ビー・マイ・バレンタイン
問題は、二人に気付かれずに、どうやって彼に近づくかだ。
チョコレートは用意した。キサカも何とか宥め賺した。クサナギからエターナルへの移動も、滞りなく済ますことが出来た。
そう、後は、彼の元に向かうのみ。だが、それが最大の難関だった。
「ええと…情報によると、アスランはここ数日、この時間は調理場に…はあ?調理場?」
メモを手にぶつぶつと呟きながらも、辺りに気を配ることは忘れない。いつ何時、敵の襲撃があるとも知れないからだ。もちろん、この場合の敵とは、ザフトでも地球軍でもない。
「あの二人は…今の時間は、キラは不明、ラクスは…ハロのお散歩?」
メモを繰りながら、慎重に調理場付近の角を曲がった。後数メートル。しかし、ここから先が危険地帯ともいえる。
ごくりと喉を鳴らして、左右に視線を飛ばした。いない。今のところは。
だが、その視界を、不吉な丸い影がよぎった。
「あら、カガリさん」
「ひっ」
突然背後から掛けられた声に、カガリは文字通り飛び上がった。無重力にふわふわと身体が舞い、硬直した背筋が引き攣る。恐る恐る振り返れば、そこには、予想通りの桃色の髪。
「ら、ラクス…」
何とか笑顔をつくろうとしたが、失敗に終った。微笑むラクスの手の中に、先ほど視界に入ってきた丸い物体が収まる。
「あらあら、ピンクちゃん。お散歩は楽しかったですか?」
「オマエモナー」
ラクスの髪とよく似たそのペットロボットは、宇宙空間においてもその特性―――跳ね回ることをやめはしない。一度はラクスの手の中に収まったが、また逃げ出すように飛び出ていった。それを手を振って見送って、ラクスはふんわりとした笑顔を浮かべる。
「それで、カガリさん。なぜこの艦においでなのですか?」
「え…あ、そ、その…それは…」
あたふたと手をばたつかせながら、カガリは何か良い言い訳はないものかと必死に頭を回していた。だらだらと冷や汗が流れ、視線が左右にせわしなく泳ぐ。その、不安定な視界に、またもや今最も目にしたくないペットロボットが飛び込んできた。
「トリィ」
ああ、もう、最悪。カガリは突然笑い出したい衝動に駆られた。人間、追い詰められると笑うしかないと言うのは、本当なんだなとしみじみ思う。
緑の羽根のペットロボットに続いて、鳶色の髪の少年が視界に現れた。さも不思議そうな顔をしているが、その瞳は切るように鋭い。
「あれ、カガリ。どうしてここにいるの?」
「キ…キラ…」
どうして、何で。それはこっちの科白だ、とカガリは心の中で叫ぶ。なぜ、もう後一歩と言うところで邪魔が入るのか。
なぜも何も、二人がアスランの側に張り付いているのだから、アスランに近づけば近づくほど会う確率が高まるのは当然だった。
仕方がない、白状するか。カガリが諦めの溜息を吐いたそのとき、背後から凄まじい音が聞こえてきた。
「な、何だ…?」
金属音と、何かがぶつかるような音。振り返った先にあるのは、調理場だけ。
アスランに何かあったのではないか。言葉にする前に、三人が三人、すでに駆け出していた。
「ア、アスラン?」
「あらあら」
「どうした!」
キラ、ラクス、カガリの順に駆け込んだは良いが、先頭のキラが突然立ち止まったため、残りの二人が入り口で詰まってしまった。カガリが苛立たしげにキラとラクスを掻き分け、調理場の中に足を踏み入れる。と、開けた視界の中に、床に蹲るアスランの姿が飛び込んできた。
室内に立ち込める、甘く、ほろ苦い香り。
「え…皆、どうして…?」
ぺたんと座り込んでこちらを見上げる顔の所々に、茶色い液体がはねている。髪にもべったりとついたその茶色が、アスランの白い肌に散るその様は、背徳的な雰囲気を醸し出していた。首筋に通った一筋の流れが、襟元の中に流れ込むのを、つい目で追ってしまう。
「あ…あすら…」
顔を真っ赤に染めたカガリは、縫いとめられたかのように、その場から動けなくなってしまった。それを押しのけて、いち早く衝撃から立ち直ったキラが、彼の手を取り助け起こす。
「今の音は何?アスラン、どこも怪我はない?」
「ああ…ちょっと手を滑らせてしまって…」
さすが幼馴染。自然に肩に手を沿え、エスコートするように引き寄せた。そのまま片手を滑らせハンカチを取り出すと、アスランの髪についたチョコレートを、丁寧に拭い始める。
「ほら、拭いてあげるから、じっとして」
「…何だか、いつもと立場が逆だな」
世話を焼かれることにあまり慣れていないアスランは、くすぐったそうに首を竦めた。その苦笑に笑顔を返しながら、キラの手は彼の背にまわされる。
「拭きにくいから」と、アスランの身体を抱き寄せながら、肝心な話に移った。
「ねえ、アスラン。それで、そのチョコなんだけど…」
それを聞いて、今まで二人の世界に入り込めず息を殺していたラクスとカガリが、勢い込んで身を乗り出した。
「そう、そうですわ、アスラン。このチョコ、もちろん私のためにつくってくださったのですわよね?」
「わ、私のためだよな、アスラン!」
もちろん、負けているキラではない。
「ね、アスラン、僕のためだよね?」
少し顎を引いて、上目遣いに見上げた。
だが、三人のどの言葉も、アスランは肯定しない。目を瞬かせながら、小首を傾げた。
「え…皆のためだけど…」
「み、皆…?」
「ああ」
さも当然とばかりに、深く頷く。
「普段世話になっているからな。クルー全員の分を、ここ数日でつくっておいたんだ。AAとクサナギにはもう持っていったんだが、カガリ、受け取らなかったか?」
「キサカ!は、嵌めたなあいつ!」
道理で、いつになくすんなりとエターナル行きを許してくれたわけだ。許可をくれたときのキサカの満面の笑みを思い出しながら、カガリは地団太を踏んだ。
その様子を見て、アスランは虚を突かれたかのような顔になる。
「え…じゃあ、カガリは受け取ってないのか?」
「それどころか、きっともう他の奴の胃袋の中だ!」
涙目になりながら、足を踏み鳴らす。調理場には重力制御が掛かっているため、靴の音が高く響いた。
口惜しげなカガリの姿に、アスランは眉根を寄せる。何か策はないかと思いあぐねて、口に手を当てて俯いた。そして、しばらく考え込んだ後に顔を上げると、諦めるような溜息を吐いた。
「これ、カガリに」
「え…」
机の上に用意しておいた包みを、そっと手の中に押し付ける。落ち着いたモーヴの包装紙に真っ白なリボンの架けられたそれは、どう見てもカガリのために用意されたものではなかった。だが、それをカガリに渡しながら、アスランは微笑む。
そして、机の上からもう一つの包みを取り上げ、ラクスへと向かった。
「こちらはラクスに」
薄紅色の包装紙に、藤色のリボンを架けた簡素な包み。カガリに渡されたものと同型のそれは、角の折り目が分かるほど几帳面に包まれていた。
「まあ、ありがとうございます」
ふんわりと、贈り物を受け取るのに慣れた笑み。ラクスの笑顔を眩しげに見詰めるアスランに、カガリははっと我に返った。
「あ、ありがとう、アスラン!」
すると、アスランはカガリに「どういたしまして」と笑顔を返す。
カガリ、ラクスと来たのだ。次は自分に違いない。キラは期待に胸を膨らませながら、幼馴染の繊細な笑顔を見詰めた。それに気付いて、ようやくアスランがキラのほうを向く。
だが、次に続いた言葉は、キラを奈落に突き落とした。
「ごめん、キラ」
「え?」
ごめん?ごめんとは一体何のことか。「はい、キラ」の間違いではなく?
ぐるぐると回るキラの思考を余所に、アスランが言いにくそうに口を開く。
「さっき床に落としてしまったから、クルーの分を抜いたら、もうなくなってしまって…」
つまり、もうキラの分はないということだ。
「え…えぇ…そ、そんなぁ…」
情けない声を上げながら、キラはその場に座り込んだ。慌ててアスランが引き上げようと手を掴むが、それすらも目に入っていない。
絶望に打ちひしがれるキラの様子に、ラクスとカガリが満面の笑みを浮かべる。
勝った。その顔にはそう書かれていた。
「レディーファーストですもの。仕方がありませんわよ、キラ」
「悪い、キラ」
しばらくキラはそのままアスランに支えられて座り込んでいたが、何を思い立ったか、唐突に立ち上がった。いきなりのことに、すぐ側で支えていたアスランはバランスを崩し、その手をキラに取られる。
「…いいもん。僕は、もっと美味しいもの貰うから」
「え?…うわ!」
そしてそのまま、強引に身体を引かれ、その腕の中に抱え上げられた。
「キラ?何する…っ!」
アスランの抗議の言葉も耳に入らないとばかりに、キラは嬉しげに調理場から出て行こうとした。
向かう先は、キラの自室。
「ふふふ。いっただきまーす」
「ま、待てキラ!」
慌ててカガリが追おうとするが、アスランを抱えたキラを通した調理場の扉が、無常にも目の前で音を立てて閉まってしまった。電子音が響き、錠を掛けられたことが知れる。すぐに内側のパネルに手を伸ばすが、さすが最強のコーディネーター、すでにプログラムが書き換えられていた。
「くそ!」
カガリはパネルを力任せに閉じ、そのまま拳を壁にぶつけた。アスランから貰ったチョコレートと、渡すことの出来なかった自分のチョコを手に、口惜しげに何度も壁を叩く。
その横で、今までずっと黙っていたラクスが、不意に軽やかな笑い声を上げた。愉快気なころころとした笑みは、止まることを知らない。
不審に思って見返せば、眇められた青い瞳に出会った。
「キラ…許しませんわよ…」
カガリは、とにかく今すぐこの部屋から出たいと、切実に思った。