ショコラ

「そろそろバレンタインだな」

いつかと同じように、突然何を思い立ったかそう切り出してきたシーゲルに、パトリックは眉根を寄せた。

「だから何だ」

むっつりとした表情で、自分の座る机の前に立つ彼を見返す。

穏やかな陽の差す執務室の昼下がり。パトリックはいつものように、秘書官の手を借りながら、山積みになっている仕事を黙々とこなしていた。そこに突然現れて、目新しくもない世間話を小一時間続けた末に出てきたセリフが「バレンタイン」だ。いつものことながら、シーゲルの行動は読めない。

一般的に、コーディネーターは信仰を持たない。ほとんどの宗教に特徴的な「人は神の創造物である」という考えが、彼らの存在と相容れないからだ。しかし自由を尊ぶプラントのこと、信仰を持つこと自体は何ら禁忌ではない。中にはバレンタインを楽しむ者だっている。

ただし、パトリックは生憎キリスト教徒ではなかった。シーゲルはどうか知らないが、自分にはバレンタインなどただの冬の一日に過ぎない。

少なくとも、表面上はそう繕っていた。だが。

「今年も奥さんに花束をプレゼントするのかい?」

「…何故それをお前が知っている…」

ひっ、と秘書官が息を呑む。それも当然と思えるような低く押し殺した声で、パトリックはシーゲルを睨みつけた。

しかしそれを受けたシーゲルは、平然とした顔でこうのたまったのだ。

「月までの配送料は、いくらになるんだろうねぇ」

一面に広がる星空。すっかり暗くなってしまった景色に、レノアは溜息を一つ零した。

今日も仕事で遅くなってしまった。これで、今週何度目になるだろう。息子は不満一つ言わないが、きっと心細い思いをさせてしまっている。

玄関の前で立ち止まって、一つ大きく深呼吸した。暗い顔で戻っては、アスランに心配を掛けてしまう。手のひらで両頬をはさむように叩き、気合を入れた。

よし、元気。

「ただいま、アスラン」

玄関を開けると同時に快活に声を張り上げれば、ぱたぱたと駆けて来る足音がする。

「おかえりなさい、ははうえ!」

すでにパジャマを着込んだアスランを抱き締めると、石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。壊れてしまいそうなくらい小さなその身体は、温かなぬくもりを宿している。風呂から出たばかりなのだろう。軽く音を立てて、その頬にキスを落とした。

連れだってリビングに移動すると、アスランが何か言いたげにこちらを見上げてくる。「どうしたの」と声を掛けてソファーに座らせると、行儀よく膝に手を置きながら、神妙な顔で口を開いた。

「ははうえ、ぼく、チョコレートがつくりたいんです」

「チョコ?」

突然出てきた「チョコレート」の単語に、レノアは面食らった。家庭科の実習でもあったかしら、と、アスランから貰った授業計画のプリントを思い浮かべるが、どれだけ考えてもチョコレートを作るような実習はなかった。

どういうことだろう。

わからないままに、息子の言葉の先を促した。

「もうすぐバレンタインでしょう?」

だが、そこまで聞いてもやはりピンと来ない。

「バレンタインだから、チョコなの?月の風習かしら…」

レノアの知識では、バレンタインとはキリスト教の風習で、バレンタインカードや贈り物を恋人に贈る日、という位置付けだ。贈り物も別に何か特定のものでなければならないわけではなく、当然、チョコレートに限定されるなどという話は聞いたこともない。ただ、土地土地でそういった風習には変化があるものだから、月ではチョコレートを贈ることが一般的なのかも知れない。

考え込むレノアに、途端アスランの表情が不安げに曇る。

「ちがうのですか?」

申し訳なさそうなその表情を見て、レノアは咄嗟に両手を振った。

「いいえ、きっとチョコで正しいのよ。…誰から聞いたの?」

「ええと、キラが…」

そうして、アスランは今日あった出来事をゆっくりと話し始めた。

「アスランくんは、チョコレート、好き?」

自分の机で鞄から荷物を取り出していると、突然近づいてきた少女にそう訊かれた。

「チョコレート?」

「そう。あまいのだめじゃない?」

質問の意図が掴めず答えられないでいると、丁度教室に入ってきたキラが、少女の前に駆け込んできた。いつもからは考えられないくらいの機敏さで、アスランを背後に庇うようにして立つ。キラのあまりの勢いに、アスランも少女も絶句した。

「なに、アスランに、なんの用」

じとりと睨みつけるような視線に、少女が怯む。

「な、なんでもないわよ!」

上擦った声でそれだけ言うと、少女はそそくさと教室から出て行った。アスランは知らなかったが、隣のクラスの生徒らしい。

正直、未だ教室内にも馴染みきれていないアスランは、少女とどう会話を続けるものかと困ってはいた。だが、キラが来たことで少女が去ってしまい、それどころではなくなってしまった。

「キーラ!ぼくは、あのことはなしをしていたんだぞ!」

怒ったように眉を吊り上げれば、「わかってるよ…」と、不満げな声が返ってくる。だが、それはとても弱々しいものだった。

キラは怒られた子犬のようにシュンとして、上目遣いにアスランを見上げた。それを見て、アスランの心が急速に萎える。仕方がないなあ、と息を吐き出して、先ほどの少女との会話で気になったことを口に出した。

「キラ、チョコレートって、どうしてなんだ?」

少女の科白を伝えて、なぜチョコレートなのかと疑問を投げかける。まだ月に慣れていないアスランは、主にキラの母やレノアなどの大人から月についての知識を得てはいたが、子供社会のことについてはそうはいかない。不本意ながらも、一番仲の良いキラに訊くしかなかった。

「え…アスラン、バレンタインしらないの?」

キラに訊くのが不本意なのは、こういった言葉を返されるからだ。

「しってるよ、それくらい!」

ついむきになって叫んでしまう。

「ちちうえは、いつもははうえにおはなをおくってる。チョコなんて、おくってないよ」

「そっか…」

アスランの言葉に、キラの瞳が嬉しげに瞬いた。即座にアスランの肩を掴むと、言い聞かせるようにゆっくりとした口調で、もっともらしくアスランの問いに答える。

「あのね、アスラン。ここではね、たいせつなひとにチョコレートをおくるの」

確信的に言い切ったキラに、アスランはその瞳を瞬かせた。

バレンタインにチョコレートを贈るなんて、初めて聞いた。半信半疑に、キラの目を見返す。

「そうなのか?」

「そうだよ」

自信ありげに言い切ったキラに、アスランは疑いを持ちはしなかったようだ。

「ふうん…」

可愛らしく鼻を鳴らすと、キラの手を肩に置いたまま、手を口元に寄せて何やら考え込み始めた。

キラの言うチョコレートを贈る風習が、「女性から男性へ」しかも「恋人・愛する人へ」という限定つきのものとも知らずに。

行事ごとには雪が降る。聞いてはいたが、朝カーテンを開けた瞬間に、アスランは思わず歓声を上げてしまった。

一面に広がる白い世界。低く垂れ下がる雲。まるで一枚の絵のように、景色が輝いている。

しばらく呆然とその風景に見入っていたが、コツン、と窓を叩く音に我に返った。

驚いて玄関付近を見下ろせば、よく見知った鳶色の頭。こちらを見上げる笑顔が、雪景色に負けないくらいに輝いている。

キラ。

音にならない声で、息を呑んだ。手を振ってくる姿を見ていると、走り出したい衝動に駆られる。その感情のままに、踵を返した。

足音を響かせて階段を駆け下りると、その騒がしさに母が顔を出す。どうしたの、という言葉を背に受けたが、返事をする余裕はなかった。胸が脈打っている。早鐘のように、強く。

「おはよ、アスラン」

玄関から息を切らしつつ飛び出せば、頬を赤く染めたキラに迎えられた。その息が白く空気を染めて、寒さを教えてくる。

そう言えば、寝間着のまま出てきてしまった。なのに寒さを感じないのは、どうしてだろう。

アスランは自分の感覚を把握できないまま、目の前の友人の顔を凝視した。

「キラ…」

いつから待っていたのだろう。よく見れば、彼は耳まで真っ赤になっていた。申し訳なくなってその頬にそっと手を伸ばす。冷たい。包み込むように掌を当てて、少し引き寄せた。少しでも、自分の熱を分けてあげたいと思う。

キラは驚いたようにアスランを見て、だが、すぐに自分の頬を包む小さな手に、手袋を嵌めたその手を重ねた。そうしてゆっくりと、アスランの手を離させる。

「まだ、だれからももらってないよね」

にっこりと笑って、上着のポケットから小さな包みを取り出した。白い吐息が、辺りに溶けていく。

「アスランに、いちばんにわたしたかったんだ」

リボンの向きを指先で直して、立ち尽くすアスランへとそっと差し出した。受け取ってくれるよね、と微笑んで見せたが、彼は呆然とその包みを見下ろすばかりだ。そんなアスランの様子に首をかしげつつも、強引にその手に握らせた。

途端、弾かれたように上げられる真っ直ぐな瞳。

「ぼく…ぼくも、キラにわたしたくて…!」

泣きそうな声で叫んで、アスランが踵を返す。玄関へと駆け込んでいったと思ったら、間を置かずすぐに帰ってきた。その手に握られているものを見て、キラの顔に日向のような笑顔が広がっていく。

アスランはキラの手にその包みを押し付けながら、身体を引いて玄関を示した。

「あ…あがって、キラ」

「ううん、ここでいいよ」

当然上がっていくものだとばかり思っていたので、返されたキラの言葉に、アスランは一瞬呆けたように固まった。なんで、とかそれ以前に、「チョコをくれたのにぼくのことをきらいなのか」と口に出しそうになって、息を詰めた。

悲観するアスランを余所に、キラは小さく舌を出す。

「じつは、かあさんにいわずにきたんだ。いそいでかえらないと、おこられちゃう」

家に入ると、マグカップを手に持った母が、微笑みながらたたずんでいた。そっと差し出されたカップからは、温かな湯気が立ち上っている。

「良かったわね、アスラン」

母の言葉が何についてのことなのかは、言われなくとも分かっていた。

「うん…うれしい…」

キラが朝早くに自分のもとへ来てくれたことも、チョコレートを無事キラに渡せたことも、そして母が自分を気遣ってしてくれるこの行為も。

屋外の寒さに頬を真っ赤に染めたアスランは、カップの中の液体に口をつけた。甘い。そしてほんの少し、ほろ苦い。

カップから伝わってくる熱に、なぜか泣きたくなる。小さな手でカップを母に差し出すと、怪訝そうな顔を返された。しかし、きちんと受け取ってくれる。そうして空いた手で、アスランは玄関先に置いておいたもう一つの包みを手に取った。

「あの、これ、ははうえに…」

ははうえにほとんどつくってもらったようなものだけど、と俯きながら、アスランは恥ずかしげに頬を染めた。

「まあ、アスラン…」

レノアは、突然のことに次の言葉が出なくなってしまう。

昨日、アスランと一緒になってつくったチョコレート。てっきり、キラや他の友達に上げる分だけだと思っていた。だが、息子は自分のことまでも考えていてくれたのだ。

「ありがとう。母さん、とっても嬉しいわ」

やっとそれだけ伝えると、アスランの手にもう一つ包みが握られていることに気付く。

「ちちうえのぶんも…」

「あら。あのひとも喜ぶわ」

じゃあ、今日のうちに送っておきましょうね、とウィンクをして、レノアは息子の頬にキスを贈った。

アスランを学校に送り出した後。レノアは、ぼんやりと一人チョコレートを眺めていた。

そう言えば、バレンタインデーだったのだ。息子のチョコレートですっかり忘れていたが、パトリックのことももう少し考えてあげるべきだったのかも知れない。そのことにアスランの「ちちうえのぶん」で気付くなんて、妻失格だろうか。

まあ、妻に資格も何もないわよね。落ち込む間も一瞬、すぐに立ち直って、「あのひとだって何も言ってこないし」と言い訳した。事実、音沙汰もないのだから。

気持ちを切り替えて、仕事に出る用意をしようと立ち上がったそのとき、インターホンが軽やかに鳴った。

「お届けものです」

玄関へと出てみれば、抱えきれないようなあでやかな花束。

「まあ…これ…」

「受取書にサインをお願いします」

もしや、でも、まさか。

恐る恐る差出人を見れば、やはり、予期していた名前が書かれていた。

「あのひとったら…」

今日、久しぶりに通信を入れてあげようか。そう思って、少し笑った。


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