ストレス
ひとはそれなしでは生きられない。
「生きていくうえで必要不可欠なものとは、何か」
突然の言葉に、アスランは目を丸くした。
「それは…アカデミーのとき、教官が出した質問じゃなかったか?」
「ご名答」
片頬を上げて返すのは、ジーンズをはいたディアッカだ。サマーセーターにチノパンという出で立ちのアスラン同様、くつろいだ格好をしている。ソファーに浅く座した彼は、手にしたグラスをテーブルの上に戻すと、試すような視線を目前のアスランへと向けた。
「あんた、何て答えた?」
「アスランは、どうしてああ答えたんですか?」
振り返ると、トレーニングウェアに身を包んだニコルがこちらを覗き込んでいた。シュミレーターの中、パイロットスーツの襟元をくつろげながら、アスランは苦笑を返した。
「唐突だな」
「本当はすぐにでも聞きたかったんですよ。でも、アスランったら、声をかける間もなくシュミレーターで対戦を始めてしまったから」
「それはすまなかった」
再度苦笑しながら、電源を落とし、操縦席から腰を上げた。それを見たニコルは身を引いて、アスランが通れるだけの空間を空ける。
密室から出てみると、外の空気が随分と冷ややかに感じられた。まだ慣れないせいか、狭い中で凝り固まった体の節々が痛い。軽く関節を伸ばしていると、ニコルがタオルを渡してくれた。
「ありがとう」
と、礼を返す声に重なって、背後から、何やら鈍い音が響いた。驚いて振り返れば、そこにはシュミレーターが。
「イザークったら、なかなか出てこないと思ったら…」
ニコルの言葉を遮るように、空気の抜ける音が響き、シュミレーターの扉が開いた。中から現れたのは、先刻までアスランと対戦していたイザークだ。その眉間には、案の定、深い縦じわが刻まれている。
軽口を叩きながら寄ってきたディアッカを横目に歩き出し、ふいに上げた彼の視線が、肩越しに見返すアスランとかち合った。途端、弾かれたように顔色が変わり、全身が震えだす。
「こ、ここ、このぉおっ!」
「は?」
突然声を荒げた彼に、アスランは間の抜けた返事を返した。それが更に癇に障ったのか、イザークは頭から湯気を出さんばかりに顔を真っ赤にし、足音高くアスランに詰め寄ろうとする。
しかし、ニコルがその機先を制した。
「相変わらず大人気ないですね、シュミレーターに当たるなんて」
「何だとぉっ!」
音が出そうなくらい勢い良くニコルを振り返ると、いつも通りの食えない笑顔にぶち当たった。
「聞こえなかったならもう一度言いましょうか。イザークったら、子供ですね、ものに当たるだなんて」
微妙に噛み砕かれた言葉が、痛い。
湯気どころか音を出しそうなイザークの向こうで、ひとり苦労人ディアッカが、乾いた笑いを浮かべていた。これからのイザークの行動を考えると、めまいを覚えそうだ。
と、そのとき、彼に救いの天使が舞い降りた。
「あれー、アスラン、終わったの?」
砕けた口調に、トレードマークの朱色の髪。自分とさほど上背の変わらない相手だったが、今のディアッカには天使に見えた。彼ならばきっと、この一触即発の状況を打開してくれるに違いない。
「ラスティ!」
「俺も今終わったところなんだ。ロッカーに行かないか?」
人懐こく笑って、ラスティはアスランの腕を取る。
「そうだな、シャワーも浴びたいし、行こうか」
「あ、じゃあ、僕も次なので、ご一緒します」
あれよと言う間に、ラスティに連れられて、アスラン、ニコルの両名は立ち去ってしまった。その場には、更に機嫌の急降下したイザークと共に、ディアッカのみが残される。
前言撤回。ラスティは、天使などではなかった。
汗を落としトレーニングウェアに着替えたアスランとラスティは、入れ違いにパイロットスーツ姿になったニコルと別れ、二人ラウンジに来ていた。水分を補給しながら、次の休暇の使い道など、他愛もない話に花を咲かせている。
ふと、アスランの笑いが固まった。それを見て、ラスティも目をしばたかせる。話の流れからして、顔を強張らせるような場面ではなかったからだ。
「どうした?」
「あ、いや…ニコルに話すのを忘れていたなと思って」
「ニコル?」
さらに首を傾げるラスティに、先ほどのニコルとのやり取りを、掻い摘んで話した。すると、すぐに彼の表情が和らいだ。
「ニコルなら、ピアノとか答えそうだな」
片眉を上げながらの軽口に、アスランも思わず微笑みをこぼす。ならばイザークは研究書で、ディアッカは例のいかがわしい雑誌なんじゃないかなどと、失礼なことを囁き合っては、忍び笑いを漏らした。
「そういえば、俺は聞いてなかったけど、アスランは何て答えたんだ?」
「ああ」
和やかな雰囲気の中で聞かれた質問に、だからアスランは躊躇いなく答えた。
「ストレスだよ」
「ストレスって…そりゃまたシュールな答えじゃん」
「ラスティにも同じことを言われたよ」
酢を飲んだような顔でまじまじと見つめてくるディアッカに、アスランは照れ隠しの苦笑を零した。
「でも、実際に、医学的にも証明されていることなんだ」
「ああ、まあ…うん、何となく分かるけど」
つまりは、と片眉を上げ苦笑しながら、ディアッカは自分たちがMSを駆った宇宙空間を思い描いた。ストレスがない状態があるとしたら、まさにあれが近いだろう。だが、あの場所に長く居たら、いや、短い時間であろうと、気が狂う。狂わないはずがないと、そう思う。
「かと言ってストレスが多いと、また逆に身体に悪いじゃん?」
「まあ、そうだな」
苦笑するアスランに、やっぱりシュールだ、とラスティは小難しい顔を返した。
「このアカデミーでもさ、結構多いらしいし。精神的なことで辞めてくやつ」
頭の後ろで腕を組み、身体を壁に預けながら宙を仰ぐ。何でもないことのように笑っているが、それは目を逸らすことのできない現実だった。
「幸い俺ら同期は大丈夫だけど…あ」
「何だ?」
「いや…一人大丈夫じゃないやつがいたなと思ってさ」
不意に組んだ腕を解いて上体を起こしたラスティが、笑いに唇をわななかせた。面白くて仕方がない、と言わんばかりに、その瞳が輝いている。
聞くまでもなく、アスランは、ラスティの思うところを見抜いた。
「まあ、イザークは、そのうちストレスで胃に穴が開きそうではあるな」
溜め息とともに零れた言葉に、ラスティの瞳の輝きが増す。
「あれ、俺、イザークだなんて言ってないよ?」
「しらばっくれるなよ」
調子の良い合の手を返すラスティに、つられてアスランも口許をほころばせた。
思い出話に緩んでいたアスランの頬が、不意に固まった。
「そういえば…イザークは、どうしている?」
何気ない風を装い、ついでのように呟かれたはずの言葉だったが、嫌に強く響いた。驚いて口許を手の平で覆うが、一度出てしまった言葉を取り戻すことなどできない。現に、ディアッカの耳には届いてしまったのだから。
「やっぱり、気になるか」
唇を歪めた苦笑は、けしてアスランを馬鹿にする類のものではなかった。だが、その言葉が体中をカッとさせる。何か言い返そうと口を開くが、どう言えば良いのか分からない。
こんな風に、この戦友に対して苛立ちを覚えたのは、初めてかも知れなかった。いつだって、アスランのストレスの素となるのは、あの銀髪の彼だった。そしてその逆もまた、そうであったのだろうけれど。
「あいつは元気にしているよ」
冷めてしまった紅茶を飲み干し、ディアッカはアスランのほうへと身を乗り出した。
「まだやらなければいけないことが山積みだし、使命感に燃えてるからな」
「使命感か」
「ああ、頼られればそれに答えようとするヤツだから」
軽く肩をすくめるその様子に、イザークが多忙であろうことが知れる。不器用な彼のことだ、断るということができないのだろう。頼られれば、尚更に。
「…ただ、昔みたいに怒鳴ることはなくなったな」
ぽつりと呟かれた言葉が、痛いくらいに胸に響いた。
「穏やかになったのとは違うな。あいつは今でも鋭い空気の中にいる。ただ、誰もあいつを怒らせることができない」
独り言のように呟きながら、しかし、ディアッカの瞳は、アスランを捕らえて放さなかった。
「あいつの中で、価値を持たない」
お前ほどには、と、音にせず口だけが動く。それを目に留めながら、一度は緩みかけたアスランの表情が、彫像のように固まった。
「…何が言いたい」
「別に。ただ、あんたも言ったろ、ストレスは必要だって」
先ほどの硬い言葉はどこへやら、軽い調子に戻しながら、ディアッカは苦笑を浮かべる。そのニヒルな表情は彼に酷く似合っていたが、どこか作り物めいて感じられた。
「あいつのストレスは、あんた以外にはありえないんだよ」
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以前 Novel にあったものを、まとめて SS に移しました(2005-03-03)。