機能が大幅に衰え始めている私達夫婦、最終的に選んだ巡拝計画は、お遍路さんで混みあう巡拝シーズンの4月と人出の多いゴールデンウイークは避けること、マイカーで回ろうと言うこと、何度も四国まで往復するのはたいへんだから一回で回ってしまおうと言うことの3点で、
第2番極楽寺の納経所(巡拝の記録に軸や納経帳、白衣に朱印を押してもらう)

それ以外ことは巡拝の状況に応じて臨機応変にその都度決めることにしました。宿泊の予約も全くしませんでした。
 何日かかろうと一日に回れるだけ回り、その日その日で泊まる場所を探す。途中で体調が悪くなれば中断して帰ることもあるだろうし、折角四国を一周するのだから多少時間は掛かっても名所旧跡も寄ってみたい。簡単に言えば行き当たりばったり計画、年寄り夫婦の気楽な旅、2週間もあれば回れるだろうと言うものでした。
 ところが、計画の途中から、ご近所のお年寄夫婦から同行させて欲しい由のお話が出てきました。ご主人は以前に車で巡拝された経験もあり何かにつけて助言が頂け助かるだろうと一緒に行くことにしました。私達より高齢なご夫婦なのでそれなりの配慮は必要。基本的な計画は変わりませんが、巡拝に焦点を絞り回ることに変更しました。
 5月10日午前7時、我が愛車 TOYOTA Crown RoyalSaloon G を駆って出発。実に便利になりました。私の家から4キロほどの所にある小牧ICから名神高速道路に入り、第1番札所霊山寺まで数キロの高松自動車道板野ICまで約320キロ。その間一つの信号も無く一直線。
遍路道の処々にひっそりと造られた無名の墓碑。

途中のサービスエリアで休憩しながらも11時少し過ぎに第1番札所の霊山寺へ到着。
 巡拝を始めるにあたり、先ずはお遍路用品を揃えなければと門前の遍路用品の店に入りました。
 巡拝のガイドブックを読むと、お遍路の正装や作法についていろいろ書いてありますが、私の巡拝動機は俗に言う「観光お遍路」、
家内は、笈摺、金剛杖、頭陀袋、数珠、線香、ローソク、納経帳、御朱印用白衣(姉への土産)と略装を一通り揃えましたが、
私は、巡拝の記念に御朱印を押してもらう掛軸を買ったのみ。一昔前なら、このような不遜な巡拝は信仰心の篤い人々からのお叱りを免れ得なかったかも知れません。
 そもそも「四国八十八ヶ所霊場」の巡拝は、巡礼と言わず「遍路」と言い、空海を崇拝する修行僧や行者などによる空海の足跡をたどる旅が起源と言われていて、「遍路」は死を覚悟する難行苦行の厳しい「修行」だったそうです。
 江戸末期頃から四国遍路が一般大衆にも普及し始めましたが、出立に際しては、今生の別れとなるかも知れない家族親類縁者と「水さかずき」を交わし、檀那寺や庄屋から発行された「捨て手形」と呼ばれる通行手形を持参しました。
弘法大師に懺悔する衛門三郎の銅像。

「捨て手形」の例
例一、(部分抜粋)
万一何方ニ而茂病死等仕候共其節国元江不及御通達ニ其御所之御作法御慈悲ヲ以御葬可被下候
(訳文):万一いずかたにても病死等仕り候とも、その節は、国元へ御通達に及ばず、その御当地の御作法、御慈悲を以て御葬い下さるべく候。
例二
萬一病死等仕候ハバ国州之御作法ニ御取置被成国元江御届ケ及不申候仍而一札如件
(訳文):万一病死等仕りそうらはば、その土地の御作法にしたがって処分なされ、国元へ死亡の連絡申すにおよばずそうろう、しかして一件くだんのごとし。

 遍路が旅の途中で病気や行き倒れで死亡した場合には、所持金があれば村人がそれで墓石を建ててやり、無一文の場合には、土まんじゅうの墓に遍路が使用していた菅笠をかぶせ、遍路の「杖」を立てて墓標として葬りました。
 遍路が持つ金剛杖については、仏法を守護する役目の金剛力士が持つ金剛杵(こんごうしょ)に由来するといわれていますが、
四国には、うどん屋さんがいたるところにあり、私達の昼食も殆んどうどんでした。

前述のように万一の場合には墓標の代わりとしても使われるので、昔は必ず住所、名前を書いたそうです。
 遍路がかぶる菅笠には、現在でも仏教の宇宙観を表す以下の偈(げ)が書いてあります。迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処南北。 迷うが故に三界(欲界、色界、無色界)は城なり、悟るが故に十方は空なり、本来東も西もなく、いずこにか南北あらん。 この偈は、葬式の際に導師が棺桶の蓋に書いたものですが、遍路が旅の途中で死んだ場合には、この笠を遺体にかぶせることにより、「棺桶」の代わりにするためと言い伝えられています。 その文言を書いた菅笠をかぶり、白衣をまとった遍路の姿は、言うまでもなく「死装束」そのもので遍路とは死者となって四国(死国)の八十八ヶ所を巡り、そして再び生まれ替わる擬死再生をすることなのです。
 詩人高群逸枝は、その著書の中で、

「遍路墓でことに哀れなのは、道端や丘の辺に、あるいは渚の近くに盛られた土まんじゅうの上に、杖や笠だけが差し置かれている光景である。それ以上に哀れなのは、帰るべき場所もなく現実に生命の終わる日まで、たえず巡礼を続けている、
お遍路ブームでどこのお寺も大改修中(第38番金剛福寺にて)

身体障害者やハンセン病者などの遍路たちの姿である」

と記しています。
 かって生まれ故郷を捨てあるいは追われ、遍路の道中でその生涯を閉じた不幸な人たちの墓石や、それらの霊を慰める野仏を現在でも遍路道の端に見ることができます。十数年前までは、険しい山中の遍路道には数え切れないほどの土饅頭の墓が並んでいたそうです。残る力を振り絞ってここまで辿り付き事切れたのでしょうか。やっとお迎えが来てくれたと静かに冥土への旅路に就いた人も有った事でしょう。現在では道路整備の為かこうした路傍の墓の数はずっと少なくなり無縁仏などにまとめられて埋葬されているようです。

道の辺に阿波の遍路の墓あわれ、   虚子

 四国の人は、お遍路さんを親しみを込めて「お四国さん」と呼びます。私は、命がけで巡拝した「お遍路さん」より、この「お四国さん」という呼ばれ方に何故かリラックスできるものを感じます。
 兎にも角にも、私達のお四国参りは第一番札所から順調にスタートしました。
神秘的な菩薩像(第44番大宝寺)

 それぞれの寺にはそれぞれの寺の縁起があり、お遍路道には、興味深い言い伝えや逸話がたくさん残されています。これらの話は、私の巡拝の旅をより感慨深いものにしてくれましたが、それぞれの物語は、私の老化した脳の蓄積容量を遥かに超え、早くもその殆んどを忘れてしまいました。それでも印象深かったものについてはかろうじて記憶しています。その中の一つに特に銅像が印象に残った衛門三郎の物語があります。この衛門三郎は、お遍路の元祖ということなのでご紹介しておきたいと思います。
 第11番藤井寺から第12番焼山寺への途上、道路脇に杖杉庵という小さな御堂があります。車遍路の場合、殆んどが気付かずに通り過ぎてしまいそうです。四国遍路の元祖と言われる衛門三郎最後の遺跡です。御堂には、弘法大師と衛門三郎の木造が祭られており、御堂脇には弘法大師と懺悔する衛門三郎の銅像が造られています。脇に立てられていた杖杉庵縁起には、次のように記されていました。

 伊予の国 浮穴郡荏原の長者衛門三郎は、財宝倉にみち勢近国に稀な豪族であった。それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は貧しい者を虐げ召使共を牛馬の如くこき使って栄華の夢に酔いしれていた。
殆んどのお寺に長い長い階段がある。特にここはきつかった。(第45番岩屋寺)

雪模様の寒いある日その門前に一人の僧侶が訪れた。乞食のようなみすぼらしい旅僧は一椀の食物を乞うた。下僕の知らせに衛門三郎はうるさげに「乞食にやるものはない追い払え」と言い捨てた。そのあくる日も次の日も訪れた。衛門三郎は怒気満面いきなり旅僧の捧げる鉄鉢を引っ掴むや大地に叩きつけたと見るや鉄鉢は八つの花弁の如く四辺に飛び散った。唖然と息を呑み棒立ちとなった衛門三郎がふと我に返った時には旅僧は煙の如く消え失せていた。
 長者には八人の子供があった。其翌日長男が風に散る木の葉の如くこときれた。其の翌日は次子が亡くなり八日の間に八人の子供が亡くなった。鬼神も恐れぬ衛門三郎も恩愛の情に悲嘆にくれ初めてこれはおのが悪行の報いかと身に迫る思いを感じた。空海上人とか申されるお方が四国八十八ヶ所をお開きになる為此の島を遍歴されているとか 我が無礼を働いたあの御坊こそその上人と思われる。過ぎし日のご無礼をお詫び申さねば相すまぬと発心しざんがの長者は財宝を金にかえ妻に別れ 住みなれた館を後に野に山に寝 四国八十八ヶ所の霊場を大使を尋ねて遍路の旅をつづけた。春風秋雨行けど回れど大師の御すがたに会うことが出来なかった。遂に霊場を巡ること二十度会えぬ大師を慕いつづけた。
お坊さんの姿も結構見かける。流石にプロの読経は迫力がある。

二十一度逆の途を取って此の所までたどりついた。疲れたあしをよろぼいつつ木陰に立寄り背に負うた黄金の袋を下ろして見ると何とした事ぞ一塊の石となっていた。いよいよ驚き今一歩も立上る気力もなくうち倒れている折りしも大師の御姿が現れ給い やさしく「やよ 旅の巡礼 そなたは過ぎし日わが鉄鉢を打ち砕いた長者にあらずや」との御声「われは空海いつぞやの旅僧なり」「ああ上人さまお許しなされませ、お許しなされまし」と伏し拝みざんげの涙はらはらと手を合わせ大悲にすがる長者は今こそ悪業深さ無明の闇から光明世界へ還らんとする姿であった。
「そなたの悪心すでに消え善心に立ち還った。この世の果報はすでに尽きたり未来の果報は望に叶うであろう」と仰せられ 衛門三郎は大慈大悲の掌に救われ来世は一国の国司に生まれたい と願った。大師は其心を憐み 小石をを其左手に握らせ 必ず一国の主に生まれよと願い給い衛門三郎はにっこと微笑みをのこし敢え無くなった。
其の日は天長八年十月二十日と伝えられる。大師は衛門三郎のなきがらを埋め彼の形見の遍路の杉の杖を建て墓標とされた。其の杖より葉を生し大杉となった。故に此の庵を杖杉庵と呼ばれ今尚大師の遺跡として残っている。
此杉は享保年間焼失した。その頃京都御室から「光明院四行八蓮大居士」の戒名が贈られ 四国遍路の元祖として今もこの地にまつられている。 ( 以上「杖杉庵縁起」より )

この青年、ずっと歩いて此処まで30日かかったと言う。菅笠はぼろぼろ。(第49番浄土寺)

 私達のように自動車ですいすいと札所を回り、札所に着くと真っ先に納経所へ行きスタンプラリーよろしく御朱印をもらう、こうした観光遍路もたくさんいるが、歩き遍路が結構多いのに驚いた。それも殆んどが一人で黙々と歩いている。歩き遍路は一目で分かる。服装はまちまちだが菅笠と杖は必ずと言っていいほど持っている。中には普通の帽子の人もあるが杖だけは必ず持っている。
 私達の巡拝中、天候は優れず殆んど毎日雨だった。雨が降っていても歩き遍路さんは殆んど傘を差していなかった。ポンチョのような雨合羽を着ている人もあったが濡れたまま歩いている人が多かった。もっとも五月雨は、然程激しくは降らないし、濡れて歩いた方がかえって心地いいのかもしれない。それとも何か他に意味があるのかもしれない。
 いろいろな人が歩いていた。若い人からお年寄りまで、男性も女性も、その動機が何であるのか知る由も無いが、夫々が夫々の思いを心に秘めて黙々と歩いている。自動車道が整備されても駐車場ができても、歩き遍路には全く関係ない。昔ながらの遍路道を約50日ひたすら歩き続ける。並みの決意では出来ないと思う。
 殆んどの人が順打ち、つまり札所の番号順に回り同じ方向に流れるので、他の寺で同じ人を見かけることは何度もある。言葉を交わすことは少ないが印象に残る人も何人かあった。
私が戴いた錦の納札。四国88ヶ所霊場を100回以上巡拝した人のみが使うことを許される。

 第49番札所で、ぼろぼろの菅笠を被り、熱心に寺の縁起を読んでいた青年に声を掛けた。真っ黒に日焼けしたこの青年は、第1番から回り始めここまで30日掛かったと言う。純粋の歩き遍路だった。 あえて純粋のと書いたのには訳がある。「歩き遍路」と言うと、最初から最後まで全部歩いて回るのだと思っていた。ところが大半の歩き遍路は、キセル遍路だそうだ。キセルと言っても若い人には分からない人が有るかもしれないので少し説明すると、タバコを吸うキセル(煙管)には、タバコを詰める雁首と吸い口だけが金属(戦争中金属が不足した時代には陶器で作っていた時代もある)で出来ていて中間は竹でつないである。こうしたことから始と終だけ本物で中間が抜けていることをキセルと言う。お遍路さんも、次の寺までの距離が長いと(二日も三日も歩かないと次の寺へ着かない区間が沢山ある)次の寺の近くまでタクシーや公共交通機関使ったり、車のご接待に甘んじたりすることが多いと言う。つまりキセルをする訳である。
 「あと15日くらいで回り終えたい」と屈託の無い笑顔で青年は答えてくれた。巡拝の動機は聞かなかったがこの経験は彼の人生に大きな意味を持つ貴重な体験となることだろうと思った。
 どこの札所だったか記憶が混乱して思い出せませんが、品のいいお年寄り夫婦のお遍路さんと出合った。寺の境内などで僧侶の巡拝者に出会うと立ち止まって合掌しておられ、ご夫婦とも茶色の作務衣を着ておられたので僧職かとも思った。
約20分のきつい上り坂、着いた時には正に極楽の雰囲気。(第60番横峰寺)

私の目には大変印象的な二人だった。偶然このご主人と言葉を交わす機会があった。別れる時、
「これは、100回以上回った人が使う納札です。」
と言って錦の納札を渡してくれました。
そして、
「私の納経帳を見て下さい。」
と言って見せていただいた納経帳は、どっぷりと朱肉に浸したのではないかと思うほど朱肉で真っ赤に染まりずっしりと重そうに見えました。
 納経帳は、巡拝の度に新調するのではなく、回る度に朱印を重ねて押します。ですから、この方の納経帳には、各寺の御朱印が100回以上重ねて押されていることになります。
 本などを読んで錦の納札についてある程度の知識は持っていた私は驚きました。100回以上巡拝した人とそれほど簡単に出会えるものでも無いし、また、錦の納札は、それほど気安く誰にでもほいほいと配って歩くものでもなく滅多に手にできるものではない大変有難いものとのことです。
戴いた錦の納札の裏には、住所指名とともに
大聖堂(本堂、大師堂)は超モダン。未来のお寺はこうなるのだろうか。(第61番香園寺)

「この錦のお札には、お大師様を始め、十三仏皆様の魂が入ってくださっている尊く有難いお札でございます。
南無大師遍照金剛 合掌
私は仏様の使いにて後の世と皆様の幸福を願いつつ夫婦遍路をさせていただいております」
と書かれていました。
 とに角思い出に残る貴重な出会いでした。
 後日、写してきた写真を見ていて、第2番極楽寺で写した納経所の写真(このページの最初から3枚目の写真)の柱に錦の納札が3枚4段で12枚が飾られていましす。一枚一枚はビニールの袋に入れられ下に名前札が貼られています。そう言えば、普通の人は納札を拝殿の前に置かれた箱に入れますが、この老人は、納経所で直接お札を納めていました。詳しいことは分かりませんが、それだけ意味のあるお札なのでしょう。
今日もまた黙々と石段を登り石段を下る。(第71番弥谷寺)

納札は、巡拝の回数によって色が決められていて、
白札   1〜4回
緑札   5〜7回
赤札   8〜24回
銀札   25〜49回
金札   50〜99回
錦札   100回〜
となっています。
 拝殿の前には、納札を入れる箱が置いてありますが、色の付いたお札はお守りになると言うことで盗られてしまうそうです。
 いかに自動車遍路とはいえ1週間近く過ぎてくると流石に疲れてくる。毎日毎日何段の石段を登ったり降りたりしたことだろう。もっと楽に参拝できるようにしてくれればいいのにと思うが、同行の老人の話では、札所は、そもそも修行の場、簡単に門前まで車で乗りつけることができるのでは意味がないと寺によってはある程度の修行の場を設けていて、前回来た時はもっと歩かされたと言う。
 5月17日、私達の巡拝もいよいよ最後の日を迎えました。朝から雨雲が低く垂れ込め平地から数十メートル上がると完全に雲の中、前を行く車も霞んで見えないような有様。特に屋島はひどかった。
雲の中の巡拝。回りの景色は何も見えず。(第85番八栗寺)

目の前にいる人の顔さえ分からないくらい。ケーブルカーの山頂駅から沢山の人が降りてきた。話している言葉は、どうも中国語のようだ。台湾からのお客さんだろうか。折角の日本への旅なのに。最近は、何処へ行っても台湾からのお客さんが多い。
 最後の札所大窪寺に着いたのは午後2時頃でした。八十八ヶ所巡拝も無事完了。ずっと一緒に回った金剛杖は、本来は家に持って帰り床の間に飾っておくのだそうですが、もう必要なしで奉納して行く(俗っぽい言い方をすれば棄てて行く)人が多く納経所の前に置き場所が作ってあり
「金剛杖、菅笠を奉納される方は納経所へお申し出下さい」
と書いてありました。家内が杖の奉納を納経所に申し出ると 「護摩として処分しますがいいですか。付いている物は全部外して下さい。処分料は特に決めてありませんが皆さん1,000円くらい置いて行かれます。」 とのこと。こう言われれば皆が1,000円置いて行くのでは・・・。
 出発前に読んだガイドブックには、奉納料のことは書いてなかったし、杖も錦のカバーや鈴を付けたまま杖立てに沢山まとめて立ててある写真が載っていました。この杖、値段そのものが1,500円位の物。処分代1,000円は高すぎるような気がする。
四国八十八ヶ所霊場巡拝の卒業証書

それに、燃えない物は外してもって帰れと言うのも少し横着。結局杖は持って帰って床の間に立掛けてある。今になるとこの方が良かったと思っています。
 札所で結願の証、つまり卒業証書を書いてくれると言うので書いてもらいました。これも金2,500円也である。
 あまり商業主義が浸透してくると有難味が薄れてしまいそうな気がします。
 昔から、三途の川を渡るのにも渡し銭が要るし、「地獄の沙汰も金次第」などと言う諺もある。まあ、仕方がないか。
 いろいろなことを考えたり感じたりしながら私達の四国八十八ヶ所巡拝は順調に進んで来ましたが、とにかく、八十八ヶ所、特別印象に残る出来事でもあれば別ですが帰って来た途端に、と言うより回っている最中に早くもどのお寺がどれだったか、またどの出来事がどのお寺で起きたのか完全に混線状態。約900枚の写真を撮ってきましたが、ただ写してきたと言うだけで何の説明書きも無いこの沢山の写真、永久に脈絡はつかずにに終りそうです。
 当初の予定では、最終日は鳴門あたりのホテルでゆっくり渦潮でも眺めながら打上げをと思っていましたが、お話したように生憎の濃い霧、急遽予定を変更して家路につくことにしました。8日間、総走行距離 2,127km を走破して、午後7時半無事帰宅しました。
 我が家の菩提寺は、臨済宗で、弘法大師の真言宗とは宗旨が違うため高野山へは行きませんでした。ところが、同行のお年寄りは、大変几帳面な方、四国八十八ヶ所で御朱印を戴いてきた納経帳に高野山奥の院の御朱印欄が空白になっているのが気になって気になってと言うことで、とうとう後日高野山へ行くことになりました。

それでは、また!!!

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