この正月のテレビで、「壬生義士伝」というのをやっていた。端的にいってしまえば、妻子を養うために新撰組という人殺し稼業に入ってしまった男の物語である。封建制度の犠牲者だといえばそれまでだが,浅田次郎の原作でなかなか感動的にできていた。制度が人を犠牲にするのは、封建制に限らないだろう。うまく波に乗れなかった人が出るのは、むしろ世の常だといってもいいだろう。本当は、いつの時代でも波に乗り切れる人間はほんの一握りというのが実情ではなかろうか。

 私の子供の頃、鞍馬天狗という映画があって勤皇党の鞍馬天狗 Vs 佐幕派の新撰組の対決物語であったが、新撰組は悪の集団という描かれ方をしていたと記憶している。まあ、勝てば官軍なのだから仕方が無いことなんだろうが。

 ところが、本当は勤皇とか佐幕とかいうのはどうも後になって張られたレッテルのようで、新撰組の組員だった人の日記などを読んでみると、どちらも「尊王攘夷」を行動指針にしていたようなのである。そういえば島崎藤村の「夜明け前」という小説にも、木曾の山の中から「尊王攘夷」の思想に身を焦がして京都へ出奔して親を嘆かせた男の事が書いてある。この本は藤村が自分の親をモデルにしたそうだから、おそらく日本中の若者たちが「尊皇攘夷」に狂っていたのであろう。なぜか。

 一番の答えは、世の中が適当に豊かになって皆さん暇だったからではないか。封建制の締め付けは緩やかになり、米以外の産物で懐具合もよくなり、大百姓の息子たちもいろんな勉強ができる環境が整ってきたのである。そして若者たちにとって一番魅力的なテーマは「世の中のあり方・人間の生き方」ということを議論することなんであろう。この時代、青年たちのこうした知的欲求に応えられるのは、水戸学が一番だったのではないか。なぜなら、そこには世の中をひっくり返す要素が見え隠れしていたからである。ずばり「現状はけしからん。やっちまえ。」という燃えるような心情に「理論」の油を注ぐ、いわば指針を与えられたのである、なんと素敵なことではあったろう。近藤勇も尊皇攘夷に身を挺したいとかねがね望んでおり、その実現のための浪士隊募集に飛びついたのであろう。このへんは何となく「オウム真理教」といわれた集団に集まった若者たちにも重なるような気がする。

 しかし、このような若者たちの純粋さは、より狡猾な知恵あるものの利用するところとなる。結局は徳川体制を守るための捨石にされてしまった。もちろん、その過程で近藤たちの思想も現実化(というより俗物化か)してくる。旗本に取り立てられて喜んだり、あげく甲府の殿様にしてやるということで、本気で官軍の占拠する甲府まで乗り込んでいくなどは、もはや喜劇の域である。尊皇攘夷の旗印も「士道」とか「誠」とか自分たちの行動と矛盾の目立たないものになってしまった。それでもこうした変節は、官軍だって笑えない。勤皇方も「攘夷」は、薩摩や長州が外国軍に痛めつけられればさっさと放棄してまったし、「尊王」についても明治の高官たちがそれほど天皇を敬っていたような気配はない。彼らは天皇を自分たちの権力を正当化する「象徴」として利用したに過ぎない。尊王攘夷とは暇を持て余した若者が騒ぎまわる為の大義名分だったのだろう。ことほどさように、理論なんてものは当てにならないものだと私には思われる。

 

 話がとんでしまったが、副長の土方歳三という男はいい加減にやめとくということを知らず、官軍の北上とともに、会津で戦ったり、軍艦の争奪を企て切り込みをやったりで、最後には函館で討ち死にしている(行年34)。幕臣であった榎本武揚や大鳥圭介が生きのびたというのに百姓あがりの土方が又なんとしたことか。身分の無いゆえに自分は許されないということを知っていたのか。はたまた、かっこいいだけが目的だったか。彼が死ぬ前に函館でとった写真は実にかっこいいのである。(平成15年7月9日)

 

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