「ただいま」

そっと開いたドアから返ってくる返事はない。
まだ帰ってきていないのか、はたまた気づいていないだけなのか
家の中は静まり返り、物音ひとつ帰ってこない


パタンとゆっくり重厚な作りのドアを閉め、自室で制服からラフな家着に着替えて再び階下へ



今日は何にしようかな
昨日のベーコンが少し残ってたはずだし
あ、玉ねぎも余ってた
パスタもあるし…、今日はあれににしよっと


慣れた手つきで野菜を刻み、それが既にどこにあるのか覚えている動きでてきぱきと調理を行っていく
玉ねぎとベーコンも切ったし、オリーブはっと、あったあった

刻んだ野菜を鷹の爪と大蒜で香りを写したオリーブで炒めてっと

「麺を入れて完成〜♪」

調理を開始してからものの20分もしないうちに完成したの夕食ペペロンチーノ

「いっただきまーす」

それを黙々と一人で食べる



家族の分は作らない
それはの意地悪ということでなくて、この家では家でご飯を食べることがほとんどないからだ
の両親は二人揃って外食をしているし、たとえ家でご飯を食べることがあっても家族全員で食べたことなど一度もない

両親二人で食べるか、が一人で食べるかのどっちか

は自分の作った料理を一度も両親に食べてもらったことはなかった


食べ終えたら、後片付けに家の掃除、洗濯
この家の家事を全てこなすのが、の毎日の日課だったりする

両親から言われているということもあるけれど、それ以上にが自分でやらなくちゃと決めて行動している





家事を全てやり終え、部屋へ戻ったときには既に時間は8時過ぎ

「ふぅ…」

知らずに出るため息
毎日のことで慣れているとはいえ、疲れないといえば嘘になる


ベッドに背中を預け、そっと今日のことを思い出す

の声一つ一つが鮮明に思い出され、それはどんどん時を遡っていく

帰り道のこと、学校でいつの間にか寝ちゃってたこと、授業中椅子から落ちて先生に笑われたこと…


そんなとめどないけど大事な記憶が、時を遡りながら頭の中を駆け巡る

それはだんだんと、過去へと遡り…



(そっか、私がこの家に来て今日で7年目なんだ)

記憶はが幼少の頃にまで遡っていた







に両親と呼べる存在はいる
ただそれは世間一般に認知されている両親のことであって、本当の両親ではない
を産んだ本当の両親は、が子供の頃に事故ですでに他界
が暮らしている家は、父方の兄弟の家で、の父親から言えば弟に当たる

両親を失い天涯孤独の身となってしまったを引き取ってくれたのが、今の両親である

の処遇を決める際、親族間でいろいろと一悶着があったらしいし、それでも引き取ってくれた今の両親に
はとても感謝している


小さかったながら覚えているのは、あまり多くないといえるの親族達での騒動
まだ幼いから言葉の意味がわからないとでも思ったのだろうか、親族が騒動を続ける中で
幼いの心に突きつけられ続ける言葉のナイフ


ほとんど意味はわからなくても、その感情は読み取ることはできた
それは負の感情、今でもはっきりと覚えている

「なんでこんな子をうちで引き取らないといけないの!?」

「うちは兄弟いっぱいいるし、部屋も余ってないから…」

「じゃあわしが引き取ろうかの?」

「お父さんはダメですよ、そんな身体じゃこの娘を育てられるわけないじゃないですか!」

「じゃあ誰かおるのか?」

「…………」


広がる沈黙、怒気、不安
すべての負の感情がその中心にいるの心に突き刺さり、それは毒針の筵となっていく


「じゃあ…うちで引き取るよ」


そんな中、引き取るといってくれた両親

「じゃ、それでいいか?

そっとかけられた、隣にいる祖父の声

にその申し出を拒否することなんてできない
だって知っていたから
自分が負担になることを、
理解していたから
自分が多大な迷惑をかけてしまうことを


だから…

「は…ぃ、宜しくお願いします」


自分を引き取ってくれることが嬉しくて、それ以上に彼らにかけてしまう迷惑のことが心苦しくて
でも、幼いに断ることなんてできず

本当の両親を思い出しながら、

そっと新しい両親を選んだ





そんな記憶
あんまり思い出したくない記憶だけれど、今の両親が引き取ってくれた言葉が嬉しくて時折思い出す記憶



そこからさらにの記憶は過去へと遡り―
既にうっすらとしか覚えていない本当の両親達へと辿り着く







…………

……………………

……………………………



ガタッ


「ん…っ」

何の音…?
いつのまにか閉じられていた瞼をゆっくり開き、
ふとそこで自分が寝てしまっていたことに気づく


あのまま寝ちゃってたんだ
今、何時だろ…?


聞こえてくる時報は既に午前1時過ぎ


あや〜、5時間も寝ちゃってたんだ
って、寒!


季節は10月
暖房器具のないの部屋では少し冷える程度のものだったが、
それでも部屋着一枚のにとっては極寒の地であったらしい

いそいそと上着を羽織り暖を取る


身体は徐々に温もりを取り戻してきたけど、先程間で冷えていた身体は早くトイレに行きたい
というシグナルを脳に送り続けている


この時間なら、両親が帰ってきてもおかしくない
先程の物音は両親がたてたものだろうと思い、そっと階下のトイレへと向かう






「…………っ……だから……!!」

「…そんな事いったって…………!」

(ん…っ?)

用を済ませ再び自室へ戻ろうと階段を上っていたの耳にふいに話し声が飛び込んできた

行くときはトイレに気を取られてて気づかなかったんだけど…、やっぱりもう帰ってきてたんだ




声は時折トーンが高くなったり、なにやら言い争っているようにさえ聞こえる

けどそれはいつものことで、特に気に留めることもなく自室へと戻ろうとすると


「親父が、に…」

「……っ!!………なんでよ!」

聞こえてきた自分の名前



何話してるんだろ…
両親の会話は止むことがない、おそらく私がトイレに着たのにも気づいていないと思う

普段から物音を立てないように歩いている足音をさらにゆっくり静かに、声の漏れる部屋へと向ける



そっと聞こえる二人の言葉から感じる焦燥と不安と怒り、即ち負の感情


どうしたの…かしら?


その二人の言い争いに気圧されるかのように、引き付けられるかのように、
の足はさらに部屋の扉へと近づく


ドキドキと脈動する自分の心臓の音まで聞こえてくる緊張感
奥の部屋に近づくほどにさらに高まり、鼓動がやけにうるさく感じる

ドキドキドキドキ
なぜ自分はこんなに緊張と不安に駆られているのだろう
ただ不安で空虚な心が私の心を埋め尽くす














今の両親に辛く当たられたことは幾度も合った
打たれた事も、怒声罵声を浴びせられたことも数えられぬ程ある

今でも背中や腕とかに残る傷跡

でも、そんなことがいくらあっても、両親を憎むことなんてできない


だってこんな私をずっと育ててくれた
いっぱい迷惑もかけた、彼らの時間を奪ってしまった私を…

それに…、いくら辛く当たられても
蔑みの言葉、暴力をいくら浴びようとも


あの
引き取ってくれるといった言葉が忘れられないから
私を迎え入れてくれたときの、温かい言葉を忘れることなんてできないから



両親に感謝して、できるだけ迷惑をかけないで生きていこう
それがが幼いながらも心に誓った、両親に対するたった一つの大切な誓い


今でもその誓いは破られたことはない









「もう7年よ!一体どれだけあの娘のために時間を使えばいいのよ!!」

「そんな事言ったってしかたないだろ!今更なにいってんだよ」

「だって!!」



ああ、いつもの口論だ

部屋に近づくほどに、その声ははっきりと聞き取れるようになっていって、その内容も明確になっていく
が部屋に篭ってたり、外出してるときによく行われている両親の口論

両親はの聞こえないところでやっているつもりのようだが、こういう口論は何度も聞いていたりする

『いつまであの娘の面倒見ないといけないのよ!』
『しかたないじゃないか!次男のボクが引き取らざるを得なかったんだから』
『いつもへらへら笑って気味が悪いったらありゃしない』


両親から望まれて存在でないことは理解しているつもり
だからこの会話は心を傷つけるものだけれど、それは当然の事だと

(部屋に…戻ろう)



どうして立ち聞きしようなんて思ったんだろ
聞いても不安でたまらなくなるだけなのに


でもその後ずさった足は―


「早くお義父さん亡くならないかしら」


母親のその言葉で再び止まる。



(え……今なんて…?)



「そう言うなよ、一応ボクの父親だよ?」



歪な笑い声

それは普段聞いてるどんな罵声よりも怖くて恐ろしいもの―





(なに…を……言ってるの?)



「早いとこ死んで、の遺産相続分とらないとね」

「ああ、あの時知ってるのがボクだけでよかったよ」



ナニを…

―いさん?
―おじいちゃんが早く死ぬように?

言ってるの…?


すぐ傍で繰り広げられているその夫婦の会話が、まるで異世界で行われていると思える程。
理解することができない。


「今じゃ引取りを渋ってた親族みんながのこと狙ってやがるからな」

「そりゃお義父さんの財産の半分をのものとするって遺言が公表されたしね」





の祖父正吾は一代で大企業「白糸」を起こした大人物で、その財産は数百億とも言われている。
が、その立場とは裏腹に、住まい以外は非常に質素な生活を送っているため、一般にはそう見られにくい。




「いまさら大事な金づるを渡せるわけないな。親父が死んだら確実にボクが社長だぜ?」



(え…?金づる?社長??)

これは一体何?
悪い夢?

思考が纏まらない




の脳裏に思い起こされるあのときの言葉


「うちにこないか?」


そのときの優しい言葉…

それが今の両親、否、二人のものと似ても似つかなくて…


急に怖くなる

その扉の向こうにいるのは、両親の声を真似た悪鬼ではないのかと…




「でも、アナタあの時にえらい優しい言葉だったじゃない?
 とてもそんなこと考えてるように見えなかったわよ」

「はは、芝居だよ お芝居 他のやつらに勘付かれたりするかもしれんだろ?
 それに…
 あいつに刷り込ませるためだよ。お前はボク達に絶対の恩があるってな」



あ…レ…?
ナニを言って…
しばい…?だましてた…?

私が信じてきたのは…………全て うそ?


「あいつにかかった金は、お義兄さん達の保険金で全部賄ってお釣りが来たしね」


ふふふ、1組の男女の間で交わされる凶器の宴






―こわい、こわいこわいこわいこわい…


その雰囲気に気圧されるがごとく、身体が自然と後ずさる


そのドアが、本当に異界のものに見えてきて、これは悪夢だと信じたくて

例え今までいろんな目に合わされてきたけど、それでもあのときの言葉だけは

あのときの言葉だけは本当であったと信じていたのに…


ガタン


思考と身体がついていかない

もう聞きたくないと思ってる思考と、自然と後ずさる身体


「何?今の物音?」

「猫かなんかじゃないか?まぁもしがこの話聞いてたら――、殺すしかないな。
 猫とかだと思うが、一応見てくるか」


ガタと何か重そうなものを持ち上げる音と、足音が―

―足音がこっちに近づいてくる


ドクンドクンドクンドクン

自分の心臓の音が鮮明に聞こえる


ドアの向こうには何かを持ったお父さん、いや…悪鬼に近いモノ


ガタン

また一歩足が何かを倒しながら後ろへと進む



「……猫とかじゃないみたいだな」


怖い…怖い怖い怖い怖い



ガタン


また一歩後ろへ下がる



扉が開かれる音




「……残念だよ、知らなければもうちょっと長生きできたかもしれないのにな……」


ガタン


男が一歩ずつ近寄ってくる音

何か重いものを振り上げる音


ガタン

既に麻痺した足がまた一歩後ずさる


「好都合なことにお前なら事故、として認識してもらえるかな」


ナニカガ近づいてくる



ガタン


1歩ずつ後ろに下がっていた身体は、いつも知っているはずの家の構造なのに―

ただ恐怖のあまりめちゃくちゃに後ずさっていて―



「あっ……」



途端に足元がなくなる


身体が宙に舞う


世界が暗転する




階上から聞こえてくる声―




――私の世界は、そこで終わった












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