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皆さん、その後お元気ですか。やっと四国八十八ヶ所霊場の巡拝をしてきました。本当にやっとと言う感じです。思い起こせば、定年後の目標の一つとして西国、知多、四国の三霊場巡拝を思い立ち、西国三十三ヶ所第1番札所那智山青岸渡寺を訪れたのは、
平成10年10月29日 西国三十三ヶ所巡拝結願
と、やっと当初の目標を完結することができました。
第1日(5月10日) 我家を出発(7:00am)、午前中に第1番霊山寺着。第10番切幡寺まで巡拝。御所温泉観光ホテル泊。
第6日(5月15日) 第52番太山寺から第65番三角寺まで巡拝。三島第一ホテル泊 第7日(5月16日) 第66番雲辺寺から第81番白峰寺まで巡拝。金比羅温泉湯元八千代泊 第8日(5月17日) 第82番根香寺から第88番大窪寺まで巡拝。午後2時半頃帰途につく。
新(知多)四国八十八ヶ所巡拝以来、両親の介護で暫く中断していた霊場巡拝でしたが、平成14年に母、16年に父を送り出し、時間的な余裕も出来た私たちは、いよいよ四国八十八ヶ所巡拝実現に向けて計画を立て始めました。
何日かかろうと一日に回れるだけ回り、その日その日で泊まる場所を探す。途中で体調が悪くなれば中断して帰ることもあるだろうし、折角四国を一周するのだから多少時間は掛かっても名所旧跡も寄ってみたい。簡単に言えば行き当たりばったり計画、年寄り夫婦の気楽な旅、2週間もあれば回れるだろうと言うものでした。 ところが、計画の途中から、ご近所のお年寄夫婦から同行させて欲しい由のお話が出てきました。ご主人は以前に車で巡拝された経験もあり何かにつけて助言が頂け助かるだろうと一緒に行くことにしました。私達より高齢なご夫婦なのでそれなりの配慮は必要。基本的な計画は変わりませんが、巡拝に焦点を絞り回ることに変更しました。 5月10日午前7時、我が愛車 TOYOTA Crown RoyalSaloon G を駆って出発。実に便利になりました。私の家から4キロほどの所にある小牧ICから名神高速道路に入り、第1番札所霊山寺まで数キロの高松自動車道板野ICまで約320キロ。その間一つの信号も無く一直線。
巡拝を始めるにあたり、先ずはお遍路用品を揃えなければと門前の遍路用品の店に入りました。 巡拝のガイドブックを読むと、お遍路の正装や作法についていろいろ書いてありますが、私の巡拝動機は俗に言う「観光お遍路」、 家内は、笈摺、金剛杖、頭陀袋、数珠、線香、ローソク、納経帳、御朱印用白衣(姉への土産)と略装を一通り揃えましたが、 私は、巡拝の記念に御朱印を押してもらう掛軸を買ったのみ。一昔前なら、このような不遜な巡拝は信仰心の篤い人々からのお叱りを免れ得なかったかも知れません。 そもそも「四国八十八ヶ所霊場」の巡拝は、巡礼と言わず「遍路」と言い、空海を崇拝する修行僧や行者などによる空海の足跡をたどる旅が起源と言われていて、「遍路」は死を覚悟する難行苦行の厳しい「修行」だったそうです。 江戸末期頃から四国遍路が一般大衆にも普及し始めましたが、出立に際しては、今生の別れとなるかも知れない家族親類縁者と「水さかずき」を交わし、檀那寺や庄屋から発行された「捨て手形」と呼ばれる通行手形を持参しました。
「捨て手形」の例
遍路が旅の途中で病気や行き倒れで死亡した場合には、所持金があれば村人がそれで墓石を建ててやり、無一文の場合には、土まんじゅうの墓に遍路が使用していた菅笠をかぶせ、遍路の「杖」を立てて墓標として葬りました。
遍路がかぶる菅笠には、現在でも仏教の宇宙観を表す以下の偈(げ)が書いてあります。迷故三界城、悟故十方空、本来無東西、何処南北。 迷うが故に三界(欲界、色界、無色界)は城なり、悟るが故に十方は空なり、本来東も西もなく、いずこにか南北あらん。 この偈は、葬式の際に導師が棺桶の蓋に書いたものですが、遍路が旅の途中で死んだ場合には、この笠を遺体にかぶせることにより、「棺桶」の代わりにするためと言い伝えられています。 その文言を書いた菅笠をかぶり、白衣をまとった遍路の姿は、言うまでもなく「死装束」そのもので遍路とは死者となって四国(死国)の八十八ヶ所を巡り、そして再び生まれ替わる擬死再生をすることなのです。 詩人高群逸枝は、その著書の中で、
「遍路墓でことに哀れなのは、道端や丘の辺に、あるいは渚の近くに盛られた土まんじゅうの上に、杖や笠だけが差し置かれている光景である。それ以上に哀れなのは、帰るべき場所もなく現実に生命の終わる日まで、たえず巡礼を続けている、
道の辺に阿波の遍路の墓あわれ、 虚子
四国の人は、お遍路さんを親しみを込めて「お四国さん」と呼びます。私は、命がけで巡拝した「お遍路さん」より、この「お四国さん」という呼ばれ方に何故かリラックスできるものを感じます。
第11番藤井寺から第12番焼山寺への途上、道路脇に杖杉庵という小さな御堂があります。車遍路の場合、殆んどが気付かずに通り過ぎてしまいそうです。四国遍路の元祖と言われる衛門三郎最後の遺跡です。御堂には、弘法大師と衛門三郎の木造が祭られており、御堂脇には弘法大師と懺悔する衛門三郎の銅像が造られています。脇に立てられていた杖杉庵縁起には、次のように記されていました。
伊予の国 浮穴郡荏原の長者衛門三郎は、財宝倉にみち勢近国に稀な豪族であった。それでいて強欲非道な鬼畜のようなこの長者は貧しい者を虐げ召使共を牛馬の如くこき使って栄華の夢に酔いしれていた。
私達の巡拝中、天候は優れず殆んど毎日雨だった。雨が降っていても歩き遍路さんは殆んど傘を差していなかった。ポンチョのような雨合羽を着ている人もあったが濡れたまま歩いている人が多かった。もっとも五月雨は、然程激しくは降らないし、濡れて歩いた方がかえって心地いいのかもしれない。それとも何か他に意味があるのかもしれない。 いろいろな人が歩いていた。若い人からお年寄りまで、男性も女性も、その動機が何であるのか知る由も無いが、夫々が夫々の思いを心に秘めて黙々と歩いている。自動車道が整備されても駐車場ができても、歩き遍路には全く関係ない。昔ながらの遍路道を約50日ひたすら歩き続ける。並みの決意では出来ないと思う。 殆んどの人が順打ち、つまり札所の番号順に回り同じ方向に流れるので、他の寺で同じ人を見かけることは何度もある。言葉を交わすことは少ないが印象に残る人も何人かあった。
「あと15日くらいで回り終えたい」と屈託の無い笑顔で青年は答えてくれた。巡拝の動機は聞かなかったがこの経験は彼の人生に大きな意味を持つ貴重な体験となることだろうと思った。 どこの札所だったか記憶が混乱して思い出せませんが、品のいいお年寄り夫婦のお遍路さんと出合った。寺の境内などで僧侶の巡拝者に出会うと立ち止まって合掌しておられ、ご夫婦とも茶色の作務衣を着ておられたので僧職かとも思った。
「これは、100回以上回った人が使う納札です。」 と言って錦の納札を渡してくれました。 そして、 「私の納経帳を見て下さい。」 と言って見せていただいた納経帳は、どっぷりと朱肉に浸したのではないかと思うほど朱肉で真っ赤に染まりずっしりと重そうに見えました。 納経帳は、巡拝の度に新調するのではなく、回る度に朱印を重ねて押します。ですから、この方の納経帳には、各寺の御朱印が100回以上重ねて押されていることになります。 本などを読んで錦の納札についてある程度の知識は持っていた私は驚きました。100回以上巡拝した人とそれほど簡単に出会えるものでも無いし、また、錦の納札は、それほど気安く誰にでもほいほいと配って歩くものでもなく滅多に手にできるものではない大変有難いものとのことです。 戴いた錦の納札の裏には、住所指名とともに
南無大師遍照金剛 合掌 私は仏様の使いにて後の世と皆様の幸福を願いつつ夫婦遍路をさせていただいております」 と書かれていました。 とに角思い出に残る貴重な出会いでした。 後日、写してきた写真を見ていて、第2番極楽寺で写した納経所の写真(このページの最初から3枚目の写真)の柱に錦の納札が3枚4段で12枚が飾られていましす。一枚一枚はビニールの袋に入れられ下に名前札が貼られています。そう言えば、普通の人は納札を拝殿の前に置かれた箱に入れますが、この老人は、納経所で直接お札を納めていました。詳しいことは分かりませんが、それだけ意味のあるお札なのでしょう。
白札 1〜4回 緑札 5〜7回 赤札 8〜24回 銀札 25〜49回 金札 50〜99回 錦札 100回〜 となっています。 拝殿の前には、納札を入れる箱が置いてありますが、色の付いたお札はお守りになると言うことで盗られてしまうそうです。 いかに自動車遍路とはいえ1週間近く過ぎてくると流石に疲れてくる。毎日毎日何段の石段を登ったり降りたりしたことだろう。もっと楽に参拝できるようにしてくれればいいのにと思うが、同行の老人の話では、札所は、そもそも修行の場、簡単に門前まで車で乗りつけることができるのでは意味がないと寺によってはある程度の修行の場を設けていて、前回来た時はもっと歩かされたと言う。 5月17日、私達の巡拝もいよいよ最後の日を迎えました。朝から雨雲が低く垂れ込め平地から数十メートル上がると完全に雲の中、前を行く車も霞んで見えないような有様。特に屋島はひどかった。
最後の札所大窪寺に着いたのは午後2時頃でした。八十八ヶ所巡拝も無事完了。ずっと一緒に回った金剛杖は、本来は家に持って帰り床の間に飾っておくのだそうですが、もう必要なしで奉納して行く(俗っぽい言い方をすれば棄てて行く)人が多く納経所の前に置き場所が作ってあり 「金剛杖、菅笠を奉納される方は納経所へお申し出下さい」 と書いてありました。家内が杖の奉納を納経所に申し出ると 「護摩として処分しますがいいですか。付いている物は全部外して下さい。処分料は特に決めてありませんが皆さん1,000円くらい置いて行かれます。」 とのこと。こう言われれば皆が1,000円置いて行くのでは・・・。 出発前に読んだガイドブックには、奉納料のことは書いてなかったし、杖も錦のカバーや鈴を付けたまま杖立てに沢山まとめて立ててある写真が載っていました。この杖、値段そのものが1,500円位の物。処分代1,000円は高すぎるような気がする。
札所で結願の証、つまり卒業証書を書いてくれると言うので書いてもらいました。これも金2,500円也である。 あまり商業主義が浸透してくると有難味が薄れてしまいそうな気がします。 昔から、三途の川を渡るのにも渡し銭が要るし、「地獄の沙汰も金次第」などと言う諺もある。まあ、仕方がないか。 いろいろなことを考えたり感じたりしながら私達の四国八十八ヶ所巡拝は順調に進んで来ましたが、とにかく、八十八ヶ所、特別印象に残る出来事でもあれば別ですが帰って来た途端に、と言うより回っている最中に早くもどのお寺がどれだったか、またどの出来事がどのお寺で起きたのか完全に混線状態。約900枚の写真を撮ってきましたが、ただ写してきたと言うだけで何の説明書きも無いこの沢山の写真、永久に脈絡はつかずにに終りそうです。 当初の予定では、最終日は鳴門あたりのホテルでゆっくり渦潮でも眺めながら打上げをと思っていましたが、お話したように生憎の濃い霧、急遽予定を変更して家路につくことにしました。8日間、総走行距離 2,127km を走破して、午後7時半無事帰宅しました。 我が家の菩提寺は、臨済宗で、弘法大師の真言宗とは宗旨が違うため高野山へは行きませんでした。ところが、同行のお年寄りは、大変几帳面な方、四国八十八ヶ所で御朱印を戴いてきた納経帳に高野山奥の院の御朱印欄が空白になっているのが気になって気になってと言うことで、とうとう後日高野山へ行くことになりました。
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