ここはナルディア王国。ジェーンはいつものように早朝の散歩に出かけた。一人暮らしの彼女は近所を気の赴くままに散策するのが好きだった。そして、今日は海の方へ行こうと思い、浜辺へ向かって歩いていった。潮の匂いと波の音に導かれながら浜辺の散歩を満喫していると、一人の子供が倒れていた。ジェーンは思わず駆け寄る。
「あら? この子、一体どうしたのかしら?」
 子供は非常に整った顔立ちをしていた。見たところどこかの王侯貴族の血を引いていそうである。だが着ている服は砂漠地帯のものだった。そして手にはレイピアがしっかりと握られている。左手には剣の柄、右手には鞘を、決して離すまいとして。顔立ちと服装が不釣り合いである。そして、そもそもどうやってここに来られたのかが謎である。不審な点が多かったが、とにかくジェーンは子供を抱きかかえ、自宅に連れ帰ることにした。

 アレルが目を覚ますと、そこは見たこともない場所だった。いや、家具の一つひとつはだいたい何かわかるのだが、自分が知っているものとは随分違う。ベッドのデザイン、窓や箪笥のデザイン、椅子の形状。一通りきょろきょろしていると、ベッドの傍らに一本のレイピアが立てかけてあった。
(これは……俺のだ!!)
 直感的にそう察知したアレルはレイピアを手にした。だが、周りの風景とレイピアを見比べると随分違和感がある。自分が着ているものも、変わったデザインの寝間着だ。これでレイピアを持って歩き回るのはおかしな光景に思えてくる。しかしここには一切の殺気や危険を感じなかった。自分の持ち物は他にはなさそうだと見てとると、アレルはレイピアを持って部屋を出た。
(どこなんだ? ここは……)
 民家のようではある。だが自分の知っているものとは趣を異にしている。試しに廊下へ出てすぐのドアを開けると見たこともない形状のものがあった。どうやら非常に狭い個室のようだから戸を閉める。少し歩くと階段があった。どうやら自分は二階にいたようである。一階に降りると、何やらいい匂いがしてきた。食べ物の匂いだ。物音も聞こえる。そこでアレルはこの家の主であろう人物を求めて匂いのする方へ、物音のする方へ歩いていった。その先にいた人物は人の良さそうな女性だった。
「あら、気がついたのね。気分はどう? 今ちょうどご飯ができるところよ」
「ここは……おばさんの家?」
「そうよ。あなたが浜辺で倒れていたから連れてきたの。どう? どこか具合は悪くない?」
「……大丈夫……だと思う……」
「良かった! それじゃご飯にしましょう!」
「え…っと、おばさんの名前は?」
「私はジェーン」
「俺は……」
 自分の名前を言おうとしてアレルははっとした。名前が思い出せないのだ!レイピアも直感的に自分のものだと思っただけで確証はない。
「アレル君?」
「名前が……思い出せない!!! うう……頭が痛い……俺は一体誰なんだ!!!!!」
「記憶を失っているの?」
「何も思い出せない……」
「……少なくとも、あなたの名前は『アレル』だと思うわ」
「え?」
「だってあなたが着ていた服にそう名前が縫い付けてあったもの」

……………

 しばらくの沈黙の後、ようやくアレルはしゃべりだした。
「俺が着ていた服……」
「ええと、順番にゆっくり話すわね。いいわね? あなたは私の家の近くの浜辺で倒れていたの」
「浜辺で……? 海にでも落ちたのかな?」
「そうね。身体は全身ずぶ濡れだったし。でもどうやってここへ……いえ、まずあなたのことを一通り話さなきゃ。あなたが倒れていたから私はここへ連れてきたの。高熱を出していたから身体をしっかり拭いて、着替えさせてベッドに寝かせたのよ。そしてあなたが持っていたのはそのレイピアだけ。きっとあなたの家に代々伝わる大事な剣なんでしょうね」
「そうなのか……」
「だけどわからないことがあるのよ。私が見つけた時、あなたが着ていた服は砂漠地帯のものだったわ」
「砂漠地帯?」
「もしかしたら攫われて奴隷にでもされるところだったんじゃないかしら? 大事な剣を取り返して逃げ出して、海に落ちちゃったとか。でもあの服には丁寧にしっかりとあなたの名前が縫い付けてあったけれど……」
「俺の服、見せてくれる?」
「いいわよ」
 ジェーンは部屋を出て、しばらくして戻ってきた。
「はい。これが、あなたが着ていた服よ。よーく見て御覧なさい。ここに丁寧な刺繍で『アレル』って書いてあるでしょ?」
「………本当だ………」
「上着にも下着にもしっかり名前が縫い付けてあるし、サイズもぴったりだし、見れば見るほど奴隷の服じゃないのよねえ。誰か砂漠地帯のしっかりした人が傍についていたんじゃないかしら?」
「……じゃ、やっぱり俺の名前は『アレル』なのか……」
「気に入らないの?」
「ううん、とても、いい名前だと思う」
「それじゃあ、お食事にしない? せっかく出来たてのご飯が冷めちゃうわ」
 なにはともあれ空腹ではある。自分の名前に納得したアレルは食卓についた。ここも当然見なれないデザインの食卓である。綺麗なテーブルクロスがかかっている。食器の形状も、当然ながらこの家独特のものだ。ジェーンはパンとハムエッグ、野菜スープを用意した。アレルはパンに手を伸ばして食べ始めた。
「そんなに不安がることはないわ。大丈夫よ。一時的に記憶を失っているだけで、落ち着いたらきっとすぐ思い出すわ」
「そうだといいけど……なんだか頭の中が空っぽになった感じだよ。全く何も思いだせない」
「お食事が終わったらまたお熱を測りましょうね。見たところ下がったとは思うけど、でも最初は本当にすごい熱だったんだから」
「海に落ちたからか」
「そうね」
「………ジェーンおばさんの言ったことをまとめると、どうやら俺はどこかの貴族かなんかの息子で、家に代々伝わるレイピアを持っていて、だけど砂漠地帯の服を着ていて、船から海に落ちた、ってとこかな?」
「そうなるわね」
 アレルはしゃべりながらハムエッグやウインナーを手でつかもうとした。それを見たジェーンは驚いて注意する。
「アレル君!? これは手で食べるものじゃないわよ!?」
「…え?」
「忘れたの? ナイフとフォーク、それにスプーンよ」
「……………」
 アレルはしばらく考え込んでいた。それを見てジェーンはひどく心配そうである。
(食事の道具だ……使い方は……)
 アレルが慣れた様子でフォークを使い始めたのでジェーンはほっとした。そんなことまで忘れてしまったのかと不安だったのである。それからふと、砂漠は手食文化だということに思い当たった。砂漠地帯ではナイフやスプーン、フォークは使わずに手を使って食事をする。アレルは見たところ日に焼けているし、砂漠で生活していた期間が長いのかもしれない。それで手で食べようとしたのだろうとジェーンは考えた。
「お味はどう?」
「とてもおいしいよ。おばさん。ありがとう」
「ふふ、嬉しいわ。……でもアレル君は一体どうやってここへ来れたのかしらね?」
「ここって砂漠からどれくらい離れてるの?」
「……アレル君、ここはね。他の大陸からとっても離れたところにある島国よ」
「他の国の船が通ったりする?」
「しないわ。それぐらい離れてるの。それに私の国には強力な結界が張ってあって他の国の人間は入れないようになっているはずなのよ」
「それじゃどうやって……?」
「それがわからないのよね。とりあえず町長さんに連絡しておいたから調査はしてくれると思うけど」
「俺の記憶喪失は?」
「ついさっき目覚めたばかりじゃないの。無理せず当分私の家にいらっしゃい。私は別に一人暮らしで迷惑でも何でもないんだから」
 食事が終わるとジェーンは後片付けを始めた。そしてアレルは先程から思っていた疑問をぶつけることにした。
「ねえ、おばさん。それ何?」
「これは食器洗い機よ。これがあれば自動的にお皿を洗ってくれるのよ」
「?? じゃ、こっちの大きな扉がついてるのは?」
「それは冷蔵庫よ。食べ物を保存する機械よ」
「機械……」
「驚くのも無理はないわね。だって他の国には無いもの」
「ふうん……結界を張って他の国と関わらないようにしてるのと関係あるの?」
「……まあね」
 アレルは不思議そうに食器洗い機や冷蔵庫を眺めていた。
(あら、けっこう鋭い子ねえ……)
 ジェーンは密かにそう思った。

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