山と旅のつれづれ




旅のエッセー2


                                PC絵画 、小牧山城
このページの目次

(以下七編収録)






  久しぶりの乗鞍高原


  20年ぶりいや30年ぶりくらいかな、乗鞍高原は一度宿泊したことが確かにあるのだが、それにしても記憶の中 に子供達が出てこな
い。新婚当時ではなかったと思うが、其の頃この高原の宿泊施設は、もっともここに限らずどこの温泉 街などでも食事を出前で調達して
いるところが多かった。
 高度成長の時代、レジャーも華やかだったが、客を受け入れる旅館など宿泊施設も金儲け主義に 突っ走って、いいかげんなところが
多かった。飯だけ炊いてお釜こと旅館に納品して大もうけしたという話とか、魚の塩焼きばっかり持って回っ たとか、てんぷらばっかりそうしたと
か。

 当然我々お客は品数ばかり多い冷たい料理を酒の勢いで流し込んだ時代があったと言っても過 言ではない。
立場が強くなると商売と言うものは大体こんなものなのだ。
 当時この高原の宿泊代がうろ覚えだが一万円だったと記憶している。それが何十年も経ったこの 日9500円、内容は当時より数段上
だ。

 もちろん同じ旅館ではない。こうして見ると、一時繁盛した飯炊き屋、魚焼き屋、天ぷら屋その他 はバブルに踊った時代のおとし子だ
ったと言うことか、バブル景気の崩壊とともに泡と消えたに違い ない。
 さて、牧歌的なムードのこの高原は幸い昔と殆ど変わらなかったのが救いだ。

 ところで、この高原のメインロードを奥へ奥へと進むと乗り鞍岳山頂近くの畳平へとつながる。
 平湯方面から高い料金払って入山するのと違って、こちらは無料なのだ、だから終点近くの合流点 では高い料金払って来た車とただ
で来た車がいざこざを起こす事があると聞く。
 この道路、何でただなのかと言うことだが、戦前戦中、山頂には高冷地対策上の軍事施設があ り、そのための道路だったという。

 有料を前提にして建設されたもう一方の道路【乗り鞍スカイライン】とは基本的に違う。
 多分利用料を徴収する法的な根拠が存在しないということだろう。
 それにしても同じ所へ到達するのに一方は高い料金を払って、もう一方はご自由にどうぞというの はおかしな話だ。
 その高い料金の乗り鞍スカイライン、建設費の償還が近づいて無料化するという、そしてそれを機 会に一般車の乗り入れを制限し、
電気自動車など無公害ないしは低公害車による公共輸送に切り 替えることになるらしい。時代の流れだろう、当然の事だと思う。

 そういう訳で今回の山岳ドライブはこの山では多分最後の機会になることだろうと思う。
 車で山に登って、いつも感じることだが自分の足で時間をかけて頂点に達した時の、あの爽快感は どうしても得られない。
 たぶん、身体が疲れていないからだと思う。適度な疲れ或いは時には身体を投げ出してしまいたく なるほどの疲労感と達成感は車の
両輪のようなものだ。

 同じところへ労せずして達した時と、大変な努力の結果としてのそれとでは経験的にまるで違う。
 そういうことが分かっていながら、そこに頂上に向かう自動車道路があると抵抗なく乗り入れてしま う。そうして少し後悔している。
 確立五十パーセントの天気予報にしては信じられないほど良い天気だ。

 季節は7月。下旬からは小中学校の夏休みが始まる。
 現役社会人の夏休みもそろそろ始まる。私ら半自由人はしばらくは旅を遠慮しよう。各種の料金が 高くなるし、それに何処へ行っても
込み合うし、その気になればほとんど何時でも行動できる私たち は、あえてこの時期を選ぶ必要はないのだから。退屈な夏の始まりで
す。





  

四国紀行

  2002年6月 。高速道路の広いトンネル、と言ってもこの地域には山は無いと思われるので街の中の高速地下道だろう、地上に踊り
出ると突然巨大なタワーに眼を奪われる、明石海峡 大橋だ。
 世界最大の吊橋。人間はこんな凄いものをつくってしまって良いのだろうかと、一瞬考え込んでしまう。曇天の空は橋塔の上部をうっ
すらと覆っている、そのことが一層この 橋のスケールを強調している。

 この橋の工事が阪神淡路大震災の引き金になったのではないかと、一部でささやかれているのが素人考えだけれど、説得力がある
ような気さえしてくる。
 地震エネルギーの発散が何十年か早く起きてしまったなどと本気で想像してみたくなるほど、この橋と震源の位置が近接している。
 それにしてもこの巨大橋に行き交う車はまばらだ。維持経費だけでも巨額になると思うのに、本州と四国の間には三本もの巨大橋を
作ってしまって、この先どうするのだろ う。

 建設費【財政投融資資金】も借入金だというのに、通行料収入はその借入金から発生する支払い利息の半分にしかならないという、
どうしようもない状況なのだ、それでど うやって民営化するのだろう。
 バブル景気の落とし子は国民に何代先まで税負担を強いるのだろうか。

 橋の下でカーフェリーが動いているのが見える。営業用の大型車などは経費を考えればフェリーのほうが得なのだろう。
 観光客は通行料がバカ高いなどと文句言いながら、それでもありがたがっていられるけれど、運送業者は、あくまでビジネスなのだか
ら選択せざるを得ないのだろ う。本来はこういう業者のためにあると思うのに。

 北淡町、野島断層保存館

 地震による断層面がそのまま保存されている。
 この地域を通過するときは、やはりここは見ておくべき場所だろう。
 地震の実態。そしてそこから立ち直った人々の苦難の足跡を目の当たりにすることは旅人としての義務か責務のような気がする。
 見方によっては、地震エネルギーが放出してしまったこの地域は、この先百数十年は最も安全地帯といえるのではないかと思う。
 犠牲者、被災者の気持ちを考えると不謹慎だろうか。

橋の真上から観た鳴門の渦潮。渦は目まぐるしく移動しながら成長しては消える。
右は大鳴門橋の下部(はらわた)。海峡の真上まで観光歩道が設備されている。
 大鳴門橋―渦の道

 鳴門岬から大鳴門橋の路面の下、つまり橋のはらわたの中を四百五十メートルにわたって歩道が設けられている。
 両側は金網フェンス、足元は要所要所に分厚いガラスがはめ込まれていて渦巻く海面は四十五メートル下だ、無数の渦もそれに近づ
く観光船もはるか上のガラスを通して 見ることが出来る、足元がぞくぞくするようなスリルだ。 ふと思った、ガラスの床にしゃがんでいる
と、あれだ!!!!

和式のトイレだ、・・・また不謹慎なことを言ってしまったかな。
 すり鉢状の渦は真上から見ると平面的で立体感に乏しい。船の上から見たほうが迫力があると思う、しかし四十五メートル上からは
豪快な潮の流れと各所で渦が発生し移 動しそして消滅する渦潮全体が見渡せるのが魅力だ、おまけに渦を追っかけ回す観潮船の挙
動を観察するのも楽しい、スポーツ観戦をテレビで見る時ではなくて、スタジア ムで全体を把握しながら手に汗する時に似ている。 それ
に時間を気にせず自分の足で行動できるのがいい。 観光船はそういうわけには行かない。

 阿波の土柱

 昔、吉野川が現在よりも150メートルも上を流れていた時代があったという。そのころの体積土が山と化し、そして風化侵食によって
刻み込まれて出現した奇観だ。 土と礫が入り混じるもろい地層が深く深く侵食されて巨大な土の柱を形成している。こういう奇観は厳密
には世界に三箇所しかないという。 しかも他の二箇所は容易に人が 入れる所ではないというので、事実上ここだけの奇観ということに
なる。鍾乳洞の、上からぶら下がっているあの鍾乳石群を巨大化して上下をひっくり返したような形をしてい る。
 ただし、その一本一本がほんとうにもろい土と砂と礫だ。

 意外に知られていないのは「土柱」という言葉の響きにあるのかも知れない。
「どちゅう」と読む。或いは「つちばしら」としてもやっぱりぱっとしないような気がする。ある観光ガイドブックは【何ともケッタイナ風景】な
どと、酷評ともとれる言い回しをしてい る。 とかく日本人の多くは、外国人でもそうかも知れないけれど、あるがままの自然の景観や奇
観の存在だけでは魅力を感じない人が多いようだ。
 私はそういう風景が好きだ。

  高知城

 我が故郷、尾張の国岩倉(愛知県岩倉市)の出身と言われる戦国の武将、山之内一豊が妻(千代)の孝徳に支えられて出世し、やがて
一国を与えられた居城だ。 山之内家はその後、代を重ねて幕末この藩からあの、竜馬を輩出する。
 坂本竜馬は名勝「桂浜」の松林に囲まれた丘の上で、今も太平洋の彼方に思いを馳せている。

 四万十川

 河口部は広く大河の様相だ。非常に特徴的だと思えるのは河口に扇状地や広い平野がほとんど見当たらないということだ。海に接す
るところまで山に囲まれていて素晴 らしい景観を現出している。

 今では、自然河川として大人気の【四万十川】だが、もともとこの川は流域の人口が少ない上に、発電用のダム建設に向かない山岳
地形が幸いして現在があると言われて いる。岐阜県の長良川も同じような理由でダムのない川を維持していると言われている、しか
し、長良川の場合は現在有力な支流に大きなダムが建設中だ。何回か行った ことのある景勝地だけに、残り少ない大事なものがまた
失われるようでさみしい。(長良川支流に建設中のダムは反対世論に屈して現在は中断、中止している )

 四万十川の堤防に立って、しばし詩人になった気分でたたずんで見た、しかし、旅のつれあいは車から降りようともしない、「何も無
い」と言いたかったのだろうか。私はこ のとき、ふいに【一人旅】を思った。
 孤独と引き換えに自分本位で気楽な一人旅を、いつかしてみようと思った。


足摺岬。断崖上の灯台。岬一帯には遊歩道が整備されていて
海岸特有の常緑植物ウバメガシの森の散策もたのしい。

 足摺岬

 半島の中央部の目が回るほど曲がりくねったドライブウエーを走り抜けた先に暖地性の照葉樹林に覆われたトンネル状の道に突入
する。 岬の一歩手前は誠に深い森林だ。それも杉や松などの針葉樹ではなくて亜熱帯といってもいいような常緑照葉樹林だ。
 岬の先端は意外に見所が多く、狭いが遊歩道が整備されていて、黒潮に洗われる断崖絶壁を堪能できる。しかし帰ってきてから地図
を広げて見て、見残したところが意外 に多いことに気が付き後悔してしまった。

 事前によくよく調べて来たつもりなのに、岬というのは突端という先入観があるためか、一番先を見ておおかた見たと思ってしまう。
 まあ、またの機会に残しておいたと思えば良いではないかと自分を慰めている。
 北の岬を「さいはて」といい、南の岬を明るいイメージで捉えることが多い、
 しかし、岬というのは東西南北どこに行っても、そこは「さいはて」だ。
 旅人を少々感傷的にさせる、それがいい。

 竜串、見残し海岸

奇岩というより特異な岩盤を見せる「竜串」海岸、満潮に近いことと海が荒れていて容易に近づけないのが残念だ、旅にはこう言う事は
よくある。
  弘法大師様も海が荒れていて上陸できず、見残したと言われる「見残し」海岸
この日もやっぱりお大師様に見習ってか、見残さざるをえない気象条件に諦めなければならない事になってしまった。

小さな半島の先でありながら陸上からは容易に近づけない地形のために、近くの竜串の漁港から船で行くことになるのだが、波が荒く 
 接岸困難ということで欠航になってし まった。
 僅か10分の海の向こう側なのに、海というのはこういうことが珍しくないのだ。
 楽しみを先に延ばしてくれたということにしよう。


歌麿

 四国の旅――第二部――

 ここまで旅の前半は主に自然の風景を楽しんできたので、後半は趣向を変えて文化施設めぐりです。
 風の博物館、歌麿館 は山深い高原の町、肱川町にある。ダム湖畔の道を上り詰めた先にぱっと広がる緑豊かな山村集落だ。
 「風の博物館」は何となく学校の教材施設のようだが、併設されている「歌麿館」は注目に値する堂々たる浮世絵の美術館だ。その道
の専門家や研究者の来訪も多いとい う。

 昨夜の宿が近かったせいもあって、朝9時の開館と同時に入館したが、鑑賞中他に一人も来訪者がいなかった。梅雨の季節のウイー
クデーということもあろうけれど、もっ たいない話だ。
 それにしても、こういう一種都会的ともいえる施設が山村に出現するということは時代が変わったということか、喜ばしいことだと思う。
 ご健闘を祈らずにはいられない気持ちだ。

 内子の町並み

 和紙と木蝋の商いで明治大正の時代まで栄えた町だ。
 土蔵や白壁の家並み、豪商の商いの様子など興味深いものがある。栄華をしのびながら散策していると、すっかりタイムスリップして
しまった気分だ。

 和ローソクの原料、「はぜの木の実」は正真正銘の天然樹脂だ。【プラスチック=合成樹脂】に押されっぱなしだったこの天然樹脂は、
最近になって見直されつつあるとい う。化粧品の原料とかいろんな分野での安全性の高い柔軟材として利用されているそうだ。ここで
はただ一軒だが昔ながらの和ローソク屋さんがあって製作過程も見ること ができ、静かな町並みの観光に一役かっている。

 歌舞伎劇場、「内子座」は白壁の町並みとは少し離れた静かな住宅地の中に大きな建物がひっそりとたたずんでいる。
 あの回り舞台の下【奈落】の果てまで見せてくれる、一見の価値ありです。
 この歌舞伎劇場は現在も時折、だしものがあるという、現役なのだ。

 道後温泉

 言わずと知れた「坊ちゃん温泉」ここまで坊ちゃん坊ちゃんしてると、漱石も坊ちゃんも迷惑しているのじゃないかなあ。
 それはそれとして、松山へ来たらやっぱり道後温泉です。と言っても一流温泉地は個人旅行者には殆ど例外なく宿泊費が高いので、
けちけち旅行の私たちは昼間の通過 地点としてスケジュールに組み入れることにしている。

 さて、道後温泉本館。長い伝統に裏打ちされた共同浴場だ。宿泊施設はない。二階休憩席で白人系外国人と臨席した。正真正銘の
外国人だ。そしてもう一人、外国人を装 った日本人ヒッチハイカーがいた。
 大げさな身振り手振りで本物外国人に英語でまくしたてている。お互い一人旅なら一緒にヒッチハイクをやろうと言うことらしい。ところ
が相手に通じないのか同行が嫌なの か、ほんとに迷惑そうだった。

 いくらジェスチャーたっぷりでふるまってみても、それに何となく外国人的な風貌に恵まれた?人物でもやっぱり不自然さが漂ってい
る。脇で観察している私のほうが恥ずか しくなる思いだ。
 隣でやりとりを聞き流していた私のかみさんが、英語で二言三言声をかけて見たら通じたらしく、このあと「かづら橋の祖谷渓」へ行く
予定だという。
 挨拶らしき言葉を残して軽やかに席を立っていった。
 このあと折り畳み自転車に跨って、片手をいっぱいに上げてにこやかに、声をかけながらさっそうと走り去った。
 湯上りでほてった私の身体に、さわやかな風を感じた。

 瀬戸中央道

 四国の旅もこの橋を渡ると終わる。
 五日目になってようやく雨になった。6月にしては天気に恵まれていた。
 この橋もやはり閑散としている。ところでこの橋、JR線の列車が車道の下を通過するとき、私の記憶違いでなければ何と、五メートル
も沈下するという。 毎日何回となく沈下浮上を繰り返している。吊 橋なのだから当然なのだろうけれど、そんな説明を聞くとずっこけた
くなりそうだ。
 この橋二回目の利用で少々感動が薄れた感じだ。

  姫路城

 旅の帰り道の道草です。 世界文化遺産として外国にも紹介されているらしく、ウイークデーのこの日はまるで城が敷地ごと海の向こう
に移転してしまったかと錯覚するほどに、白人系の外国人だら けだ。もっとも大陸系などのアジア人観光客は人種的に目立ちにくいだ
けかも知れない。だとすると外国人の比率は更に高いことになる。

 そんな中で何となく遠慮がちになっている自分がおかしくなってしまった。
 観光地などで、よく感じることなのだけれど外国人観光客のほとんどが数人程度のグループで行動していて日本人の団体観光のよう
な光景がほとんど見られない。自由に 気ままにそしてのんびりと楽しんでいる。

 旅行代理店などのツアーの広告宣伝は、勝手に送られてくるDMや新聞広告、折込ちらしなど、うんざりするほど目にするけれど、あ
れは日本的なやりかたなのかと思ってし まう、どうなんだろう。
 何事にも「効率」を持ち込み、旅行の日程まで限られた時間にいかに多くの見どころを見て回るか、ということが団体旅行商品の価値
を決めているような気がする。何のこと は無い、それでは仕事の延長ではないか。

 遊びは、外国人観光客のようにゆったりといきたいものです。
 もっとも私は以前からそうしているけれど。
 白鷺城の別名がある城だが、白壁がかなり汚れているのが気になった。


姫路城。写真をいじくり過ぎて荒くなっています。

 旅のおわりに

 さあ、帰らなくっちゃ、三百数十キロ雨のそぼ降るハイウエーをひた走ることになるのだ。
 五六日とか一週間近く旅をするとき、「行きは楽し、されど帰りもまた楽し」なのです、留守番電話の遠隔コールで異常がないことを確
かめてはいても、 我が家が【お変わりなくそこに建っている】ことを確認してほっとする。

 旅のあしあと

明石海峡大橋―野島断層保存館―大鳴門橋、渦の道―阿波の土柱公園―高知城―土佐中村、四万十川―足摺岬―竜串―大堂海
岸―肱川町、風の博物館歌麿館 ―内子町、内子の町並み―松山市、道後温泉―瀬戸中央道―姫路







富士登山


補足説明の必要なし。



 平成11年7月、待望の富士山に登った、記憶を辿って書いている。
 五十九歳、或いは人生最初で最後のチャンスかも知れないと思いながら。しかし、無謀な行動だった。
 朝早く出発して十時前ごろ太平洋を見下ろす五合目に到着。一時間ほど高度順化に時間を費やし て、いざ出陣、これがいけなかっ
た。 五合目といえども標高は2400メートル。日本アルプス連山の頂上まで数百メートル高度なのだ。 高度順化が不十分だったと思われ
る。
 歩き出したのが午前11時、山頂を目指すのは殆ど私独り、下りて来る人をかき分けかき分け、そ れでも3時ごろだったか生まれて初
めて富士の火口を見た。

 そこまでは良かった、大感動の3776メートルだ。天気もまあまあだし下界は殆ど見えなかったけれ ど火口を覗いただけで大満足だ。
体力的にもまだまだいけると自信もついた。
  ところが下山を始めると頭がづきづきするし、気分は悪いしではらはらしながら、やっとの思いで 五合目に置いた車にたどりつい
た。これが高山病だということに、そこでようやく気がついた。

 早く気が付けば途中何軒もある山小屋で酸素ボンベのお世話になることで、ある程度解決したの に、単独行動で周りを気にせず冷
静に行動してきたつもりなのに、単独行動は周りからの助言にも恵 まれない訳で危険な行動と言わざるを得ない、無事だったから良か
ったけれど。

 車で待っていたかみさんとその夜は車中泊。夜中に車が続々とやってくる。
 明朝早く歩き出す人たちが前夜に来て仮眠するらしい。私は多くの人たちとはまるで反対のことをや ってしまったようだ。ま、私らしく
ていいか。

 この富士山、山頂にぽっかりと典型的な火口を開けているが、分かっているだけで過去七回と言 われる噴火活動の中で山頂火口か
らの噴火はいちども無いという。意外な感じだ。その形からは 【ここが火口だよ】って最大限の主張をしているのに、また、山頂からの
噴火を繰り返した結果とし て、あの流麗な稜線が形作られたと素人目には思いたくなるのに。
 富士は仰ぎ見る山、足で登る山ではないとよく言われるが、それとて足で登って見なければ分かる はずが無いではないか。

 広大な裾野を従えたこの山は、その裾野の部分の植生は言わずと知れた火山性で豊かとは言え ないけれど、まことに深い森に囲ま
れた湖が点在する一大リゾートエリアになっている事は周知の通 りだ。五合目から上の山岳地帯の巨大なピラミッドの山容は、歩いて
みても予想に違わず変化に乏 しい岩肌ばかり、ほとんど一定の角度でひたすら登るが、時折目にする火山性の高山植物が疲れ をい
っとき忘れさせてくれる。

 視界を遮るものが無いこの山は、当然だがどの位置からも下界が丸見えだ。
 こういう山はそんなに在るものではない、長所であり短所でもあるということか。それと山頂の測候 所らしき人工物が歩き始めの段階
から丸見えだ、これは辛い。なぜかというと見えるものは実際より 非常に近く感じるものだから、歩いても歩いても近いままだ、近づい
て来るのではない。変化がない のだ。

 空気が薄くて身体の動きが緩慢になる分、よけいに辛く感じる。 ま、しかし11時から歩き始めて19時ごろには五合目まで下山してしま
ったのだから、けっこう気力と 体力はまだまだ―-充分?ではないにしても捨てたものではなさそうだ。
 あくる日は箱根野外美術館をたっぷり歩き回ってしまった。
 足というのは疲れついでに、まだまだ使えるものなのだと実感している。








西の湖の舟遊び



新緑の水郷、西の湖。風情に満ちた屋形船(PC絵画)

  

 琵琶湖の中部東岸、近江八幡市と蒲生郡安土町にまたがる湿地帯。母なる湖「琵琶湖」と水路で むすばれた大きな沼「西の湖」とそ
れにつながる何本かの水路、そしてその両岸に密生する葭原、 ゆったりとたゆたう時間がそこにある。
 昔、この一帯は「ヨシズ」の大生産地だったという。今でも僅かだが生産されていると聞く。
 この水路を昔ながらの和舟でゆっくりと二時間ほどでめぐっている。

 特に観光施設として整備されているわけではないので初めから終わりまで、まことにのんびりしてい る。
 想像するに元気な地元のお年寄り達が組合のような組織を作って、運営しているようだ。受け付け が無くて、切符売り場もない、七八
人の客が集まると先ず舟に乗せる。ゆったりと動き出す。和舟の 「櫓」というのは誰が考え出したのかシンプルでまことに合理的にでき
ている。

 昔の外国映画に出てくる海賊船などに見るような、船腹にずらり並んだ「オール」で水を後ろに掻き 出すやりかたと違ってあれは、ス
クリューなのだ。
 船頭さんの櫓のこぎ方にしても、ゆっくりとした回転運動だ。
 船頭さんの体の動きに合わせて舟が左右に、ゆるーりゆるりと揺れながら音も無くすべるように動 いて行く。静寂のなかに櫓がきしむ
音と、船頭さんの力いっぱい櫓をこぐ時の息遣いが伝わってく る。

 何でも無いようだが私には、えもいわれぬ雰囲気だ。ここで船頭さん私に、「料金集めて下さらん か」ときた。多分私が一番信用でき
そうな人物に見えたのでしょう????。はいよっ、と集めて渡したけ れど面白い経験でしたよ。
 この時私は前述の水郷保存組合みたいな組織のメンバーがボランティアやってるんだな、と思っ た。素人っぽさがかえって好もしい
のだ。

 全然違うかも知れないので聞きただすことは遠慮した。楽しいひとときが台無しになるかも知れな いことを恐れたから。
 ここで信じられないような光景に出くわしてしまった、エンジン音を響かせながら大勢の客を乗せた 船が近づいてきたとおもったら、瞬
く間に追い越して行くではないか。
客達は手をふってにっこりしながら優越感にひたっているようだ。
何という無作法な。【はやてのようにやってきて、はやてのように去って行く】、、、

  観光バスツアーの一団らしいが、旅というものが何なのかわきまえぬ行動に悲しくなる思いだ。
 遊覧船の在り方もふたつに割れているようで、我が船頭さん多くを語りたがらないようだった。この 船頭さん、岸辺の釣り人から「名調
子」を要求されたり、なかなかの人気者のようだ。
 さて、水郷を見下ろす八幡山、山の頂上に位置する「瑞竜寺」

 ここは悲劇の戦国武将、豊臣秀次の居城跡だ。
 海と見紛うほどに雄大な琵琶湖の大観と、それに付随するように寄り添う水郷地域、その狭い水 路にさっきの和船が浮いている。凝
視すると僅かに動いているのが分かる。
 あの老船頭さんの印象的だった息遣いが、私の耳の奥でまだ静かにそして力強く躍動しているよ うな気がした。









  奥日光戦場ヶ原、東照宮

 ついに6月になってしまった、じめっぽい季節の始まりだ。楽しみにしていた旅行が無事終わっ た。
 今回の旅行は少々強行軍だった。なにせ、行きが430キロ、帰りが510キロ、その他を含めてほ ぼ1000キロも走ってしまった。
 吹き割れの滝は目的地に近い寄り道、群馬県利根群利根村にある。 この滝は縮尺版ナイヤガラの滝だ。片品川の中流域というか、
わりあいに広い川幅の中、川床が断 層のように落ちていて不似合いなほどのスケールを見せ付ける。おととし「平成12年」のNHK大河
ド ラマのタイトル映像としてお馴染みのあの、滝だ。 この国の、自然の中の滝としては異色の存在だろう。

 奥日光、湯の湖から流れ出す、湯滝、
 これまた特徴的な滝だ、100メートル位はありそうな滑り台のような岩盤上を白泡をたてて、滑り 落ちるさまには圧倒される。まことに
圧倒される風景だ。しかし、この滝はその名前からして損をして いる。 「湯滝」では、岩の間からチョロチョロ流れ出るささやかな温泉の
滝のイメージだ。 この滝は「湯の湖」をせき止めた結果の人口の滝かと思われる。 人口であろうと自然であろうと景観に変わりは無
い。

 さてその後は、例によって、てくてく歩き、旅の途中、一日はこれをやらないと収まらないのだ。 
 日光戦場ヶ原、をほぼ一日中歩いた。 湿原あり、ゆらりとした川あり、白樺やカラマツののびやかな林ありで大平原の風情だ。しかし
ここは 標高1500メートルの大高原なのだ。それはよかったのだが、修学旅行の一団が、次から次と押し 寄せるのには、まいったまい
った。
 荒れる中学校、というけれど、みんな元気に挨拶してくれる。ほほえましくて何処が荒れているの か、想像さえし難い。素朴で無邪気
そのものだ。だけどーー何百人に及ぶ子供達から挨拶攻 めでは、正直いって、嫌になる。 いいかげんに黙って、通りすぎてくれないか
なー 。
今日はこのくらいにしておこう、また次の日に続きを書きます 昼飯だーってお声がかかりそうだから
 明日にしようと思ったけれど、時間があるので、やっぱり今日書きます。
 日光まで来たのに、東照宮に立ち寄らないのでは、家康大権現様に失礼だし、帰りの交通安全の ためにも、拝んで行きましょう、とい
うことで三日目はそういうことになりました。

 時間の関係で、中禅寺湖は素通り。 華厳の滝は30年前に来たことがあるのだが、今回はあの 時ほどの感動がない。
 やっぱり初見の感動には、変えがたいものがあるのだと思う。
 イロハ坂でよっぱらって、東照宮着。 ここでもやっぱり同じ、30年前の記憶を大事にしておいたほ うが良かったような気がする。 し
かし、そういう感想も再び来てみなければ解らないことない。だ から、来てみてよかったのだろう、色々な考え方があるものです。

 それにしても京都や奈良の神社仏閣が広々とした敷地の中に、悠然とたたずむのに対して、徳川 の権力の象徴が、狭くるしい中に、
ゴチャゴチャと詰め込まれているようで気になる。 修学旅行の団体がやたらと多く、人間だらけなので狭く感じるのかも知れないが。
 陽明門にしてみても、やたらと飾り立てて、あまり品が良いとは思えない。

 陽明門といい秀吉の茶室といい、また藤原三代の中尊寺金色堂、足利時代の金閣寺と言い、みん なキンキラ金で「渋さ」というものを
感じない。
 政治権力は光っていないとダメなのだなーきっと。
 やっぱり俺はへそまがりかなーーーーー
 あーしまった、日光杉並木、あの下歩くの楽しみにしていたのに、忘れてしまった。 平行するようにして高速道路が走っている。平日
のせいか、ほとんど車が走らない片側二車 線、こんなところを快適に走っていると、目的の一部をポカーーッと忘れてしまう。







  紅葉蛇峠山雑記


  長野県南信州地域、ここは愛知、静岡両県にほど近い地域だ。
 広い長野県の中でも最南端であり、暖かいイメージの静岡県、それに愛知県と境を接していて長 野らしくない地域と勝手に思い込ん
でいた。ところが車のナビゲーションは標高の数字を惜しげもな くどんどん上げてゆく、遂に1100メートルを越えた。

 下伊那郡浪合村、その中心治部坂高原スキー場のメイン広場から企業の保養所、同じく個人の別 荘が点在する林間をすりぬけると
「馬の背」駐車スペースに着く。10台ほどしか止められない小さな 駐車場だ。馬の背とはよく言ったもので、本当に巨大な馬の背中にい
るような大らかな展望台だ。

 特に観光開発がされているわけではないし馴染みが薄いのかウイークデーのこの日は私達夫婦 の事実上貸しきりだった。そこから
歩くこと50分、ちょっと物足りない山登りだが多忙中で運動不足 の足にはちょうどいい具合だ。 リンドウやマツムシソウが名残の秋を惜
しむかのように咲き残っている。

 この日は10月18日、紅葉にはまだ早いと思い期待はせず足慣らしが目的だった。それに多忙中 のストレス発散をやらないと気分的
に面白くない。私のストレス解消方は歩くことなのです。
 ところが、登ってみたら1640メートルの山頂から見はるかす山々は赤と黄と深緑のコントラストが見 事な世界ではないか。大感動だ。

 しかし、山の紅葉を見るとき私はいつも人生の黄昏を思ってしまう。
 鮮やかに存在を主張した後、残らず散りはてる。60代は人生の紅葉期だろう。

 こんなに自由でこんなに元気で、何の憂いもなく欲さえ持たなければ幸せの真ん中にいる。そしてそ の後は・・・・
 話題が変わる。

世間では、「死ぬまで現役」仕事第一とがんばっている人は多いけれど、私は仕事から解放される ことこそ本当の意味で自由で人間
的だと信じている。 そのためには、「この先そんなに長くない一生の終わり」を意識していたほうが間違いが無いと思 う。
 終わりを冷静に見詰めていてこそ本当の意味で現在の楽しさを満喫できると考えている。
 同じことを折に触れて何回でも気持ちの中で反復しながら、 しかし、そうすることで自分の考え方が固まってきていると実感している。

 説得力のある理由を作って仕事をやめたいと言うと【世捨て人に自分の意思でなることは無いだろ う】と、よく仕事仲間たちから言わ
れて来たが、そう言う事ではない。 そこから我が世の春が始まるのだ。
 ところが、自分で自分に定年退職を言い渡すということは、簡単そうでこれが中々決断できないで いる。

 この文章を書いているとき、宅配便が届いた。66歳で病気で逝った現役自営業者【私も零細自営 業者】の四十九日の香典返しだっ
た。体調の異変を訴えて検査入院し、その二ヵ月後、物体になっ て帰宅したその葬送のお返しだった。とかく、自営業者は自分の健康
管理がおろそかになる。 仕事人間のまま命の終わりを自覚したとき、さぞや無念だっただろうと想像に余りある。
 タイミングがいいのか悪いのか、複雑な気分だ。



  山の話に戻る。

 この山は、その昔、戦国時代武田信玄軍の狼煙台があった所だ。 その時代の通信施設と言えよう。その山が現在は大掛かりなレーダ
ー雨力計測設備とテレビなど の電波中継施設の頑丈な鉄塔が林立している。 昔も今も重要な情報通信中継基地なのだ。
 またまた話が戻る。どうもいけない。

 山麓の別荘群はこの地域が愛知県境に近く、自動車王国豊田市と適度な距離関係にあるのだろ う。見回したところでは殆どがトヨタ
関係だ。

 法人も個人関係も立派な別荘ばかり。不景気知らずのトヨタグループならではだろう。バブルの崩壊 以来「中古別荘売ります」という
看板は大別荘地で普通に見られる時代だが、ここでは全く見当たら なかった。
 こんな所でバンガローみたいなちっちゃいの作ってしまったら恥ずかしくてやってられないだろうな ー。
 どーでもいいことだけど。
2009年現在、不景気知らずのトヨタも様変わりして巨額な赤字を抱え込んでいる。

 世の中一寸先は分からないものです。






  サンセット


PC絵画です。写真ではありません。
 

 10年ほど前北海道知床半島の付け根、ウトロの漁港を見下ろす高台で偶然にオホーツク海に沈 む夕日を見る機会を得た。
 広い北海道を疾駆するライダー達の休息の場でもあるらしく、マシンを休めながら多くの完全武装?のライダー達が、雲 ひとつない水
平線を静かに凝視していた。日はやがて水平線に近づきそして没した。
 ただそれだけ・・・・・トワイライトとかサンセットとかロマンチックな響きはみじんもなかった。
 お日様が沈んだ、当たり前の出来事。それ以外に何も無かったのです。それから数年後、能登半島 の付け根、千里浜の松林から日
本海に沈む夕日に接した。

 この時も以前と全く同じ、何でも無い日の暮れなのだ。
 「旅人は何でこんなに沈む夕日を見たがるのだろう」・・・というのは北海道の時以来の疑問だったの です。
 その疑問が依然として消えない。一日の終わりというひとつの節目としての感慨は当然のこととし て、それにしてもサンセットスポット
にたたずむ多くの人々は、それ以外の何かを期待して静かに、そ の時を待つ風情なのです。 それがこの度、またその機会を得た。

 北陸越前海岸の三国漁港の脇、ここのサンセットスポットは温泉大浴場から夕日を見ようと言うの だ。
浴場からあるいはロビーから日本海が視界いっぱいに広がっている絶好のロケーションだ。
 どうせ時間はあるのだからもう一度だけだまされて見ようと、その時刻を待つことにした。今までの 疑問がいっぺんに解けていくことを
実感した。これぞまさにサンセットビーチだ。 空、と言うよりたなびく雲を真っ赤に染めて、闇が迫る。

 沈む瞬間というより沈んでからの雲の反射、これが感動的なのだ。毎日繰り返される落陽。しかしそ れは見た目には同じことの繰り
返しではないということ、気象条件によって微妙にあるいは信じられ ないほどに変化することをようやく理解したのです。

 漁港の桟橋を重そうなクーラーボックスを肩にかけ、満ち足りた足取りで家路を急ぐ釣り人の動きが風 景に一層の彩りを添えてい
た。
 輝く落日を見ながら思った。「旅に出よう」
 旅のさなかに身をおいている事さえ忘れて