老犬
名前すら付けていなかったから、呼びかけてやることさえできないのだと、苦しげにうめく彼を見ていると、僕の胸までちくりと痛んだ。
気づいたのは、明け方近くだったそうだ。湿気を伴った風が頬を撫でて、彼は、異変を感じ、目を覚ました。風のもとを探して暗闇に目を凝らすと、ほの白く浮かび上がる窓に行き当たった。戸締りをしたつもりが、見落としてしまったのかと、首をひねったのだと、彼は苦々しげに語った。
「俺のせいだ。俺が、窓を閉め忘れたから」
「違う、君のせいじゃない」
早朝の電話で呼び出された僕は、小雨とはいえ冷たい雨の中を走り、彼の家を訪れた。出迎えた彼の服は、僕に負けないくらいぐっしょりと濡れていて、僕に助けを求めるまで、ずっとひとりで探し続けていたのだと教えていた。まだ、春には早い。寒さに震えているのに、彼は体を拭くことすら思いつかないのか、ただ冷え切った手で僕の胸元をつかんだ。
「すまない、キラ。俺があの犬を引き取って、その日にこんなことになるなんて」
「アスランのせいじゃないよ。そんなふうに、自分を責めないで」
「でも」
頭を振る彼を抱き締めて、僕は、その肩口に顔を埋めた。水の臭いがする。触れ合った場所から、服が濡れていくのを感じた。
薄汚れたダンボールに押し込められ震えていたあの犬を拾ってきたのは、僕だった。つい昨日のことだ。あのときも、雨が降っていた。
道端のダンボールの中には水が溜まっていて、犬はそこに座り込んで、張りついた毛皮の下から僕を見上げていた。人間に対する警戒心はあまりないようだった。ただ、その大きな瞳はどこか虚ろで、それでも物言わぬままに何かを訴えるようでもあった。
「どうしたの、そんなに震えて」
傘の角度を変えてかがみこみ、水分で重量を増した身体を抱き上げながら、その瞳を覗き込んだ。僕の腕の中、犬は自分の前足が濡れていることが気になるらしく、しきりに水を舐め取っている。
「どうしたの」かなんて、聞くまでもなかった。この犬は捨てられたのだ。見たところ、そう若い犬ではない。それが原因かどうかは分からないが、ダンボールに押し込められているこの状況を見れば、事態は明らかだった。
どうして、捨てたりなんてできるんだろう。こんなに可愛いのに。
見も知らぬこの犬のもとの飼い主を詰りながら、肩に掛けた鞄からハンカチを取り出した。気になっているらしい前足の水を拭き取ろうとするが、毛皮に触れたハンカチは、見る間に重くなっていく。どうやら付け焼刃にすらならなかったらしい。できればバスタオルか何かで拭いてやりたいところだが、生憎、僕の家までは遠い。よしんば家まで戻るとして、濡れ鼠の犬とともに、交通機関を使うわけにもいかない。僕は、犬を抱いたまま、途方に暮れてしまった。
そのときだ。僕の背後から、思いもよらない声が掛かったのは。
「キラ?どうしたんだ、こんなところで」
「アスラン」
振り返った僕の眼に、見慣れた車が映った。そして、その運転席の窓から、こちらを見ている彼が。
「その犬は…」
僕の腕の中の犬を見て、彼はすべてを了解したようだった。すぐに車から降り、雨に濡れるのも構わずに駆け寄ってくる。そしてハンカチを取り出すと、犬の顔を拭き始めた。だがやはり水分を拭き取るには足りず、清潔な白が、薄汚く染まっていくだけだった。
「これじゃあ、らちが明かないな。本当は、これからお前の家に行くつもりだったんだが…俺の家へ行こう」
幸い、彼の住まいは、僕の家に比べ、ここからそう遠くはなかった。徒歩ではきついが、彼には車がある。犬を抱えた僕を助手席に押し込むと、彼は、車を発進させた。道すがら、犬を見つけたときの状況についてきいてくる。僕の答えを聞きながら、彼は、時折僕の腕の中の犬へと視線をやっていた。
「なあ、その犬、俺が飼ってもいいか?」
バスタオルで拭いて、帰途買った犬用のミルクを飲ませ、犬が僕の膝の上で寝息をたてはじめた頃、唐突に彼が口を開いた。驚いて見返すと、はにかむような笑顔が返ってくる。
「キラも、ラクスも、色々と忙しいだろう。カガリは論外だろうし。俺なら一人暮らしだし、誰にも迷惑はかからない。この子の世話をするのにも、ちょうどいいかと思うんだ」
犬一匹養えるだけの収入はあるつもりだし、と彼は、珍しく冗談交じりに付け加えたが、その実、彼さえ気づかぬ寂しさが、犬を欲しているのだと、僕には分かっていた。犬なんかで紛らせるのではなく、僕を頼って欲しい、そう思ったが、まさか犬にまで嫉妬しているとも言えず、口をつぐんだ。
本当に、どうかしている。この犬がアスランとともに暮らし、その心を慰めるかと思うと、胸が張り裂けそうに痛いなんて。
その痛みを振り切るように、彼に犬を預け、僕は家へ帰った。雨も上がり、犬を抱き上げたときに濡れた上着も、とうに乾いていた。
そして朝、僕は、彼からの連絡で目を覚ましたのだ。
強張ったアスランの身体を抱きしめながら、何度も「僕がついてる」と繰り返した。人の体温を感じて落ち着いたのか、彼は徐々に力を抜いていった。
「探しに…行かなくちゃ」
溜め息のように囁かれた言葉は、それでも、強い意志を感じさせた。
「でも、もう目ぼしい場所は探したんでしょう」
「すれ違っていたのかもしれない。だから、キラはここであの子を待っていてくれ。もしかしたら、自力で帰ってくるかもしれないから」
無理だ、と僕は思った。動物の帰巣本能がどれほどのものか知らないが、昨日今日連れてこられたばかりの家を覚えていられるとは思えない。しかし、彼は強さを取り戻した瞳で前を向くと、僕の腕を引き剥がすようにしてどけた。その毅然とした様子に、胸が締め付けられる。
「待って、アスラン」
こんな状態の彼を、一人で外に出すわけにはいかない。あの犬が見つからないのなら、なおさらに。
僕は、彼の身体を押し留めると、閉めたばかりの玄関の戸を再び開けた。湿った臭いを伴って、雨の気配が戻ってくる。
「君が待っていて。僕が行ってくるから」
見つかるはずなどないのだ。だって、あの犬は、僕が川へ流してしまったのだから。
Pigeon 系のお話。キラがブラックです。黒いキラ様が大好き。…でも、私以外にあまり需要がなさそうで怖いです(2005-04-22)。
後味悪…。いや、私は動物好きですよ。断じて大好きです(2005-05-05)。