眠り姫
お姫様は王子様のキスで目覚める。
それがおとぎ話の定石。
カツ、カツ、カツ、と規則正しく踵を鳴らしながら、イザークはヴェサリウスの廊下を歩いていた。無重力空間なのだからスロープで移動すれば良いものを、イライラしている彼はそのことをすっかり失念している。逆に歩きにくいはずなのだが、その浮力にも気付かないほど、本当に彼は立腹していた。
「アァァスラァン!」
お決まりの怒鳴り声とともに、アスランの自室へと足を踏み入れる。
「貴様、何をしている!作戦会議はもうとっくに始まって…!」
だが、そのわめき声が、突如ぴたりと止んだ。そのまま驚きのあまり息を呑む。
イザークの視線の先、机に顔を伏せ、アスランがすやすやと眠っていた。
「なっ…なっ…」
イザークは口をぱくぱくさせながら、今し方自分が侵入した扉を見返す。何の抵抗もなく開いたそれは、もちろんロックも何も施されてはいなかった。
なんて無防備な。
そのくせ、イザークの怒号にも起きる気配を見せず、ぐっすりと眠りこけている。
イザークは顔を顰めると、踵を高く鳴らしながら、アスランの元へと近付いて行った。
「おい、起きろ」
横に立って、その肩を揺らす。
「ん…」
むずがるようにアスランは顔を背け、イザークの手を振り払うような仕草をした。だが、未だ覚醒する気配はない。
「まったく…」
溜息を吐きながら、耳元で怒鳴ってやろうと顔を寄せた。机の上に手を突き、覆い被さるように屈み込むと、気配を感じてかアスランがまた首を捻る。
その表情が、目の前に飛び込んできた。
長く繊細な睫毛。通った鼻梁。薔薇色の頬。
意志の強さを表すその碧眼は、今は白い瞼に隠されて見えなかった。
そのせいか、ひどく幼い。
なのに、それを裏切るように、薄く開いた艶やかな唇。
引力に引かれるように、顔を寄せた。
「…っ…!」
唇に触れた感触に我に返り、がばりと勢い良く起き上がる。耳まで真っ赤になって口を押さえ、呆然と立ち尽くした。
今、自分は、何を。
「嘘だ…」
手の甲で乱暴に唇を拭い、二、三歩後退る。
自分が信じられない。
くしゃりと前髪を掻き揚げ額を押さえると、きつく目を閉じ、踵を返した。
振り返ることもなく。
イザークが走り去り、暗闇に包まれた部屋の中。
「…びっくりした…」
むっくりと起き上がり、アスランは自分の唇に指を寄せた。
まだ彼の感触が残っている気がする。
「『嘘だ』って…」
こっちのセリフだ、と嘆息する。目が覚めたら口付けられている最中だったなんて、本当に嘘であって欲しい。
でも。
「何で俺、嫌じゃないんだろう…」
お姫様は王子様のキスで目覚める。
それがおとぎ話の定石。