アステリオの娘

突然の来訪に、驚かなかったと言えば、それは嘘になる。自分たちはけして仲の良い方ではなかったし、何より今は、彼の側に愛すべき人が多くいたから。

「イザーク、どうしたんだ?」

注意を促す呼び声に、今いる場所が玄関先であることに気が付いた。長いこと会っていない蒼髪の彼が、記憶の中と寸分違わぬ碧玉でこちらを見詰めている。「上がれ」とぶっきら棒に吐き捨てて、薄く頬を染めたイザークはリビングへと踵を返した。

まあ、アスランのことだ。今日が何の日かなどということは、考えてもいないだろう。

そう心の中で呟いて、はたと、自分がどこか落ち込んでいることに気がついた。気がついて、その事実を認めたくなくて、激しく頭を左右に振った。揺れ散った銀糸が、光を弾く。

「イザーク…?」

不審げな声を掛けられて、また、すでにリビングに到着していたことに気がついた。

「あ、ああ…座ってくれ」

優等生よろしく折り目正しいアスランは、家主の許しがあるまで、座らず立って待っている。イザークが黒い革張のソファーを勧めて、ようやくそこに腰を下ろした。

その仕草には、寸分の隙もない。ないのだが、どこか以前にない頼りなさを感じた。ソファーにあずけられた身体をまじまじと見てみれば、心持ち痩せたことがわかる。きちんと食べているのだろうか。それともただ、MSに乗ることも訓練をすることもない毎日の中で、筋力が衰えただけか。

つらつらと考えていると、ふとアスランと目が合った。不思議そうに見詰めてくる瞳に、弾かれたように立ち上がると、イザークはそそくさと簡易キッチンへと向かった。

「こ、コーヒーでいいか?」

「ああ…。砂糖は入れないでくれ」

イザークが席を立ったことで手持ち無沙汰になったアスランは、何気なく室内を見回した。モノトーンで統一されたリビング。単一な調子であるのに冷たさを感じないのは、家具がどれも年代ものである為かも知れない。現に今アスランが座っている革張のソファーも、滑らかな手触りからして、かなり使い込まれた良質の品だと分かる。

「家具…」

「…何だ?」

「…この家具は、イザークが選んだのか?」

キッチンを覗き込むようにして振り返ると、丁度コーヒーを手に彼が戻ってくるところだった。

「そうだが、何か…?」

質問の意図が見えないことに苛立ちながら、慣れた手つきで、「インスタントだからな」とアスランの前にカップを置こうとした。

だが、次の言葉に手元が狂った。

「いや、なかなか趣味がいいなと思って」

がしゃん、と音を立てて、カップが倒れた。「ちょ…っ何やってるんだ、イザーク!」というアスランの叫びに、我に返った。何故自分が動揺しているのかも分からない。だが、慌ててキッチンへと布巾を取りに行った。

程なく戻ってきたイザークから布巾を受け取り、アスランは机の上を拭き取り始めた。白いテーブルクロスだけではなく、散乱した紙面にもコーヒーが掛かり、染みを作っている。他はイザークに任せて、書類の整理をしようとアスランはそれに手を伸ばした。

が、その腕を横から掴まれた。

「何だよ」

「い、いや…」

じとりと睨みつければ、視線を落としてガラにもなくすまなそうな表情を浮かべるイザーク。だが、その右手はいまだアスランの腕を掴んだままだった。

どう見ても様子がおかしい。

「機密書類でもあるのか?」

「そうじゃないが…」

そう言いながらも、イザークの目は右へ左へと泳いでいた。

怪しい、何かある。

「俺には見せられないようなものか?」

意地悪く瞳を覗き込めば、氷のようなその容貌が熱を持つ。動揺のためか、腕を掴む力が緩んだ。その一瞬の隙を狙って。

書類を手早く捲った。乱雑に散らばる同サイズの紙切れ。その中に、無機質な他とは違う、手書きの小さなカードが混ざっていた。

「何だ、これ…」

薄紅色をしたそのカードに、そっと指を伸ばした。幸いなことに、これはコーヒーの被害にあっていない。

イザークは何も言うことが出来ずに、カードに目を走らせるアスランを、呆然と見詰めていた。意外なものを見た、とばかりに、瞳を見開くアスランを。

「バレンタインカード…俺宛の…?」

カードから視線を上げて、アスランがイザークの顔を見た。確認するようなその視線に、イザークの顔が真っ赤に染まる。しどろもどろになりながらも、何とか言い繕おうと手をわたわたと振り回した。

「ち、違う!それはディアッカの奴が…貴様はバレンタインのことなんて忘れてるだろうが、一応だな…その…」

「忘れてる?…俺が忘れっぽいとでも言いたいのか、お前は」

冷ややかなアスランの言葉に、かっと頭に血が上った。カードを見つけられてしまった気恥ずかしさも吹き飛んで、思わず叫んでいた。

「実際そうだろうが!」

誕生日だって何だって、アスランが正しく覚えていた例はない。

だが。

「そんなことない。ほら」

横に置いた紙袋から、アスランが綺麗に包装された包みを取り出した。薄い水色の包装紙に包まれたそれには、濃紺のリボンが架けられている。

「え…これは…」

「チョコレートだ」

「チョコレート…?」

戸惑ってアスランの顔を見返すと、得意げな表情が目に入った。それに無性に腹が立って、思わず眉間に皺が寄ってしまう。

「バレンタインは、好きな人にこれをあげるんだと教わらなかったか?」

「ふん、そんな話、聞いたこともない。間違ってるんじゃないか」

間髪いれずに揶揄すれば、アスランの秀麗な顔に朱が走る。

「違う!だってキラが…」

「ほら、大方そんなことだろうと思ったさ。ストライクのお出ましだ」

キラ、とアスランの口から聞いたことで、余計眉間の皺が深くなる。アスランの幼馴染だか何だか知らないが、一度は敵として戦った相手だ。だからこんなにも気に食わないのだ、とイザークは自分に言い聞かせた。アスランが「キラ」と言う度に胸の辺りが痛いのも、そのためだ、と。

「キラはストライクじゃない!」

それなのに、アスランはその琴線をかき鳴らす。

キラ、キラ、キラ…。一体何度その口から「キラ」という単語を聞いただろう。

何かあるごとに、「キラ」。アスランの中でその存在がどれだけ大きいものなのかということを見せ付けられるようで、堪らなかった。

「そのチョコレートも、どうせストライクにやるんだろう?」

そうだ、そうに決まっている。

だが、アスランから返ってきたのは、思いもよらない言葉だった。

「何言ってるんだ?これはイザークの分だぞ」

「は?」

きょとんと見返してくるアスランに、間抜けな返事を返す。

今、こいつは何と言った?

「俺の分…?」

言葉に出すと同時にその意味するところを認識し、イザークは目を見開いた。自分の分。それはつまり、アスランが自分のことを…。

だが、イザークの淡い期待は、次の瞬間無残にも打ち砕かれた。

「それと、こっちはディアッカの。さっきの話からして、よく会うんだろう?渡しておいてくれ」

「…って、貴様、好意を持ってる相手全員に配るつもりか…!」

そう、イザークの指摘するとおり、紙袋の中から、先ほどのものとは別の、茶色い包装紙にシャンパンゴールドのリボンを架けた包みが取り出された。それだけではない。紙袋の中から、他にも十数個の包みが覗いている。

「いや、さすがに全員には…とりあえず、イザークだろ、ディアッカ、キラ、それからラクス、カガリ…」

自分の名が一番に呼ばれたことに、鼓動が跳ね上がった。呼ぶ順番に意味がないとしても、少なくともアスランに好意を持たれている。その事実に頬が染まる。

別に、自分はアスランのことを何とも思ってはいないが…。

心の中で自分に言い訳して、まだ「プレゼント相手」を並べ続けている彼に視線を移した。と、流れるようだったその口調が、わずかな淀みを見せる。一瞬の逡巡。微かに瞳を揺らして、アスランの口から自嘲気味の言葉が零れ出た。

「それから…ラスティ、ミゲル、ニコル、母上と…父上の分も」

「貴様…それは…」

長い睫毛を伏せてぽつりと漏れ出た言葉に、イザークの目が見開かれた。何か言葉を掛けねばと思うのだが、頭が真っ白になって続かない。

それをどう取ったのか、アスランの眉根が何かを耐えるように寄せられる。

「大切な人に贈るのなら、渡すべきだと思ったんだ」

そりゃ、直接渡すのはもう無理だけど、と俯きがちに苦笑する彼。その瞳が悲しげに揺れているのを見て、思わず腕が伸びていた。

「い、イザーク…?」

「俺も一緒に行ってやる」

「え…?」

背にまわした手に力を込め、自分よりも僅かに低いその身体を抱きこんだ。やはり、細い。目で見るよりも、ずっと痩せたことが分かる。

不意にもどかしい衝動に襲われて、腕の中のぬくもりを自分の胸に押し付けた。

大切だとか、守ってやりたいだとか、そんな感情をこの相手に向けるのは間違っている。彼は強く、自分の背中を預けるに足りる人物だ。だけど。

「だから、墓参り。行くんだろう…?」

これくらいは良いか、と天井を仰いだ。

その囁くような声を受けて、アスランの腕が、控えめにイザークの背にまわされた。そのおずおずとした仕草に、何だかイザークのほうが照れてしまう。熱い頬を見られたくなくて、顔を逸らした。と、不意に、コットンシャツを着込んだ胸の辺りに、濡れた感触を感じた。

「うん」

そう、たまには良いのだ。

キラは日本名(推定)だし、チョコレートを贈る習慣を知ってるかな、と思って。で、アスランもそれを聞いて、バカ正直に信じ込んでいそうだな、と。もちろんイザークはチョコじゃなく、カードや花なんかを贈る日と思ってるって設定です(設定は本文中で出しましょう。反省)。

アステリオの娘と言うのは、聖バレンタインの恋人…のはず。聖バレンタインが処刑される前に、彼女に手紙を送ったのが、バレンタインカードの起源だそうです。


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