とりかえばや 05
宮中にその桃が届けられたのは、夏が終わりを告げ、肌寒さを感じはじめる頃だった。瑞々しい張りを見せ、柔らかく甘みの滴るそれは、すべてで十にも満たない数。この秋初めての品のため、まずはお上へと献上されたものだった。
「桃のようようたる…ね」
その貴重な桃を盆の上に抱きながら、ミリアリアは、主人のもとへと渡殿を急いでいた。お上からの預かり物を手にしているためか、その足取りは慎重だ。視線は桃に縫いつけられ、装束こそ華麗に捌けているものの、一歩一歩がいつになく狭い。
案の定というのだろうか、彼女はいくらも行かないうちに、前から来た人物の肩に接触してしまった。
「あ…す、すみません!」
どうにか桃は取り落とさなかったものの、間の悪いことに、下げた視線の先に映ったのは、萩の色目も鮮やかな水干姿だった。しかも相手は、桃に気を取られ転ぶところだった自分を支えてくれている。
本来なら男性との接触を避けねばならない立場のミリアリアだったが、お上からの桃を助けてもらったのだ、礼をせぬわけにはいかなかった。だが、意を決して上げた先にあったのは、思いもよらぬ顔だった。
「なーにが、桃のようようたるーだよ」
「トール!」
「そんなよくわかんないことしゃべりながら歩いてるから、人にぶつかるんだぜ」
もっともらしく説教をはじめたその人物は、カガリの乳兄弟であるトールだ。彼は、カガリが殿上した際に、ともに宮中へと上がっていた。
「ちょっと待って。トールがここにいるってことは、もしかして、キラのところにカガリさんが来てるってこと?」
実は恋人同士である二人だが、ミリアリアは会えたことを喜ぶでもなく、その愛らしい顔から血の気を引かせた。その様子を見て、トールは彼女の肩を離し、怪訝そうに顔色を覗き込んだ。
「そうだけど、何か問題でもあった?」
「あるというか…大ありというか…」
ミリアリアは桃の盆を手に乗せたまま、しばし難しい顔をして何かを思案していた。そして一つ頷くと、意を決したように、恋人の目を見返した。
「ねえ、トール、申し訳ないんだけど、カガリさんを連れて、どこかに行っていてくれないかな」
「どこか…って、どこにだよ。第一、カガリは兄…じゃない、妹に会いに来てるだけなんだから、何も問題なんて…」
「いいから!」
トールが続けるのを遮って、ミリアリアは声を荒げた。自分でも大きな声だと思いながら、しかしもう口から出てしまったものは戻らない、ままよ、と、トールの目を覗き込む。それから今度は打って変わって柔らかな声で、「話は今夜、私の部屋で」と続けた。
ミリアリアの言葉に耳まで真っ赤になったトールは、「あ、じゃあ、俺、カガリを連れてくな」などと、しどろもどろになりながら、渡殿を逆へと戻って行く。それを見て、ミリアリアは、彼には届かぬよう、一つ溜め息を落とした。ひっそりともらされたそれは、トールにこそ届かなかったものの、御簾のうちに潜んでいた人物の耳には届いていた。
「桃のようようたる…ね」
「あなたは…」
重力を感じさせない踊るような動きで、ミリアリアの後方にあたる御簾のうちから出てきたのは、浅黒い顔に笑みを刷いたディアッカだった。
「間抜けな男だねえ、女心も分からないなんてさ」
「…何が言いたいんですか」
桃の話を持ち出した時点で、彼がずっと盗み聞きをしていたのだと知れる。それでなくともこの武官は、一癖も二癖もある人物と聞いていた。ミリアリアは自然、警戒の色を強くし、桃を庇うように抱き込んだ。
「『詩経』でしょ?桃の夭夭たる、灼灼たるその華…嫁ぐ娘を桃に例えた詩だ。恋人がこんなうたを口ずさんでいたら、俺なら求婚を考えるけどねえ」
含みのある意味ありげな言葉に、頬がかっと熱くなる。なぜ、恋人にも感づかれなかった自分の心を、この男に、暴かれねばならない。
羞恥に肩を震わせるミリアリアに気付かぬふりで、ディアッカはなおも続けた。
「ま、学もない男みたいだし、仕方のないことかな」
その言葉を聞いた瞬間、ミリアリアの中で何かが弾けた。彼女は自分の持っている盆をディアッカに押し付けると、腕を振り上げ、彼の頬をしたたかに打った。その豪快な音は、二間先の御簾のうちまで届きそうなほど大きなものだった。
「な、何すんだよ!」
「手加減したわよ!お上に頂いた桃を落とされちゃかなわないからね!」
抗議の声を上げるディアッカに、ミリアリアは、もう礼儀も何もかなぐり捨てて怒鳴りつけた。本当なら立ち上がれなくなるほどまで、殴りつけてやりたいところなのだ。
腹立ち紛れにディアッカから盆を奪い取り、彼女はつんとそっぽを向いた。仮にも公家相手に、この態度となればお咎めは必死、きっとすぐにでも無礼を問われるだろう。しかし、そのようなことは構うつもりもなかった。
ところが、幸か不幸か、ディアッカの興味は、すでに違うところへと向かっていた。ミリアリアの行いを咎めるでもなく、彼は、嬉しそうに瞳を瞬かせた。
「お上の桃…あんた、もしかして、例のキラ姫付きの女房か?」
新しい玩具を見つけた子供のように、無邪気で残酷なその言葉。純粋な興味にさらされて、ミリアリアの顔から血の気が引いた。
「図星?へえ…あの噂は本当だったわけね。貴重な桃を与えるくらいだから、よほど熱を上げてるんだなあ、あいつ」
それは、言葉にしてはならない事実だった。明るみになれば、命すらも危うい。誇張ではなく、帝の寵を受けるということは、事実そういった意味を持つことだった。
その重みを受けるには、ミリアリアの主は、あまりにも儚い。少なくとも、彼女はそう思っていた。
大変な、ことになった。
「あ、おい…!」
自分のしでかした事態に押しつぶされそうになり、ミリアリアは桃を抱え、その場を逃げ出した。十二単の裾が絡まり、歩は遅々として進まなかったが、そのようなことには構っていられなかった。
桃を、そう、桃を届けねばならないのだ、キラに。
鬼気迫る様子で立ち去るミリアリアを止めることもできず、ディアッカは一人立ち尽くした。渡殿には、すでに彼以外の気配はない。まるで、一時の夢のようだと、彼は確かめるように左頬に手をやった。
そこには、これが現だと伝える、微かな熱が残っていた。
そういえばこの話、古文表記だと「とりかへばや」になるはずです。でも、似非古典なので、「とりかえばや」にしています。
トルミリもディアミリも好きな場合は、どうすれば良いんでしょうか。