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Artist

川畑文子

Title

青空


aozora
Date 1933-1938
Label 日本コロムビア COCA-14234〜5 [2CDs] (JP)
CD Release 1997
Rating ★★★★
Availability


Review

 日本のポップス黎明期にあたる昭和8、9年(1933〜34)、歌にダンスに大活躍したティーン・アイドルがいた。日系三世、川畑文子である。
 大正5年(1916)、岡山県からの移民を父に、ハワイ生まれの日系二世を母にハワイで生まれた文子は、3歳のとき一家でロサンゼルスへ移住。12歳でダンス学校に入学するとめきめきと上達し、13歳には早くも興行会社RKOの専属ジャズ・ダンサーとしてプロ・デビューした。

 そんな彼女が母国日本の土を初めて踏んだのは昭和7年(1932)末のことだった。当初はお忍びのつもりのようだったが、米国での文子の活躍ぶりは日本にも伝わっていて、レコード会社や興行会社は彼女をめぐって激しい争奪合戦をくり広げた。結局、獲得にもっとも熱心だったコロムビアと専属契約を結ぶことになった。

 コロムビアはさっそく翌年2月、東京劇場で「コロムビア専属芸術家川畑文子帰朝公演」を開催。和製ジャズ・ソングのパイオニアのひとり天野喜久代、高田せい子の高田舞踊団、ジョージ堀の堀タップ・ダンス・チームが全面的にバックアップした。
 文子は、靴先を自分の頭より高く上げる得意技“ハイキック”を含むアクロバティックなモダン・ダンスのみならず、タップ・ダンス、バレエ、スパニッシュ・ダンスなど、幅広いレパートリーをこなし、そのいずれにおいても抜きん出た力量を披露した。

 帰朝公演の大成功を受けて、文子のダンス・チームは朝鮮の京城にまで足を延ばした3ヶ月にわたる全国公演を展開。文子の名声は一躍日本国中に高まった。
 そして、昭和8年(1933)の大晦日に、文子は東洋一の演劇の殿堂として東宝が有楽町に新築した日本劇場のこけら落としのステージの主役に抜擢された。「踊る1934年」と題されたレビューには、天野喜久代、ジョージ堀、文子のダンス・パートナー白幡石蔵、文子を頼って来日したベティ稲田らが参加した。

 多忙なステージの合間を縫って、宣伝も兼ねて文子は多くのジャズ・ソングのレコードを吹き込んでいる。コロムビアへは帰朝公演直前の昭和8年(1933)1月からテイチクへ移籍する翌年10月までのわずか2年足らずで36曲(うち2曲は未発売)、再来日した昭和13年(1938)5月から8月までに6曲がレコーディングされた。本盤はこれらのうち音源が存在する37曲を、ほぼ年代順に収録。

 ちなみに、テイチクには昭和10年(1935)1月から5月までに34曲吹き込まれていて、これらのうち13曲が『川畑文子・ベティ稲田と仲間たち』(テイチク TECW-28770)にCD復刻されている。わたしは『洋楽ポップスの系譜』(テイチク TECR-20180)収録の2曲を含む数曲しかテイチク音源を聴いたことがないが、瀬川昌久さんの著書「ジャズに踊って」(清流出版)によると、コロムビア時代よりもジャズ色が薄らいでハワイアン調の曲や編曲が主になっているという。

 帰朝公演に合わせて発売されたデビュー盤「いろあかり」「三日月娘」は、'IN A SHANTY IN OLD SHANTY TOWN''SHINE ON HARVEST MOON' が原曲で、これにのちに東宝社長となる若き日の森岩雄が日本語訳詞を付けた。編曲には昭和初期のジャズ編曲を多く手がけた杉田良造があたった。そして、伴奏は渡辺良(ベース、テューバ)、谷口又士(トロンボーン)、松本伸(テナー・サックス)、角田孝(ギター)ら、一流のジャズメンからなるコロムビア・ジャズ・バンドが受け持った。「いろあかり」は、一番をタドタドしい日本語、二番を得意の英語でうたうスタイルが受けて大ヒットした。

 気をよくしたコロムビアは、文子歌、森訳詞、杉田編曲、コロムビア・ジャズ・バンド伴奏のチームで「沈む夕日よ」(原曲'ST LOUIS BLUES' )、「別れの接吻」(原曲'WABASH MOON' )、「キューバの豆売り」(原曲'PEANUT VENDOR'(EL MANISERO) )、「ひとりぼっち」(原曲'I AIN'T GOT NOBODY' )、「泣かせて頂戴」(原曲'SIGH AND CRY BLUES' )などを続けざまにリリース。あわせて「青空」(原曲'MY BLUE HEAVEN' )、「思い出」(原曲'AMONG MY SOUVENIR' )、「アラビアの唄」(原曲'SING ME A SONG OF ARABY' )のような昭和初期にヒットしたジャズ・ソングをリメイクした。

 文子の歌はマレーネ・ディートリヒになぞらえられたというが、声に伸びはなく、音程は不安定、無愛想で投げやりなうたい口調はお世辞にもうまいとはいえない。しかし、この危なっかしくてさばさばした感じがタドタドしい日本語の発音とあいまって、えもいわれぬ魅力につながっていた。昭和初期のジャズ・ソング・ブームの立役者だった浅草オペラ出身の二村定一や天野喜久代などが声を張り上げうたっていたのとは対照的に、文子の歌にはメランコリーが宿っていてモダンな印象を受ける。

 文子の英語調の日本語の発語はディック・ミネの唱法のヒントになっただろうし、日本語と英語をチャンポンでうたうスタイルは戦後、江利チエミ雪村いづみに引き継がれたという意味で、川畑文子がそのわずかな活動期間において日本のポップスに与えた影響ははかりしれない。

 しかし、文子の本領はやはりダンスであり、歌は余技以上のものではなかったと思う。残念ながら、わたしは彼女の動く映像をいまだ見たことはないが、写真で見ると当時の平均的な日本人とはおよそかけ離れたすらりとした体型で、ジョセフィン・ベイカーにたとえられたというのもわかる気がする。だから、音楽そのものとしては、歌い方があまりに平坦すぎてどれもおなじように聞こえてしまい、全編とおして聴くにはつらいところがある。むしろ興味ぶかいのはコロムビア・ジャズ・バンドの演奏のほうだ。

 この時代、ジャズメンの働き場所はおもにダンス・ホールだった。なかでも赤坂溜池にあったダンス・ホール“フロリダ”(昭和4年開店)は、時代の最先端をいくインテリ、文化人たちの社交場として一目置かれた存在だった。渡辺良ひきいるコロムビア・ジャズ・バンドは、菊池滋弥のフロリダ・リズム・ボーイズとともにフロリダの看板バンドだった。
 フロリダは昭和7年(1932)8月、火災によりメインのボール・ルームが焼失。翌月、よりモダナイズされて営業を再開したのを機に2つの看板バンドは合体、文字どおりのオールスター・バンドとなった。かくして、昭和15年(1940)10月にダンスホールの閉鎖令が施行されるまで、昭和10年(1935)前後をピークとしてダンスホールは最盛期を迎える。

 このアルバムは、まさにダンスホールがもっともさかんで華やかだった時代の、一流ジャズメンたちのホットなプレイをまとめて聴けるという点においても貴重な復刻といえるだろう。


(2.4.06)



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by Tatsushi Tsukahara