山と旅のつれづれ



旅のエッセー7



                                PC絵画
このページの目次
(5編収録)



の巨樹、そして忘れえぬ養老山地         お伊勢詣り

南九州紀行     上高地、乗鞍高原を歩く   佐渡島の旅

収録終了 旅のエッセイ8へお進みください。








椋の巨樹、そして忘れえぬ養老山地


ムクの木の巨木


  六所神社の椋(むく)の木は濃尾平野の西の端、南北に連なる養老山地の山裾の一角にあるが、巨樹巡礼シリーズ について書く前
にいましばらくは、この地域についての若かりし頃の記憶について語らせていただきます。
 養老山地は「山地」というより山脈で日本列島の山脈の中では、ごく小規模な山脈だが、広い濃尾平野が尽きる位置 に少々大げさに
言えば、屏風のように平地部から屹立し、ほぼ直線状に典型的な連なりを見せ最高峰でも1千メートル に満たない低山だが濃尾平野
の西の端(西濃)と伊勢平野の北端(北勢)を分ける位置にあり、絵に描いたような端正 な山脈だ。

 山頂から見下ろす大展望の平地に幾つか点在する丸い池は戦時中、爆弾の炸裂跡だという話を、嘘かほんとか分 からないが聞い
たことがある。そんな忌まわしい過去があるにせよ、点在する池は現在は水郷とも云える伸びやかで のどかな風景の中に溶け込んで
いる。きっと、灌漑用水としても役に立っているのだろう。

 山脈の北は古戦場関が原に接し、南は僅か四百数十メートルの山頂から伊勢湾に浮かぶ船影さえ望むことができ る。広大な濃尾平
野と木曽川、長良川、揖斐川の木曾三川を眼下に見ながらの、快適な尾根歩きは若かりし頃の山歩 きの、云わばホームグラウンドだ
った。男女十数人のグループで、今ふりかえってみれば、プラトニックでたわいのない 心のときめきに浸りながら山々を徘徊し、或いは
単独でのんびりと山裾から峠越えも含めて東海自然歩道沿いに踏破 した記憶が懐かしい。

 あの頃の若者たちの男女交際は清く、正しく、慎ましく、少なくとも私とその周辺ではそんな雰囲気だったし、そのトキ メキが楽しかっ
たはずなのだ。
 里山や河川敷のグラウンドや郊外のキャンプ場などは、そんな若者たちで溢れていた。いい時代だったとおもう。そ れが今では何処
へ行ってもあの頃若かった面々ばかりだ。現在はちょっとした登山ブームだと云うけれど定年後の自 由人に占められている。また若い
ファミリーの間でアウトドアが大人気だと云うけれど、多くは文字通り「アウトドア」で林 道を辿った山の中で車のドアの脇で七つ道具を
繰り広げてのバーベキューだ。笑っちゃうではないか。

 二十六歳のとき、仕事の独立開業の直前、しばらくは山歩きもお預けだろうと、しめくくりの積りで独りで山頂を目指し ていて、大きな
蛇に進路をさえぎられて立ち往生、潔く下山することにして振り向けば、今歩いてきたその道を塞ぐよう に別の大きな蛇が横たわってい
るではないか。
 秋が深まり気温の低下と共に変温動物の蛇は陽だまりを求めて明るい登山道で体を温めるのだろう。進退窮まって 思案しながら、そ
の光景が私の独立開業後の運命を暗示しているような気がして、ぞっとして背筋に寒気を覚えた記憶 が懐かしく思い出される。

 如何に小さな商売とは云え、独立自営に踏み切るということは、既存の業者のいわゆる領域を侵食することであり、 そうたやすく受け
入れてくれるはずもないし、失敗すれば惨めな敗北の後、行き着く先は社会の隙間でうごめく一介の 職人でしかない。  もはや、退路
を断って行動をはじめたときに、前も後ろも塞がれてしまうと、たかがヘビの偶然とは 言え暗澹たる気持ちになるものなのです。蛇の一
匹や二匹、小石を投げつけてやれば音も無く退散してくれるのに、手 も足もないあの風貌が人の感情をいやが上にも高ぶらせる。

 椋の木の巨樹を観に来たはずなのに、気がついてみれば青春と云えたかも知れない若かりし頃の、心のときめきと 若いがゆえに仕
事への情熱に燃えて充実していた心地よい緊張感の中に、何時の間にかタイムスリップしている六十 六歳になってしまって、広々とし
てきた額を帽子で隠している自分がいた。

 そんな懐かしい過去をひもときながら、仕事をめでたく卒業して自由人になった今、半世紀近く関わってきた職業を通 じて興味を覚え
た森や林や自然の営みにつながる巨樹を巡る小さな、或いは時には遠方にも足を伸ばす旅を続けま す。

 本題の椋の木は山脈の一角、孝子伝説で名高い養老の滝にほど近く、山すそにひっそりと佇む古刹竜泉寺に隣接 するように、小さ
なやしろ六所神社。椋の木の巨木は狭い片隅に溢れんばかりに根を張って堂々と天を目指している。

 一部に朽ち果てはあるものの、旺盛な樹勢をいまだ維持していて若木の勢いさえ感じさせる伸びやかな梢を展開して いる。神社に木
が寄り添ったのか、木に神社が寄り添ったのかどちらが先かは分からないが、多くの巨樹たちは原生 林や自然林の中ではなく、神社
や仏閣に守られているのが普通だ。

 密集する自然林では屋久島のような湿潤で特異な環境の地域は別にして、一部が突出して成長するような環境には 中々ならないの
だろう。或いは自然林、原生林と云われるような深い森はおいそれと人が踏み込めないはずだから、 実態を知らないだけのことかも知
れないが。いずれにせよ、椋(むく)の木という木材としてはあまり馴染みのないこの 樹は、各地に巨樹大木は存在するものの、若木の
林などにお目にかかったことがない。或いは気がついていないだけ のことかも知れないが、椋の木といえば幼木や若木についての意
識を通り越して巨樹を連想してしまう。不思議な存在 だと思っている。
 巨樹巡りの筈が思いがけず若き日の追憶になってしまいました。







お伊勢詣り


宇治橋。俗界と神の世界の境界(パソコン絵画)

 1月下旬。遅ればせながらの初詣です。たぶん、同神宮のお参り納めでもある。
 顔の見えるインターネット仲間として、地方の町には珍しく二百数十人を擁するシニアグループ内のサークルメンバー としての行事の
一環である。

 名古屋駅西口はバスツアーの集散地で、朝のひとときは広くもないスペースが各種の団体客がひしめき、大きなバス は時間に正確
に現れ、迷惑な路上駐車を最短時間でこなし、速やかに客を吸い込んで次々と発車していく。
 発車に至るまでのガイドさんや添乗員の無駄のない立ち回りには感心する。

 一般募集のバスツアーに十数人のグループで参加すると、大抵は一番後ろの座席を指定される。車酔いに弱い私は それが気にな
る。長い車の最後部は上下の揺れが大きく、会話に夢中になっているとたちまち軽い吐き気をもよおす。 自分で運転中は絶対に酔わ
ないのに助手席を温めていると酔ってしまう。
 そんなとき、わたしは正面を見てマイカー運転のときと同じような気分を保つか、遠い風景を眺めることで気分をまぎら わしている。

 一般募集の中に、まとまったグループが加わると其処だけが賑やかになる。ガイドさんやその他のお客さんには、さ ぞかし迷惑なこと
だろうとおもいつつも、グループの十数分の一に過ぎない自分の存在の軽さに甘んじていた。とかく、 賑やかになり過ぎる一団を最後
部にまとめる配慮には理由があるようだ。
 日本人の大らかな信仰心は、八百万(やおよろず)の神を見つけてまことに平和にお賽銭を提供していると言ったら 神様に叱られる
だろうか。

 各地の神社仏閣の域内に入ったら、やたらと賽銭箱が目に付くのには面食らう。そのくせ何の抵抗もなく自然に受け 入れている。小
銭を持たずに出かけて後悔しながら、時には500円硬貨や、その用意もなくて泣く泣く1000円札を差 し上げるときなどは、正面の神
様と背後に居並ぶ参拝者にさりげなく見せびらかして投函することになる。

 一月も下旬でウイークデーとは言え、さすがにお伊勢さんは賑わっている。
 ただ、不思議な事に神宮の境内よりも、おかげ横丁のほうが格段に人が多い。此処まで来て神宮詣でを省略してしま うちゃっかりも
のがいるのだろう。
 典型的な物見遊山風景だ。こんなところも日本人的でいいのかもしれない。

 さて、伊勢神宮は平成25年の式年遷宮に向けて、既に動き出している。
 神宮の造営物のほとんどを20年ごとに建て替えるという伝統行事だが、ヒノキの特級材を一万本も消費するという、 壮大な無駄を批
判する世論などは一部外国のメディアを除けばまったくない。

 本来は広大な神宮林が資材の供給源であるはずが、とっくの昔に伐り尽くして適材は殆どなくなっているという。遷宮 に使われるヒノ
キの特級材はすでに伝統的に木曾や東濃の自然林から供給されている。

 過去数百年の間に20数回の式年遷宮によって、20数万本に及ぶ自然木が消えている。一万本もの立派なヒノキ を、それほど多く
もない建造物の何処に使ってしまうのか、信じられない話だが、新聞で度々報道されているので、それ は事実なのだろう。特級品のヒノ
キの原木からそのまた極上部分だけを使って厳かに造営されるのだろう。伊勢の神 様は云わばマグロの刺身の大トロの部位をご所
望のようだ。

 かつて、奈良薬師寺西塔の再建に心血を注いだ、最後の宮大工と称えられた、故、西岡常一氏の言葉を借りれば、 「千年を生きたヒ
ノキは材木となっても管理次第で千年は持つ」と云い、再建なった薬師寺西塔の千年の安泰を祈った という。
 伊勢神宮が如何に神の領域とはいえ、また、伝統の重みをかんがみても今の時代、少しは反省の機運というか、そう いうものが芽生
えてもいいような気がする。千年を経たヒノキはわが国の山林にはすでになく、遷宮に使われる木材は 数百年材とおもわれるが、それ
にしても数百年は管理次第で耐えられるものを僅か二十年で役目を終えることになる。

 昨年、木曾東濃の登山の折、ヒノキの森林帯を歩いて大きな切り株の群れに遭遇したときのなんともうら淋しい風景 にやりきれない
おもいに浸った記憶が思い出される。それでも、そこは一万本の何千分の一に過ぎない。
 今回の遷宮に使われる木材もこの地域から伐り出され、すでにその初伐木の儀式が神の名において厳かに執り行 われている。  
 森林環境の持続可能な利用に早く目覚めてほしいものだ。

 玉砂利の乾いた音と荘厳な社殿の雰囲気の中で、こんなことをおもい巡らせていた。
 永年木材に関わる職業に携わってきたせいで木の天然資源についての関心が薄らぐことがない。
 伊勢神宮の遷宮による社殿のお下がりは、ゴミにはされず各地の神社に移築され余生を送っている場合もあると聞く ので、あながち
無駄とは言い切れない一面があることも付け加えておきます。名古屋の熱田神宮本殿はその一例なの だそうです









 南九州紀行


小京都「飫肥」
飫肥藩伊東氏と薩摩藩島津氏の度重なる国盗り合戦を演じたという飫肥城址。
周辺に佇む武家屋敷群を九州の小京都という。
小京都を標榜する古い歴史的な町並みは各地にある。


 日本列島の太平洋側沖合いを航行する長距離フェリーは何回か利用経験があるので、大型船のゆらーりゆらりと揺 れるあの乗り心
地は乗り物酔いにきわめて弱い私でも、事前に薬のお世話になることさえ忘れなければ、まあ、耐えら れることは分かっていた。そのう
え出港直後に摂る夕食時にビールを少々たしなめば船酔いなどすっかり忘れて豪華 客船のエリート客の気分で一等客室に寝そべっ
て、海上で映りの良くないテレビを見るともなしに見ながら、旅のはじま りの気持ちの高揚を楽しんだものなのです。
 ところが、今回の旅は違っていた。

 名古屋から大阪南港までは貸し切りバスでの移動だが、港から南九州志布志港まで夕方から翌朝までの船旅を組 み入れたツアー
への参加は私らしくないが年齢のせいか、時として自分で全てのスケジュールを組むという楽しいはず の作業を省略して、旅行社にあ
なたまかせの旅にこのところ興味が移る。

 旅の始まりには珍しく午後からの出発だ。歌の一説よろしく「降るともみえじ春の雨」の中を変わりやすい春の天気 は、雨の翌日は晴
天の証と捉えれば幸先のいい初日のはずだった。
 大型フェリー「さんふらわあきりしま」に乗り込むとき、袖に三本だか四本だかの白線のまぶしい船長さんと思しき年配 の紳士が、「外
海は大しけです」と乗客一人ひとりに声をかけていた。無風でそぼ降る春の雨の中を通過してき て、その時点でも穏やかな雨なのに天
候の急変などおもいもしないことだった。まるで他人事のように聞き流しながら、 今までに乗った船との優劣の比較などに興じていた。

 いま、振り返ってみれば一寸先が見えないということは、いいことなのだろうと思う。
 何の不安もなく乗ってしまったのだから。
 紀伊水道を抜けるまでは、おだやかな揺れだったのが、外洋に出たら強烈なうねりに10000トンはあろうかと思わ れる大型船が木
っ端のごとくに翻弄され、二本の足では立つこともままならず山の岩場の三点支持の要領で、支えるも ののない床などは四つんばいで
ようやく移動ができるほどに、大きなうねりに徹底的にもてあそばされていた。

 きしむ船体と時おり水の上なのに固い物体に当たったときのような音と衝撃に恐怖がよぎった。
 24時間は効くという酔い止め薬も10時間後にはご利益が薄れ、やむなくまた服用することでどうにか乗り切ったもの の、食欲がほと
んど起こらず、揺れが収まりかけても到底レストランまで無事に移動する自信もなく、独りで朝食に向か ったかみさんが私のためにモー
ニングセットを持って部屋にもどってきた。

 レストランは女性客が多くて男たちはダウンして客室から動けない人が多かったようだという。
 こういう場合、女の方が強いようだ。
 志布志湾に入ると嘘のように静まり、船は定刻に2時間も遅れて入港した。
 下船時に聞いたことだが、停滞する低気圧の中を一年に一度あるかないかの揺れだったという。速力もうねりに押さ れて14時間で
到着のはずが16時間になってしまった。
 
 のんびりした船の旅は時間が現役世代より充分にある年金生活者には、旅の風情もあって面白いとおもっていた が、どうやら意識を
変える必要がありそうだ。
 以前に名古屋から仙台へ太平洋を北上したときは、同じような大きなうねりの中でも揺れを抑える「スタビライザー」と いう装置を備え
た船は、ピアノやテノール歌手のショーさえ行われていたが、うねりの程度の差か、揺れを抑える装置 の有無か分からないが大きな違
いを感じる。

 はてさて、8時40分に志布志港に着岸の予定が10時30分になってしまって、団体旅行のスケジュールが忙しい。   私的な予想通
り天気はどうにか回復したが旅というのんびりしたムードは何処へやら、忙しさは仕事の現役時代にう んざりするほどこなしてきている
ので、この年齢になってまではまっぴら御免こうむりたいのだが、運転手、ガイド、添乗 員さんにしてみればそれは仕事なので不可能で
ない限りは一部省略するわけにも行かないのだろう。


天然亜熱帯樹がうっそうと茂る青島。橋を渡り歩いて10分とかからない
小さな丸く平たい島の植生は九州本土とまるで違う不思議な島だ。
右は波状岩。青島周辺だけではなく、このあたり一帯の海岸に多い。
新婚カップルが佇むと似合う単純で雄大な風景だ。
別名、鬼の洗濯板とは失礼な。

 かつて、新婚旅行のメッカとして、あつあつムードだった日南海岸は青島と宇土神宮を除いて殆ど素通り。これを車 窓観光というのだ
そうです。
 そういえば、46人のこの団体の年齢層は日南海岸をメインとした南九州が新婚旅行の定番だったころ新婚生活をは じめたであろう
熟年カップルで占められていた。
 海外新婚旅行が当たり前になってしまった現代との格差を直接的に実感しているこの熟年世代旅行者の一団の多く は特別な感慨に
浸っていた事だろう。

 私たちの時は南九州まで足をのばす余裕もなく、紀伊半島巡りで済ませてしまったが、振り返ってみれば新婚旅行の 行き先など何処
でもよかったのだろうと思いつつ車窓に展開するフェニックスやビロウ樹、それにソテツなど亜熱帯樹 が印象的な日南海岸に眼をやっ
ていた。
 日南海岸の南に隣接する都井岬は地図で見る限りは小さな岬だが、意外に広く起伏に富んだ草地でほとんど樹木が 見られない。

 ヨーロッパアルプスの麓の、あの、羊たちがのどかに草をはみ、点在する集落がメルヘンチックな風情を醸し出す風 景にも似て楽し
い。私はこんな風景が好きだ。
 不確かな記憶だが、その昔、軍馬の生産地として放牧していたはずなので自然な環境ではなく、樹木などは伐り倒し て牧草地にした
のだろう。軍馬としての需要がなくなった馬たちは、そのまま放置され、野生化したという。

 天敵のまったくいない岬馬は当然過繁殖という事態を招くので、人工的に調節していると聞く。その意味で生息環境も 馬も保護された
野生であり、自然ではありえない。 増えすぎた馬をどうするのだろうとおもったとき、あの、血の滴るような真っ赤な、しかし、意外に旨い
馬刺を連想して しまった。

 岬馬がのどかに草をはむ草原のそこかしこにホテルが存在しているが、その多くが営業を休止している。新婚旅行 全盛期の名残の
ようだ。
 今どきの観光客はのどかな、こうした風景を通過地点として意識しても宿泊地としては選ばないのだろう。私は別天地 だとおもうのだ
が。
 この団体旅行では幸い、周辺まで馬が遊ぶホテルでの宿泊になっていて印象深い旅の一日として記憶に留めること だろう。馬の落し
物の多さには閉口したが。


都井岬。牧歌的な風景が海岸沿いであることを忘れさせる。
 

 ただ、数日前から風邪で体調をくずしたかみさんが、昨夜のシケの海で揺れる船に翻弄されて悪化し、団体行動に迷 惑をかけそうな
ので、翌日からの行動を別にしようと添乗員に申し出たら、その手続きが面倒くさくてまいった。
 しかし、意を決して別行動を決めたときの開放感はまことに快感だった。
 あなた任せの団体行動は気楽だとおもうのだが予期しないことが個人に起こったとき、或いは団体の秩序に縛られ、 一面では窮屈な
のだ。

 私は全てを自分で計画し自分の責任で行動し緊張し失敗していたほうが楽しいのかもしれないと、変な理屈をこねま わして別行動の
開放感に浸っていた。
 ところがです。大隈半島の一角から次の宿泊地、薩摩半島の指宿温泉までの交通機関が何とも複雑で心もとない。  鉄道は大きく迂
回する上に二時間に一本と恐ろしくのんびりしているし、バスは何度も乗り換えのうえに錦江湾をまた ぐフェリーの本数も少ない。

 それでも、個人行動の気楽さで、夕方までに着けばいいんだと、それに、どうにもならなければ町のホテルに投宿して そのまま帰宅し
てしまう手もあると、周辺に気を使うことがなくなったぶん気楽でかみさんの体調もいくらか良くなったと いうので翌日からの行動をまた
供にすることにした。

 おかげで、大隈半島の公共交通機関について少々詳しくなった。
 指宿温泉は大きな九州本島最南端の温泉地ということで、白砂青松の風光明媚な佇まいの中に展開する大温泉地 を想像していた
が、無粋なコンクリートの波よけ堤防に沿った大小のビル群に過ぎず、前夜の牧歌的な都井岬の、しか し、閑散としたホテルとの落差
に日本人の美意識というか観光目的の在り方について、私が変っているのか大いに考 えさせられてしまった。

 さて、最終日は早くも天気は下り坂、それでもほとんど降らなかったのはさいわいだった。薩摩半島の最南端、長崎 鼻。長崎県の長
崎と紛らわしいが、「長崎」とは半島を意味するらしく、「鼻」は先端を表しているという。聞けば納得で す。こんな時はガイドさんの解説
がありがたい。
 切り立った垂直の岩壁が海に吸い込まれる岬の先端は、何となく感傷的な気分に浸るものだが、この岬の波に現れ る低い岩礁が続
く先に灯台の風景もまた違う趣があっていいものです。

 岩跳び伝いに先端まで歩こうと気持ちがはやるのに、団体のご一行様は、はるか手前の高台からの眺めにご満足の 様子だ。一歩踏
み出そうと思いつつも、目立ちすぎることと万一、スリップ事故でもおこしたら笑いものだ。
 そんなことを思い巡らしながら、行動を控えたこと自体が年齢なのかなあと、少しさみしくなった。

 知覧特攻平和会館。

 語るにはあまりにも悲惨な歴史上の事実をまのあたりにして、60年を経た現在でも閲覧していて涙をこらえるのに精 一杯の努力が要
る。 森村誠一の戦争小説「エンドレスピーク」が脳裏をよぎった。
 一連のスケジュールをこなして帰途についたが、高速道路から鹿児島空港へ着陸する飛行機を横目にしながら、は るか北方の熊本
空港目指してひた走るという何とも不可思議な行程を客たちはすんなりと受け入れていた。

 鹿児島空港にはたぶん受け入れ余力がなかったのだろう。熊本経由で今回のツアーは催行が成立していたようだ。 地方空港だらけ
の日本。団体旅行業者にとってはこんなとき都合がよいのだろう。


錦江湾を横切るフェリーの客室。
50分の船旅だが、椅子のない床は絵にならない。
満員になるようなことは滅多にないのだろう。








上高地 乗鞍高原を歩く


残雪の焼岳

 

30代前半の昔と思われる記憶をたどりたくて、30数年ぶりの上高地と乗鞍高原の旅です。
 上高地の入り口、記憶の中の釜トンネルは路面も壁面も素掘りで鍾乳洞の洞窟のような短車線で急傾斜の交互通 行に、はらはらし
ながら通過した記憶がいまでも鮮やかに残っている。前車が停止したため、減速したところエンジンが 止まって暗いトンネルでの坂道
発進に足が震えた。

 さいわい、片側交互通行の最後尾にいたので、いくらか助かった気 持ちだったが、現在では考えられないような当時の車の性能に肝
を冷やした緊張感が新釜トンネルの快適な二車線を 専用バスに揺られながら楽しくよみがえった。欲を言えば当時のままのスリル満
点なトンネルをベテラン運転手のハン ドルさばきに身を委ねてみたかったが、旧トンネルは通行不可になっているようだ。

 大正池の水没立木はいくらか少なくなったような気もするが、依然として同池の象徴的な風景を維持しているのが懐 かしい。木の生
命の発生から恐らくは数十年を経た立ち木の株元が水没して枯死した後、80年は経過しているはずな のに依然として屹立している生
命力?の強さに圧倒される。

 焼岳の噴火による溶岩流にせき止められたことで出現したという大正池は上流からの土石流の堆積が続いてやがて は大正沼?に
なると云われて久しいけれど、一観光客として見たかぎりでは、清冽な雪解け水を湛えて北アルプスの 峻峰を映していた。この風光明
媚な湖を


河童橋付近の湿原。北アルプスの岩峰を覆う雲が恨めしい。

 アルプスの峰々に抱かれた盆地状の台地は平坦で中高齢者には絶好の散策路が延々と展開しているのが楽しい。 ケショウヤナギ
やカラマツの透明感に満ちた芽吹きの風景に接して、秋の紅葉とは違った生命の躍動感に溢れるベス トシーズンに訪れたことの幸運
をおもう。ただ、残雪に輝くアルプスの峰を目の当たりにしていながら、若かりし頃のよう な無性に踏破したくなった気持ちが何時の間
にか少しは萎えている自分に一抹の淋しさを感じる。

 上高地は多くの日本人に「懐かしい風景」として記憶されていることだろうとおもう。何故かと言うに、写真やカレンダ ーその他によって
無意識の内に人々の脳裏にインプットされていて、初めて訪れる観光客も心の一隅に何処か懐かし さを覚えているのではないかと思
えてならない。このことは、富士山の風景にも共通している。富士を観て意外性を感じ る人は恐らくいない。無意識に近い記憶と相まっ
て想像通りの景観に多くの人々は大感動している。
 私は若かりし頃、その日の仕事を終えて石鹸箱をことこと鳴らせながら通った銭湯の壁面に大きく描かれたタイル絵 の富士を実際の
富士山を観るとき、何時もダブらせている。

上高地のマスコット、カルガモ?(こんなに綺麗だったかなあ)
まったく人を恐れない。渡りを忘れたカルガモは留鳥として年中各地で見られる。
カメラを50センチまで近づけてもご覧の通り。
野生の鳥なのに不自然極まりない。

 翌日は未だ記憶に新しい乗鞍高原。ただし,この季節に訪れたのは初めてだ。
 標高1500メートル、上高地の標高と大差はないが、木々の芽吹きなど季節感は意外なほど違う。上高地の景観を演 出している、周り
を取り巻く険しい山々はここにはなく、限りなく優美な稜線を従えた乗鞍岳に抱かれた牧歌的な地形に よるものか、既に芽吹きに続く新
緑の季節を迎えていた。

牛留め池。小さな池だが、絶妙な自然の風景が感動的。
立ち去りがたいほどの景観を映している。

 またまた、記憶を遡るが、乗鞍高原が自前の温泉源をもたなかったころ、尾根の向こうの白骨温泉から白濁した如 何にも温泉らし
い、牛乳のような湯を露天に引き込んだ無骨な重箱のような木桶の風呂は、たったひとつの灯りさえな い暗闇の森の中の混浴だった。
宿から懐中電灯を受け取ってお忍びで行くという、ガイドブックにもない人工的だが文 字通り素人の手作りの「秘湯」だった。湯から上
がった私たちと入れ替わりに若い娘さんのグループが、入りたいのに さすがに気になって躊躇していた。露天風呂へと続く踏み跡道で
「ただいま女性入浴中、なるべくご遠慮ください」・・と、 ボランティアのおしゃべり案内看板になってあげることで感謝された楽しい記憶
がある。

 そんな隠れ湯も、白骨温泉の白濁湯の原因不明の透明化と自前の乗鞍温泉の出現で姿を消したことだろう。現地で 確かめてみた訳
ではないが。
 今夜の宿は「休暇村乗鞍高原」高原のメインストリートから遠く離れた広いエリアを従えた立派なリゾート施設だ。
 レストランから見渡せば白樺の真っ白な木立とカラマツの新緑、それにシラビソなどの屹立した針葉樹のコントラスト が美しくその背
後に雄大な乗鞍岳の残雪に輝く稜線を可能な限り大きく切り取ったガラス窓の全面に映して、まだ充分 に明るい時間帯での夕食だ。こ
ういうひとときを私は「たそがれ人生の心の贅沢」と満喫している。

 そういえば、休暇村のレストランはおそらく例外なく自然の風景を最大限に窓に映した開放的な作りになっている。
 全国に適度に配置されている「休暇村」は団体客などが少なく、ウイークデーに利用するためもあってか、元気な中高 年個人旅行者
のカップルといったいわゆる同類が多いことも親しみやすくしている。


乗鞍高原の散策路。駐車場付近が賑わっていても、少し足を進めれば
観光客もまばらで快適な散歩道が続く。道に迷うのもまた楽し、なのです。

 広い高原を歩き回ったが、改めてこの高原の広さと散策路の充実ぶりを実感していた。何処の高原でも散策路はよく 道に迷うが、こ
こでも大いに迷った。案内板に親切心が足りないなどと、そのたびにぼやいてみるけれど、そんな少々 の緊張も過ぎてみれば記憶に
残る旅の一こまなのだろう。
 さて、旅の夜、いつも闇夜の空を仰いで見るのだが、子どものころに記憶している、降るような星空にお目にかかれな い。どうしたこと
だろう。

 街中なら今の時代,当然だが澄んだ空気と人工的な灯りの極めて少ない高原の夜空は子どものころの記憶の再現が 容易に得られる
はずなのに暗い小さな星を僅かに確認できる程度だ。
 夜の空が眼には見えないうす雲に覆われていたのか、大気汚染が1500メートルの高地にまで及んだのか、或いは66 歳の老眼は、ち
りばめられた輝く星を捉える能力を失っているのか、不思議でならない。  この日の夜空も自宅の空よりもいくら星の輝きを増した程度
だった。


ユーモラスな自然の造形。恐らく誰もがくぐってみたり腰掛けてみたくなる
のだろう。保護のため、立ち入りご遠慮の立て札が遠慮がちに添えられて
いるのが愉快だ。意外に気がつかないが、特異な立ち木が保護のために
囲ってあるのではなく、見る側が柵の中なのです。








佐渡ヶ島の旅


ご存知、佐渡金山。露天掘りの結果、山の形が変ってしまった。
その昔、機械力が確立していなかったころの、人力の
凄まじさを見せ付けている。この山の地中にはアリの巣のような
坑道が重なっている。


 我が家から佐渡ヶ島への西の渡航口にあたる上越市直江津港のフェリー乗り場まではおよそ320キロ。ほとんど全行 程が高速道路
を利用できる便利さはあるが、週休7日の自由人が、せかせかと素っ飛んで行くこともなかろうと、途中 一泊で余裕の旅路です。ところ
が、そうなると途中の、つまり、経由地での寄り道観光をしたくなる。で、結果的に忙しく なってしまうことはよくある。

 今回はその道中が雨、雨、雨。7月も半ばを過ぎて梅雨明けをもくろんだのと、小中学校の夏休み直前での観光シー ズンの隙間を狙
った積りだったのだが、思惑は見事に外れてしまった。天気のいい日ばかりが旅じゃないのだ・・と、か みさんとぼやいてみるのだが、
やっぱり旅先での雨はせっかく来たのにもったいない、の一言に尽きる。

 五日間の旅の第一日目だ。今日の雨は明日の晴天の証と信じて割り切って楽しく行こうと、気持ちを慰めていた。
ところが、翌日も雨。ほとんど傷心の思いでフェリーに乗ることになってしまった。その上フェリーの乗船手続きの面倒く ささにも閉口も
のだ。
 事前にインターネットで予約していて、住所、氏名、車両番号、便船の発時刻など指示に従ってプリントしていったの に、窓口で別紙
に同じ事の繰り返しを要求する。何のための予約なのだろう。乗船のための書類を用意している予約 者には手続きを簡素化してもら
いたいものだ。往復運賃がクルマと二人で33000円也、天気が良ければ気にならない が、雨空の下では余計に高く感じる。

 いままで、経験した長距離フェリーは船中で宿泊を伴うことから、プライベートな一等室を利用してきたが、今回は2時 間40分の中距
離だ、一等も特等室もあるが、もったいなくて二等で充分と考えた。ところが、中距離の渡船は九州の錦 鴻湾でもそうだったが、船室は
じゅうたんを敷き詰めただけののっぺりした、未完成な感じの大部屋だ。それで、客たち は、思い思いの場所で円陣を組んで飲み食
い、或いは仰向け、ひじ枕、壁にもたれて、エンジン音に遮られてほとんど 音が聞こえないテレビにぼんやりと見入っている。

男も女も無造作にごろごろしている光景はどう考えても絵にならない。ドラの音に送られて出港した観光客やビジネス 或いは地元の生
活者たちが、しばし、くつろぐ場所はまるで災害時の緊急避難場所のようだった。
甲板に通じる一部にはプラスチックの冷たい椅子席も並んではいるが、部屋の中に椅子席を設備できないものかと切 実に思う客は少
なくないと思う。
さて、降り続いた雨空は佐渡に近づくにつれて明るくなり、私たちの気持ちを明るくさせてくれた。かみさんは、早くも日 焼けを気にして
いた。


大野亀。日本三大岩塊といわれる海岸に突き出た標高162メートルの
山の上から見下ろすふたつ亀とその周辺の風景

「佐渡へ佐渡へと草木もなびく」はずの佐渡に渡る前、一期一会か袖触れ合うも何とやらか、無責任な旅の出会いの ひとこまに「佐渡
は何にもない所だよ」とか、「一度行けば十分なところだ」とか、随分とひどいことを聞かされてきたが、 旅というものは、桃源郷を求め
たり、眼を見張るような絶景に触れたりは、もちろん楽しいことに違いはないが、その地 の人の暮らしに直に触れることも旅の内なの
だ。
  私は何でもないような風景の中に点々と或いは寄り添って暮らすのどかな農漁村の佇まいに不思議なほど郷愁を覚 える。そして、程
なく展開する名所と云われる絶景に接して、来て良かったとしみじみと感じ入る。このバランスが旅の 醍醐味だと思っている。


賽の河原。悲劇の伝説を秘めた岩屑の海岸。
荒涼たる世界がここにある。

 佐渡に二泊したと言っても事実上中一日の滞在では、全島を巡ることは無理。両津と相川を結ぶ線から北の部分の 一周その他で
南の部分は残してしまった。また訪れる機会もあろう。
 この島は、日本列島側に向いた東海岸はおだやかで多くの観光客が「何でもない」とこき下ろす、ひなびた漁村風景 が続く。しかし、
北端にある弾崎ののどかな灯台の風情に接したあと西海岸に沿って南下を始めると一転して日本海の 荒波に侵食された荒々しい海
岸美が続く。

 厚い雲に覆われた空を映して鉛色に沈んでいた海は、雲がタイミングよく切れると鮮やかなブルーに変る。大海原の 変わり身の早さ
に驚嘆していた。  
 北朝鮮の無礼なミサイル発射は、7発もぶち込むことで日本列島全域を数時間で核攻撃できるということを示唆した卑 怯で下劣な脅
しだろう。
同時刻にここからは発射時とおもわれる閃光を見たという証言さえあり、また、旧ソ連による核廃棄物の不法投棄が 問題になっている
日本海は、碧い水平線と限りなく透明な海岸の水面からは想像しにくい。

佐渡と云えばやはり金鉱山だろう。ユーモラスなたらい船はともかく、佐渡金山を観ずして佐渡を語る資格はない。徳 川幕府の財政を
支え続けた金山は、想像を絶する人海戦術で、アリの巣のように前後左右上下に金鉱脈を求めて掘 り進んだ様子が手に取るように分
かる。さぞや悲劇も多かっただろうと、容易に想像できるほどの劣悪な環境はおよそ 人間の働く場ではない。

最終日、小木の港でフェリーの出港を待つ間、退屈しのぎの時間つぶしに丁度良いのがたらい舟の見物だ。見物の 積りが何時の間
にか金を払って乗ってしまった。たらい舟を漕ぐ、その、おばさんは東京からの「都落ち」だという。

旅人を喜ばせる方便だろうと思うが、「亭主がこっちの人だったもの」と云われれば少しは説得力があるようで、それ に、東京育ちで同
じような「都落ち」の不遇?をかこっているわが連れ合いは親近感を覚えて時間の経つのを忘れてい た。それにしても、都落ちで佐渡
のたらい舟漕ぎ・・では、何となく悲劇的?な匂いがするが、一期一会の触れ合いを心 底楽しんで充実しているのかもしれない。或いは
全部嘘も方便か。この際、信じることにしよう。損はないのだ。


「夕日に一番近い宿」の部屋から。
赤く染まる直前、銀色に光る世界がありました。


 直江津港に帰り着き、第一泊目にお世話になった妙高高原の宿に帰りも立ち寄ることになっていたのでチェックインし たところ、「お帰
りなさい、佐渡はいかがでした」と迎え入れてくれた。接客プロのたしなみと云ってしまえばそれまでのこ とだが、三日前わずか一泊の
触れ合いを忘れずに大切にしてくれているその気持ちがうれしかった。
インターネットで申し込みの際、「佐渡に二泊した後、帰りにもお世話になります」と添え書きしておいたことをしっかり 憶えていてくれた
のかも知れない。こんなとき、儀礼でも気分はいいものだ。

 最終日もまたまた雨、それでも主目的地の佐渡の天気に比較的に恵まれたことは、さいわいだった。豪雨被害が甚大 な長野県諏訪
地域は中央道が通行不能になり、やむなく、木曾谷を国道19号に沿ってひたすら走ることになってしまっ た。ただ、内陸部で山中の幹
線国道は信号が無く、適度にカーブを繰り返し眠気を催す暇がないのが、かえって安全 運転につながるような気がする。


「休暇村妙高」の部屋の窓からの風景。
緑のじゅうたんを敷き詰めたようなスキー場の夏は
人工的だが素晴らしい風景を提供してくれる。 眼の覚めるような世界を映す別天地だ。


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