第44回尾張古代史セミナー 猷々自的
近江と大和を結ぶもう一つの道
兼康保明さんが取り上げる
平成14年度の第1回に当たる第44回が、2002年6月2日に開かれた。講師は滋賀民俗学会の兼康保明理事。
「近江と大和を結ぶもう一つの道」と題して、あまり知られていない大和と近江の内陸部である湖東を結ぶ
古道を取り上げた。この道は平城京と紫香楽宮を結ぶ恭仁東北道の湖東への延長道で、古代から中世まで
生活に密着した道として利用された、との見解を示した。そして、この道に江戸時代に全盛期を迎える
近江商人の萌芽を求めた。
聖武天皇が恭仁東北道を整備
兼康理事は、「古墳時代からは外れるが」と前置きし、奈良時代、天平12年(740年)に勃発した
藤原弘嗣の乱を契機に、聖武天皇が平城京を離れて山城に恭仁(くに)京を開く。続いて近江の紫香楽
(しがらき)に離宮を設け、恭仁東北道を整備するところから、この道の意義を解きほぐしていった。
聖武天皇が、不便と思われる紫香楽に都を持っていこうと考えた理由について、
交通の要衝としての動きやすさを挙げた。恭仁東北道は起伏がない。紫香楽から北東に行くと、
また起伏なく野洲川に出られる。上流なので、川幅が狭く簡単に渡れる。野洲川へ出れば東海道・東山道に
ジョイントできる、というのが論拠。
近江の湖東内陸部につながる
また、紫香楽から甲南を経て、東海道と交差する水口から北の方にいくと、日野に出る。
さらに琵琶湖の方向にまっすぐ歩いていくと、蒲生に出る。日野・蒲生は、白鳳時代に大和朝廷が
百済滅亡による亡命者を移住させたといわれる地域で、恭仁東北道の延長線上にある、と話す。
この甲南、水口、日野町の鈴鹿山ろく側では、発掘調査の結果、古代から中世に移る12世紀の終わり
(源平合戦)のころから13世紀始めごろまで、瓦器(がき)と呼ばれる椀を使っている。滋賀県全体では、
内面が黒い黒色土器椀が多く、瓦器椀だけを使っているのは、この地域に限られることから、
同じ瓦器椀を使っている奈良をはじめとする近畿の影響が考えられる、として演題の道を介した近畿との
結びつきを強調した。
瓦器椀が大和方面から伝わる
この中で、瓦器椀は全体が真っ黒で、薄くて軽い。内面は瓦のように銀色に光っていて、たたくとキーン、
キーンという音がする。これに対し、黒色土器椀は、中だけが真っ黒で厚ぼったくて重い。できも悪い。
たたくとボコン、ボコンという音がする、などと両者の違いを説明した。
瓦器椀には瓦を焼く窯でいぶす技術が使われている。近江では、平安時代から焼かれていた瓦が
9世紀を境に生産されなくなる。10世紀ごろから屋根を桧皮で葺くようになったからである。
それに合わせて、大和、山城、摂津、河内で使われていた瓦器椀製作の技術が近江に流入してくるという
構図が明らかにされた。
日野・蒲生に多い立派な石塔
瓦器椀を使わなくなった、13世紀中ごろから14世紀にかけては、田岡香逸著「近江の石造美術」
(昭和51年)のデータを基に、石造品の宝庫といわれる近江の中でも、手の込んだ立派な石造品が湖東の
日野、蒲生に集中する点に注目。「墓石を考えてもらえば分かる。石造品を作るには金がかかる」と話し、
この地方に財力のある人たちのいたことを示した。そして、この財力の源を商業活動に求めた。
その理由として、この地域は古代の寺院跡や前方後円墳があるわけでなく、有力な豪族もいなかった。
しいて言えば木材の産地で、百済の亡命者をまとめて住まわせるほど開拓されていなかった地域である。
そうした古代は条件の悪かったところで、中世になると、贅沢な石造品が作られる。
道を利用した商業活動を考えざるを得ない、とした。
江戸期に活躍する近江商人の発生
広い道でものを運ぶほかに、今で言う小商い的な道があってもいい。その道が奈良から恭仁京、紫香楽宮を
通り湖東内陸部に通じる道である。小商いは天秤棒一本で峠を越えて商売をする近江商人に結びつくことから、
近江商人の発生をこの道に関連付けた。
さらに、この道の周辺には修験道の霊場があり、行者が行き来した山の上の道があった。行者は情報の
伝達者である。また、印を結ぶ、九字を切る動作を通じて行者と忍者の類似性を説き、各地の情報が集まる道で、
商人の活動に貢献したとの考えを示した。
徳川幕府の政策で消える
こうした交通、情報の拠点も江戸時代になったとき、徳川幕府の政策で水口は城下町となり、
日野・蒲生に勢力を持っていた蒲生氏が近江から外に出されることによって、古い伝統が消え、
古代から中世へ脈々として受け継がれてきた道沿いの文化、流通が姿を消した、と締めくくった。
©2002 Yuusuke Niinomi
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