World > Africa > Democratic Republic of the Congo | ||||||||||||||||
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Artist | ||||||||||||||||
BAVON MARIE MARIE & LES NEGROS SUCCES |
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Title | ||||||||||||||||
VOL.1: LIBANGA NA LIBUMU |
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Review |
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60年、ベルギーのブリュッセルで開かれたコンゴ独立のための円卓会議に、ジョゼフ・カバセル率いるアフリカン・ジャズが同行した。カバセル、ニコ、ドゥショー、ロジェらのコア・メンバーに加えて、ライバルのO.K.ジャズから歌手のヴィッキー・ロンゴンバとリズム・ギターのブラッツォがメンバーとして随行した。帰国後、ブラッツォはO.K.ジャズに復帰したが、ヴィッキーのほうはフランコとのわだかまりから戻ることなく新グループを結成した。ネグロ・シュクセ Negro Succes である。 メンバーはヴィッキーを筆頭に、O.K.ジャズからギタリスト“ボーレン”Leon 'Bholen' Bombolo と歌手“ジェスキン”Hubert 'Djeskin' Dihunga (のちにソウルフルなトリオ・マジェシを結成。近年はケケレの中心メンバーとして活動)、アフリカン・ジャズからサックスのアンドレ・メンガ Andre Menga。そのほか、歌手“ガスピー”Gaspard 'Gaspy' Luwowo、ベース“ル・ブルン”ことアルフォンソ Alphonse 'Le Brun' Epayo、パーカッション“サミー”Samuel 'Samy' Kiadaka、リズム・ギターはオルケストル・バントゥを辞めたジャン・ディノス Jean Dinos という顔ぶれ。 しかし、62年、ヴィッキーが仲間を見限ってO.K.ジャズに復帰してしまう。リーダーの脱退で低迷がつづいたかれらのもとに64年、ひとりの若き救世主が加入した。フランコの弟でリード・ギターのバヴォン・ションゴ Bavon Siongo、“バヴォン・マリー・マリー”'Bavon Marie-Marie' である(O.K.ジャズのレコードを聴くと、歌詞の'marie'の部分を「マリー」でなく「マリエ」と発音しているので正しくは「マリエ・マリエ」かもしれない)。 フランコは、妹のマリー・ルイーズともども、この6歳年下(1944年生)の異父弟をたいそう可愛がった。バヴォンが学生の身でクラブに出演しているのを知ったときも、オーナーにたいし「弟は学業に専念させたい。かれをミュージシャンにするつもりはない」と出演辞退を申し出たほど。 しかし、カタギにさせようという兄の願いもむなしく、バヴォンもミュージシャンになる道を選んだ。いったんそうと決まれば、フランコはテクニックの指導から楽器の提供まで弟を全面的にバックアップ。兄直伝のギター・プレイに加え、顔をワックスで真っ白に塗りたくってマイケル・ジャクソンみたいになった奇抜なルックスで若い世代から絶大な支持を受けて、ネグロ・シュクセは人気グループの仲間入りをした。 かれらの演奏は、これまでに単独盤としては以下の5枚が復刻されている。 (1) BHOLEN & BAVON MARIE-MARIE NEGRO SUCCES / MABE YA MBILA (AFRICAN/SONODISC CD36575)12曲 (2) LE NEGRO SUCCES DE BHOLEN & BAVON MARIE-MARIE / LUCIE TOZONGANA - NELLY NA PLACE NA NGAI(AFRICAN/SONODISC CD36583)15曲 (3) SIONGO BAVON MARIE-MARIE & L'ORCHESTRE NEGRO SUCCES / 1967, 1968, 1969 (NGOYARTO NG023)8曲 (4) BAVON MARIE MARIE ET LE NEGRO SUCESS VOL.1(GEFRACO CD009)? (5) BAVON MARIE MARIE ET LES NEGROS SUCESS / VOL.1 - LIBANGA NA LIBUMU(ESSELTA/ATOLL ESS2044)10曲 - 本盤 (15) BAVON MARIE MARIE / FOREVER VOL.2(ESSELTA/ATOLL ESS2051)10曲 そのほか、(知るかぎり)つぎのコンピレーション盤に収録。カッコ内は、収録曲がダブるアルバム(筆者が持っていない(4)を除く)のナンバーと曲数。 (6) COMPILATION MUSIQUE CONGOLO-ZAIROISE VOL.I(AFRICAN/SONODISC CD36504)2曲((3)(12)に2曲) (7) COMPILATION MUSIQUE CONGOLO-ZAIROISE VOL.II(AFRICAN/SONODISC CD36507)2曲(なし) (8) COMPILATION MUSIQUE CONGOLO-ZAIROISE VOL.III(AFRICAN/SONODISC CD36510)6曲(なし) (9) SUCCES DES ORCHESTRES DU CONGO-ZAIRE DES ANNEES 60/70 (SONODISC CD36540)3曲(なし) (10) COMPILATIONS ORCHESTRES CONGOLO-ZAIROIS 1967/1968/1970/1974(SONODISC CD36537)4曲((1)(2)(5)(12)に3曲) (11) MERVEILLES DE PASSE 1957-1973「コンゴからザイールへ〜ザイール音楽の魅力を探る(1)」(AFRICAN/SONODISC CD36501/オルター・ポップ WCCD-31009)1曲((3)に1曲) (12) LA BELLE EPOQUE -FULL OPTION- VOL.1(R.B.M.2004 no suffix)2曲((5)(6)(10)に2曲) (13) LA BELLE EPOQUE -FULL OPTION- VOL.2(R.B.M.2004 no suffix)2曲((2)に2曲) (14) EAST OF AFRICA - PIONEERS OF AFRICAN POPULAR MUSIC(DAKAR SOUND DKS 018/CNR 2004241)5曲(なし) 一部のコンピレーション盤以外はリリース年がはっきりしないので推定によるほかないが、全曲がバヴォンの加入後、さかのぼってもせいぜい66年から70年までの5年間とみていいだろう。 ネグロ・シュクセはよく、O.K.ジャズら古い世代とザイコ・ランガ・ランガら新しい世代との橋渡しの役目をはたしたといわれる。ところが、じっさいの音はおなじ時期のO.K.ジャズととてもよく似ている。 バヴォンはO.K.ジャズの正式なメンバーではなかったが、ときには兄の代わりにO.K.ジャズのリーダー役を任されることもあったという。CDにもLPにも未収録の'JOHNNY YUMA' をはじめ、バヴォンとO.K.ジャズの名義で発売されたEPがいくつか存在する。だが、エウェンズの'CONGO COLOSSUS' によると、これらはバヴォン追悼の意味でのクレジットにすぎず、じっさいにギターを弾いているのはフランコらしい。 そのこととは別に、フランコとバヴォンはたしかにいっしょにレコーディングをおこなったとの証言もある。残念ながら、これらはデモであって、レコードになったのはバヴォンの死後、フランコによって再レコーディングされたものだという。 このように、フランコとバヴォンの共演は公式な記録としては残されていない。しかし、ふたりがミュージシャン同士としてひんぱんに交わり刺激し合っていたのはまちがいない。 69年、JBのキンシャサ公演をきっかけにR&Bが大ブームになった。フランコはJBの音楽にあまり感心しなかったようで、かれのダンスを「サルのようだ」と軽蔑していた。そのくせ、このころに発表された'KOUN KOUE! EDO ABOYI NAGAI'("1968/1971"AFRICAN/SONODISC CD 36529 収録)では、ファンク調のリフやらJBをまねたシャウトがしっかりとりいれられている。 ところで本盤最大の注目曲に、8分25秒におよぶバヴォンが書いた'LIBANGA NA LIBUMU'((3)のンゴヤルト盤ではパート1と2に分かれていて演奏時間の合計が9分58秒)がある。フランコの'KOUN KOUE! EDO ABOYI NAGAI' とおなじくJBカラーで彩られたルンバ・コンゴレーズで、ほとんど同時期のリリースとみていいだろう。 シングルではAB面にまたがっていたこのネグロ・シュクセ最長曲の後半セベン・パートで、しきりにシャウトをくり返し演奏をグイグイ引っぱっているのがバヴォン。フランコのナンバーよりも格段にR&B色つよくヘヴィでよくこなれている。 これらのことから総合して、R&B信奉者ではなかったフランコにこれをすすめたのはバヴォンだったとみる。ネグロ・シュクセの音楽はO.K.ジャズに“激似”といったが、ことR&B路線にかんしてはフランコのほうがバヴォンにならったと思う。 ネグロ・シュクセの悲劇は、O.K.ジャズの強い影響を脱して独自の路線を切り拓いていくきっかけをつかみながら、その刹那にバヴォンを交通事故で失ったこと。バヴォンの死後、フランコはR&B路線にあっさり見切りを付けてしまった。 ネグロ・シュクセの個性とは、すなわちバヴォンそのひとだった。だが、じっさいのリーダーはリズム・ギター担当のボーレン。だから、ネグロ・シュクセは、バヴォンのワンマン・バンドではなく、ボーレン、ガスピー、アルフォンソら旧世代とバヴォン、ゾゾ Leon 'Zozo' Amba ら新世代とが、ときに融合し、ときにせめぎ合う微妙なバランス関係からなっていた。 典型的なのはアルバム(1)と(2)。そこでは、旧世代と新世代、それぞれの楽曲がほぼバラツキなく散りばめられている。さらに、ロッカ・マンボ、O.K.ジャズ、アフリカン・ジャズ、アフリカン・フィエスタ、オルケストル・バントゥといった名門オルケストルを渡り歩いたさすらいの歌手ムジョスの名まであるではないか。かれこそまさに旧世代そのもの。そのせいだろう、これら2枚については、全体として端正でスタイリッシュなルンバ・コンゴレーズの印象がつよい。 その特徴を要約するとこうなる。 歌はあくまで健康的で透明なコーラスが基本。ギター、ベース、サックスにコンガやマラカスなどの打楽器が加わる程度のシンプルな楽器編成。リズムの刻みは細かいがテンポはミディアムで優雅。曲の後半に短かめのセベン(インスト)パートが用意され、多くの場合、ソロ・ギターとサックスとのインタープレイが展開される。また、ボーレン作の'BHOLEN MWANA YA MAMA HELENA'((2)収録)のようなボレーロもあり、いまだラテン音楽からの影響が随所で感じられる。O.K.ジャズでいうと、66、67年ごろの音に近い。 しかし、なかには'NELLY NA PALACE NA NGAI'((2)収録)のようにティピカルなルンバ・コンゴレーズのワクには収まりきらない異色作もある。サックスのうねるブロウやジャズ・ギターっぽい音色はガーナのダンスバンド・ハイライフを思わせるし、陽気でノリノリのコール・アンド・レスポンスは伝統音楽をベースにしたのがわかる。作者はモーリス・モロ Maurice Morro とあり、かれについてはよくわからないが、感性からしてバヴォンとおなじ新世代のメンバーだろう。 上の2枚がネグロ・シュクセというオルケストルを紹介したものだったのにたいし、(3)はバヴォンに焦点を当てた構成になっている。全8曲中、バヴォン4曲(2部構成の'LIBANGA NA LIBUMU' を1曲とみれば3曲)、ゾゾ1曲、ボーレン3曲。 バヴォンとゾゾの曲では、ドラム・キットが本格的に導入されビートに格段の厚みが生まれた。バヴォンのリード・ギターも、よりメタリックに、よりアグレッシブになってきている。あいかわらず優雅でイノセントなルンバを書くボーレンにたいし、こちらは猥雑で泥臭く熱い。 2004年になって、バヴォンの遺族が所有する80曲あまりの音源から選曲されたというベスト・アルバムの第1集が発売された。「ベスト・アルバム2004」に選出したときには大半が未復刻と書いたが、よくよく調べてみると全10曲中すくなくとも5曲が復刻済みであるのがわかった。しかし、単独盤4枚はいうにおよばず、コンピレーション盤さえいくつか入手しづらくなっている状況にあって、本盤発売の意義は大きい。そこで当初予定していた(3)をとりやめ、本盤とさし替えることにした。 本盤の長所をあげれば、選曲が悪くないのと音質がまあまあなこと。逆に短所はというと、(これは本盤に限った話ではないが)選曲・編集意図がはっきりしないのと、データと解説が不十分なこと。最悪なのはリリース年はおろか作者のクレジットさえないことだ。この洩れは痛い。 前述の'LIBANGA NA LIBUMU' をはじめ、'MASEKE YA MEME'、'BEATRICE'、'MA HELE' など、バヴォン主導と思われるホットでファンキーなナンバーはおもにアルバム前半に収録。 後半はややオーソドックスなルンバ・コンゴレーズがならぶ。そうはいっても'KUSALA' や'PAPI MOBALI NA NGAI' のさわやかで小気味のいい感じも悪くはないし、'NA KANGA MOTEMA' なんか、よく聴くとビートがモクモクと煙を吐き出しながら走る汽車のようでとってもユニーク。ラストの'DENISE' もそうだが、エレガントさのなかにも豪快で野卑なところがあって、このあたりはO.K.ジャズよりヴェヴェに感覚が近い気がする。 70年はじめにリリースされた'LIBANGA NA LIBUMU' は、同僚のディディ 'Didi' Kalombo が書いた'MUNGA JOSEPHINE'((3)収録)に明け渡すまで約2ヶ月間、ヒットチャート、ナンバーワンの座にあった。曲後半のファンクな展開とはうらはらに、前半の歌の部分は「腹中の石」のタイトルどおり、絶望感をうたった詩もビートもメランコリックで重たい。 同年3月末にはおなじくバヴォンによる'MASEKE YA MEME' がリリース。「腹中の石」にくらべれば、歌こそソフトでなめらかなルンバだが、「羊の角笛」のタイトルが暗示するように、詩のテーマは貪欲、死、呪術。 呪術を生業にする悪人ども ‥‥‥ やつらはおれを殺そうとしている おれは殺されるかもしれない もううんざりだ おれに未来はあるのか? おれはまだ生きていたい それでもやつらはおれを殺そうとしている 数ヶ月後、この予言めいた詩が現実になろうとはだれが想像しただろう。 1970年8月5日の早朝、バヴォンは自動車事故で26歳の若い命を落とした。バヴォン事故死のいきさつとフランコの悲嘆ぶりについては、FRANCO & L'OK JAZZ "1970/1971/1972"(AFRICAN/SONODISC CD 36514)の紹介記事のなかでくわしく論じているので、ここではくり返さない。ただ、ひとつだけ、つけ加えておきたいことがある。それは、事故の直接の原因といわれ、当日バヴォンの車に同乗していたために両脚を切断するはめになった恋人がルーシーといったこと。 バヴォンには66年に書いた'LUCIE TOZONGANA' というヒット曲がある。「ルーシー仲直りしようよ」の意味で、恋人ルーシーの妹と浮気したのが彼女にバレて、ひたすら謝罪するという情けない男の話で、おそらく実話にもとづいたものだろう。そのほか'MILLIE ZAIRE PONA LUCIE' という曲もある(CDではともに(2)と(13)に収録)。かわいそうなルーシーは、これらの歌に出てくるルーシーと同一人物だったのだろうか?。だとしたら、現実はあまりにむごい。 人気絶頂のさなかに自動車事故で若い命を散らせたバヴォンは、まさしくザイールのジェームス・ディーンか赤木圭一郎だった。その後、ネグロ・シュクセは新メンバーを加えて活動を再開するもうまくいかず、ボーレンは心機一転のため、新バンド、ネグロ・ナショナルを起ち上げるが、こちらも不発に終わった。ネグロ・シュクセは、バヴォンの死をもってその使命を終えたのである。 |
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(1.18.05) |
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2005年、本盤の第2集が発売された(便宜上(15))。調べたかぎりでは'MILLIE ZAIRE PONA LUCIE' をはじめ2曲が (2)、'LUCIE TOZONGANA' をはじめ3曲が (1) に収録済みで初復刻は5曲。第1集ほどのインパクトはなく、全体にやや平坦な印象を受ける。 それよりも新たに発見したダカール・サウンドからのコンピレーション"EAST OF AFRICA"((14))収録曲のほうが粒が揃っている。このアルバムは、アフリカン・ジャズやアフリカン・フィエスタなどコンゴ出身のオルケストルが、60年代、契約しているレコード会社には内緒で東アフリカでリリースしたシングルばかりを集めた異色盤。なかでも、シングルのAB面にまたがるトータル7分11秒の'MAJO' をはじめ、'KOKISA CONFIANCE TE'、'VIE YA KINDUMBA' で、アフリザやO.K.ジャズに在籍したエンポンポ・ロワイの濃厚でグル−ヴィなサックス・プレイは聴きもの。 |
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(6.17.05) |
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