今日、宅間某という男に死刑の求刑がなされた。2年ぐらい前に、大阪の小学校に包丁を持って押し入り生徒8人を刺し殺したものである。
彼は、法廷でも最初のうちこそ神妙にしていたらしいが、だんだんと態度が大きくなって、自分の力を誇示するためにやったとか、素手で大人でも殺せるとか嘯いているという。これでは検察官は死刑の求刑をせざるを得ないであろう。今の国民感情としては。これは同情の余地のない男だと思われるので、まことに妥当な求刑なのでしょう。
しかし私には、このような大きな刑罰の判決が出るたびに何か、とても割り切れないものが残る。
そのひとつは、犯罪が行われてから、判決あるいは執行までに大変な時間がかかってしまうことだ。刑罰は犯人の人格態度に対する非難の発露だという。そうだとすれば、人格態度が変わらないうちに非難しつくさなければ意味がないのではないだろうか。2年も3年も裁判をやっているうちに、通常の犯人ならば、反省して悔い改めひたすら被害者の冥福を祈るということになってしまうのではないか。オウム真理教の多くの実行犯人はそんな態度を見せている。彼は裁判の進行とともに、世間の非難を受け入れてしまっているのである。 原因において自由な行為という理屈がある。善悪の判断をきちんと出来ないものに対しては非難はできないということを前提にしても,酒の勢いで人を殺すためグデングデンになるまで飲酒して首尾よく人を殺してしまった場合、彼は殺人の時点で善悪の判断ができる状態ではないから本来なら非難できないのである。それではおかしいということでいろんな理屈が考え出されている。そして、結局は人を殺すという意思決定をしたときに彼はしらふだったのであるから非難しても良いんだというような理屈で彼は有罪にされるのである。この点は妥当でしょう。しかしそこまで厳密に考えようとするならば、刑罰の執行という究極的な非難は、まさにその意思決定をした人格態度に対してこそなされるべきではないのか。多くの場合裁判の判決が出るころには犯人は大変な反省をして懺悔しているのではないだろうか。判決は別の人に対して出されているようなものである。いわせてもらえば犯人に対する非難が刑罰だというのであれば、反抗が行われたらすぐに執行できるようなものでなければ意味がない。そうでなければ刑罰は犯罪に対する世間の腹いせを裁判官が代弁しているに過ぎない。
もちろん刑罰には、遺族や被害者の腹いせということもあるだろう。反省してもらったくらいでは、腹の虫が治まらないのである。私とて自分の子や孫がひどい目にあえば、それ以上のことを犯人にやってやりたくなるであろう。どんな残酷な仕打ちでもしてやりたくなるのが人情だと思う。「七人の侍」という映画で、捕まえた野武士を、そいつに息子を殺された婆さんが,鍬で撃ち殺すのを村人たちが黙認するという場面があった。婆さんがどんなにつらい思いをして生きてきたかを考えれば人情的には当然の措置なのであろう。ということで、被害者にボクシングのグローブをつけさせて、犯人を気の済むまで殴れというような刑罰があっても良いような気がするがどうだろう。おそらく近代国家では認められないだろうが、刑罰の役目は鮮明になると思う。人間はそれほど理性だけではいきられないのである。
もうひとつ。特に残虐な事件の場合、本当に犯人が非難できるかどうか、客観的に判断できるのでしょうか。「カッとなって」という場合、理性の制御機構が一時的に外れてしまっていることが多いのでしょう。自分が制御できないからこそ、理性で判断すれば悪いとわかっていることもしでかしてしまうのです。こんな時でも、後の精神鑑定では十分な理性があると判断されるのですから彼は重罰にされるのです。やはり2,3年前に幼稚園の女の子を殺してしまった事件がありました。取るに足らない動機だったように思いましたが、犯人の女にとっては重大なことだったのでしょう。これなども私には、犯人の心の病気ではなかったかと思われるのですが、確か大変長い懲役だったように記憶しています。こういう心の病気なども正当に評価できてはじめて刑罰が非難といえるようになるのでしょうが、量的な評価になじまず。また再現性もないことゆえに大変困難な作業だと思われます。
最後に、刑罰は世間に対する警告だ、こんなことをすればこんな結果になるよということを世間に知らしめて犯罪を防止するという考えがあります。それなら死刑を公開にすべきではありませんか。(平成15年5月22日)