山と旅のつれづれ



PC絵画 第一部



幼かりし頃、好きだったお絵描き。仕事の現役中は、すっかり忘れていて、50年目に出会ったそれは、
思いがけないパソコンによるお絵描きです。場所をとらず、ソフト以外の道具一式の必要もなく、
手軽に描ける面白さに浸っています。
作品はすべて自分で撮ってきた写真や旅行パンフ或いは、頭に浮かんだ架空の風景を題材にしています。
写真トレースやデッサンを省略して、直接色描き手法で描いています。。








静 寂 の 湖




 この風景は木曽川の支流、飛騨川を跨ぐ高山本線のレンガ済みの橋脚と鉄路、それに、特急「ワイドビュー飛騨」の列車を描く積りで
遠景の山々から描き進めてきたものの、せっかく描いた山の風景を大きな列車などの人工物で遮ってしまうのがしのびなくて、何時の
間にか、あらぬ方針転換をやってしまって、鉄道と列車を描くはずが、鏡のような湖になりにけり・・・なのです!!!
 湖岸のホテル風建物は急遽この位置に建てることにしました。
 ペイントの直線を材料に瞬く間に完工式です。ちょっと不似合いかなあ。






曠 原



 東山魁夷の名画「曠原」。この言葉の意味が私には分からないのがはずかしい。
 小牧市のメナード美術館。規模は小さいがコレクションの素晴らしさで近年この地方で名を馳せている。その企画展「東山魁夷展」で
眼にした絵をお手本に描いたものです。
 北ドイツの荒涼とした大地を描いたものという解説文が添えられている。
 私の偏見かもしれないが、「荒涼」といえばそれは、不毛の大地を連想するが、その作品は人工物のまったく見当たらない豊かな緑の
大地であり、イメージが合わないと思う。人のにおいがないという意味かと思ってみたりしているが。
絵をお手本にすると、出来栄えを無視すれば写真を手本にするよりも、描きやすいと思う。



 






深山幽谷を縫う鉄路




 気が遠くなるかと思わせる深い谷間に沿って走る単線の鉄路。
この国にはこんな鉄道が少なくない。かつて、巨額の赤字に喘いだ日本国有鉄道のありがたくない置き土産だが、過疎地にとって、か
けがえのない交通機関であれば、無責任な批判は差し控えるべきか。
 鳥瞰図のような写真を左に置いて、描き進めるうちに、ご都合主義的な描き方になってしまうので、実風景と一致しないが、印象は損
なっていないと信じている。

 線路の継ぎ目をたたく車輪がリズミカルな音色を奏でながら、たった一両の車両が行く。

 盆と正月に孫たちを連れて帰省してくる分身たちを受け入れるのを楽しみに、日々平和に暮らしているであろう、健康的に日焼けした
数人のお年寄りたちと、「青春18切符」を駆使して旅上手な都会の熟年自由人たちが、静かに揺られている様子を想像してみるのも楽
しい。「青春18切符」なのに、なぜか、若ものたちが連想の中に登場して来ない。
 当節の若者たちは、金銭的にリッチでスピーディな旅をご所望なのだろう。










アライグマの子供




 ひょうきんな顔してるけど、見かけによらず獰猛なのだぞ!!!。
 アメリカ生まれなのに、このごろはどうしてだか自分には分からないのに、暮らしにくい日本の里山に住み着いてしまったのだ。俺のせ
いじゃねーぞ。







シマリスの子供




 ほんと、かわいいリスです。「栗鼠」と書くのだそうです。
 私は描いていて、「胡桃鼠」のほうがふさわしいと思うけど。
 ネズミの親戚とはちょっと可愛そうです。
 まだ子供なのでキノコの上に乗っかっていられるほど小さくて軽いのに、おとなになれば、あの石のように硬い胡桃の殻をいとも簡単
にかじって、こじ開けてしまう強靭な顎と鋭い歯の持ち主とはとてもおもえない逞しさです









岩塔の松





 山陰、浦富海岸の岩礁の一角にそそり立つ岩塔。(だと思う、別の場所と勘違いしているかも知れないが)
 描きかたに少々の誇張はあるが、それにしても、海上の岩の上に根を張る黒松の生命力は凄いものがある。遊覧船の切符の画像を
お参考にしました。

 大景観の海岸線を巡る遊覧船の乗り場の脇に「船長さんの一夜干し」と称した大きなイカの干物が一面に干されていた。その中で、
漁村の住人にしては不似合いなでっぷり太ったオジサンがイカをひっくり返していた。その一夜干しはここのみやげ物店の目玉商品に
なっていた。

 いままで見たこともないほど大きくて、透明感に満ちた、いかにも美味しそうなその一夜干しは丁寧に包装されて店頭を飾っていた。
思わず、買いたくなるのだが、冷蔵保存が必要ということで、旅の途中の車中保存では適わず、断念せざるをえなかった。
 一夜干しというのは一晩干すのではなくて、一日干すのだそうです。
 で、そのオジサンは、「行きましょうか」と、その手を洗わないで遊覧船の操縦席に乗り込みました。

 正真証明「船長さんの一夜干し」だったのでした。
 そんな旅先の面白かった記憶を辿りながら描いていてふと、思った。
 ガイドのお嬢さんがいない、テープも使わず、船長さん、マイクを握って片手で船を操りながら肉声でガイドしてくれた、あの、太っちょ
船長さん。遊覧船のハンドルとマイクにイカの一夜干しの匂いがこびりついて、臭いだろうなあ。








十和田湖の紅葉

 数年前、このホームページが誕生する以前のことになるが、夏の東北を旅行した際、十和田湖の展望台「発荷峠」から見渡す大展望
の記憶に紅葉の季節を重ね合わせ、頭の中で合成して描いたのがこの絵です。
 実際の風景とはかなり違うものになっていると思うけれど、たぶん、イメージはかけ離れてはいないと自信を持っている。仮にそうでは
なくても、創作的な風景画ということにすれば、それはそれでいいではないかと思う。

 それにしても、この国の錦秋は素晴らしい。国際的に活躍している写真家がそういうのだから、そのとおりなのだろう。
 赤と黄色と深い緑が織り成す文字通りの錦の秋が観られるのは世界広しと云えども、多くはないのだそうです。
 ただ、私は若葉の息づく季節に対して、燃え尽きてやがて厳しい雪の季節を迎える紅葉の野山に、その華やかさとは裏腹に、ひとつ
の終わりを見るおもいで寂しさを禁じえないのです。








熱気球の浮かぶ風景


 好天に恵まれた休日、のどかな山ざとの一角で、催し事が行われていたのでしょう。ぽっかりと浮かんだ、たった一つの熱気球が秋の
空に映えて美しい。
 真っ白いそばの花が絶妙な彩りを添えていた。
 種を蒔いてから、たった二ヶ月余りで収穫できるという蕎麦は、米や麦に代わる寒村の代用食として栽培されていたものが、いまでは
立派な食材として都会人の食欲をも満たしている。加えて最近は蕎麦の花が秋の山里を彩る観光資源としてもてはやされている。たぶ
ん、いい時代になったのでしょう。







海原の朝焼け







 一面を真っ赤に染める夕陽は各地でスポットが用意されているが、あの赤を表現するのは花の表情にも似て描くのは難しい。
カメラには容易に?収まるのに、描くとなると、赤の強調がなんとも、いやらしくなってしまうのだ。そんな訳で頭の中に描いた「朝日」に
着目してみました。 朝早く、日の出前に現地へおもむくなど、ただそれだけの目的で行動する気になるほどの積極性は持ち合わせて
いないが、こんな風景から一日が始まるのだろうと想像しつつ描いてみるのも、また楽しいものです。
 何時か、旅先で海の夜明けの壮大な風景に出会ったとき、この絵は描き換えることになるかも知れない。
 もちろん、何時かはあの、真っ赤な夕日の風景を物にしたいと思っている。








富士山初冠雪



 富士山の初冠雪は早い。たしか、11月の初旬だと思った。
 寒波の朝、新聞の第一面を彩っていた。上空からの写真だが、下界から雪が見えれば初冠雪として記録されるのだそうです。
 降っても下界から確認できなければ記録にはならない。確認の後、融けてしまっても記録は消えないのだそうです。
 役目を終えた富士山測候所が写真を見る限りでは、跡形もなくなっていることが少々淋しい気がする。







山茶花


 晩秋から早春にかけて、鮮やかな赤、ピンク、白の花を間断なく咲き続けるところが百日紅やキョウチクトウと共通しているが、木の花
としては珍しく冬枯れの街路や公園などを彩っている。
紅葉の季節が終わるころ、存在を鮮やかに主張し、春先、椿と入れ替わるようにして静かに忘れ去られてのち、春〜秋の華やかな季
節を埋もれるようにして晩秋の出番を慎ましやかに待つ、けなげな花木だ。
 垣根を彩る花木とおもわれがちだが、冬の里山の一隅に大きく枝を広げたこの花を見つけると一瞬、こんな季節に・・と違和感さえ覚
えるほどはなやかに長く咲き続ける楽しい花だ。







ブナの実

 近年、森の生態系、ひいては自然環境全体にとっての有用性が見直され、保護が計られるようになったブナの木だが、今となっては
「役立たずの木」として見捨てられてきた過去が惜しまれる。
 数年おきに、ブナの実が大豊作になるという。その年はクマをはじめ野生動物は危険を冒して人里に現れることは少ないのだそうで
す。あの、大きなクマがブナの実で救われるということが信じられないほどに、ブナの実は小さい。
 登山道にちりばめられたブナの実に触れて、そういえば冬眠前のクマが人里を襲ったという不幸なニュースを今年(2005年晩秋)はい
まのところ聞かされていない。