World > Africa > Congo

Artist

LES BANTOUS DE LA CAPITALE

Title

1963/1969


bantous63/69
Japanese Title

国内未発売

Date 1963/1969
Label SONODISC CD 36527(FR)
CD Release 1993
Rating ★★★★☆
Availability


Review

 現在、コンゴといわれる国は2つあって、ひとつはコンゴ民主共和国(旧ベルギー領コンゴ、ザイール)、もうひとつはコンゴ共和国(旧フランス領コンゴ)。前者の首都キンシャサ(旧レオポルドヴィル)からコンゴ川(ザイール川)をフェリーで約20分の対岸に、後者の首都ブラザヴィルがある。両者は兄弟都市といわれるが規模からするとキンシャサが圧倒。おのずとひとや物の流れはブラザヴィルからキンシャサへ向かった。

 ギリシア人、パパディミトリューが所有するレオポルドヴィルのレコーディング・スタジオ、ロニンギサと契約した“ネグロ・ジャズ”Negro Jazz のメンバーたちもコンゴ〜ブラザヴィリアンであった。
 ネグロ・ジャズは、ジョゼフ・カバセルのアフリカン・ジャズに刺激されて、55年はじめにブラザヴィルのクラブ、シェ・フェイノン Chez Faignondで、クラリネット奏者のジャン・セルジュ・エッスー Jean Serge Essous とサックス奏者のニーニョ・マラペ Jean Dieudonne'Nino'Malapet を中心に、シンガーのエド・ガンガ Edouard'Edo'Ganga とセレスティン・クーカ Celestin'Celio'Kouka らサッカー好きが集まって結成された。

 ロニンギサには、そのほかにもパーカッション奏者でエッスーの友人だったベン・パンディ Saturnin'Ben'Pandi、ギタリスト(のちにベースに転向)のドゥ・ラ・リュヌ Daniel'De La Lune'Lubelo というようにブラザヴィルから来た連中が大勢いた。かれらにコンゴ〜レオポルドヴィルからフランコ、ドゥワヨン、ロアトレ、ヴィッキー、ロシニョールらを加えたロニンギサの若きスタジオ・ミュージシャンたちは“バナ・ロニンギサ(ロニンギサの子どもたち)”と呼ばれ、多くはO.K.ジャズの中核メンバーになった。

 56年6月にO.K.ジャズが結成される直前と直後にロニンギサを辞めた連中、エッスー、マラペ、パンディ、ロシニョールらが新興のエセンゴ・スタジオに移籍して57年に結成したグループが“ロッカ・マンボ”Rock'a Mambo である。この伝説のグループの歌と演奏は、わたしが持っている範囲では、音楽研究家のジョン・ストーム・ロバーツのいまはなきレーベルORIGINAL MUSICから発売されていたコンピレーション"THE SOUND OF KINSHASA: GUITAR CLASSICS FROM ZAIRE"(OMCD 010)'MICKEY ME QUEIRO' というタイトルで1曲聴けるのみ。セプテート・ナシオナールなどのソンのスタイルに近く、同時代のアフリカン・ジャズやO.K.ジャズの演奏以上にキューバ色濃厚で渋いが個人的にはキライじゃない。このグループには当時17歳のパパ・ノエル 'Papa Noel'Nedule Montswet もギタリストとして参加している。



* その後、50年代の伝説的なグループを集めたコンピレーション"LES GROUPES CHOCS DES ANNEES 50, Volume1"(TBE/TRECK TM001)が発売された。これはアフリカン・ジャズとO.K. ジャズの最初期、両バンドのオリジナル・メンバーを含むビギン(ビゲン)バンド Beguin (Beguen) Band、フランコの兄貴分ドゥワヨンのグルプ・ドゥワヨン、後述のリコ・ジャズ、正体不明のダイナミック・ジャズと、ルンバ・コンゴレーズ黎明期の貴重な音源集。
 これらのなかにロッカ・マンボの演奏が4曲収められている(そのほかは各2曲)。作者にドゥワヨンの名があることから、かれもメンバーだったようだ。バンド名のとおり、マンボを意識したメレンゲ風の異色ナンバーもあるが、サウンド・カラーはバントゥにきわめて近い。完成度ではアフリカン・ジャズやO.K. ジャズの収録曲をしのぐ。(4.18.06)




 50年代も終わりに近くなるとアフリカ各地でいっせいに独立気運が盛り上がった。フランス領コンゴも例外ではなく、58年11月にはフランス共和国内の自治共和国として成立。
 ロッカ・マンボとしてレオポルドヴィルで活動を続けていたエッスー、マラペ、パンディだったが、そんな愛国心の高まりのなか、いても立ってもいられず、ついにブラザヴィルへ帰る決心をする。かれらは、O.K.ジャズにいたエド、セレスティン、ドゥ・ラ・リュヌにも声を掛け同意を得た。こうして59年6月、ブラザヴィルでオルケストル・バントゥ Orchestre Bantous が結成される。

 レオポルドヴィルでの契約が残っていたためにマラペの参加はなかったが、同年8月のシェ・フェイノンでの初コンサートはひとびとの熱狂をもって迎えられた。コンゴ〜レオポルドヴィルにくらべればコンゴ〜ブラザヴィルは市場が小さかったことから、かれらは国外ツアーへもさかんに出かけた。
 60年8月にコンゴ共和国として完全独立を達成するころには、マラペとパパ・ノエルがグループに合流し、いまや「オルケストル・バントゥが出演しない独立式典はアフリカにはない」といわれるほど、かれらの名声はまたたくまにアフリカ中に広まった。

 62年、エドとドゥ・ラ・リュヌが古巣のO.K.ジャズへ復帰のためグループを脱退。代わって、シンガーのジョジョ Joseph'Jojo'Bukassa とベース奏者のビチュウ Francis Bitshoumanou(この2人ものちにO.K.ジャズへ加入)が参加。そして、翌年には“パブリート”Pablito と自称するティーンエイジャー、イヴ・アンドレ・ムベンバ Yves Andre M'Bemba をメンバーに迎える。のちにバントゥの看板歌手となるパメロ・ムンカ Pamelo Mounk'a そのひとである。



 このころ、ブラザヴィルにはまだレコーディング・スタジオがなかった。そのため、バントゥの面々はレオポルドヴィルのスタジオを利用するほかなかった。そんなかれらに、ある日、ブリュッセルのフォニオール・スタジオでレコーディングしないかとのオファーが舞い込んできた。
 話を持ちかけたのは、アフリカン・ジャズのメンバーにして、商魂たくましいことで知られるロジェ・イゼイディ Roger Izeidi。かれらは二つ返事で話に乗ると、62年末から翌年にかけてわずか2週間半の滞欧期間で約50曲ものレコーディングをものにした。

 本盤前半の数曲(全16曲中すくなくとも最初の4曲)はそのさいのレコーディングから選曲されたもの。
 マラカスやコンガなどによって細かく刻まれる前のめり気味のラテン系リズムに、ギターやホーンズをからめつつ、コーラス主体の素朴でまろやかヴォーカルが淡々と進行していく。このムードは同時期のO.K.ジャズとよく似ている。このセッションにパメロはまだ参加していなかったようだ。

 バントゥ・サウンドの要として、マラペとともにホーン・セクションを担当していたエッスーは、もともとはサックスよりもクラリネットが専門だった。そのせいか、ジャジーなドライヴ感より、優雅で物腰の柔らかなプレイがかれの信条だった。本盤冒頭のエッスーの作品'TOKUMISA CONGO' ではかれのクラリネットがフィーチャーされているが、マルチニックのステリオを思わせるパリ・ビギン風の陽気でスウィートな響きは、この曲のタイトルである「おめでとうコンゴ」にふさわしい独立直後の祝祭ムードがよく出ている。
 エッスーによる、ルンバ・コンゴレーズにはめずらしいクラリネットの演奏は、残念ながら時代を下るにしたがって聴けなくなってしまった。それはコンゴ経済が下降線をたどっていったことと無関係ではない気がする。不況・不安の時代にこの音色は似つかわしくないのだ。

 バントゥのもうひとつの顔、ニーニョ・マラペの、肉声を思わせる生々しいテナー・サックスが堪能できるのが、ヴォーカルのセレスティンが書いたその名も'BANTOUS DE LA CAPITALE' という曲。シンプルなコーラスのリフレインの合間を縫って吐き出されるサックス・ソロは、エッスーのプレイとは対照的にうねるような腰の太さが感じられる。
 ちなみに、この曲はグループのテーマ・ソングだったが、当時はまだ“オルケストル・バントゥ”または“バントゥ・ジャズ”と名のっていて、“バントゥ・ドゥ・ラ・カピタル”を公式のグループ名に採用したのはこれより数年後の66年からという。

 エッスーとマラペのホーンズに負けず劣らず目立っているのがパパ・ノエルのギター。コンゴ〜レオ出身で当時23歳のパパ・ノエルのプレイには、ドクトゥール・ニコよりフランコに近い“ツヤ消しメタル”な感覚があり、年に似合わぬシブみの効いたジャジーなソロを聴かせてくれている。
 パパ・ノエルはこのレコーディング後にグループを脱退して、レオポルドヴィルに帰ると、ドクトゥール・ニコの後任としてカバセルのアフリカン・ジャズに加入する。78年にはフランコのTPOKジャズに参加。フランコとドクトゥール・ニコなき現在、ギターのヴィルチュオーゾとしてふたたび脚光を浴びていることは周知のとおり。

 わたしが最初のヨーロッパ行でのレコーディングは本盤前半の4曲程度と推定したのは、5曲目以降でギターのプレイ・スタイルが大きく変わるからだ。フランコ流のタイトなスタイルは、ドクトゥール・ニコ風のディレイを使ったモワーンとしたスペイシーなスタイルにとって代わった。

 パパ・ノエルが抜けたあと、バントゥはニコ、ドゥショーらのアフリカン・フィエスタ(スキサ)に対抗して、ジェリー・ジェラール'Gerry'Gerard Biyela、サンバ・マスコット Joseph Samba'Mascott'、ムパシー・メルマン Alphonse Mpassy'Mermans'からなる黄金のギター・トライアングルを築き上げた(ベースはタルールー Alphonse Taloulou)。とすると、ここに聴かれる流麗なギター・アンサンブルはかれらのしわざだろう。

 バントゥについてはわからないことだらけだけで、まったくの推測なのだけれど、ソロ、リズム、その中間の“ミ・ソロ”というルンバ・コンゴレーズ独自のギター分業制が完成されたのは60年代後半のこと。だとすると、タイトル にある'1963/1969'のクレジットを信じるなら、5曲目以降の12曲は69年発表ということになる。



 1963年と69年のあいだに、バントゥの身に大きな事件が起こった。リーダー、エッスーの脱退劇である。
 66年4月、かれらはセネガルのダカールで開かれた「ワールド・フェスティヴァル・オブ・ブラック・アーツ」にコンゴ〜ブラザヴィルを代表して出演した(コンゴ〜レオポルドヴィル代表はO.K.ジャズ)。かれらがグループ名を“バントゥ・ドゥ・ラ・カピタル”と改名したのはこのことがきっかけだった。

 フェスティヴァル終了後もしばらくセネガルに滞在したのち、コート・ジヴォワールのアビジャンに移動して、そこで1年間の契約にありつくことができた。ところが、あるとき、コンゴ政府からかれらのもとに独立記念式典に出演するよう帰国命令が届いた。グループはやむなく帰国の途についたが、社会主義路線に自由が制限され息苦しさを感じていたエッスーは、そのままパリへと発っていった。

 パリでエッスーはカバセルのアフリカン・チームに参加ののち、67年末、リコ・ジャズの正式メンバーとなって、はるかカリブ海は仏領アンティル諸島マルティニークに渡る。当初はクリスマス期間のみの予定が、好評により結局5年近くも滞在することになった。この間、かれらはグァドループのスタジオでレコーディングもおこなっている。その一部が現在、英国のレーベル、レトロアフリークがリリースしたCD"RY-CO JAZZ / RUMBA'ROUND AFRICA"(RETROAFRIC RETRO10CD)で復刻されている。

 たたずまいは、ルンバ・コンゴレーズというよりもハイチやドミニカ共和国あたりのカリビアン・ミュージックに近い。ビギンと表記されている'SI I BON DI I BON' のスピーディなノリは後年のズークを思わせたりもする。ただし、なかにはカバセルの'MARIE JOSE' のようにアフリカン・ジャズ風の演奏もある。

 ところで、アフリカン・チームが70年末にレコーディングしたムジョスの曲で'ESSOUS SPIRITOU' というのがある("GRAND KALLE & L'AFRICAN TEAM / 1967・1968・1970" (SONODISC CD 36543))。これは、故郷から1万2000キロ彼方の仏領アンティル諸島にあって郷愁に浸るエッスーの心情を歌に託したもの。この曲が発表されてまもなく、エッスーはパリへ帰還。71年はじめにコンゴ〜ブラザヴィルへ帰国すると、バントゥへの復帰を果たす。



 さて、パリに失踪したエッスーに代わって、マラペを新しいリーダーにいただいたバントゥは相変わらず高い人気を保っていた。67年には21歳の若手シンガー、コスモス Come 'Kosmos' Moutouari が新加入。甘い歌声と端正なマスクを兼ね備えたコスモスはパブリートとともにたちまちバントゥの花形となった。

 ところで、こんにち、欧米でコンゴ・ミュージックをあらわすのに用いられる“スークース”'soukous' の名称は、66年にブラザヴィルのグループ、オルケストル・シンザ Orchestre Sinza が自分たちの新しいダンス・スタイルをこう呼んだのが最初とされている。そして、シンザの“スークース”は65年にバントゥがはじめた“ル・バウチャー”'le boucher' のヴァリエーションだといわれる。つまり、バントゥこそ“スークース”の生みの親だと。

 しかし“ル・バウチャー”が、従来のルンバをよりアフリカナイズしダンサブルに仕立て直したものだろうということぐらいは想像つくが、どれがそれにあたるのかまったくわからない。
 68年に大ヒットしたパブリートのナンバー'MASUWA'"LES GRANDS SUCCES DES BANTOUS DE LA CAPITALE VOL.5"(ANYTHA NGAPY/GLENN GANCD15)収録)は、“ル・バウチャー”を発展させた“スークース・キリ・キリ”'soucous-kiri-kiri' だというが、いったい、これのどこがそれまでのナンバーとちがうというのか!?わたしにわかるのはただひとつ。バントゥのダンスは、熱狂的なオルギーではなくて、反復的なたゆたいからジワジワと沁みてくる眩暈のようなエクスタシーを煽るものであったということだ。

 バントゥのつかみどころのなさは、基本はオーセンティックなルンバ・コンゴレーズでありながら、それらのなかにリアル・キューバ調だとか、ファンク調、ブルース調などといった異色作がちゃっかり混入されているところから来ている。かれらの音楽は「ラテンからR&B、ロックへ」というありがちの単線的な進化論では割りきれないのだ。

 そんなかれらの特性がもっともよく表れているのが"MAKAMBO MIBALE"(AFRICAN/SONODISC CD 36592)。リリース年のクレジットがないので確証はないが、作者にエッスーの名まえがあることから70年代はじめからなかばにかけての録音を集めたものだろう。

 曲によってギターがフランコ風であったりニコ風であったりするのは序の口。サンバ・マスコットの手によるシングルのAB面にまたがる約11分の長尺曲'MARIE-JEANNE 1&2' にいたっては、アフリカの伝統音楽にアプローチしてみたり、ロックのラフでゴツゴツした感覚をとりいれてみたりとあきらかにザイコ世代を意識した演奏内容。そうかと思うと、'KUMBELE-KUMBELE' はこの時代としてはめずらしいストレートなアフロ・キューバン。そして、きわめつけはサンバ・マスコットが書いたラストの'LOIN DU CONGO'。めずらしくインスト仕立てで、ギターとサックスがガチンコでブルースにチャレンジしている。
 しかし、どんな変化球であっても、かれらの手にかかればすべてサマになってしまう。うわついたところがないのだ。これは、かれらがしっかりした音楽性と技能を身につけていたればこそ。アルバム・タイトルにもなっているコスモス作の'MAKAMBO MIBALE' は、そんなかれらの才能が遺憾なく発揮されたルンバ・コンゴレーズの傑作といえる。

 "MAKAMBO MIBALE" ほどではないが、本盤にもいくつか異物混入の痕跡が認められる。たとえばマラペのナンバー'GIGI' では、全体にラテン色の濃い本盤にあって唯一ドラム・キットが使われている。ために音楽に締まりが出て、よりポップに仕上がっている。おなじくマラペが書いた'MARIA LINDA' は、タイトルからも想像がつくようにキューバのグァグァンコーをつよく意識した陽気な歌と演奏。

 それにしても、コスモスが書いた'MAYIPE' とつづく'MON COEUR EST OCCUPE' のたとえようのない美しさは何なんだ。哀愁含みのコスモスのスウィートな歌声がジワジワと心に沁みわたってくる。これらにかぎらず、本盤にはさしあたり捨て曲は見あたらず、聴けば聴くほどに良さがわかってくる名演ぞろいといえよう。

 本盤とほぼ同じ60年代末から70年代はじめにかけてのレコーディングを収めたと思われるのが"ROSALIE DIOP"(AFRICAN/SONODISC CD 36569)。全5集からなるベスト盤"LES GRANDS SUCCES DES BANTOUS DE LA CAPITALE" では"VOL.2"(ANYTHA NGAPY/FDB 300023)がその時期にあたる。ともに充実した内容だが、メリハリの点で本盤にやや軍配か。



 ところで、初代リーダー、エッスーの復帰は、スターぞろいのバントゥの人間関係に大きな影響を与えた。そして72年、ついにグループは3つに分裂してしまう。セレスティン、パブリート改めパメロ、それにコスモスのシンガー3人は、それぞれの頭文字をとって“トリオ・セパコス”Trio CEPAKOS を結成。エド、ムパシー・メルマンらは、フランコのサポートを得て“レ・ンゾイ”Les Nzoi を結成した。

 グループに残ったのは、エッスー、マラペ、パンディ、ジェリー・ジェラールらだった。このとき、新たに加わったメンバーのなかに、シンガーのテオ・ブレイス・クンク Theo Blaise Kounkou とチノ・チカヤ Pambou'Tchino'Tchicaya がいた。
 テオはのちにサム・マングワナらとアビジャンでアフリカン・オール・スターズを結成。その後、パリに渡って成功を収める。これをきっかけに80年代にはいるとパメロやチノもパリへ渡りやはり成功を収めている。

 相次ぐスターたちの脱退にもかかわらず、バントゥはベテランと若手がしっかりスクラムを組んでクオリティの高い音楽を作り続けた。この時期のかれらの歌と演奏は、"BANTOUS DE LA CAPITALE 1974-1976"(AFRICAN/SONODISC CD 36584)"LES GRANDS SUCCES DES BANTOUS DE LA CAPITALE VOL.3"(ANYTHA NGAPY/GLENN GANCD12)などで聴くことができる。

 前者は、バントゥのCDなかではもっともロック・バンドっぽい質感をもつ。ドラム・キットが本格的に導入され、シャープでキレのよいギターといい、ファンキーなホーン・セクションといい、サウンドのカッコよさではバントゥのアルバム中随一。緻密な構成と適度な野蛮さを兼ね備えていて、カラーとしては70年代後半のTPOKジャズかオルケストル・ヴェヴェに近い気がする。
 なかでもヴォーカルとコンガとの熱いコール・アンド・レスポンスではじまる本格的なグァグァンコー'EL COCO' は、トレスを意識したギターといい、黒いコクがぎっしり詰まった演奏内容で、キューバ音楽好きなら悶絶卒倒すること疑いなし。いうことありません。最高です。アフロ・ビートが好きなひとにもおすすめします。ただ、このアルバム。とっくに廃盤で、わたしもようやく手に入れたシロモノなので、涙を呑んでピックアップを見送った次第。

 73年から75年の録音からなる後者のなかに、キューバ音楽のスタンダードをメドレーでつづる'EL MANISERO / MAYEYE' という9分30秒近くに及ぶナンバーが収められている。「南京豆売り」「ソン・デ・ラ・ロマ」「ティリビリン・カントーレ」「グァヒーラ・グァンタナメーラ」など、おなじみのメロディが次々と現れては消えまた現れるスリリングな構成のすばらしさもさることながら、オスカール・デ・レオーンをほうふつさせる高音でバネの効いた伸びやかな歌いっぷり(歌手は不明)は、本場のソネーロに一歩も引けをとっていない。アフリカ人が演じたキューバ音楽の最高峰のひとつといっていいだろう。

 78年、ハバナで開催される世界青年祭にバントゥが国を代表して派遣されることが決まった。これを機にバントゥのファンを自認していたオパンゴ大統領はメンバーの再結集を要請。パメロとエドがこれに応え、ふたたびバントゥはひとつになった。
 しかし、このころになると社会主義政策が失敗して、国内経済は完全に破綻。かつてあれほど活発だったコンサートやレコーディングの機会はますます少なくなり、ついには楽器などの機材の調達やメンバーへのサラリーの支払いさえ事欠くようになった。
 81年に看板スターだったパメロが脱退してパリへ逃避するに及んで、グループは完全に機能不全に陥ってしまった。"LES GRANDS SUCCES DES BANTOUS DE LA CAPITALE VOL.4"(ANYTHA NGAPY/GLENN GANCD14)の収録年が76年から80年とあるのは、グループが80年をもって事実上活動停止してしまったことを物語っている。



 “コンゴの至宝”ともいうべき名門グループがこのような状態にあるのを見かねて救いの手をさしのべたのがブラザヴィル市助役のジャン・ジュール・オカバンドであった。86年、かれはバントゥ再生のためのプロジェクト会議を召集。メンバーたちには市より新しい楽器が提供された。そして、6年ぶりにパメロが復帰し、マラペに代わってグループのリーダーにおさまった。

 フランスのソノディスクから2集にわたって発売された"PAMELO MOUNK'A ET LES BANTOUS DE LA CAPITALE / LES MERVEILLES DU PASSE" には、86年のレコーディングが収録されている。わたしが持っている"LES GRANDS SUCCES DES BANTOUS DE LA CAPITALE VOL.5" は、(バントゥにおける)パメロのヒット曲集になっていて、収録曲は2枚のソノディスク盤ですべて復刻済み。曲調や録音状態からして終盤の3曲が86年ぽい。パリ・リンガラの洗礼を受けてライトにきらびやかに生まれ変わったサウンドは、それなりによくできているが、これはもうバントゥではなくパメロの音楽だ!

 グループ結成30周年の節目を翌年に控えた88年末、エッスーは重い病気にかかりパリで療養することになった。グループの精神的な支柱がいなくなったことでグループの志気は低下し、89年またもや分裂。ニーニョ・マラペを残して、パメロ、エド、セレスティン、ムパシー、ジェリー、タルールーのコア・メンバーは、新グループ“バントゥ・モニュメント”Bantous Monument を旗揚げする。かれらの演奏は"AMOUR ETERNEL GARE AU BARATIN"(SONODISC CDS7005)のタイトルでCDリリースされている(持っていないので演奏内容はわからず)。

 しかし、バントゥ・モニュメントも、93年、リーダーのパメロの糖尿病が悪化したことで活動停止に追い込まれる。そして、96年、かれはブラザヴィルで世を去った。
 そして、エッスーはというと、93年はじめ、療養先のパリから約4年ぶりにブラザヴィルへ帰国。さっそくバントゥの再編に着手しようとしたが、東西冷戦終結後、混迷をきわめる国内の政治情勢がそれを許さなかった。
 バントゥの歩みはコンゴ〜ブラザヴィルの歩みそのものであった。国のシンボルさえ成り立たないところに明るい未来など描けようはずがない。いつかバントゥが復活し、コンゴ共和国がふたたび希望を取り戻す日を待ち望みたい。



* バントゥの音楽は、文中とりあげたほかにも"BAKOLO MBOKA"(SONIMA/NGAPY SM1146)や何枚かのコンピレーションに収録されていて、それなりに復刻されてはいる。しかし、それらの大多数が現在、廃盤か品切れ状態にある。試みにamazon.co.jpで'BANTOUS'を検索してみたところ、11件ヒットしたうち、情けないことにPヴァイン発売のオムニバス『ザ・シュライン・プリゼンツ・アフロ・ビート』以外はすべて在庫切れとあった。とくにO.K.ジャズが好きなひとは、あとになって後悔しないためにも一刻も早く入手すべきだろう。

* ブラザヴィルのGROUPE ANYTHA NGAPYが製作したシリーズ"LES GRANDS SUCCES DES BANTOUS DE LA CAPITALE" は、かつてパリに拠点を構えるリンガラ系音楽のレーベル FLASH DIFFUSION BUSINESS から全4集で発売されていた。ところが、FDBはつぶれてしまったため、GLENNから新たにパメロ作品集の第5集が追加されて再発された。わたしは第2集以外はすべてGLENN盤で持っている。そのため、背景色や書体など表紙のデザインがオリジナル盤とちがっている。

SPECIAL THANKS TO DAVID CLIFFORD ( He sent me the CD "BANTOUS DE LA CAPITALE 1974-1976" )


(9.23.04)



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by Tatsushi Tsukahara