第20話 往復路での話 大奥御年寄絵島



 昨年春、北軽井沢への途上、時恰も桜の季節、中央自動車道の脇に植えられた桜は満開、その美しさは、私に強烈な印象を与えました。特に、伊那地方一帯に植えられている桜は、コヒガン桜と呼ばれ、花は、淡いピンク色をしていて全ての花が咲き揃う満開時の様子はこの上も無く美しい物でした。中でも高遠の桜の知名度は抜群で、伊那IC近辺に植えられているコヒガン桜の並木は、高遠の桜の美しさを思い出させ「さあさあ桜見物は高遠へ」と人々を高遠へと誘導する意味合いもあるのではないでしょうか。事実、伊那ICの標識には「伊那 高遠」と高遠の名前も併記されてます。
 4月上旬、北軽へ行く予定日が丁度高遠の桜祭と重なったのを機に近辺で一泊し、ゆっくり高遠見物をしながら北軽へ行くことにしました。高遠を訪れたのは4月8日。桜の開花には未だ少し早く、日当たりのいい場所で一輪二輪と咲き始めたところでした。メーンステージである高遠城址公園に植えられている木は殆んどが桜の木で、この木々の桜が一斉に咲いた時にはさぞ美しいことであろうことは想像に難くはありません。桜祭が始まっているということで桜の木の下には沢山の屋台が並んではいましたが未だお客さんもまばらで休業中。それでもすれ違う団体客の中には外国からと思われる人たちも結構有りました。

高遠城址公園の桜祭は始まったが桜は未だ蕾。屋台も開花待ち。
この人たち外国からの観光客?中国語で話していた。

 話で聞いたり写真で見たりした美しい高遠の桜を見ることは出来ませんでしたが、歴史の古い城下町、歴史的見所は幾つもあります。高遠は、昨年の大河ドラマ「風林火山」には、度々出てきましたし、高遠城は、「風林火山」の主人公山本勘助が武田信玄の命により築城したものでガイドブックを見ながら興味深く散策することができました。また、今年の大河ドラマ「篤姫」の中で篤姫と共に大奥に入る老女幾島に大変興味を感じている私は、大奥に関する本などを買ってきて読んだりしていましたが、この高遠には、絵島生島事件で有名な大奥御年寄絵江島が遠島になりその後半生を過ごした地でありその墓も残っています。絵江を扱った映画「大奥」で使った、絵島の囲み屋敷もそのまま保存されていました。囲み屋敷は、映画のセットとは言え本物の家と全く同じに作られていて絵島が幽閉されていた当時を忍ばせてくれるものでした。
 歴史的材料の多いこの町、現在、3代将軍家光の弟で高遠藩主保科正光の養子となって高遠藩主になり、後には会津23万石の城主になった保科正之を大河ドラマに取り上げて欲しいとNHKに働きかけ署名運動を展開中です。

映画「大奥」で使われたセット絵島の囲み屋敷が保存公開されている。
囲み屋敷の平面図。


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蓮華寺にある絵島の墓。
絵島の墓の横に造られている絵島像。

 高遠の花見は、歴史探訪の旅になってしまいましたが、結構楽しい道中になりました。高遠城の下に高遠湖と言うダム湖があり、この湖の畔に高遠さくらホテルと言う町営のホテルがあり、当初は、ここに泊まろうと思っていましたので立寄ってみました。ホテルは、高遠湖を挟んで正面に高遠城址公園を見ることができる場所にあり桜見物には最高の立地条件ではないかと思います。時間も未だ早かったし、桜も未だ蕾だったので、もう少し先まで足を伸ばし、諏訪湖ホテルに泊まりましたが、次桜の季節に高遠を訪れる機会があれば是非高遠さくらホテルに泊まりたいと思っています。



以下フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

絵島
絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている(大河ドラマ『八代将軍吉宗』では「江島」が使われている)。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、絵島生島事件の中心人物である。
三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。
家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。大奥の公務一切を取り仕切り、大奥内で最も政治的権力を持つ御年寄の立場にあった。
正徳4年(1714年)、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島との密会を疑われ、死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。また連座者として、旗本だった絵島の兄・白井平右衛門は切腹、同弟は重追放の処分を受けた。
27年間の閑居生活の後、寛保元年(1741年)に死去。墓所は蓮華寺にある。法名は「信敬院妙立日如大姉」。

江島生島事件
[経緯]

正徳4年1月12日(1714年2月26日)、江戸城大奥の御年寄・江島は仕えている月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため、宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰途に懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助の誘いで木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈。歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座にて生島の芝居を見た。芝居の後、江島は生島らを茶屋に招いて宴会を開いたが、宴会に夢中になり大奥の門限に遅れてしまった。大奥七ツ口の前で通せ、通さぬの押し問答をしている内にこの事が江戸城中に知れわたる事になり、評定所が審理することになった。
当時の大奥には、現将軍・家継の生母・月光院を中心とする勢力と前将軍・家宣の正室・天英院を中心とする勢力とがあった。月光院が家継の学問の師である新井白石や側用人の間部詮房らと親しい事から、大奥では月光院側が優勢であった。この事件は天英院側にとって、勢力を挽回するための絶好の機会であった。天英院は家宣・家継の元で幕政を牛耳っていた新井白石・間部詮房を追い落とすため、譜代大名(関ヶ原の戦い以前からの徳川氏の家臣)や5代将軍・綱吉時代からの老中達とこの事件を画策したという説がある。
[顛末]
評定所によって関係者が徹底的に調べられ、それにより大奥の規律の緩みが次々と明らかにされた。江島は生島との密会を疑われ、評定所から下された裁決は死一等を減じての遠島(島流し)。連座して、旗本であった江島の兄の白井平右衛門は切腹、同弟は重追放となった。月光院の嘆願により、江島についてはさらに罪一等を減じて高遠藩お預けとなったが、事実上の流罪であった。江島の遊興相手とされた生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島への遠島となって、山村座は廃座。この巻き添えを食う形で江戸中にあった芝居小屋は簡素な造りへ改築を命ぜられ、夕刻の営業も禁止された。このほか、取り巻きとして利権を被っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府呉服師の後藤とその手代、さらには材木商らも遠島や追放の処分を受けるなど、大奥の風紀粛正のために多数の連座者が出された。最終的に1500名余の人々が罰せられたと言われている。
この事件により天英院側が優勢となり、2年後の正徳6年(1716年)に家継が亡くなると、天英院が推していた(月光院が推していたとする説もある)紀州の徳川吉宗が次の将軍となった。そのため、この事件が将軍決定を巡る謀略との見方もあるが、幕府を牛耳っていた白石・詮房を追放するために天英院と譜代大名や老中がスキャンダルをでっち上げたという説もある。


2008/04/24