海の星

潮の香りが嫌いだった。海の青さが嫌いだった。潮騒も、海鳥の声も、あの日を思い出すものはすべて、嫌いだった。情けない話だが、目も耳も鼻も、肌に海を感じても、あの恐慌がぶり返してくるのだ。夢に見るそれだけでも、焦げ臭いあの臭いが染み付くようで、一日を怯えて過ごさねばならないほどに。

だから、その日自分が海へ出たいと思った理由には、自虐的な意味合いも含まれていたのだ。あの悲しみを忘れたわけではない。あの憎しみを忘れたわけではない。あの絶望を忘れたわけではない。そう、確認したかった。

「シン、あまり潮風に当たると、風邪を引くぞ」

柔らかな声に、シンは、意識の底から浮上した。慌てて自分の半歩後ろを振り返れば、これもまた柔らかな翡翠と目が合う。

「どうした、ぼうっとして」

夜の闇に慣れた目が、綺麗な笑顔を捉えた。暮らしが落ち着いてからというもの、彼の表情は、戦中からは想像もできないほど穏やかになった。これが本来の彼なのだろう。今から考えてみれば、戦争をしていたのだ、厳しい顔つきにならないほうがおかしい。しかし、自分はどうだったのだろう。あまりにも不謹慎だったのではないだろうか。

そう、自分は、不謹慎であり、甘かった。その上、ひとりの少女を失うまで、自分の甘さに気づかなかった。家族と、彼女と、二度も失って、ようやく気づいたのだ。

「いえ、ちょっと考えごとをしてただけですよ」

シンは、固い口調でひとつ頷いて見せてから、視線を空に転じた。まだ、長い間海を見つめるだけの勇気はない。だから、満天の星を見つめながら、気配だけで、すぐ隣にいるはずの彼を感じた。

彼は、シンに倣うようにして、夜空を見上げていた。

「降ってきそうな星空だな」

この辺りは大きな町もなく、明かりが薄い。標高は低いが、はっきりと星を見ることができた。

嬉しげな彼の声に、シンは、少し気分が軽くなったような気がした。自然、口調も軽くなる。

「あんた、星座とか詳しそうですよね」

「そういうシンはどうなんだ」

「全然。俺はそういうのは向いてないんですよ。女じゃあるまいし」

ふと、温かい記憶がよみがえりそうになり、シンは堅く目を瞑った。星座占いを気にしていた妹、星に詳しかった母親。いや、妹は雑誌で占いを見ていただけであったし、母は一般的な星の名しか知らなかった。しかし、些細なことでも何もかもが、そこに戻っていこうとして気が滅入る。見たくはない。

目を瞑れば、星も思い出も消えて、潮騒だけが残った。だがそうなれば、余計に気分が悪くなる。悪循環に耐え切れなくなったシンは、すぐにまた目を開けた。

幸いにも彼は、シンの変化には気づかなかった。ただ言葉尻のみを捉え、さも憤慨しているといいたげにシンを睨み付けた。

「それじゃあ、俺が女々しいとでもいいたいのか、お前は」

「いや、そういうつもりじゃなくて」

幼い彼の反応に、潮騒が掻き消される。星の輝きはまだ視界を照らしているが、それも苦にならなくなった。自分も現金なものだとシンは思った。

だって、そうだろう。彼とともにあるだけで、こんなにもくすぐったいような、温かい気持ちになれるのだから。

「そういうつもりじゃなくてですね、物知りそうだな、とか」

「どうだか」

「あ、えーっと、あの星なら、俺知ってます」

本格的に唇を尖らせはじめた彼の様子に、シンは、慌てて話題を変えた。

「あそこの星です」

「どれだ」

「あれです、北極星ですよ」

北天に輝く星を指差せば、彼の視線もそれに吸い寄せられた。

「ああ、ステラ・マリスだな」

「え」

驚いて空から視線を外し見返すが、彼は気づかず言葉を重ねる。その声には、呆れたような響きがあった。

「あれは、アカデミーで習う星じゃないか。他のは知らないのか」

「あんた今、何て…」

「だから、アカデミーで習うだろ。サバイバル訓練のときに」

「そうじゃなくて」

こちらを見ようとしない彼に焦れて、シンはその腕を掴んだ。思ったよりも力がこもってしまったためか、彼は、怪訝そうに眉を上げ、振り向いた。

「ステラ…っていいましたよね」

「知らないのか?ステラ・マリス、ラテン語で海の星という意味の言葉だ。まあ、正しくは金星という説もあるし、一概に北極星ともいいきれないんだが」

「なんで、そう呼ぶんですか」

「これも他説あるんだが、船乗りの道しるべになったかららしい。北極星も金星も、変わらず空にある星だろう?」

どうでもいいが、腕を放してくれ。控えめに抗議する彼の碧の瞳に、シンは素直に従った。噛み締めるように、彼の言葉を反芻する。

「変わらず空に」

「海で迷っても、導いてくれる星という意味だな」

いつもそこにあり、導いてくれる人。シンの脳裏に、彼女が、そして家族が浮かんでは消えた。守らなければ、守りたかったと思っていたが、しかし、実際に守られていたのはどちらだろう。もう一度星を見上げながら、悔悛の情が赤い瞳からとめどなく溢れ出た。歪んだ視界にも、輝きは曇りなく届く。

突然の涙に、彼はあたふたと滑稽な動きで驚いて見せた。気配だけでも感じられるその様子に、シンは、くしゃりと笑ってしまった。

「じゃあ、あんたも、ステラ・マリスだ」

どうか暗闇の中の私を照らしてください。

近頃、直接的な表現か、間接的な表現か、どちらがいいのか模索中です。同様に、話の流れも、直接的なものと間接的なものと、どちらがいいのか。いや、場合によりけり、その話の内容によって使い分けるべし、って結論になりそうなんですが、個人的には直接的なほうが好きなので、たまに、間接的なまわりくどーい話を書く練習をしています。今回はそのひとつです。

やまなしおちなしいみなしなので、読んだあとに疲れるかもしれません。って、あとでいっていれば世話ないですね。もう読んじゃったよって(2005-12-31)。


Copyright © 2003-2005 skisaki, some rights reserved.