山と旅のつれづれ




暮らしのエッセー(1)



六編収録






  遭 遇   

 そのときは、歩きではなくて車で林道を通行中、渓流沿いの僅かな駐車スペースに一台の車が止 まっていた。風に揺れる木陰からそ
の後部を垣間見ながら通り過ぎた後ギクッとした。静かにバック してもう一度見直してみたら、間違いなく排気管から青いビニールホー
スらしきものが、目張りをした 窓から車内に引き込まれている、ただごとではない。
 一瞬(見なかったことにしよう)という思いが働いた。しかし、見てしまったあとでは何事も無かったと 後々まで思い続ける自信もありそう
にないのだ。

降って湧いたような事でも、この場合は無視できることではない。
 悲惨な光景を思い浮かべざるを得ない気持ちで、おそるおそる歩いて近づいてみた。幸いそう言う 事はなくてしかし、土色の顔でシー
トに横たわる男が一人。
 私の呼びかけに気づいて「ちょっとやって見ただけなんだアリガトアリガト」・・・
 形どおりの励ましをかけ、目張りとホースを毟り取ったあと、近くの交番に駆け込んだ。こうすること しか他に思い浮かばなかったか
ら。

 警察は本署と連絡をとって暫くしてから現場へ行ったのでしょう。その結果を電話で報告してきた。
【それらしき人も車も発見できませんでした】。ほんとに迷惑そうだった。 根拠のないイタズラと思われたようだ。
チキショーほおっておけばよかった、と私は思った。
 その一時間後また電話がきた。

「ただいま何々病院から通報がありまして、警察より早く家族が発見して病院へ担ぎ込んだ、という ことが分かりました。命に別条はな
いそうです、ご協力ありがとうございました今後ともよろしくご協 力を・・」。信じられないほどに態度が変わっていた。
 今後ともよろしくなどと言われても、こんなこと何回もあってたまるか!!!
 そう思いながらも、それでもそれまでのもやもやした怒りが氷解していくのを実感していた。

 何回もあってたまるかと書いたけれど実はこれ二回目の経験なのです。
その日、と言っても何十年も昔の話だけれど、小さな渓流脇の上面の平らな大きな岩の上に座布団 を敷いて、そんな所で多量の睡眠
薬を飲んで意識を失い、そこから転落して渓流の淵の中に身体が 沈んでしまっている男を発見したのです。幸い顔の部分はかろうじて
水の上だった。

 真冬の岐阜県美濃の山中での出来事なのです。
 この時は、若者十人ほどのグループでの行動だったので手分けして引きずり上げて通りかかった 軽トラックの荷箱に無理やり乗せて
しまった。
 自殺志願者は薬の影響か水に浸かった冷たさのためか、体中が硬直していてかえって運びやす かった、など、意外に落着いている
自分が不思議だった。 多分、一人ではなかったことによると思った。

  さて、不運な?トラックの運転手は突然ボランティアの無届救急車に変身して病院へ直行せざるを 得なくなってしまった。
 この時は事の顛末は警察には事後報告ということになったので警察不審はあるはずもなかった。そ れどころか丁重な礼状が送られ
てきた、
 両事件とも後ほど家族から礼状をいただいたが、それによると前者は病弱、後者は失恋による悲 観が理由と語られていた、文面で
は両者とも大事には到らなかったという。しかし、遂に本人からは 何の音沙汰もなかった。 私たちのグループは、余計なことをしてしま
ったのかも知れない。
 死にたがっている人を死なせてやらなかったのだから。

 2002年7月二十五日のニュースで自殺者年間3万人超という。(2007年現在も依然として増え続けている)
 いろんな理由があるにせよ一日90人前後の命が自ら絶たれている。
 死に切れなかった人、前述のように運悪く?助けられてしまった人など合算したら、どんな数字にな るのだろうか、最近の特徴として
不況に起因する事例が非常に多いという、。経済が後退どころか立 ち止まる事さえ容易に許さない資本主義経済社会の危うさを垣間
見る思いだ。











   目 撃

 姫路市内。姫路城から地下駐車場へ戻る途中の市中心部、異常な光景を目の当たりにしてしまっ た。
 追う暴走車と追われる暴走車、両車とも、ひと目でそれと分かる暴走車スタイルだ。追われるほうが 何と後ろ向きで逃げ回っている。
ただならぬ空気を察した周囲の車たちは難を逃れようと停止してし まった。
  その中を後ろ向きでミズスマシのように蛇行しながら、逃れようとする車に執拗に接近して追い詰め ていく。やがて空き地に張り巡ら
されたフェンスの太い丸太の支柱に後ろから激突して、支柱を折っ て後部を大破して空き地の中へ入り込んで停まった。
 そのあとは乱闘騒ぎだ、幸い通行中の車や歩行者に被害者はなかったようだ。

  映画のシーンとかテレビの事故のニュースなどであれば、「ひどいことやるもんだなー」ぐらいで、す ぐ忘れてしまうのだがこれは事故
ではなく、間違いなく事件だ。しかも白昼眼の前で繰り広げられた 前代未聞のカーチェイスだ。
 この光景を期せずして見せ付けられた私は、不覚にもショックで貧血を起こしてしまった。貧血が原 因で吐き気を感じながら、自分に
は何のかかわりも無い事件に動転しているわが身の気の弱さに一 種の情けなさを感じながらひたすら平静を装って、その場から逃れ
ようと歩き続けた。

残酷な或いは悲惨な事故や事件に巻き込まれたり、目の当たりにしてしまったとき、自分がその 事件や事故に何らかかわっていなく
ても、精神に与える影響というものは計り知れないものがあると いうことを痛感した事件だ。
 もっとも、私の気の弱さがそれを増幅しているのかも知れないけれど、
 この事件をきっかけにして思い出した。

 幼かりし頃、といっても中学生の頃だが二階の床(一階の天井)が消し忘れ電気こたつの発火と見 られる「ぼや」があり、炎が煙の充
満して酸欠になったと見られる二階の部屋を嫌って床に穴を広げ ながら、ちょろちょろと下へ燃えた。階下で寝ていた私は、障子越し
にぼんやりと揺れ動く明かりに 仰天して隣に寝ていた母を揺り起こした。
 それからが大変だった。その頃は水道はまだ無かったし井戸さえも数軒に一箇所というのが普通 の時代だつたのだから。それでも
何とか手分けして消しとめ消防のお世話にもならなかったと記憶 している。

 火災事故は厚さ三センチの床板を人がくぐれる程度の丸い穴をあけた程度で済んだ。ところがそ の日から私は不眠症になってしまっ
た。ようやく眠りについてもしばらくすると目がさめる。そうして窓の隙間から月明かりが差し込んでいることに気が付くと、それが「火」に見
えてしまうのだ。【そんなバカなあれは火の色ではない】そう自 分に言い聞かせながらも、いてもたってもいられなくなる。それで毎夜凍
てつく寒さのなかで家の周 りを点検して異常がないことを確かめないと眠れなくなってしまった。いまで云う心的外傷後ストレス症候群
だ。

 月明かりは当然何日か続く。だから隙間から明かりが入らないように工夫するのだが、それが 中々完璧にはいかない。そうこうしてい
る内に闇夜になる。闇夜になれば気も紛れるだろうと思って いたら、見えないことによる恐怖にさいなまれ、今度は懐中電灯を持って家
の周りを一回りしないと 眠れない。そしてまた、静かな真夜中、犬か猫が回りを歩いて枯れ草や枯れ枝を揺するような音を 感じただけ
で、何かが燃える時の音に聞こえてしまう。

 経験のない人には理解ができないかも知れないけれど、感受性或いは精神というものはこんなに か弱いものかと、今さらながらつく
づく思う。
 そんな日々が何時まで続いたかは定かではないが、次第に癒され忘れることが出来た。月日が、 年月が唯一の良薬だったような気
がする。同時多発テロや国内外で頻発する残酷な事件や事故に遭遇してしまった人々のその後は如何ば かりかと、私の小さな事件に
かかわる経験をとおして推し量る時、なんともやりきれない思いにから れる。









  誤診、妻の災難

 その日「2002年12月8日」かみさんは朝からわきの下に痛みを感じ食欲がないと言う。
 珍しいこともあるものだと思いながらも、日曜日のこととて大して気にもせず、
 翌日、日ごろからかかりつけの【医院で筋肉痛とストレス】と診断を受け、筋肉注射と痛いときに飲 むと言う薬を処方してもらってき
た。 ストレスで病気になるような環境にはいないはずだが、筋肉痛については粘土こねを趣味で日常的 にやっているので、さもありなんと
納得してしまった。

 このことが重大な結果を招く序曲だったとは知るはずもなかった。
 治るどころか悪くなる一方で三日連続で医院に通ったが、三日目の深夜、激痛と呼吸困難に陥り未 明に救急車を呼ぶはめになって
しまった。
 診断の結果は総胆管結石の発作と重度の肺炎の併発。

 結果的に総胆管結石の発作を四日間も放置してしまったことによる極端な体力の低下が肺に感染 症を引き起こしたということらし
い。 とにもかくにも、病院に収容された安堵感か鎮痛剤が効いているのか、ICU「集中治療室」で妻は ようやく穏やかな表情を見せたもの
の、首の動脈につながれた点滴と酸素吸入でその痛々しさに私 は言葉を失ってしまった。
 救急担当医の「総胆管結石と重症の肺炎です。血液の組成が変わって出血した場合血がとまら なくなる恐れがあり危険な状態です、
念のためケイタイ電話を手放さないで下さい」と落着いた口調 で告げられ、私の視線は意味もなく宙を泳いでいた。

 気持ちが動転し、身体が地球の引力を感じなくなってしまったような錯覚にとらわれていた。
 それから10日間ほど、一応快方に向かっていると思われたものの、その日妻は腰の痛みを訴え張 り薬を処方された、張り薬につい
ては妻も私もかぶれる体質なので注意していたが果たして予想通 り発疹ができてしまった。
 ところが、これを担当医は肺炎治療薬の薬害と判断したようで抗生剤の種類を変更した。これが肺 炎には全く効かず悪化することに
なってしまった。

 全身が衰弱し、排尿が出来ず一日一キロを上回る体重が増加し、むくみで水ぶくれ状態になって しまった。
 この異常を妻は担当医に必死で訴えたのだが届かなかったようだ。
 急激な衰弱を伴いながらも体重が増え、それを維持するために心臓はフル稼働を強いられていた に違いないのだ。
 12月28日朝、負担に耐えかねた妻の心臓の鼓動が止まった。

 急性心不全。

 ひどい苦痛の後、動けなくなり車椅子に乗せられたあとは何も憶えていないという。気がついた時は ICU「集中治療室」で人工呼吸器
のパイプを気管の入り口まで通され、機械の力で喘いでいた。
それより前、急を聞いて駆けつけ途方に暮れていた私に若い救急医はこう告げた。

 「ご主人ですか」 ・はい
「今朝、心臓が止まりました。今は人口呼吸器で動いていますがこのまま数日続くか、それまでに急 変があるかも知れません。心の準
備をしておいて下さい」

―可能性も無いと言う事ですか?
 「・・・・・・・・・ちょっと」
 突き上げる激情を押し殺して泣き崩れる私の耳に、医師の靴音が冷酷極まる響きを残して遠ざかっ た。
 度重なる不運の中に身を委ねる妻に、心底哀れを思った。
 そして、重大な事態になすすべの無い自分を呪った。

 無意識状態のとき、妻は私の母や実父【共に故人】それにその前の代の知らない人々にまで会っ ていたと言う。そして母より先に死
ぬわけには行かないので、どうしてもシャバに戻らなければならな いなどと【懇談】をしていたという。
 潜在意識はこの世とあの世の間のバリアを取り払っていたようだ。

 世間では、無意味な延命装置と思われがちな人工呼吸器の助けを借りて、 幸いにも意識を取り戻した妻は衰弱と口から気管まで挿
入された人口呼吸器で言葉も出せない状 態ながら、かろうじて糸くずのような文字で筆談が出来るようになってきた。が、その内容は
自分がこ のまま死ぬかも知れないという意識をもにじませていた。しかし、その精神力は悲嘆に打ちひしがれ た私の気持ちの中にか
すかな明かりを点じた。

 一日半の仮死状態の中で脳は損傷を受けていなかったのだ。
 悪くすれば脳が死んで植物人間になってしまう可能性もあった中で、それは次第に明るさを増して 来た、そして歓喜に変わった。
 ICU集中治療室で10日間。人口呼吸器も外され2003年一月十七日現在、驚異的な快復力【私には そう思える】で今は退院の日を待
ちわびている。

 もう一つの病名「総胆管結石」については医学的処置で砕く事に成功しているようだ、今までの医師 の言動がそれを示している。
 いずれ検査が行われるであろうけれど楽観している。
 生身の身体の危うさもろさを余りにも身近な存在を通して、強烈なインパクトで実感させられたこの 数十日だった。
入院から35日目、身も凍るような日々がようやく過去になりつつある。
  2003年一月







 2003、年の初めの独り言

 今回の件「誤診妻の災難」を機会に私は常日頃から考えあぐねてきて実行できないままでいた【仕 事からの卒業】を決断した。
 子供達もとっくに自立し、サラリーマンなら既に3年前から自由人をやっているはずなのだ。
 定年というあまりにもはっきりした節目を持たない自営業など自由業者は、いつまで経っても若いつ もりで延長線をたどってしまう。そ
うして無理がたたってある日突然病に襲われ取り返しのつかない 事になりかねないのだ。

 そのとき、「この歳になるまで仕事一途にやってこられて幸せだった」と思える人は、それが一番い いのだろう。
 私は仕事を生活のためであり、一種の苦痛だと思っている。 生活を支えるための仕事はその目的に合致している間は生きがいであ
り、大きな意味を持ってい る。だから仕事が楽しくもあるのだ。

 何かを支えると言う目的を失った仕事など時間の浪費だ。 社会的に貢献の大きな職業など内容にもよるし人材として有用な存在の
人たちももちろん多い。し かし、私の場合は好きで始めた仕事ではないし、社会に貢献しているとも考えられないし、生活上 必要だか
らやって来たに過ぎないのだ。

 ただ、何十年も関ってきた仕事と言うものは、好きで始めた事でなくても、また、飽き飽きしてきてい ると思っていても、その歴史の中
に愛着を積み重ねてきている、それを振り払う事は少なからず勇気 も要る。
 そんなことを思い巡らせているところに今回の妻の大病だ。 蘇ったからいいようなものの、逝ってしまっていたら、悩みながらも仕事人
間だったかも知れない自 分にどれほど嫌悪感にさいなまれたことかと思うとぞっとする。

 今回の【誤診事件】は四ヶ月に渡って継続して来た私の仕事の着地点「製造品の納品」の直前に 起きた。
 四か月分の製造品を数箇所の配達先に集中的に納品するという、まさに正念場を迎えていた。たっ た一人の仕事なのだ、助っ人は
いない。
 それでも何とか乗り切ったものの、ただでさえ軽い私の体重は心労と過労によって10日間で5キロも 削ぎ落とされていた。
 ひとつ間違えば夫婦共倒れになるところだった。

 それに、多忙にかまけて妻の病変が重大な事態になっていることに気がつく事に遅れたかも知れな いのだ。
 医者など専門家よりも、共同生活者たる配偶者が先ず気遣うことは当然の事だと思うのだが、「多 忙中」という自分の立場ばかり優
先して「こんなときに」と疎ましく思ったことが無かったと言えるだろ うかと自問し、後悔している。
 たった一人で責任の大きな仕事を続けることの危うさを今度こそ解決することにした。家業を辞め ることだ。

 今まで自覚してきた半自由人から正真正銘の自由人になることだ。
 そうして、夫婦それぞれが健康に留意しながら気兼ねなく自由な時間を謳歌することだ。
 仕事から解放されて自由な時間のある生活――ちょっと考えてみただけで楽しくなるではないか。

 「仕事が無くなると退屈するよ」などと人は、よく言うけれど退屈する時間があれば仕事とは違う何か を得られる機会も増えるのだ。
 それに、多趣味な私達夫婦は退屈している時間などおそらく無いと思う。だから退屈してみたいとも 思っている。
 2003年二月二日。
 今までとは違うこれからの始まりです。







  忘れた携帯電話

 「誤診、妻の災難」それに「2003、年の初めの独り言」、に続いて今回の妻の危急を後々まで忘れてはな らない記憶として以下の文章
を含めて三篇を記録として記します。
 妻の容態急変の知らせを知ったのは商品の配達から帰った午前十時ごろだった。
 ケイタイ電話を持たないで出かけ、帰着して留守電のボタンを押した時だ。 突然体中に電流が走った。

 未だ経験したことの無い狼狽と動転、一瞬放心状態に陥りその場にへたり込んでしまった。追い討 ちをかけるよう病院から電話が来
た。「危篤状態」の確認の急報だった。
 前日、異常にむくんだ妻の身体と震える手指と顔面に胸騒ぎを感じて、我慢しないで症状を訴える ようにと言い残して後ろ髪を引か
れる思いで病室を後にしたことが悔やまれた、なぜあの時、私自 身が看護師に直接訴えなかったかと。

 あれは、この日直面する事になる緊急事態のサインだったのだ。
 気を取り直して病院に向かった。距離は7キロ、十二月二十八日御用納めの翌日だ、幹線国道は 年末帰省や家族旅行の車でごっ
たがえしている。
 私は、周りの楽しそうなファミリーを目にして、窓をしっかり閉めて意味もなく怒鳴った。何でこんな 事になるのかと左足で、ジダンダ踏
んで泣いた。

 生涯忘れることのないであろうこの日2002年(平成14年)十二月二十八日午前十時。
 病院の駐車場に車を置いた私は鍵をかけることも忘れて駆け込んだ。
 ICU「集中治療室」は入院当初何回も入っているので場所は分っている筈なのだが、気持ちが動転 していて全然思い出せない。受付
の案内係が落着いて親切に先導してくれるのがまどろっこしくて 「早くして下さい」、と怒鳴ってしまった。ICUの様子については「誤診、
妻の災難」で記しています。

 今、冷静になって想い起こしてみると、あの日「28日」携帯電話を持たないで商品の配達に出た事 が結果的に幸いだったと考えてい
る。配達先は病院と正反対の方向、距離は20数キロ離れている。 そんな所で運転中或いは商品の積み下ろし最中に緊急電話が入って
いたら、パトカーにでも先導し てもらわないかぎり、この距離を冷静に運転出来る自信など到底ある筈がない。
 しかも、この日は数箇所に商品の納入を終えれば仕事は一応は終わる見通しが立っていたので、 その先は看病の時間が充分とれ
ると一安心していて少しは明るい気分に浸っていたのだ。

 携帯電話の携帯を忘れたことは、結果的に二次的悲劇を防いだと言えると思っている
 何事も起こらなければ今ごろはノンビリしていて、好きなアウトドアは季節的に寒くて駄目だし何とな く満たされない想いにふけるころ
だけれど、今は同じのんびりでもしみじみと幸せを感じている。 幸福というのは、こう言う事なのだろうと思う。

 長男が母の予後を気遣って延期していた初孫のお宮参りを三月三十日に予定している。関西へ 一泊旅行を兼ねてということになる
が、はたと気が付いてみたら私達が孫に対面するのはこの日が 最初になる。この世に生を受けて三ヶ月目
 昨年十二月三十一日、妻の意識が戻って自力で眼を開いた時に映ったあの写真だ。
 今までメールで次々と送られて来ているのでお馴染みになってしまっているのに確かにやっぱり初 めてのご対面なのです。
 色々ありました、今はハッピーエンドの物語です。








 父のこと妻のこと


このホームページを、順を追って
読んでくださっている方々には少々くどいと思われるかも知れませんが 、
このテーマについては、それほど私にとって衝撃的な
出来事であったことを理解して頂き、あえて繰り返します。

 妻の誤診による危急に対して私はいわゆる因縁のようなものを感じざるを得ない気持ちだった。私 の父は医師の誤診が原因で世を
去っている。
 私が3歳になる直前のことだった。この歳ではもとより知る由もないが成長過程の中で折に触れて兄 弟や親戚などの会話の中から聞
き及んでいる内に何時の間にか実体験として記憶しているかのよ うに錯覚しているところがある。
 盲腸炎と解った時には既に手遅れで病床に伏してから一週間で事切れてしまったという。36歳だっ た。

 大戦中だったという悪条件もあったであろうけれど、ありふれた病気で逝ってしまい母と生まれて七ヶ 月を含む4人の幼子を残した。
 それから60年の年月を経て同じように今回の妻の危急だ。呪われていると思った。
 医学がどんなに進んでも医師の見立て違いという、たったそれだけのことで一人の命が左右される という現実は全く変わっていな
い。

 身体の具合が悪いとき、どんな病気が潜んでいるか解らないので先ず大病院へ行くのが安心と、 よく言われるけれど評判の良い病
院は何処も患者でごった返している。何時間も待っていたのでは 治る病気も悪くなってしまう。そこで順序として近所の開業医を頼るこ
とになる。その医院で今回の 危急を引き起こされてしまった。
 過去10年来、治自体の呼びかけによる簡易人間ドックで夫婦共々お世話になってきた馴染みの 医院だ。今回の危急はその人間ドッ
クの結果が出た10日後に起きた。大きな異常がないことを確認 したその直後ということになる。

 異常を訴え診察に行った時、胸のレントゲンも撮らなかったという。症状が良くならず、三日間連日通ったというのに。
医者も直前に胸の写真を確認しているので、疑わなかったのだろう。
こんなミスが人の命を左右するという危うさに患者の配偶者という言わば当事者として接するとき、 臨床医という職業の責任の重大さを
見せ付けられる思いだ。しかし、その責任の重さを常日頃から 自覚していれば事故は起きなかった、或いは重大な事態にはならなか
つたと思う。

 その日、動転していて保険証の所在が分らずかかりつけのその医院に置き忘れてきていると思 い、入院させて一息ついてから取り
に行ったとき、受付の看護師から事情を聞かれ、ありのままを答 えたその時、看護師はカルテを開き次の瞬間顔色が変わった。そして
勢いよくそのカルテを閉じた。
 全く別の病名が記されていたのだろう。

 私がここで言いたいのは、この事態が医院の責任者であ る医師には今もおそらく伝わっていないと言う事だ。 とすれば妻が死線をさ
まよったことなど全く知らないことになる。
 仮に伝わっているとすれば、言い訳でもなんでもいい。一言私達夫婦に言葉があるべきだと思う。
 そんなことをあれこれ考えながら、幼かりし頃父を誤診で死に追いやったその医院の前を通るとき、 いつも「父を殺した医者だ」と意
識していたことを思いだしている。