家庭の事情
妻が突然仕事で月に移住したいと言い出したとき、パトリックは別段反対はしなかった。仕事に打ち込む彼女ははつらつとして美しかったし、そんな彼女だからこそ自分は結婚相手として選んだのだから。寂しくないと言えば嘘になるが、彼女が望むことなら仕方がない。
しかし、妻が続けて言った一言に、パトリックは形相を変えた。
「何?」
自分の声が震えているのがよく分かる。
何てことだ。国防委員長ともあろう者がこれしきの事態で。
彼は自身に落ち着くよう言い聞かせたが、それは失敗に終った。
「あら。当然じゃありませんか」
「なぜ!どこが!当然なんだ!」
思わず席を立って、食卓に拳を打ち付ける。食器が耳障りな音を立て、勢い余ってこぼれたお茶が、テーブルクロスに染みをつくった。
夕食の席である。仕事を終えて、夜分にようやく辿り着いた我が家。ベッドの中で穏やかな寝息を立てる息子の姿を確認して、食事を取りながら妻の話を聞いていた。
端から見れば鬼のような形相だが、妻レノアは、聞き分けのない子供を相手にするような目で彼を見詰めていた。
「我儘を言わないでください」
「な…っ」
あんまりな科白に、パトリックはあんぐりと口を開けたまま何も言えなくなってしまった。それに乗じて、更にレノアが言い募る。
「だいたい、普段から私のほうがあの子に接している時間が長いのですから。それでも少ないくらいなのに、あなたと二人きりになんてしたら、一体どうなることか…」
ふう、とわざとらしく頬に手を当て溜息を吐く。
言うことがいちいち的を突いているためパトリックは言い返す言葉が見つからないまま、口を開いたり閉じたりを繰り返していた。だがついに堪りかねたかのように肩を震わし、幾分座った目で妻を睨みつける。
「許さんぞ…」
しかし、地を這うようなその声にも、レノアは全く動じない。
「あら、ならあなたも一緒に月に移りますか?」
不可能なことだと知っていて、さらりと笑った。
それは、パトリックの頭に血を上らせるに、十分効果を持つ笑みだった。
「許さん許さん!アスランを連れて行くなんて、絶対許さんぞ!」
絶叫が窓を震わせた。
鼓膜を震わす大声に、アスランは眠りから浮上した。
「あ…れ…?」
すぐさま状況の把握が出来ずに、目を瞬かせる。確か自分は父の帰りを待っていたはずだ。なのに今寝台の上に身を横たえているということは、つまり待ちきれずに寝てしまったのだろう。
「さっきの…」
聞こえてきた声は、確かに父のものだった。だがアスランには、それが自分の夢の中でのものなのか、はたまた現実のものなのか区別がつかない。
しばらく寝台の上に座り込んで眉根を寄せて考え込んでいたが、とにかく母の元へ向かうことにした。まだ床に足の届かない寝台から、おずおずと降りる。母は多分ダイニングにいるはずだ。細いアスランの体には少し大きな寝間着を整え、扉へと向かった。
部屋の外に出ると、煌々とした照明に目がくらんだ。ぎゅっと胸元を握り締めて廊下を進む。しばらく行くと、また怒鳴り声が聞こえてくる。アスランはそのたびに身を竦ませて、不安げに瞳を揺らした。
父だ。でも、何か怒っている。
自分は何か悪いことをしただろうかと、アスランは今日の出来事を振り返った。だが答えは出ない。
あんなにも父の帰りを心待ちにしていたのに、足が竦んで動けなくなってしまった。どうしよう。このまま知らない振りをして、部屋に戻って寝てしまおうか。
だが、それは卑怯な気がした。
それに、父におかえりなさいと言いたい。怒っていたとしても、父の顔を見たい。
まだ幼いアスランは、感情のままに怒鳴り声の元へと恐る恐る近付いて行った。ダイニングの扉の前で一瞬躊躇し、背伸びして取っ手に掛けた手が止まる。だが爪先立ちをしていたため足が震えて、勢いのまま扉を開けてしまった。
部屋の中には、立ち上がった父と、微笑む母がいた。
「ははうえ…」
突如背後から聞こえてきたか細い声に、パトリックはぎくりとその身を震わせた。
「あらアスラン、起きていたの?」
妻の言葉を聞くまでもない。恐る恐る振り返ってみれば、そこにはパジャマに身を包んだまだ幼い我が子の姿。
アスランは父親と母親を交互に見て、その大きな瞳を瞬かせた。パトリックははっとして、自分が食卓に拳を打ちつけ立ち上がったままだったことに気付き、慌てて椅子に座り直した。
レノアはその夫の様子を見て、健康的なその唇に笑みを刷く。
「そうだわ、あなた。アスランに聞いてみましょう。この子の意見も尊重しないと」
妻の提案に、パトリックは再度その身を固まらせた。ぎこちなく首を巡らし、扉の前に立ち尽くす我が子の方を見る。
普段からアスランに構っていない自覚は、大いにあった。基本的に仕事で家にはいないし、たまの休みに家にいても、やりかけの書類に目を通したりしているうちに、ついついアスランとともに過ごす時間をつくれずにいた。
第一、自分はアスランと、ゆっくり二人で話したことがあっただろうか?いつもレノアを間に挟んで自分たち親子の関係は成り立っていた気がする。
パトリックは自分の今までの行いを深く後悔した。
絶望に打ちひしがれているパトリックを余所に、レノアはアスランを部屋の中に入るよう促した。母に呼ばれて、おずおずと近づいてきたアスランが、パトリックの前で歩みを止める。
そうして、はんなりと微笑んだ。
「ちちうえ、おかえりなさい」
恥ずかしそうに頬を染めながら見上げてくる我が子。
パトリックは今すぐにでも抱き締めたい衝動に駆られるが、そこは鉄面皮と噂される彼のこと、表情には一切出ていなかった。
「ちちうえ…?」
硬い表情のまま何も言わない父親に、アスランが不安げな声を掛ける。
その儚げな瞳を見て、パトリックは慌てて返事を返した。
「あ、ああ…」
「『ああ』じゃないでしょう?挨拶くらいきちんとしてください」
すぐに鋭い叱責が飛ぶ。
睨みつけるレノアに渋々頷きながら、パトリックはアスランの顔を覗き込んだ。
「う…ただいま、アスラン」
するとどうだ。今まで不安に揺れていたその瞳が嬉しげに輝き、自分を見上げるではないか。
パトリックはアスランの花のような笑顔を見詰めながら、至福の一瞬に放心状態になった。しかしやはり、顔には一切出ていない。
そのとき、レノアが堪りかねたかのように口を開いた。
「やっぱり、あなたと二人きりにはしておけません」
まるで死刑宣告でも受けるかのように、パトリックは厳粛な顔でそのレノアの言葉を受け止めた。全ては自分の責任。こうなっても仕方のないことだった。
しかし。
「ははうえ?なんのおはなしですか」
小首を傾げる我が子の姿に、諦めきれない自分がいる。手元からこの可愛い息子が離れてしまうかと思うと、卒倒してしまいそうだ。
そんなパトリックを尻目に、レノアはアスランの肩に手を置き、言い聞かせるように視線を合わせた。
「アスラン、実はね。お母さん、お仕事で月に行かないといけないの」
「つき…」
母親の言葉に、アスランの表情が翳る。幼いながらに察しの言い彼は、それが何を意味するのか、すでに気付いていた。
小さな手を胸元で握り締めて、ほんの少しの期待を込めて父親を仰ぎ見る。
「ちちうえは…」
「私は無論プラントに残る」
だが、返って来るのは無慈悲な現実だけ。パトリックの言葉に顔を歪ませて、アスランは足元に視線を落とした。
「じゃあ…」
「そうなの。お父さんとお母さんは、別々に暮らすことになるわ。アスランはどうしたい?」
レノアに促されて、アスランは両親の顔を交互に見た。まだ幼い彼にこんなことを言うのは酷な話だが、現実として両親のどちらかを選ばなくてはならない。
悲しげに顰められる整った眉。パトリックは儚げな息子の様子に、またもや抱き締めてやりたい衝動に駆られた。だが、射抜くように冷たい妻の視線に、ぐっと我慢する。
敗北を感じながらも、彼はじっと審判の時を待った。
「ぼく…ぼくは…」
迷いを残した目で、アスランはまた両親を交互に見詰めた。
万に一つも自分が選ばれることはないだろう。パトリックはそう覚悟していたので、次に続いた息子の言葉が信じられなかった。
「ぼく…プラントにのこります…」
驚いたのはパトリックだけではない。レノアは一瞬、言われたことがわからないとばかりに目を見張った。だがすぐに立ち直ると、幾分柔らかな声で、息子の注意を引いた。
「アスラン、お母さんと一緒には来てくれないの…?」
少し悲しげな表情で、その瞳を覗き込む。
アスランは母親の言葉に激しく肩を揺らし、泣きそうに顔を歪めた。それを見てレノアは、しめたとばかりに口角を下げる。
「アスランは、お母さんのこと、嫌い?」
弱々しく呟けば、必死になって顔を上げた。
「そんな…そんなことないです!…でも…」
でも、何なのか。レノアは息子の言葉を促すように、黙して語らない。
パトリックは口を差し挟むことの出来ないまま、そんな二人を見守った。
しばらくして、アスランがおずおずと言葉を継ぐ。
「ははうえがいないと、ちちうえがさびしいでしょう?だから…だからぼく…」
必死に言い募るアスランの姿に、パトリックは胸が熱くなるのを感じた。
何て健気な息子だ。自分のことをこんなにも考えてくれるなんて。
だがそんな彼の幸福に、妻がさらりと水をさす。
「あら。でもね、アスラン。お父さんがいないから、お母さんも寂しいのよ?」
「え…あ…」
当たり前と言えば当たり前の言葉に、アスランは言うべき言葉を失った。母のことを失念していた罪悪感に、眉根が寄る。そんな息子に、レノアは畳み掛けるように続けて言った。
「お父さんはプラントに残るから、お友達もたくさんいるわ。でも、お母さんはお友達と離れ離れになって月に行かなくてはならないのよ?」
「は、ははうえ、なかないで…」
何とレノアの瞳から、一筋の涙が零れ落ちていた。パトリックはぎょっとして、慌てて駆け寄ろうとする。
しかし、すぐに違和感に気付いた。
彼女の瞳は、全く赤くなっていなかったのだ。
嘘泣き。そう指摘する間も無く、レノアがわっと顔を伏せる。アスランはそんな母親を慰めようと、決定的な一言を言ってしまった。
「ぼく…ぼくがついていきますから」
こうして、パトリック・ザラは可愛い息子と離れ離れに暮らすこととなってしまった。