家庭の事情 補完版

パトリック・ザラの朝は早い。まだ日の昇らぬ頃から起き出す彼をして、妻は、年寄りと称す。

「あーあ、たまにはゆったりとした朝を迎えたいわあ」

「今はともかく、以前のは、私だけの責任ではないだろう」

まあ、それはそうだけど。あっさりと認めながら、レノアは朝食の席に着いた。彼女の夫は、すでに食卓に着いて、難しい顔でモバイルを起ち上げている。それを見咎め、レノアは唇を尖らせた。

「朝食の席で、仕事なんてしないでください」

「おまえだって、以前はやっていただろう」

まあ、そうだけど。これもまたあっさりと認めて、レノアは、ロボットによって運ばれてきた食事に手をつけた。当然のことではあるが、ナイフやフォークを使いつつも、皿に当てて音を出すような下品な真似はしない。しばし、場をキーボードを叩く音だけが支配した。

沈黙の中、先に口を開いたのは、意外と言うか案の定と言うか、パトリックの方だった。

「それで、今日はどうするんだ」

モバイルから手を離し、少し沈んだ声で妻を窺う。それを受けて、レノアはサラダを食べていた手を止め、ナプキンで口許を押さえると、それは優雅に微笑んだ。

「どうって、あなたのお見送りをして、それから引越しの準備をするに決まっているでしょう」

そのためにお休みを頂いているんだから。微笑みながら、レノアはまたサラダに手を伸ばす。つやつやと輝くトマトたちは、彼女がその手で育てたものだ。

「言っておきますけど、今更取りやめにはしませんから」

淡々と、笑いすら含んで告げられる妻の言葉に、パトリックは喉を詰まらせた。

「いや、しかしアスランは…」

「アスランなら、まだ眠っていますよ」

夫の言葉を遮り、皆まで言わせぬうちにレノアは席を立った。強引に話を打ち切った彼女に、パトリックは咄嗟に反論する言葉を持たなかった。

妻が研究のために月に移住することが決まり、ザラ家の日常は一変した。引越しの準備のためにとレノアが研究所から休みをもらい、朝から晩まで、ほぼ一日中家にいるようになったのだ。

喜んだのはアスランだ。それまで父とともに早朝に起き出し、夜遅くにしか帰ってこなかった母が、一日中自分といてくれるようになったのだから、それは当然のことだった。

一方、焦りを感じたのはパトリックだった。今まで仕事人間で、自分とさほど違わなかった妻が、突然「子供思いの母親」になったのだ。いや、もちろんレノアもパトリック自身も、アスランのことを思ってはいたのだが、仕事がそれを邪魔していた。その邪魔が取り除かれ、レノアは、アスランの中で今まで以上に大きな存在となったことだろう。自分など霞むくらいに。

やはり、アスランを月にやるわけにはいかない。出勤途中の車の中で、パトリックは眉間に皺を寄せながら、ひとりごちた。このままでは、妻と自分の差はひらくばかりだ。何としてもアスランを手元に引きとめ、少ないながらもともに過ごす時間を持たなくては。

うむ、と重々しく頷いて、パトリックは窓の外へと視線を転じた。その様子からは、妻に妬心を感じる父親の顔など、まったく窺い知れない。プラントの未来を憂う名士そのものだ。

「ザラ議員!」

突然、その名士の顔に緊張が走った。間を置かず、すぐ隣に影のように黙って座っていたボディーガードが、彼を庇うように、その上に被さる。急ブレーキ特有の甲高い摩擦音が響き、車体が大きく揺れた。続いて更に大きな衝撃が車体に走り、車は、突然炎に包まれた。

一瞬の出来事。路上の人々が、唐突に火を吐き転倒した車体に、騒然となる。それが、爆発物による炎上であることは、誰の目にも明らかだった。

不規則に乱れた高い靴音が、狭い廊下にこだました。廊下に面した部屋からしかめ顔を出した看護士が、たしなめようと口を開くが、すぐに思い直して黙りこくった。青い髪が乱れるのも構わず、半ば引きずるようにして幼い子供の手を引いて走るその女性の姿に、尋常でないものを感じたからだ。

きっと、彼女の夫が急患で運ばれたのだろう。事故か急病か、それは知れないが、もしかしたらもう息を引き取ったのかもしれない。看護士は少しの間その後姿を見て、それからまた部屋の中へと戻っていった。

大きな音を立てて、叩きつけるように引き戸を開けた。ここが病院であるということも、ほとんど頭にはなかった。ぜいぜいと荒い息遣いが、斜め下から聞こえてくる。それでようやく、自分が握っている小さな手を思い出した。

肩で息を整える息子は、それでも自分を気遣うように見上げてくる。罪悪感に、胸がちりと焼けた。

「ははうえ…」

「大丈夫、大丈夫よ、アスラン。ごめんなさい」

レノアは息子の手を解くと、息を整えながら、病室の中を見渡した。真っ白な部屋。壁紙も、カーテンも、そして部屋の中央に置かれた寝台も、それを遮る衝立も、全てが真っ白。その色が、レノアの不安を掻き立てた。

動かない足を叱咤しながら、衝立へと恐る恐る近づいていく。震える手でそれに手を掛け、唾液を呑み込みながら、寝台を覗き込んだ。

土気色に黒ずんだ顔、包帯の巻かれたむき出しの腕、体中に付けられた無数の管。それらが目に入ったとき、レノアは、目を見開き、声にならない悲鳴を上げた。喉の奥でくぐもったその叫びに、アスランが緊張して駆け寄ってくる。

だが、次に母の口から出たのは、悲鳴ではなく怒声だった。

「あなたっていう人は…!」

先程戸を開けた音よりも、更に病院に似つかわしくない大声だった。込められているのは、聞いたアスランの肌が粟立つほどの、純粋な怒りだ。びくりと身を竦ませて、アスランは母の顔を見上げた。訳が分からない。母は、父のことをすごく心配していたはずなのに。

しかしアスランのその戸惑いも、寝台の上から聞こえてきた声に吹き飛ばされた。

「レノア」

紛れもない父の声。かすれてはいるが、聞き間違えるはずがない。

喜びに顔をほころばせたアスランは、寝台の上の父を見ようと、身を乗り出した。

「ちちう…」

「いい加減にしてください。テロに…テロにあった、ですって?」

だが、安心の吐息を吐き出すアスランの言葉を、レノアの上擦った声が遮った。驚いてアスランが母を見上げる。そして、その様子に身を竦ませた。

レノアの口許は怒りに戦慄き、顔は高潮していた。肩にも力が入り、拳は固く握り締められている。

「やっぱりあなたにアスランは任せられません。議員としてではなく、父親として、こんな思いをこの子に…私に、させるなんて」

赤く染まったレノアの頬を、一筋の涙が伝った。それを見てアスランはぎょっと目を剥いたが、一方パトリックは、返って意識が覚醒したようだ。いつも通りの鉄面皮で、妻を見返した。

「私はお前の父親ではない」

「わかってます、そんなこと。私の父親は、車を爆破されて病院送りになったことなんてありませんから!」

涙を見られたことが悔しいのか、レノアは拗ねたようにそっぽを向いた。

「…だから、ここに、残ります」

そう、唐突に告げられた言葉に、パトリックは耳を疑った。まじまじと見れば、レノアは横を向いたまま頬を染め、照れたように笑っている。

「今から申し出れば、月への移住もすべてキャンセルが利くはずです。こんな思いをするのはごめんだけど、遠くから心配だけしているのも、いやだから」

しかし、パトリックはその言葉を喜ぶどころか、苦汁を飲むかのように顔を歪めた。横を向いたレノアからは見えない。しかも、ほんの一瞬のことだった。しかし、アスランは、確かに父の顔が辛そうに顰められるのを見た。それは、漠然とした不安を感じさせずにはいられない苦笑だった。

そして案の定、父の口から出た言葉が、その不安を肯定した。

「お前は、アスランと共に月へ行くんだ」

「何を…突然、言い出すんですか」

ひしゃげたように響いた自分の声を、レノアは、どこか意識の遠くで聞いた。

声がかすれて、上手く舌がまわらなかった。喉の奥で言葉が絡むようだ。唇が歪んで、いびつな笑い顔を作り出した。

「だって、あなたは、アスランを連れて行くことには反対で…だいたい」

感情の起伏に、体がついていけない。いや、ついていっているからこそ、涙が出るのか。

「だいたい、こんなあなたを置いて、私に、月へ行けと」

震える身体を自分で抱いて、振り絞るようにそれだけ吐き捨てた。先ほどから、横を向いたまま視線を戻すことが出来ない。

だから、夫が耐えるように顔を歪ませていたことにも、気がつかなかった。

「すまない」

「謝らないでください!」

何を勝手なことを。謝るくらいなら、言うものではない。そう叫びたかったが、喉の奥で詰まったように、声にならなかった。

耐え切れなくなって振り返ると、そこには、寝台の上で深く頭を下げた夫の姿があった。

「私の我侭だ。お前たちを、危険から遠ざけたい」

顔を上げ、自嘲気味に漏らされた夫の苦笑に、レノアは胸を突かれた。「呆れたわ」と呟いて、あふれる涙を気力で押し戻す。笑わなければと、そう思った。

自分は精一杯夫をこき下ろして、その罪悪感を少しでも拭ってあげなくてはならない。慰めるのは、自分でなくても良い。

「ちちうえ…」

レノアの心を読んだわけではないだろうが、アスランがそっと寝台に近づき、パトリックの手を取った。まだ背の低いアスランは、寝台に半ば乗り上げるようにして、父親を心配げに見上げている。

本来なら大丈夫だと笑い返してやるべきなのだろう。しかし、生来の不器用さからそれができないパトリックは、せめて取られた手を握り返すことで、自分の心を伝えようとした。

「お前もアスランも、私の関係者だとは分からぬよう、手配しておく」

レノアはまだ納得していないような素振りを見せたが、パトリックはそれを瞳で制した。傷ついたように俯いて、彼女は夫のもう一方の手を取る。その手は、ごつごつとしていて、所々に先ほど出来たのであろう擦り傷がついていた。

しばらくじっとそれを見て、おもむろに彼女は顔を上げた。それは、すでに覚悟を決めた母親の顔だった。

その妻の美しい顔を見て、パトリックは、何も言わずに一つ大きく頷いた。

アスランは、両親の様子をただじっと見つめ、眦に溜まった涙を、袖口で乱暴に拭い去った。ぼくが、と小さく呟いて、続きは胸の中に秘める。燃えるように熱い瞼を、溢れてきそうな感情を、力を込めてやり過ごした。

ぼくが、ちちうえも、ははうえも、まもるから。

設定が出てくるたびに直していたらキリがないのですが、今回のは本当に根本的なところで問題があったので、むりやりこじつけてみました(それこそが問題だ)。


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