第45回尾張古代史セミナー 猷々自的
古墳分布からみた古東山道
伊藤教授、美濃のルート推定
平成14年度2回目の第45回は、2002年7月7日に南山大学の伊藤秋男教授を迎えて
開かれた。「古墳分布からみた古東山道」と題し、古墳の配置から考えた美濃地方の古東山道の推定ルート
と古代の道路工法である波板状の遺構について話した。
瑞浪の中街道が古東山道
伊藤教授は、古墳と道路の関係について、20年ほど前に岐阜県瑞浪市の陶磁資料館の学芸員をしていた
ときにアイデアを持った。1960年代の古墳台帳のデータ(163基)を確認したいと思って、
1988年から89年にかけて現地踏査をした。この結果、20基ほど増え184基を確認した、と切り出した。
瑞浪市内には上街道、中街道、下街道の3本の重要な道路が走っている。上街道は山の尾根を伝っていく
江戸時代の中山道、下街道は国道19号線で、江戸時代は伊勢街道ともいっていた。古墳はどこに
分布しているか、というと市街地を通る19号線沿いと、中街道沿い。中街道は可児から本郷、宿を通って
釜戸で下街道と交わる。この中街道沿いは、集落はまばらだが、古墳が密集する、と語る。
古代の東山道は、律令時代の東山道に対して「古」をつけて違いを示すが、
「中街道が古墳時代の古東山道ではないか」と伊藤教授は推論する。
東山道は二番目に重要な官道
東山道は、平城京から東北へ抜ける官道。律令時代、養老律令が出される718年までに7つに分けた
行政区に通じる山陽道、東海道、東山道、山陰道、北陸道、西海道、南海道の7街道が整備された。
中でも最も重要なのが大宰府に通じる山陽道。二つ目に重要なのが東山道であった、と話す。
さらに7街道は、お上専用の道路だった。官用の通信、税の徴収に使った。一般の人が簡単に使える道路では
なかった、と説明する。
伊藤教授は、律令時代の7街道には先行形態の道路があったのではないか、と考える。そして、こうした
7街道は初めから造ったのではなく、古墳時代にあった道を修復、修築、拡幅した部分が、かなりあった、
とする。古墳があるところには人が住んでいた。人がいれば道は必要である。古墳が分布する地域を結び付け
ていけば、街道が復元できるという方法論で研究してきた、と話す。
釜戸を抜けた後は土岐川を渡る
そして、古墳時代の美濃地方全体の古東山道を次のように推定した。
大垣市赤坂から、大野町の上磯古墳群(亀山、北山、南山古墳)につながっていく。そして、
宗慶大塚古墳(真正町)から岐阜市の鷺山に入っていく。この後は長良川の大氾濫地帯で路線は分からない。
岐阜市長良の雄総、琴塚古墳を通って各務原へと抜けていくのではないか。その後、木曽川の河岸丘陵の上を
這うように東に抜け、犬山から木曽川を南へ渡り、善師野辺りから可児へと山の中を通っていく。
可児の古墳群(野中、長塚、西寺山、白山・御嶽古墳)を通って御嵩(中切古墳あたり)に入る。
美佐野から瑞浪の中街道に入り、本郷、宿を通って山越えをして釜戸へ抜け、土岐川を南へ渡る路線を考え
ている。平山(383メートル)を越えて、恵那市三郷町佐々良木から東野を通って中津川の千旦林へ。そこから伊那谷へ抜けていく。
このルートについて、証拠があるわけではないが、信憑性がある考え方である、と語る。
黒坂さんは文献史学から東山道を推定
合わせて、文献史学の立場で、美濃国の東山道ルートを推定した黒坂周平さんの実証的研究を紹介した。
黒坂さんは、東山道のことを「せんどう」(仙道、先道、山道)と呼んでいたことに着目、そうした地名の残る
ところを歩いて調査、地図に落としていき、東山道のルートを推定した、と話す。
黒坂さんは根尾川を渡って真正町の政田に仙道、北方町の仏生寺にも仙道、その東の方に仙道と先道を確認。
岐阜市に入って木田、鷺山に仙道を確認されている。ここを東山道が通った。明治末の地図を見ても、根尾川
から伊自良川の間で、仙道、先道が確認されたところを重要な道路が走っている。歴史時代の東山道、
古墳時代の古東山道そのもの、あるいは近いものではないか、と伊藤教授。
真正町に道路の維持管理者の古墳
さらに、揖斐川と根尾川が交わるように合流してくる三角形の真ん中に三つの古墳がある。
大野町の上磯古墳群である。平坦な部分にある古墳。こういう地形から考えると、大野の厩、宿駅があった
ところではないか。この辺りは河川大氾濫地帯で、道路の維持管理は大変だったと思う。道路の維持管理に
当たっていたと思われる古墳が一つある。真桑村、現在の真正町に全長74メートルの前方後円墳、
宗慶大塚古墳がぽつんとある。こういうあり方は道路維持管理の使命を担った人がいた、
と考えればおかしくない、と話す。
重要な道路に沿いには古墳があった。大垣市の花岡山古墳、長塚古墳、岐阜市の龍門寺古墳、各務原市の
一輪山古墳、犬山市の東之宮古墳、可児市の野中古墳と大垣から、恵那の大井辺りまで、大和王家との関連で
最も重要だといわれる三角縁神獣鏡が、私が推定する古墳時代の東山道沿いにへばりつくように発見されて
いる、と続ける。
御嵩町顔戸南遺跡から波板状遺構
ここから、だんだんと二つ目の問題に入っていく、と前置き。御嵩町顔戸南遺跡の南側を名鉄広見線が走り、
北側は山で、国道21号線が山肌を縫うように走っている。南側は可児市の山が迫っている。その間は700
メートルしかない。東山道が通っていたのはここしかない。岐阜県文化財保護センターが実施した御嵩町
顔戸南遺跡と続く可児市柿田遺跡の発掘調査で全域を掘ったが、東山道の遺構は出なかった。
ここから発見されなかったということは、堀残した名鉄広見線が東山道である、と断定して会場を沸かせた。
可能性は高い。名鉄は、江戸時代の重要な通路に線路を敷いている。そして、奈良時代の条理の坪境か里境と
広見線の線路がピシャリと合っている、などと付け加えた。
岐阜県文化財保護センターによる顔戸南遺跡の調査で、洗濯板のような波板状のでこぼこがあるところが
一直線上に確認された。特に踏み固めた硬い部分の下に波板状の遺構があった。道路に関係して、
この遺構が部分的に出る。特に、718年に完成した7つの街道を調査すると確認される。穴を掘ったすぐ
上が踏み固めてある。川砂をまいたりして意図的にやっている。この硬化面を掘っていくと、波板遺構が
確認された。長さ16メートルにわたって、幅から2.5から3メートル、深さは10か20センチまで
いかない溝が横並びに押されてあった。硬化面に付随する波板遺構は、あちこちで発見されているが、
用途がさっぱり分からない、と話す。
廃品の網代、蔀戸を護岸に再利用
また、東海環状自動車道インターチェンジ建設に伴う柿田遺跡の発掘調査が、今年3月に終わったが、
網代、蔀戸の廃品が護岸工事に二次利用されているのを岐阜県文化財保護センターが確認した、
ことも明らかにした。
続いて、静岡県の東静岡駅再開発に伴う調査で分かってきたことだとして、安倍川の扇状地にある
曲金北遺跡で、弥生の後期から古墳にかけて200年間作り続けられた水田遺構の上層から東海道の遺構が
確認された。復員が12メートルで、深いところで50センチ、幅が1.5から2メートルの溝を両側に
備えていた。よどみ部分。少し湿っぽい、足形が付く程度のところがある。そのよどみ部分を調査したら、
20メートルにわたって波板遺構が発見された。よどみ、波板がキーワード。軟弱地盤と波板遺構がセット
になっている、と力説。
軟弱地盤で施された古代の土木工事
東京の国分寺では、東山道から枝分かれして武蔵国の国衙に行く幅員12メートルの「武蔵道」の遺構が
見つかった。ここでも硬化面のところで波板上遺構が確認された。千葉市赤井町の榎作遺跡は、古墳後期を
中心とした弥生から奈良、平安に至る集落跡であった。北と南の集落が分断されている。北、南の集落とも
標高30メートル。真ん中が1メートルくらい低くなっている地形。この低いところに道路が走っている。
ここからも波板遺構が発見された、と続ける。
そして、波板遺構の上に乗った層が最も固い。それを掘ると波板状遺構が出る。じめじめするところを
どのようにして乾燥させるか。昔の人の知恵は、どういうことを考えたか。私は講演の2時間前に思いついた。
溝を掘って畝を作る。畝になった高いところが速く乾燥する。毛細現象で水を吸い上げ、山の部分が早く乾く。
波板遺構は軟弱地盤で施された古代の土木工事の跡である、と自身の考えを披瀝。ほかに考えがあったら、
教えてほしいと聴講者に協力を求めた。
©2002 Yuusuke Niinomi
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