山と旅のつれづれ





旅のエッセーbW




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(三編収録 9へお進みください。)










遥かな尾瀬



燧ヶ岳。2006年9月4日、夏のざわめきは既になく、
茶色に染まる草紅葉の季節には未だ早く「静かな尾瀬」も捨てがたい。
この季節、何と言ってもハイカーが非常に少ないのが楽しい。  

 若かりし頃からあこがれていた尾瀬湿原にようやく足跡を残した。
 愛知県から尾瀬へは、高速道路は中央、長野、上信越、関越道をクランク条に経由するという無駄の多いコースを辿 るか、中央道以
遠はほぼ直線状に国道を利用するが、内陸部の国道は昔に比べれば整備されたといっても地図を拡 大すれば、川に沿い山を避け曲
がりくねっていて意外に距離がある。

 鉄道を利用するのが安全快適でその上旅情に溢れていて、あこがれるのだが、東京経由で時間がかかり、手荷物を 持っての移動
が億劫でついつい、クルマに積み込んでしまうことになる。車の魔力には当分勝てそうにない。
 旅好きのわたしが、尾瀬を「はるかな尾瀬」のまま、この年齢になるまで到達できなかったもうひとつの理由は、プライ バシーのない山
小屋での雑魚寝に耐えられそうになかったからだ。それでも、数年前一念発起して、独りで出かけたこ とはある。独り旅の気楽さで、前
夜尾瀬の入り口に到達して満天の夜空に幸運を思いながら車中泊で明日に備えた。
 
  ところが、真夜中に轟音にたたき起こされ、気が付けば土砂降りだ。山中の気象はほんとに当てにならない。
 しかし、そんなとき独り旅の気楽さで、目的を果せずに帰途についても、隣でぶつぶつつぶやく相手がいないだけ、や っぱり気楽だ。
気楽と孤独は相性がいい。目的を果せなかったとは云え、道中を見て歩くことも結構楽しいものなのだ。
 そんな楽しみを隣で退屈しているつれあいに共有を強制するわけにはいかないのだから、こんなときは一人旅に限 る。

 それに、天候の急変などわたしの責任というわけではないのに、かみさんの天気に対する不平不満というか、不運を 嘆くと言ったほう
がいいかもしれない半ば独り言を聴くともなく聞いていると、そういう日を選んでしまった自分の責任を 感じて気分が落ち込む。
 尾瀬の入り口で退散してきたというのに、曲がりなりにも行動したという気持ちがあってか、不思議なもので、その後 しばらくは意識の
中に尾瀬がなかった。

 さて、足で歩くことが大原則の尾瀬観光は体力に自信がなくなったら不可能になる。まして、山小屋戸泊まりが苦手な 私は周辺のホ
テル旅館などを基地として日帰りせざるを得ないので、広大な尾瀬沼尾瀬ヶ原の探勝には日数がかか る。思い立ったが吉日・・で、ま
ずは一番楽な入門コースからの探勝です。

 鳩待峠からの入山は一時間の山下りだ。帰りがおもいやられる。何故かといって,広大な平原を歩き回って体力を消 耗したあとに登
りが待っているのだから、これが辛い。日ごろ年齢を意識していないと強がり言っていても、こんな時は 謙虚に66年を使い古した体力を
意識しないのは無謀だと思う。

 9月初旬の尾瀬ヶ原はトリカブトの鮮やかな青紫とヤナギランの残り花、それに、池塘の水面を彩るヒツジ草の慎まし い花が見られる
程度で夏の賑わいとは違って、花も人も静けさの中に佇む感じだ。狭い木道を行列のように行進する 夏場の賑わいよりも、「静かな尾
瀬」も捨てがたい魅力だと思う。

 尾瀬の水を一箇所に集めて落ちる三条の滝は今回は遠く、またの出直しということになるが、かつて、一般社会が湿 原の価値をあま
り認めていなかったころ、この滝をせき止めて巨大な人口湖に尾瀬を沈めて電力を生み出そうという 計画があったと記憶している。ま
た、取り囲む山々の一角を切り崩すことで地下水脈を下げれば広大な高原野菜農地 が出現するとして、計画された過去もあると聞く。
それに、自動車道路を通して観光に供しようと、このことは実際に工 事も始まっていて世論や地元の反対運動が実って中断している。

 尾瀬を散策するとき、自然愛好家その他の組織や個人による保護運動の賜物として現在があるということを意識して いたいものだと
おもう。
 尾瀬沼と尾瀬ヶ原を含めた恐ろしく広いこの湿原を堪能するには数日間の体力に任せたハードな散策が絶対条件に なる。
 先入観に違わず広大な湿原の尾瀬ヶ原は、およそ20キロを歩いたが、付近に宿泊して翌日も引き続いて歩く体力は さすがに自信が
なく、来年以降の宿題として意識しておこうと思いつつ、それでも満たされた気分で帰途についた。


地塘に浮かぶヒツジ草。睡蓮の花をそのまま小さくしたような目立たないが
印象的な白い花が見られる。

静寂

吹き割れの滝。中部東海地域から尾瀬への旅の途中見逃せない景観。
沼田市から尾瀬や奥日光戦場ヶ原に通じる通称「日本ロマンチック街道」沿いにり、
旅人が必ず立ち寄る、素晴らしい滝だ。大げさではなく特筆すべき景観だと思う。
写真はそれでも大景観の一部に過ぎない。







能登半島親子旅


関野鼻。特異なうねりが印象的な岩礁が続く。


  金沢に暮らす次男を尋ねたついでに、能登半島の一部を巡る短い旅です。
 大した用もないのに、何となくその気になってぶらりと出かける。 
 それでも歓迎(多分)してくれるところが親子、家族の良さだと思う。

 ついでの旅に息子が有給休暇をとって同行してくれた。60代の両親に30代で独身の息子という組み合わせなど、滅 多に見られる風
景ではないと思うので、ホテルのレストランでの食事中などでは、さぞかし、目立ったことだろうと、ある 種、愉快な気分も伴って面白い
ひとときでした。

 能登半島は本州中部の東西南北どちらを向いても広い地域を根っこにして生えるように突き出した半島であるため か、印象的には
小さく見えるが、よくよく、調べてみると意外に大きいことに気がつく。このことは、北海道を旅するときと 似ている。日本列島を区分地
図で見るとき、北海道の全体図だけは縮尺が違うことが殆どなのだ。大抵の個人の旅人 はそのことに、スケジュールを組む途中で気
がつくのだが、それを見落とすと、旅に出てから、その広さに、こんな筈で はなかった、ということになって慌ててしまうことになる。

 小さく見える能登半島も一日で巡ることはとても無理なので、半島中部から、日本海に面した外浦の海岸を主に巡り ながら戻るとい
う、ゆったりした行程ではあるものの、中、一日の私たちにとっては珍しく短い旅程でした。
 福井県の永平寺と共に曹洞宗の大本山だったという総持寺は明治時代の大火災を機にどういう訳か横浜市に移り、 現在は「大本山
総持寺祖院」として焼け残った伽藍を中心にして整備したという。一宗派で大本山が三箇所もあるとい う、何とも不思議な感じだが、そ
の控えめで静かな佇まいが荘厳な雰囲気を湛えていて往時の面影を残している。

 そんなお寺さんに接した後、関野鼻、やせの断崖、巌門と、巡ると千里浜の宿に着くのに丁度いい時刻に到着だ。身 がすくむような
荒々しい海岸の絶壁は随所に自殺を思い直すことを促す標語が見られる。昔から身を投げる悲劇が多 かったのか、松本清張の小説
の舞台になって以来のことなのか解らないが、思い悩む不運な人にしてみれば、発作的 にさえ実行してしまいそうな、雰囲気にかられ
るのだろう。

 たしか、中心的な観光地「巌門」の園地の一角に松本清張氏が自著の小説に影響されたと見られる投身自殺を嘆く 碑文もあったは
ずだ。 今回は見逃したが若かりし頃ここを訪れたときの記憶の中にはそれがある。関野鼻、やせの 断崖、義経の舟隠し、とほとんど
連続して続く垂直の断崖だけでも多くの自殺者が察しられる雰囲気だが、そことは、1 00キロ離れた東尋坊は昨年(2005年)47人の
投身自殺死体を収容したという。また、死に切れなかった未遂は皆無 だという。
 
 東尋坊と能登半島中部外浦海岸の岩礁地域は、人が
自ら命を絶つという悲劇的な行為が日常茶飯事のよう だ。およそ8日間に一人の割合で悲劇が起きるということを繰り返されれば感覚
的にもマヒしてしまうのだろう。しかも、 47という数字は東尋坊での数字であり、前述の、能登半島の地域をあわせたら一体どれほど
の数になるのだろう、そ れを思うと空恐ろしくなる。

 荒々しい海岸の美しさに見とれながらも、気持ちが沈む思いだ。
 失恋による投身自殺か・・とつぶやいたら、傍らの息子に笑われてしまった。
 今どき、失恋の果てに死を遂げるような一途でうぶな若者はまずいないという。
 多くは業績不振に喘ぐ企業の経営者や家庭の事情によるもののようだ。改革という名の改悪により増大している格 差社会の不幸な
断面を見るようだ。

 そんな事情をよそに、観光拠点での商店の客の呼び込みや、そぞろ歩く観光客で大いに賑わっている。
 羽咋市の千里浜なぎさドライブは、この国には非常に珍しい砂浜の海岸を走るフリーウエイだ。粒子が細かく、適度 に水分を保持し、
伸びやかな波打ち際に沿った広い砂浜は大型車が通っても轍さえ残さないほど、硬く締まっていて、 交通ルールの制限がなく、ドライバ
ーの良心を信じるというか、他ではちょっと信じられないような開放的で、広い空、碧 い海、なだらかで広大な砂浜という単純明快で雄
大な風景の中をそれぞれのクルマはゆったりと移動し、他では得られ ない雰囲気のドライブを楽しんでいるようだ。

 そんな風景が8キロほど真っ直ぐに続いている。日本海の荒波に洗われ、侵食された断崖絶壁に眼を奪われた後 の、こういう風景が
ほとんど同一地域にあることに、あまりにも違和感を感じる。


千里浜。人工的な施設のない、自然のままのフリーウエイ。
海水浴シーズンはロープなどで規制されるが、それ以外の季節は
ご覧の通りの風景が真っ直ぐに続く。

義経の舟隠し。海路奥州への逃避行の途中一行48艘の船を
人目を避けて隠したと伝えられる伝説のクレバス。






晩秋の高野山紀伊半島


お大師様の昼食。日々の食事がお供え所で調理され、御廟に運ばれる。
信仰心に疎い私は、心をこめて調理された料理の、その後ばかりが気にかかる。
(得がたい写真は春日井市在住の長谷川碩様より提供いただきました)

   大嫌いな冬の季節を前に冬眠前の駆け込み旅です。
 野山の自然が眠りに就く冬は自然の営みの変化がなく、寒さ嫌いの私は、ひたすら我慢の季節だ。そんな季節の直 前、燃え上がる
紅葉を観たくて紀伊半島一周の旅です。

 今年度締めくくりの旅もまたまた雨の出発だ。まったく、今年の旅は雨に恵まれている。もっとも、数日間の旅であれ ば、雨の次は晴
れの証と決め込んで、この頃は雨の日の旅の初日をそれほど不運とも思わなくなった。一泊二日程度 の旅程だと、「何でこんな日に」
と嘆きたくなるが、五六日にわたる旅であれば、降られ続けるようなことは殆どないし、 それに、雨の後の晴天は気分的に晴れがましさ
が倍増する。そんなところにも旅の楽しさがあるのだと、なかば無理や り納得している。考えてみれば何時の間にか旅上手になってい
るようだ。

 期待した赤目渓谷は滝巡りのトレッキングであり、そぼ降る雨の中では危険なので、やむなく変更して、伊賀市(旧伊 賀上野)の忍者
博物館のある上野公園へ。

 子供騙しのような、と云っては失礼かも知れないが、伊賀忍者の実演には少々落胆してしまった。もっとも、忍者と言 っても漫画や誇
張した映像のような奇想天外で人間離れした行動などできる訳がないし、戦国時代のスパイ活動なの だから、特殊な存在ではないの
だろう。そういう意味で事実に即した実演であり,博物館ではあると思った。「忍び」が 「忍術使い」になり、誇張に誇張を重ねてドラマが
生まれるということなのだろう。それくらいのことは分かっているはず なのに、伝承館とか博物館とか案内されれば、そこに「へえーこん
なことがほんとに」などと信じられないような場面や 展示物に出くわす期待をしている自分がいたようだ。

中途半端な今年の紅葉

 伊賀から吉野、奥吉野にかけての紅葉は今(11月19日)が盛りと思われるが今年の紅葉は中途半端だ。10月から 11月にかけて
の記録的な暖かさが災いしていて、世界に冠たるわが国の紅葉も人間の活動が作り出したと云われる 異常気象によってか、年々鮮や
かさを失ってきているような気がする。 今日の宿泊は、源流部奥吉野、川上村の村営ホテル。公営と云えば代表的なものが国民宿舎
だが、ここのホテルは どちらかと云えば高級ホテルだ。

 時代遅れな国民宿舎とは一線を画していて、安くはないが快適な旅の夜を提供してくれた。宿泊施設の良し悪しは旅 のすべてではな
いが、その待遇やロケーションの良し悪しは旅の満足度を決定的にする要素を持っている。雨にたた られたこの日もホテルの大きな
窓から雨と共に適度に低くたなびく雲に霞む吉野川の渓谷を愛でて、それでも満ち足り た気持ちになるものなのです。

 あくる日、雨の日の次は晴れだと信じていたがやっぱり雨だ。 ただ、降ったり止んだりの空模様は、運が良い方だと思うことにしよ
う。
紀伊半島の北部内陸部は、ほんとに山が多い。多いというより山ばかりだ。
高い山こそ少ないが、山を避けて曲がりくねった道路は時として狭く、林道のような名ばかりの国道の通過に時間がか かる。


真然大徳廟。弘法大師の甥にあたる高僧。
高野山第二世として経営に当たったといわれる。
昭和63年11月に舎利器が発掘され、ここが御廟であることが確認されたという。
本堂の奥まった一角にある。

北側から入った高野山は、カーナビの案内が不適切だったのか、或いはそんな道しか無かったのか分からないが、 鬱蒼とした針葉樹
林の中を、時おり出くわす対向車とのすれ違いにひやひやしながらの緊張ドライブだった。
 ようやく躍り出るように合流した幹線国道は、高野山金剛峰寺の奥の院のすぐ脇だった。大きな駐車場には、マイカ ーも大型バスも
ひしめいていた。とんでもなく長いわき道を走らされたようだ。カーナビ任せは時としてこういうことがあ る。

 高野山奥の院は壮大なお墓の博物館

 雨も上がった。初めて訪れる高野山は、奥の院から先に観る、或いはお参りするというのも順序からすれば、何だか 変だけれど、そ
ういうことになってしまったのだから仕方がない。 広大な奥の院の参道は両側が、さながら、お墓の博物館だ。
 真言宗の大本山の一角に親鸞聖人のお墓がある。宗派は違っても仏教は大本でひとつ。
 ホトケサマは仲良く共存しているのだそうです。親鸞聖人のお墓は京都の大谷祖廟にあるはずだし、明智光秀のお 墓は美濃にある
がここにもある。

 それにしても、戦国武将の墓地が大げさに言えば無数にあるのにはおどろく。何とも不似合いなのは、それら、歴史 的な武将や偉人
たちの墓所と現代の名だたる企業の関係墓所が混在していることだ。周囲を威圧するような仰々しい 「○○株式会社墓所」というのも
ある。しかも、無数にある。
 企業の創業者とか、要職にあった故人を代々祀っているのであろう。

 カネ次第で誰でも受け入れるといった姿勢が感じられ、何とも、やりきれない思いがする。もっとも、高名な宗教者は ともかく、戦国武
将の墓所などの存在は、現代の企業など資本家がカネの力に物を言わせて、墓所の使用権を取得し てきたことと基本的には同じ発
想なのかもしれない。その意味で両者の伝統的歴史的共存(あの世で「共存」は変だけ れど)であり、名を成した企業や組織や勢力に
とっては自然で当たり前の成り行きなのかもしれない。


高野杉の断面。直径二メートルはありそうな巨木の内側の空洞が
ほとんどないのは珍しい、と、思う。
 鬱蒼とした高野杉の巨樹林

 眼を奪ったのは、それら膨大な墓所を包み込む原生林と思われる杉の巨樹林の規模の大きさだ。
 樹齢二百年から八百年と云われる巨樹のどれもが天を突くように真っ直ぐに屹立している。その、雄大さは屋久島の 原生林にも匹敵
するほどの凄さがある。そんな第一級の巨樹林も、人の眼には株元に群がる墓地群に目を奪われて か意外に目立たないのだろう。

 カメラマニアとは云えない私はカメラを車の中に忘れてきたことを巨樹林に出会ってから気がつき、小さな後悔の中に いた。無数の墓
標を保護するようにそびえる巨樹林の写真など資料は、旅から帰ってインターネットで検索すれば、いく らでも入手できると軽く考えてい
たが、意外や意外、観光客や参拝者はお墓の壮大さに注目のあまりか、巨大な幹や 上空を覆う枝葉を強調した写真資料に殆どお目
にかかれなかった。
 奥の院参道を包み込む巨樹林の樹齢八百年は、それでも高野山千二百年の歴史より浅い。

 町全体が仏教色

 高野山金剛峰寺の本堂は修理改修中でテントに包まれていた。
 仏教都市高野町は標高七百メートル。町全体が七堂伽藍と一体化しているようだ。この国には、こういう形態を持つ 自治体は珍しい
と思う。
 この町での宿泊は宿坊ということになるが、信仰心の希薄な私は仏教上の決まりごとに名目的にでも従うことに抵抗 があり、昼間の
大事な通過点としたが、広大な七堂伽藍を巡拝するには、宿坊に宿泊して最低二日は要するようだ。

 高野山金剛峰寺を形ばかりの参拝の後、空が微笑んだ。
 山を越えて西進した先にこの日の宿がある加太岬に紀淡海峡の夕焼けが待っている。
 大阪、神戸の港から外洋に出る大型船がここを通る。大きく寝そべる淡路島と手前の小さな無住の島「友が島」その 優雅な稜線の向
こうに太陽が沈む。旅先で観る赤く染まる夕日は、ほどなくやって来る闇を思えば感傷的でありながら 情熱的で感動的だ。大地に佇ん
で愛でるのもいいが、ホテルの大きなガラス窓という額縁を通して観ることで、ひときわ 美しく輝く。

 見た目には時間が止まったような朝の海

 翌朝、紀淡海峡は七時になると、どこからともなく表れた、白い小さな木の葉のような漁船がきらびやかに群がってい た。その向こう
を大型の貨物船が静々と航行している。潮の流れの早い海峡は好漁場なのだろう。高台に建つホテル の窓から見渡す晴れやかな朝
の海は、時間が止まったような風景だが、漁船は漁に忙しいはずだし、大型貨物船は群 がる漁船を気遣いつつも先を急いでいるはず
なのだ。
 群がっていた漁船群は私たちがホテルをチェックアウトするころ、すっかり消えていた。ほんの二三時間が漁の勝負 のようだ。


和歌の浦の一角。雑賀崎から眺め。
小さな岬にひしめく白い小規模なビル群。
景観を台無しにしているとしか思えない凄まじい風景だ。
「雑賀」は種子島から鉄砲を導入して、武器として量産した傭兵集団「雑賀衆」の
根拠地でもある。

 加太から少し南に位置する和歌山市の「和歌の浦」は万葉のむかしから歌に詠まれた景勝地であるはずだが、入り 組んだ険しい海
岸はホテルに占領され、海を前に衝立になっているようだ。曲がりくねった海沿いの道はホテルの庭先 のようなところをかすめる様に
通りながら安心してクルマを休める場所もない。どうしてこんな乱開発を許してしまったの か、理解に苦しむ。
 僅かに「観光遊歩道」が幾つかの小さな岬の先端を縫うように設備されているのが救われる。しかし、それもホテルの 客の散歩道と
言った感じだ。惜しいほんとに惜しい。万葉の歌枕が嘆いている。(和歌の浦全体を観たわけではないの で大きなことは言えないが)

懐かしい潮岬を素通り

 山ばかりの紀伊半島も、阪神方面から名だたる温泉街の白浜温泉付近まで通じていて橋とトンネルの連続ながら、 快適で時間を稼
げる。しかし、いい気になって走っていると寄るべき所を素通りしてしまう。
 半島の先端、つまり本州の最南端、潮岬に立ち寄りたかったのに、しかも高速道路をひた走ってきたのに時間がなく て素通りしてしま
った。

 潮岬は多くの岬の先端が波に洗われる岩礁を伴っているのに対して、対照的に伸びやかな草原が印象的で、十年以 上前に訪れた
ときの記憶が鮮明に残っている。「本州最南端の地到達証明書」なる一札を売店のおばさんから頂い て、「ふざけたことを」と苦笑した
が、そんな行為が記憶に残る一因になっている。
 旅人はまだ見ぬ地への憧れと共に、何年か前の記憶を辿ることも楽しいものなのです。

 こんなとき、旅の宿を予約しないで時間を気にせず、立ち寄りたいとおもった風景や施設を行き当たりばったりで巡り 歩く自由な旅が
できないものかとつくづく思う。究極の旅の楽しさはそんなところにあると思うのだが、簡単なようでこれ が中々できそうにないのだ。


橋杭岩。一直線に連なる巨岩の全体を捉えられないのが残念だ。

 橋杭岩は紀伊半島の南端串本町の沖に向かって一直線に連なる衝立状の巨岩が豪快な景観を見せている。ただそ れだけだが、い
い風景だ。
 沖の小島に住むという天邪鬼と弘法大師が賭けをして、一晩で小島までの橋を架けることにした。で、弘法大師が橋 脚つまり橋杭岩
を立てたところで、小島の天邪鬼が鶏の鳴き声を発して、それを聞いた弘法大師空海は、夜が明けた と勘違いして、「わしの負けじゃ」
と云って工事を止めてしまったという。
 超人的な弘法大師空海が、天邪鬼の嘘を見抜けず、また、工事を途中で投げ出してそのままホッタラカシという無責 任なことをしでか
したものです。
 伝説です。伝説。ふざけた楽しい伝説です。

 気がつけば新婚旅行をなぞる旅

 旅の帰り道、はたと気がついた。
 今回の旅は、四十年前の新婚旅行のコースだった。そんな大事なことかも知れない節目にさえ気がつかずに、当然 そういうことをま
ったく意識もせずに予定を立てて、その旅の終わりに「そうなのだ」なのです。
 あれから四十年だ。まあ、この年齢になると、四十が三十九であろうと四十一年であろうと、あまり意識しなくなるし、 大体指折り数え
て確かめて・・よくまあ・・と感慨にふけったあとすぐまた忘れている。平和なのでしょう。


帰りの寄り道、鬼ヶ城。