社会主義
社会主義とは何だったんだろうか。社会主義を標榜する政党が支配する体制といってしまえばすむのでしょうが、それではナチスやイラクのフセイン体制まで含まれてしまって何のことやら分からない。端的には私有財産制度を諸悪の根源であると否定し、労働者階級の一党独裁体制を目指すことをいうのだろう。共産主義も殆ど同じ意味だと理解するべきでしょう。
この体制の現実化は、1917年のロシア革命によります。その後第2次世界大戦の終結とともにたくさんの社会主義国家といわれるものがそれこそ雨後の筍のように生まれましたが、21世紀までに総本山のソ連初め大部分の国がその体制を維持できなくて変革をいたしました。人間の歴史の最終的な理想体制と言われたにもかかわらずです。結局は人間の社会には相応しくない体制だったのでしょう。
じつは昨日、ヤフーの掲示板に「共産党の政策が実現したら」という欄があっていろんな意見が書き込まれていました。社会主義に対する賛否両論がありました。でもどういうわけか、一つだけ視点が落ちていたような気がしましたので、ここにこんなタイトルで書いた次第です。ずばり言ってしまえばそれは人間社会の体制としては空論に過ぎると思われるのです。マルクスという人は人間の本性が見えなかったのか、無視したのではないでしょうか。
たしかに、資本主義というのは欠陥だらけの体制でしょう。それを克服するものとして考え出された制度で、多くの人々の共感も得られたのでした。その理想に殉じた人も星の数ほどいたことでしょう。しかしその理想として出現した体制も殆ど潰えてしまったのです。これは制度に内在する根本的な欠陥があったのだと思われるのです。それは、人間というのはマルクスさんが考えていたほど、理性的なものでなく猿に毛の生えた程度の存在だったということです。そんな人間にとって社会主義などというものは所詮絵に描いた餅に過ぎなかったのでしょう。もっと砕いて言えば、社会制度を実現するには、すべての人間をその中に取り込む必要があります。ポルポトのやったように反対する人をすべて殺してしまえばいいのかもしれませんが、そうでなければ残された人の中からも必ず反対派は出てくるのです。また、猿の友達である私たちは私欲の塊なんです。そんな私欲の塊である人々を一つの理念の下に結集させることはとてもじゃないが無理な話でしょう。私欲の塊がそれを隠して政権中枢に入り込んできます。彼はとても頭がいい人ですから、彼が政権を握るまで誰も気がつかないでしょう。特に革命第2世代になると、官僚国家になってしまいますから、主義に忠実なんてことは何の試金石にもならなくなっているのです。かつてソ連の指導者だったブレジネフという人は、マルクスのマの字も読まなかったというではありませんか。そして一党独裁を実現し政治的競争を排除した体制下ではもはや彼は王様でありひきずりおろす方法などないのです。その点で、経済社会の競争を前提とする資本主義体制では、経済競争に勝ち残ることが政治を支配することになるので、競争に負けた勢力は政治の舞台からも下りることになるのです。経済の競争とは、ある意味では人の欲望を満足させることです。もちろん紆余曲折はあるのでしょうが、最終的には大多数の人の幸福を実現できる勢力に凱歌があがるのです。こういう点で、競争を排除した体制は結局最も悪いやつの独裁を実現し、最終的には打倒されてしまうのです。古典的な三権分立というのはとてもよく考えられた制度なのだと思います。
経済社会における本当の意味での競争を前提としないということは、組織の中でうまく立ち回るだけの、極端にいえばゴマすりばかりが社会の中枢を占めることになります。その結果、まじめに働くことがきわめてばかばかしいことになり、みんなが働く意欲を失うでしょう。こうして世の中の生産性はガタガタになり豊かな社会は程遠くなるのです。最近の中国は競争原理を取り入れたようですが、政治体制は一党独裁を堅持しています。何れは政治体制も競争を取り入れるのでしょうか。
もう一つ、かつて日本の社会主義陣営では、軍備反対、日米安保反対という主張がありました。これらが憲法第9条に違反するかということは別問題として、この主張には、日本が中国やソ連といった社会主義国に占領されて、社会主義体制になればいいといったマゾ的な心情があったと考えるのは冒涜でしょうか。あるコラムでナントカ言う文化人が「自分の友達であった○○はソ連の崩壊前に死んで幸せだった。彼は共産主義を理想とし、ソ連が日本にたいして参戦したときも、『ソ連軍の弾に当たって死ぬのは本望だ』といっていた。でもソ連軍が占領地で最初にやったことは強姦だった。』と書いていましたが先の非武装の主張にはたぶんにこの友人と同じ心情があるように思われてなりません。顰蹙を承知で言ってしまえば、非武装の主張は、社会主義国が日本を占領するときの障害を出来るだけ少なくしておこうという意図があったというのは考えすぎでしょうか。そういえば、かつて原水爆禁止の運動においても、社会主義国の核兵器は正義の武器だから資本主義国の核兵器と同列においてはいけないという主張がありました。
いろいろ、社会主義の欠点みたいなことを書きましたが、これはもともと資本主義の欠陥を克服するものとして考え出されたもので、いわば善意の制度です。そして社会主義化の脅威の下、資本主義の側からもかなりの歩み寄りがなされ、その欠陥を改善する努力がなされたと思います。福祉国家はそのような努力の結果なのでしょう。そして何よりも、いまだに社会主義を標榜する人たちには大変な善人が多いということも事実だと思います。(平成15年11月16日)