イストギールに向かうには、先日崩壊した橋のたもとまで戻らないといけなかった。相変わらずコンパスの針は狂ったままだったが、セラプ族は迷うことなく未知達を橋へと案内した。橋の残骸は未だに手つかずのままで、落雷の跡が生々しい。

 ――今から私達が浮遊の術で貴女方を向こう岸まで送り届けましょう。

 未知、センテバ、ユンは岸の手前に立たされた。酋長を始め、守が杖を手に呪文を唱えようとしたときだ。

 ――酋長、ゲイターが!

 守の一人が悲鳴を上げる。一行の後を追ってきたのか、もしくはここが縄張りだったのだろうか。見る見るゲイターに囲まれ、茂みの奥に赤い花弁が大挙している。どうやら向こう岸にも待機しているようで、方々から蔓が伸びて、こちらに迫り来る。

 ――奴ら、我々の魔力を嗅ぎつけてきたか。
 ――一昨日のような醜態を晒してはならぬ。呪文を唱える低い声が響き、杖に火の粉が生じる。
「待って!」

 ユンは両手を広げて、酋長の前に立つ。杖を手放し、無防備な状態だ。未知とセンテバもユンに倣い、武器を構えなかった。

「ゲイターは威嚇しなければ、何もしないの」

 蔓はユンの伸ばした手を絡め捕ることなく、背後に伸びてゆく。向こう岸とこちら側から伸びた無数の蔓は、川の真ん中で幾重にも絡み合う。太く絡み合った縄は、まるで一本の橋だ。

「ありがとう、橋を造ってくれたんだね」

 ユンは固まった蔓を撫でてあげる。最初に蔓の橋を渡り、異常がないかを確かめる。向こう岸に着くと手を振り、二人を促した。

 ――ユン、旅をとおして、罪を償うのですよ。
「酋長、みんな、ボク頑張ります」

 昨日まで、ボクは前が見えなかったかもしれないの。魔王の駒になってまで、お父さんを救いたいって。でも、心のどこかで分かっていた、魔界に連れ去られたら最期だってこと。魔王に手を貸すのは大罪だってことは知っていたけど、ヴァレンにボクのことを見てほしかったんだ。
 今のヴァレンは、あの時のボクと同じ。ヴァレンはひとりぼっちじゃないってことを気づいてもらいたいの。待っててね、ヴァレン。ボクはヴァレンを助けに行くからね。




 珍しく夢を見なかった。
 着ているシャツは乾いていて、シーツも乱れていない。隣に、見知らぬ女もいない。ここがあの男の城でなければ、もっと目覚めが良いはずだ。ベッドから降りて、俺はドアの方に行こうとした。

「なぜ、ここにあの鏡があるんだ……」

 目の前に、楕円型の大きな姿見がある。確か目が覚める前には、ここに鏡なんてなかった。鏡枠は付いていないが、一目で夢の中に出てきた忌まわしい儀式の鏡だと分かった。

 ――触ってみろ。

 不意に、あの男が俺に話しかけてきた。これは、夢じゃないはずだ。頬をつねって確かめようとしたが、無駄だと気づいた。夢なのか現実なのか、俺はどこをたゆたっているのか分からない。
 いや、何を恐れているのか。この鏡が俺を取って食べるわけがないじゃないか。鏡はあの男の魂を狙っているんだ。意を決して、人差し指で鏡面に触れた。

「……違う?」

 あの忌まわしい儀式のように、鏡面にどす黒い渦が巻くことはなかった。表面の冷たさを感じないにしても、何の変哲もない鏡だ。
 今度は手のひらで弧を描くように触れてみた。僅かに表面が曇るものの、俺の顔、髪、身体をそのまま映し出している。

「俺は死ななくていいんだ」

 充足感が身体を満たす。なぜか耳の奥にガラスが割れる音が蘇る。何かが割れる音が心地よく聞こえるようになったのは、いつからだろう。幼い時、親父が大切にしていた花瓶を割って罰が悪くなった時があったが、今は清々しい。
 これは、あの忌まわしい儀式の鏡と似ているが、どこか違う。あの鏡はなくなったんだ。もっと確かめよう。顔を近づけ、鏡面に頬を当てる。俺の顔が間近に見えるだけだ。俺はここにいる、死んでたまるか。

 ――これは、お前の鏡だ。

 気のせいか、鏡に映る俺が笑ったように見えた。


(第7章・終)


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