19日に17年飼い続けた犬が死んだ。人間で言えば100歳を軽く超える年齢だそうな。もっとも最近では、餌やら薬が発達してそれくらいの年齢の犬はざらにいるようではある。この2,3年は体力がとても弱ってきて殆ど散歩にも連れ出せないような状態だった。この半年ぐらいはまるでハイエナのように腰が抜けたようになり、よろけて倒れることもしばしばだった。炎天下や水溜りの中など所かまわずひっくり返っていることがあったので死んだかなと思ったこともままあった。2年程前には夜鳴きがうるさいと苦情を言われて恐縮したこともあったが、この1年くらいは鳴く元気もうせてしまったようにひっそりとしていた。ところがこの冬には、どういうわけか夜になると鳴きっぱなしになって近所迷惑も甚だしく困っていたところだったが、その声も夜ごとに弱弱しく悲しげな調子になっていった。そして9日の朝ついに立ち上がれなくなり、「もがき」もだんだんにおさまって息絶えた。これで苦しむ姿を見なくてすむという少しだけ安堵の感を覚えたものである。

 この犬は、次男が10歳くらいのときに、近くの公園で拾ってきたものである。それ以前にも2回ほど犬を飼ったことがあったが、それぞれに子供たちの誰かがきちんと世話をするという約束がなかなか守られず、閉口していたこともあって最初は飼うことに同意しなかったため、一度は返してきたのをまた拾って来たので、結局根負けしてしまったように覚えている。何でも数匹捨てられていたらしいのだが、その中の一番かわいいのを拾ってきたということである。犬でもかわいいのは得だねと妻が言ったのを印象的に覚えている。たしかに白と黒のパンダ風の顔で愛くるしかった。しかし取り柄はかわいいことだけで、実にバカな犬だということがすぐに分かった。賢さを見せたことなど一度もない。ただ不思議なことに、世話をしてくれる次男の気配だけには非常に敏感で、彼が原付バイクで帰ってくるときなどやっと音が聞こえるくらいの距離から、歓声を上げるのである。匂いは化学物質が空気にのって運ばれなければ分からないはずだから音で感知するのであろうが、いくらでもある原付バイクの音がどうやって識別できるのか不思議なものである。

 この犬の老いさらばえを見ながら考えさせられた。見回してみると動物の世界で、壮年をすぎて生きていられるのは人間と、一部のペットだけである。植物なら水と温度と光さえあれば細胞が再生される限り生き続けられるのである。だから縄文時代からの個体がいまだに生存しうるのである。そこへいくと動物は、自分で餌を取れなければ、または他の動物から逃げられないようになったらそれで個体の命はおしまいになる。足が一本折れたことが殆ど命を失うことにつながってしまうのである。集団で行動する動物でも傷ついた仲間を扶養するような余裕はなかなか無いであろう。猿の群などでボス猿が傷つけばあっという間にボスの座から引きずりおろされてしまうのである。動物では生命の維持はそれぞれの個体の体力にかかっているのである。最近読んだ何かの本で『メスの猿は死ぬまで子を産む』というようなことが書いてあったが、本当は『子を産む体力がなくなったら自分の命も維持できない』のだろう。どっかの知事さんが同じようなことを言って顰蹙をかっていたが懲りない男だ。まあそんなわけで、動物の命は体力の文字どおり必死な稼動によってようやく維持されているものなのである。そのレベルの体力がなくなれば、飢え死にしてハイエナやら植物の栄養に還元されるか、生きながら他の動物に食われてしまうのである。だからこそ、野生の動物はみんな溌剌と精悍なものしかお目にかかれないのである。NHKテレビでやるような『野生動物の楽園』なんてのはそんな輝ける一断面の投影なんでしょう。

 つぎに考えさせられるのは、体力が維持できなくなった個体を周りから支え扶養してやることがその個体にとって果たして幸せかということである。まあ、生きがいのある人間の老人の場合は別として、一般の動物ペットやそれに近いようなものを餌やら医療などをふんだんに施して生きながらえさせても、彼はほんとに幸せなのだろうかという疑問はぬぐい切れない。生命の維持なんてのは苦行以外の何物でもない。欲望(命を維持させるために脳のどこかから出される命令信号)を満たすために駆け回らなければならないのである。1時間後に死ぬことが分かっていても、腹がへれば餌が食いたくなるのだ。餌鉢にたどり着こうとあがくのである。空腹感という苦痛(マイナスの感覚だとしよう)を和らげるために食うという努力をしなければならず、その努力の報酬はマイナスがなくなることだけなのである。つまり彼に対する援助は、マイナスとゼロの間を行き来させるだけなのではないか。積分という観念を使えばそれは膨大なマイナスが残るだけなのである。クローン人間を作ることの可否が問題とされるが、生命の尊厳なんてことから問題にするのならこれとて十分に問題あるのではなかろうか。犬にオムツをしてやったなんてことは美談とは思えないのである。

 以上のことは、人間の社会についても当てはまらないか。最近とみに老人介護ということが社会的テーマになっていろいろと実践されているようです。しかし、むやみやたらと延命を図ることが彼ら(我らというべきか)にとって本当に幸せなんだろうか。達成感と希望があってこそ、苦痛をこらえて生きる価値があるのであり、それらが無くなったらいくら長生きしてもそれこそマイナスの積分を続けているように思われるのです。むしろ老人介護というのは、彼らが持っている預貯金を流動化させ、再分配するための一種の景気政策のような気がするのですが考えすぎでしょうかか。

 このことは医療にも当てはまるのではないか。いろんなチューブをつけられて生きているだけが幸せとはとても考えられない。それでも一年延命させたことは医者の手柄にはなるのでしょうか。(平成16113)