第9話  北軽井沢駅の物語



 北軽井沢交差点の信号を浅間大滝に向かって数十メートル下ったところを旧街道に沿って左に進むと北軽井沢商店街の中心に出ます。この中心部は、四方からの入る道路が繋がるロータリーになっていてこの一角に草軽電気鉄道「北軽井沢駅」駅舎が残されています。この駅舎は、北軽井沢別荘地の黎明期から草軽鉄道が廃線となり駅としての使命を終えた後もずっと今日まで北軽井沢発展の様子を見守ってきました。

草軽電気鉄道「北軽井沢駅」


正面の欄間には法政大学のHの文字が刻まれている

駅待合室の切符売り場

 大正元(1912)年10月に設立された草津軽便鉄道は、大正4(1915)年に、新軽井沢〜小瀬温泉間が開業。大正15(1926)年8月に、草津温泉駅までの全線が開通しました。北軽井沢駅は、大正7(1918)年6月に「地蔵川」駅として開業しましたが、その後大学村の人達により駅舎が新築、寄贈され全線開通の翌年(1927年)に「北軽井沢」駅と改称されました。この北軽井沢駅は、日本初のカラー映画、『カルメン故郷に帰る』のロケ地にもなり風光明媚な土地として有名になりましたが、昭和34年の台風7号による吾妻川の橋梁流失、軽井沢の車庫全壊等の被害が致命的なひきがねとなり、草軽電鉄(1925年に社名変更)は、昭和37(1962)年に全線廃業に追い込まれ北軽井沢駅もその使命を終えることになりました。数年前までは法政大学OBにより喫茶店として利用されていたそうです。駅舎は、今日も建設当時の完全な姿で残されており平成18(2006)年9月15日に国の登録有形文化財に登録するよう答申されました。この北軽井沢という名前の由来は、地蔵川と呼ばれていた地域に法政大学の職員により避暑地が作られた際、軽井沢の北にあることから「北軽井沢」と呼んだのが始まりであると言われています。この地名は、草軽電鉄が廃止された後も便宜的な地名として定着していましたが昭和61年に長野原町南部地域(10区)が長野原町大字北軽井沢となり正式な地名となりました。また、一般に別荘地を包括して北軽井沢と呼ぶ場合、嬬恋村南部を含む広大な地域が含まれていると解釈した方が適切かも知れません。
 地元紙の記事を垣間見るに、近年、地元の人や別荘の人たちから鉄道の復活を望む声も多く、何時の日にか、高原列車に揺られながら雄大な浅間山を眺める日が来るかも知れません。




北軽井沢駅舎前の風景

 北軽井沢駅は、北軽井沢の臍的存在で、この駅舎から半径500メートル内に北軽井沢別荘地の殆んどの機能が集中しています。小学校、警察派出所、北軽井沢区事務所、消防団詰所等公共機関、そして銀行、郵便局、バス停、タクシー乗場、観光協会、ガソリンスタンド、ホテル。小さいながらもホームセンターにあるものなら何でもあるのでは思われるような雑貨屋さん、山のデパートと称し私が求めに行った物で無いものが無かった薬屋さん。酒屋さんに米屋さん。コンビニにショッピングセンター。スナック、バー、レストラン、喫茶店、食堂、割烹料理に寿司屋さん。見回せば端から端まで一望できる小さな商店街ですが何でも揃っています。勿論別荘地内にも喫茶店やレストラン、食事処はたくさん点在しています。
 この地に来るようになってから未だ日の浅い私には表面だけ見てこう感じたと言うに過ぎませんが、足を運ぶ度に新しい経験や発見ができるような気のする街です。そう言えば、先日偶然飛び込んだ北軽駅舎筋向かいの「すみや」さん、カツ丼がとても美味しかった。後で聞いた話ですが、ここのジャンボカツは結構名前が売れているようです。わらじほどのトンカツがどんと丼の上に乗っていました。お年寄り夫婦が経営する気取らないこの店、また行ってみようと思っています。



2007/03/16

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