逃走劇

人ごみは、嫌いではない。その中にいれば、自分の存在を強く感じずにすむし、一人ではないと思えるから。そして、逆に、一人きりだと思えるから。

いつだったか、そういった自分に、彼はどう答えたのだっただろうか。確か、何もいわずに微笑んだのだ。苦しそうな、切なそうな、泣きそうな微笑み。

ぼんやりと過去の情景を回想しながら、キラは、まさに人ごみを見ていた。過去の話は街中の人ごみを想定したものだったが、今彼が見ているものは街中ではなく、締め切られた、しかし、端を確認するのが困難であるほど広大な空間だった。蝋燭を真似た温かな光に包まれたその空間には、停戦を祝う各国の代表がひしめきあっている。誰もが煌びやかな衣装に身を包み、表向きには歓談を楽しんでいる、そう見えた。

「停戦記念パーティーといっても、実際は仮面舞踏会だな」

珍しく皮肉な物言いをした彼に、キラは何も言わなかった。確かにそうだと思ったし、こういった類の人ごみは、好きではなかったから。

そう、好きではないのだ。特に、彼を見失ったとき、邪魔になるような人ごみは。

吹き抜けになった二階から、赤絨毯の敷き詰められた一階を見下ろしても、彼らしき人物は見当たらなかった。今日の彼の服装は、マーナの見立てた黒い燕尾服だ。同じような服装の人物は、今この会場に五万といる。蟻のようにうごめく人々の中から、彼一人を見つけ出すのは困難だ。仕方がなかったこととはいえ、ラクスを送るために、一時でもアスランのもとを離れたことを後悔した。

だが、しばらく目を凝らしながら二階を移動した後、キラは、階段の脇に彼を見つけた。先ほどまで、シャンデリアに隠れて見えなかった辺りだ。

「アスラン!」

思わず声を上げるが、この距離で彼に届くはずもない。一階、二階の垂直方向の距離を差し引いても、今キラがいる場所は、ちょうどアスランのいる位置とは反対側になる。アスランに視線を合わせたまま、キラは、二階を小走りに駆けはじめた。

ところが、ちょうど半分ほど距離を縮めたところで、アスランの様子に変化があった。自分に気づいてくれたのかと思ったが、アスランが見ているのは、反対、今彼のいる階段の上方だ。釣られてそちらを見ると、そこには、遠目にも見事な銀髪の男性と、赤いドレスの女性がいた。

知り合いだろうか、そう考えながらも、キラの足は止まらなかった。しかし、次にアスランがとった行動に、思わず前のめりになりながらも立ち止まってしまう。驚いたことにアスランは、先ほどの男女に声をかけに階段を上がるでのではなく、反対方向、つまりキラが先ほどいた方向へと、人ごみをよけ走り出したのだ。

何があったのかは、分からない。しかし、キラは反射的に、二階の手すりを越え、一階へと飛び降りていた。

折りしも、管弦楽団による円舞曲が流れ始め、人々は、それにあわせ手を取りあったところだった。礼をして、あとは踊りだすだけ。ところがその優美な所作に似合わぬ声が、驚いたことに頭上から降ってきたのだ。

「すみません!ちょっとどいて」

降ってきたのは声だけではない、白い燕尾服を身に纏った少年、いや、もう青年と呼んでも良い年頃か、その青年が、さきほどの声を追うように落ちてきたのだ。

あまりの出来事に人々は逃げ惑い、人波の中に丸い穴が開いた。青年、キラはそのちょうど真ん中に音もなく着地すると、その反動を助走にかえて、時を置かずして走り出した。彼の目は、しかと先を走る細い背中に向けられている。

「アスラン!待ってよアスラン!」

咄嗟に飛び降りたことで距離は縮まったが、振り絞るように叫んでも、アスランは気づく様子もなく走り続けていた。声は届いているはずだ。それなのに立ち止まらないところを見ると、よほどのことがあったのか。

そういえば、走る足元も、どこかおぼつかない。これなら追いつけるかもしれないと、キラは、太ももに力を入れて、速度を上げた。

そして実際、そういくらも行かぬうちに、彼はアスランの背中を捉えた。声を掛けても反応がないのを見て取り、乱暴ではあるが、その肩を両手で掴み上げる。もみ合いになったが、すぐにアスランの動きが止まり、二人は陰になった壁際で、立ち止まった。

「どうして逃げるの」

肩で息をしながらの言葉に、アスランははじめ焦点のあわない目を向けていたが、ふと夢から覚めたかのように小首を傾げた。

「どうして…って…」

頭の裏をなぞるような視線に、キラののどがごくりと鳴った。

「どうしてだろう」

「はあ?」

あれだけ無我夢中で逃げておきながら、分からないとはいかなることか。間抜けな声を上げたキラだったが、アスランが本当に困惑しているのを見て取って、不満を飲み込んだ。

「わからないんだ。なぜだか分からないけど、胸が苦しい…」

床をにらみつけながら搾り出されたその声に、キラは胸を締め付けられるような心地がした。

「あの人たち?」

脳裏には、さきほどの真っ赤なドレスがよみがえる。彼女は知らない、だが、もう一人、銀髪の男のほうは、見覚えのある服装をしていた。あれは確か、ザフトの評議員にのみ許されたもの。

「あの銀髪の人たちのせいなの?」

自分の声が届かぬほど、その存在に囚われたのか。

キラはいいようのない怒りを感じ、アスランの肩を掴む手に力を込めた。ぎり、と鳴る骨の音にも構わず、逃がしてなるものかと指を食い込ませていく。

「痛…っ」

その痛みに、今まで茫洋としていたアスランの瞳が、キラへと焦点をあわせた。彼は、咄嗟にキラの手を振り解き、壁際へと跳びのいた。キラはいまだ獲物を狙うような瞳で、自分を見据えている。純度の高い恐怖を感じ、アスランは、本能のままに走り出した。

すべてから逃げるために。

突然の椿事に、会場は混乱に陥るかに思われた。紳士淑女にとって、頭上から人が降ってくるなど、まさに思いもよらない事態。慌てた人々によって、確かに一時、会場の片隅は騒然となった。しかし、それもつかの間のこと、どこからともなく聞こえてきた美しい歌声によって、一転、会場は水を打ったような静寂に包まれたのだ。

混乱の中も奏でられ続けていた円舞曲に沿うようにして、その歌声は生まれた。プラントの人間ならば、いや、世界中のすべての人間が知っているであろう、その美声。類まれなる清浄な響きに、人々は混乱も忘れ、聞き入った。

いや、しかし、そうではないものも中にはいた。二階の手すりから身を乗り出し、赤いドレスを閃かせている女性、彼女もその一人だった。

「議員!ジュール議員、待ってください!」

身を乗り出した先では、彼女を先ほどまでエスコートしていたはずの男性が、今まさに階段を駆け下りようとしている。ダンスの相方に置いていかれてはたまらないと、彼女はドレスの裾を鮮やかに捌きながら、引き止めるべく駆け出した。

「なぜ、逃げるのですか」

「逃げてなどいない!」

逃げる、という言葉が癇に障ったのだろう、銀髪の見事なその男性は、音が出そうなほど鋭く振り返った。

「ついてくるな!そもそもなぜ、女を連れ歩かねばならん!俺一人で充分だ」

男性、イザークの話し振りは傲慢とも取れる響きを持ち、ともすれば聞き手を萎縮させかねないものであったが、女性は果敢にも反論を重ねた。それは事務的な内容ではあったが、それだけに充分に説得力を持つものだった。

「このようなパーティーでは、女性をエスコートすることが必要なのです。ただでさえ議員は歳若いのですから、かたちだけでも整えておかないと。だから、評議会からの要請でこうして私が…その点は、議員も納得されていたではありませんか」

さすがのイザークも、正論を並べられると分が悪いのか、面白くなさそうに顔をしかめた。しかし、自分が悪いと認めても、譲る気はないらしい。居丈高に顎をそらして、繊細な鼻梁に皺を寄せた。

「あいつがいると知っていたら、納得などしなかった!」

イザークが持ち出した「あいつ」という言葉に、今度は女性が顔をしかめる番だった。

「…恋人ですか?」

その人物に他の女性とともにいることを見られては困ると、そういうことだろうか。ならばイザークの行動にもそれなりの理が通る。しかし、仕事は仕事と割り切ってもらう他はない。

女性がそう続けようと口を開くが、ついにその言葉は紡がれずに飲み込まれた。なぜなら、イザークが次に続けた言葉が、彼女の意識を奪ったからだ。

「まさか、あいつは男だぞ」

「は?」

苛々と階下をにらみつけるイザークの視線の先には、歌姫の声に聞き入る数多の人々がひしめき合っている。その半数は、色とりどりのドレスを身に纏った女性たちだ。だからもちろん疑いもなく、女性だと思っていたのだが。

混乱する頭を整理しようと、彼女が額に手をやったそのとき、事態はさらなる転換を迎えた。

「あいつ…何をやっている!」

「あ、ちょっと、ジュール議員!」

引き止める女性を振り切り、今度こそイザークは階段を駆け下りた。あまりの展開に、女性はもう立ち尽くすことしかできない。せめてもと走るイザークの視線の先を追うと、歌姫の曲にも関心を寄せることなく壁際でもみ合う二人の男性が見えた。

あれだ、と、直感的に女性は悟った。その間にも白い燕尾服の男性を振り切り、黒い燕尾服を着た男性が、人波を掻き分けて逃げていこうとしている。イザークとは反対の方向だ。咄嗟にイザークに視線を戻すと、「逃げるな!」という怒声が飛んできた。もちろん、それは彼女に対するものではない。ということは、やはりあの黒い燕尾服の男性が、「あいつ」なのか。

目まぐるしく変わる情勢に、彼女は、まるで安い喜劇のようだと溜め息をついた。いや、イザークが自分の気持ちに気づいていないところを加味すれば、これは悲劇だろうか。どちらにせよ、事態の収拾を図る気力は、もう彼女には残っていなかった。

ミニクロウドさんのリクエストで、「イザアス、シリアスでキラも入って三角関係」です。

一番最初にリクエストを頂いたのが、なんと6月…す、すみません、9ヶ月もかけてしまって。しかも、イザアスになっていないような…むしろキラアス?せっかくの美味しそうなリクエストなのに、生かしきれず無念です。

追記(2005-06-18)
なんと!ミニクロウドさんからイメージイラストをいただきました。キラアスですよ!やっほい!(何語)

Copyright © 2003-2005 skisaki, some rights reserved.