山と旅のつれづれ



暮らしのエッセー(2)


                                琵琶湖北部(PC絵画)

八編収録






  旅のかたち

 毎月うんざりするほど旅行会社から団体旅行商品のカタログ誌が頼みもしないのに送られてくる。
 まあ、少しぐらいは旅のヒントになると思って一応はひもといて見るが、どれもこれもが過密スケジュ ールで、限られた時間や日数で
いかに多くの見所などをこなすかと言う事がほとんど主流をなしてい る。
 旅はゆったりと中身の濃い内容にしたいと思うのだが、その道のプロにしてみればそれはビジネス であって、効率第一なのだ。

 旅行商品を物色する客の方もまた、ぎっしり詰まっている行程表をむしろ評価するようだ。
 私は決められた時間の中でより多くの見所を巡ってくるという意味での効率を無視できることに旅の 面白さがあると思っているので、
数々の旅行商品を見るとき、行程表をざっと見ただけで気分的に大 忙しになってしまう。
 旅にも色んな目的があるということを、プロの旅行関係業者は注目してほしいと、これは本当に切 実に思う。

 すべてを自分で計画し実行して行くのが旅の楽しみなのだが、ただ、業者の旅行商品は今の時代 絶対的に安い。それだけ安く出来
るのなら幅を広げて色々な目的の旅に合わせられるような商 品構成を考えられないものかと常々思う。ゆったり旅など出来る環境にあ
る人が少ない或いは、そう い環境にあってもそうする人が少ないのかも知れない。
 そんなことをあれこれ考えながら、点と点をつなぐような超過密なスケジュールに見入っては独り勝 手にあきれている。

 もっとも、超過密といってもそれはバスの運転手、ガイド、添乗員など関係者は大変だろうけれど、 客のそれぞれは指示に従っておれ
ばいいことなので、のんびりかも知れない。
 或いは、忙しくてもあなた任せで気楽なので、バスに揺られてガイドさんの説明を聞き、ねむい時に 眠って、おしゃべりしながら何の心
配もなく巡ってくると、帰ってきてから旅の前半の行動を殆ど忘れ ていることに気がつく。

 私達は数日間の旅を計画するとき必ずと言うか出来るだけ同一地での連泊を計画の一部に加え ている。そうすることで一日は歩き
回れる日がありその地域をじっくり堪能することが出来る。それ に朝、宿を出るとき「お世話になりました」ではなくて「行ってきます」であ
り、夕方宿に着いたときは 「お帰りなさい、ただいま」なのだ。この気分は何とも言えないゆとりを感じる。

 今回の「陸中海岸の旅」(旅のエッセーbR)にしても行き帰りは除いて現地だけで正味6日間の旅で回ってきた 範囲といえば、上陸地
の仙台市「宮城県」の他は全てが岩手県内だ。一日の移動距離をおよそ130 キロ以内としている。ここぞ、と思う所では時間を気にせ
ず過ごしたいと思っている。それが旅を楽し む一番のコツだと考えている。

 旅行会社の商品としての東北旅行などは3.4日もあれば「東北一周旅行」ということになる。これ ではどうしようもなく忙しい。
 やっぱり、旅というのは適度の緊張感と時間的ゆとりと、何よりも「主体性」がないといけない。旅行 社にあなた任せではもの足りな
い。時には失敗も旅の内なのです。もっとも町内会とか何かのサー クルなど初めから団体旅行の一員として参加するときは、それはそ
れで効用はあるし団体が目的な のだから異論はない。

 それに、今回の旅「陸中海岸」では岩手県以外の東北地域を意識的に丸々残しておいたので 後々の旅の楽しみもそれだけ都合の
良い形で残してあることになる。以上、熟年夫婦旅好き人間の 「へそまがり旅論」でした。




 


人 命 救 助

救助した人にお礼を言われたことは一度もないですね」
愛知県沖で、釣り舟から転落した会社員を助けた男性は、ため息をついた。
スキューバダイビングの免許を持っているせいか、家の近くの海などで何度も救助にかかわってきた。
だが、助けられた人はそのまま病院に行くか、帰ってしまい、以後の連絡は無し。どこの誰かも知らないまま、
ニュースで無事を知ることもある。やはり、何度も救助を経験している漁師は 
「感謝されたくてやっているわけじゃない。ただ電話の一本もあれば気分が違うのに」。
事故が起きるのは、漁にも出ない荒れた海の日が多い、助けに行くのは命がけだ。
その場は名前を聞く余裕がなくても、誰に命を救われたか調べるのは難しくないだろう。
水難事故の多い季節。マリンレジャーはまず安全第一。
もし、万が一の事態になったら、 お礼の言葉を忘れずに。

2003年8月12日付け中日新聞のコラム「黙耳録」(もくじろく)より転載。


 水難とか、山での遭難などで居合わせた人や要請されて駆けつけ救助に当った人などの大部分 に共通していると言う憂慮すべき一
言。命を助けてもらった 恩人に対して殆どの人が後々お礼の言 葉がないと言う。
 どうなっているのだろうと思うのだが、今回かみさんの命の危急を傍で体験してしまったその経験を 踏まえて、この事について辿って
見たいと思う。

 かみさんの「事件」とは別に私は二度に渡って自殺志願者を救っている。事故で はなく自ら死を志願していたという点で遭難とは基本
的に違 うのだが命を救った点では同じだ。蘇っ て我に帰った時、「死」を決意し、実行したときと心境は違うものがあると思うのだが、こ
の時も本人 からは何の音沙汰 も無かった。

 翻って、私のかみさんが死の淵から蘇った(暮らしのエッセー(1)誤診、妻の災難)そのよろこびから数ヶ月を経た現在、上 の記事を読
んで、はたと気がつくことがある。病気や事故で 無我夢中になっているときや意識が無 くなってしまっている時と言うのは当然のことだ
けれども本人は何も憶えていないのだから。

 その時の状態は本人よりも周りのほうがはっきりと憶えていて、いてもたってもいられないほど気持 が動転している。
 当人は、いかに大変な事態だったかという事は、後々周りから聞いてようやく認識する。つまり自 分自身のことが他人事のように聞こ
えてしまいがちのだ。

 いきさつを聞いて納得はするものの、「一体何があったのだろう」と、それでもなお懐疑的なところ があるのだ。
 そういう事実を私はかみさんの病気を通じて、実感している。
 いまでも、異常を感じて非常ベルを押したまでは記憶にあってもその後は、ある日、眼がさめたら体 が重くて人口呼吸器をはじめ何
本化のパイプに繋がれた自 分がそこにいて、おぼろげながら意識 が戻ったその感覚の中で「何でパイプだらけの体で自由を奪われて
いるのか」と、また「何でこんな に親戚が集まってい るのだろう」と、不思議な気持ちだったという。

 救助され、命をつないだ本人が一番そこに到る事実を知らないのだ。
 だから、その事実を周りの関係者は正確に伝える努力が必要だと思う。

 事故などで救助され我にかえった時、本人が命の恩人を忘れているのではなくて忘れることの出 来る「材料」が記憶の中に無いの
だ。一部始終を知る周りは そのことを忘れないようにしたいと思 う。そして、そのことを本人に周知させる義務のようなものがあると思
う。しかし、上の記事のような 水難事故などは周りに 遭遇した人たちは「他人」である場合が多いと思う。一部始終に接して「ああ よか
った」と胸を撫で下ろして、或いは本人の意識がなければ助かることを祈る気 持になって見送 ることはあってもそれ以上の行動は無い
し、また何らかの行動を起こさなければならないと言う理由 もないのだ。

 そうなると、病院で意識を取り戻した本人は「何があって誰に助けられたか」を詳細に伝えてくれる 人【一番有力なのは親子親戚など】
がいない限り、前述の ように【他人事】のように聞こえてしまうの ではないかと思う。
 上の記事を読んで、ボランティアなどで時には命がけで人命救助にあたっている尊い人々に報い る、良い方法が無いものかとつくづく
思う。



 

 旅好き人間、旅行中の留守管理

          (植物たちへの思いやり)

 旅は好きだが植物の栽培、特に花の栽培は私の余暇には欠かせない趣味だ。
 植物と言へども生き物であり、日々の管理が大変だろうと度々人から言われるけれど、その度に私 は変な質問をする人だと気持ち
の中で苦笑している。
 何でもそうだと思うけれど、世話がやけるから面白いのだ。

 旅も勿論面白いけれど、来る日も来る日も連日旅の中にいる訳にもいかないでしょう。まあ、そん なことが出来る人もいない訳ではな
いと思うが、それでは「旅」ではなくて「放浪」だろう。放浪の旅と も言うけれど山下清画伯にはなれそうもない。
 それで、日常は花の世話をして楽しみ、旅に出たくなった時は遠慮しないでお出かけになる。そんな 日常が一番楽しいのだ。
 さて、そこで問題になるのが旅行中の花たちの管理だ。なにせ植物は前述したように生き物、しか も旅は天気の良い日に行きたい
し、花たちはそういう日ほど水管理は欠かせないし、欲が深いと他 人はよく言うけれど、この種の欲は深いほど良いと私は確信してい
る。

 盆栽愛好家など初夏から秋ごろまでは絶対に水を欠かせないので何日にも渡る外出どころか、一 日の内でも長時間の外出さえまま
ならないという。特に真夏は種類によっては日に三回も給水しな いと長年の力作が台無しになってしまう。それでも盆栽の手入れさえし
ておれば満足なのだそうで す。

 欲の深い私はそうは行かない。両立させなければ気が済まないのだ。
 そういう訳で旅行中は装置を使って自動的に給水をすることにしている。
 ペットボトルの蓋の部分を工夫して必要な量だけ自動的に吸い込まれて行くという安上がりな商品も あるけれど、色々試してみて電
子装置で蛇口を開け閉めするタイプが最も信頼出来ることが分った。

ただ、何十鉢も或いは季節によっては百鉢以上もある植木鉢やプランターに細い送水管を張り巡ら すのは大変な作業だが、こんな事
を嬉々としてやっていられるのは大変良いことなのだ。
 機器の設定に間違いがなければ三日に一回から一日二回まで季節に合わせて給水が出来る。た だ、天気が良かろうが悪かろうが
時間になれば忠実に給水してしまうことと給水量に無駄が多いこ となど、完全とは言えないがしかし、旅行中の心強い助っ人ではあ
る。

 最近は土壌中の水分を計測して必要と判断した時にセンサーが作動して電磁弁が開くという優れ ものも登場しているが、そうなると
各プランターなどによって或いは植物の種類によって違いが生じ てくるので、設備が大掛かりになってしまう。まあ、植物園、フラワー公
園などには利用されていると 思うが一般家庭花壇向きではない。
 それに、自動装置をセットしたからと言っても普段は花たちの健康状態をチェックしながら丹念にジョ ーロで水をやるのが育てる楽し
さなのだから。

 そういう訳で旅に出る時はその4.5日前にセットして間違いなく動くかどうかを実証しなければならな い。で、帰ってきてからまたそれを
外して手作業で水やりをして花たちと会話?している。その繰り返 し。けっこうこれも大変だけれど安心して旅など何日間かの留守を任
せられるのは、何度も言うけど 欲の深い私達にとって本当に欠かせない装置になっている。
 決して 省力化のためのシステムとしてではなく、あくまでも留守中の花たちの安全対策なのだ。

 一週間ほどの旅から帰ったときなど、見違えるほど成長していてびっくりする。
 ひとつ困るのは、道行く人が細い送水管がセットされていることに興味を持ってそれに意識的に触 れてセットを外してしまうことだ。
 元に戻しておいてくれれば何の問題もないのに、訳が分らずびっくりして逃げ出してしまうようだ。さ いわいお隣さんが面倒見てくれて
いるので助かっている。



 




 今時の国民宿舎

 戦後、市民生活が落ち着きを取り戻したころ、庶民の余暇利用に潤いを、という目的で宿泊施設 「国民宿舎」が一定の条件のもとで
公的な補助を受けて誕生したと理解している。
当初は生活水準も当然ながら現在とは違って高くはなかったので当事としては比較的に設備の整っ た庶民的な宿泊施設として一時
期人気を集めた。

 今でも各地に存在するが、公的な宿泊施設が非常に増えた今日、その存在意義が問われている のではないかと思う。
安い宿泊施設として旅行好きの私としては興味もあったし実際何回か利用もしてみた。その上で実 感するのだが内容がまるで発展し
ていないと言うことだ。
 完全に時代に取り残されていると言ったら言いすぎだろうか。もちろん一部に研究熱心なところもあ って、安くて快適という所もあると
聞くが、予約の際それを見極めることなど至難の技なのだ。

何回か利用してみて中には朝を待たずに逃げ出したくなるような居心地の悪さも経験している。
また、ガイドブックで良さそうだと思ったので予約して、着いてみたらほとんど休業状態で私たちの他 に一組の客がいただけということ
もあった。
その上、追加料理を頼んだら残り物を使ったらしく、夜中になって二人とも食中毒をおこし七転八倒 のていたらく。

保健所に通報をと思ったが、その後の役所の処理などを考えると煩わしくて、それに、朝になって何 とか快方に向かっていそうな気がし
たのと、旅行中にこんな宿を利用していることが新聞などに報道 されるかも知れないと思うと、恥ずかしさも伴ってとにかく逃げ出すこと
しか考えられなかった。
 朝食も摂らずに、ふらふらの体調でトイレのはしごをしながら四国の室戸岬から数時間のドライブ で帰宅したこともある。それ以来国
民宿舎は利用の対象外と決め付けている。

一部であろうけれど公営国民宿舎の親方日の丸的な経営姿勢はいまどき本当に時代遅れだ。長引 く不況と言へどもセンスを置き去
りにした宿泊施設など早急に淘汰されるべきだと思う。 安いから当然というのでは安くはない。
良心的な公共の宿が充実してきた現在、競い合って向上してほしいと思う。
作今の高齢社会、元気な高齢者にとって公共の宿は不可欠な存在になりつつあると思う。

団体客が馬鹿騒ぎをする温泉旅館とか、過剰サービスにかえって居心地の良くない一流旅館な ど、パッケージツアーではない自由な
中高年者の個人旅行や夫婦旅行などにはふさわしくないと思 う。 色々な考え方があるので一概には言えないれけれど、多くの公共の
宿泊施設の、豪華ではないけ れど落ち着き払った雰囲気は、たまの大名旅行ではない中高年者の長旅にはうってつけの宿だと 思
う。

数の上では、多分一番多いのが国民宿舎だ。接客業の基本に立ち返って研鑚してほしいと切に 思う。
 およそ、旅の内で宿泊施設ほどその旅の良し悪しを左右するものは他にないと思う。
迷わず選べる国民宿舎、そんな時代が来ることを願わずにはいられない気持ちだ。









   禿山とハゲ

 二年ほど前私の住む町から30キロほど北方に連なる里山で大規模な山火事があった。北の空を 一面に真っ黒く覆う不気味な光景を
眼にしてぞっとした記憶がある。300メートル前後の低い山だ が、真冬の里山を歩くのはシーズンオフのトレーニングにはほんとにあり
がたい存在だ。
 風さえ無ければ、気温が低くてもこんな山々を歩き回っていると適度に汗ばむ、そんな山が私の住 む町から、これまた適度な距離に
沢山ある。
 その、里山が燃えた、緑の山並みが一変していた。

火炎に包まれ命を終えた木々が文字通り林立する風景はいまだに山火事の凄まじさを惜しげもなく 見せ付けている。
低い里山は一般的に山頂まで樹木に覆われ視界がさえぎられていて、山歩きの醍醐味である大展 望を堪能するロケーションが限ら
れているのが普通だ。
 しかし、この日歩いた里山「岐阜県関市、権現山」は火事によって殆ど丸裸であり、林立する枯れ木 も視界を遮ることもなく足元の荒
涼たる世界とは裏腹に結果的にハイカーにとって見方によっては快 適な展望を楽しめる身近な山になっている。

麓に広がる集落や団地の住民にしてみれば、山崩れなど二次災害の危険が確実に、しかも長期的 に増しているのだからそれどころ
ではないと思うがしかし、一ハイカーの無責任な感想としては、穏 やかな冬の陽射しの中での足慣らしの場として捨てがたい環境にな
っている・・・と思う。
 さて、この白く乾燥した山肌と生気を失った立ち木の群れを見ながら私は自分の頭の上を想った、 大いに共通点があるなあ。

 10年ほど前に白髪が目立ち始めた時は、どうせ歳と共に白くなるのだ、などとむしろ、白髪にあこ がれて?いたような気がする。そう
して司馬遼太郎のあの輝くような白髪というより銀髪に歳相応の 理想を見ていた。
 ところが、一向に銀髪には進まず、ごま塩の髪の毛は白髪から先に抜け落ちていることに気がつ き、がっかりしている。
 こんな経験を通して気がつくことだが、男は加齢とともに白髪になるか禿げるかに大別できるような 気がする。

 頭髪が少なくなって来ている人の髪は黒く、ふさふさとしていて多い人は白いのだ。さて、私はどちら に属するのだろう、結論は今しば
らく先になりそうだ。
 太っている人が周りの人やテレビに映る人物の肥満度を気にして自分を慰めるように、自分の頭 髪に変化を見たとき政治家とか芸
能人などの頭のあたりばかりを、知らず知らずの内に観察してい るわが身に気がついている。

 しかし、60も半ばを数えると開き直りというか大して気にもならなくなってきている。これ以上『明るく』 ならないためにも、そのほうがい
いと思っている。
 さて、また話を戻して、大規模な火事災害に遭ったこの里山も焼き払われて明るく陽が差し込むよ うになった山の地肌は、それまで
緑に遮られて発芽を妨げられていた木の種子が芽吹き、よくよく観 察して見ると火事によって蓄えられた木灰をも肥料に、冬枯れの丈
の高い枯れ草の間に既に数十 センチに達して逞しく息づいている。

 いち早く発生した雑草たちは山肌に適度な湿り気を保持するのに役立っているのだろう。
時間はかかるが森は確実に再生に向けて活動を開始している。
 人工的な植林も急がれているが自然の営みというのは一面ではもろく、しかしまた一面では本当に 感動する逞しさをも見せ付けるこ
とがある。
 この山は64歳の私が多分存命中に若木が風になびく、さわやかな山肌に回復するだろう、私の頭 の上のそれは、そうは行かない。








     

 わが町小牧市点描  


 春を探しにこの街の母なる流れ「大山川」の川べりを歩いてみた。一時期護岸をコンクリートで固め ることがベストと考えられていた洪
水対策は、今や、生態系の保護の観点からも誤りとして自然の 土手を保護しながら景観保全に配慮がなされており、一筋の川にその
前後の対比を見ることができ て面白い。

 二年ほど前の大洪水のときの名残か或いはその後の豪雨の置き土産か分からないが、割合に深 い掘割を持つ川べりの底部に二
三メートルに成長した雑木の梢にさえ白いゴミがいまだに濁流の痕 跡を留めるような形でしつこく絡みついたままになっていて、冬枯れ
の寒々とした風景に一層の寂し さを漂わせている。

 この日三月一日、期待した春の兆しはまだほとんど見られない。早春の山などは既に木の花が散 見できるし、節分草など北方系の
草花も見られるのに、開けた草原では春の訪れは遅いようだ。殺 風景・・というより冬枯れの川原は洪水の痕跡も交えて雑然としてい
て寒々しさを一層増幅させてい る。

 そんな中でこの川の両岸は近代的な大きな工場群に囲まれていることを、今更ながら改めて見直 していた。
 若かりし頃、有数の繊維工場群を抱える街に十年ほど住んだ記憶の中の工場はのこぎり屋根と織 機の騒音に満ちていて、その風景
が活気の象徴でもあった。

 それが、ここに見る工場群は広い敷地に緑をたっぷり育成していて建物は緑の中で程よくバランス しており、古いタイプの「工場」とい
うより明るく伸びやかな景観をなしている。
 工場群といっても戦後の高度成長期のそれと、新しく立地した景観に配慮したハイテク工場の建物 群とでは隔世の感があり、この街
が物づくり愛知の中でも有数の工業都市の地位を得ていることを 実感している。

 公園の一角のような工場の境界だが、よくよく、観察してみると侵入者を感知するためのハイテク装 置がさりげなく、しかし、厳重に張
り巡らせてあることに気がつく。歩いて観察することでようやく回り の景観とは裏腹にハイテク工場の厳重な警備の実態をおもい知らさ
れる。


田縣神社、拝殿には巨大なご神体、大男陰茎「おおおわせがた」をはじめ
大小の男性器を見ることができ撮影が禁止されている訳ではないが
神様も恥ずかしがられると思うので写真でお見せすることを遠慮しました

  田縣神社(たがたじんじゃ)

 御歳神「みとしのかみ」と玉姫の命という神様が祀られているそうです。
 五穀豊穣を願う神社は全国にいとまがないが、この神社は一風変わっている。
 豊作を祈る、或いは豊作を祝うという、古来の素朴な神事がいつの間にか人の生命発生の神秘と 結びついたのか、毎年三月十五日
に行われる祭り行事は「豊年祭り」だが、男女の営みとそれに伴 う命の出現を礼賛する珍妙な祭り行事になっている。

 その表現が余りにも開けっぴろげで、初めて目の当たりにした見物客は唯ただ唖然とするばかり だろう。私はこの地に住み慣れてい
て、もはや慣れっこだがこれほどまでにあっけらかんとしたご神 体と、それを堂々とした神輿に仕立て上げて練り歩くその光景には誰し
も心底仰天すること請け合 いだ。
 そのご神輿は何と巨大な木彫りの男性器。奥社には大小さまざまな男性器がひしめいている。

 祭りの日、神輿に寄り添って可愛い?ご神体を胸に抱いて静々と従う五人の美しいお嬢さんたち、 何ともほほえましいと言うか大らか
と言うか、はたまた無邪気と言うか適当な表現が思い当たりませ ん。
 しかし、見慣れたせいもあるのかも知れないが、いわゆる、いやらしさをあまり感じないのは祭り行 事、神事として定着していることに
あるのかも知れない。

 祭りの日が日曜日と重なった年などは大変な人出で賑わうが、普段でもけっこう観光客で潤ってい る。日本ラインや明治村など観光
地に近く、貸切観光バスの立ち寄り先として定着しているようだ。
 国内外の民族学者など、専門家、研究者の来訪も多いと聞く。


ちょっとやりすぎだとおもうんだけどなあ。
センサーの働きで人が近づくと水が両の乳首から弧を描くように噴出すのでーす。
厚い信仰心に燃えている人には辟易するような光景だろう。
これも、信仰というものに大らかな国民性のなせる業かも知れない。

  間々乳観音、龍音寺

 昔むかし、あるところに・・ではなく古戦場で知られる小牧山の山中で八頭の白い鹿を狩人が仕留 めたが、どういう訳か獲物は消えて
無くなり、代わって八つの白い岩盤が現れたと言う。
 そして、突如そこに出現した観音様に諭され、狩人は以後殺生を絶ったという伝説があり、その白 い岩が何時の間にか母乳を連想し
たのか、乳の出に悩む乳児の母親たちに慕われ霊験新たかな 観音様としてあがめ奉られている。

 現在は山の北方の間々という地名のところに「乳観音龍音寺」として存在する。
 ここもまた楽しいところで、豊富な母乳を願って観音様に貢物をするのだが、それが、以前は板の 上に丸いふたつの大きな饅頭のよ
うな、つまり、おっぱいをかたどった手作りの縫いぐるみを貼り付 けたものを供えてくるのである。
 大きいの、可愛いもの、魅力的な形のものなど、個性に満ちたおびただしい数のそれら人形?が供え られ、ぶらさげられていて、まこ
とにほほえましい風景だったのです。

 現在はお寺のほうで用意されているらしく、以前のものより小さく画一的な発泡スチロール製と思 われる「おっぱいセット」がお供え料
と引き換えに渡され、それに願をかけて、うやうやしくぶらさげる ことになっているようだ。
 不真面目な?物見遊参のひとりとしては、以前に比べればいささか物足りないがまあ、それにして もユニークなお寺さんではある。

 この国には、やおよろずの神が仲良く暮らしているという、つまり八百万もの神様の存在を肯定し ている訳だ。仏様だっていろんな宗
派があって何の不都合もない。ということは、裏を返せば国民の 間に信仰心が薄いと言う事なのだろう。そんな土壌がこんなユニーク
な伝説や田縣神社のような、 大らかな神事を生んだと言えるのではないかと考えてみている。
 全国にこれらに類する信仰や伝説などはけっこう多くあるか或いは埋もれているのではないかと私 は考えている。


小牧城歴史館。信長が居城したころと小牧長久手の戦いのころの城の再現ではない。
一事業家の私財で建設され、市に寄付された鉄筋コンクリート製だ。
歴史資料の展示館になっている。

  小牧山

 豊臣秀吉が生涯に一度だけ織田、徳川連合軍と戦ったことで知られる古戦場だ。小牧市のほぼ 中央部にあって標高はたったの八
十六メートル。
 ふもとの標高が二十メートルほどあるのでふもとからの山の高さは六十数メートルしかない。丘の ような山だが平地にしかも街中に
ぽっかりと存在しているので、展望が極めてよろしい、まさに小牧市のシンボルのような山だ。
 ただし、快適な展望と同時に街の喧騒も容赦なく受け入れている。街から発生するさまざまな音は 数十メートル上空には意外なほど
よく通る。全体が公園化されていて、最近は観光バス向けに駐車 場も用意された。

 お膝元に永年住んでいると意外に意識しないが、小牧山は国指定の史跡であり歴史好きの人々 には興味深い存在なのだろうと思
う。 昭和34年の伊勢湾台風で甚大な被害を受けたが現在では爪あとも癒え、意識的に植樹された花 の咲く木々が生長し花の山としても
楽しまれている。

  名古屋空港

 小牧市ととなり町、豊山町豊場地内にまたがっていて、幼かりし頃は「豊場の飛行場」と認識して いた。
 その頃は米軍基地であり、境界の鉄条網の所々に「合衆国占領地」という警告表示板が目に付い たことをいまでも不思議なほど憶え
ている。 小学生の頃の記憶だが『占領地』の字句と「侵入したものは合衆国の法律により処罰されます」と いう一文に幼心に何となく恐怖感を
感じていたのかも知れない。在日米軍から返還され航空自衛隊 小牧基地と名称を変え、『小牧』が定着していった気がする。

 2005年春には中部新空港、愛称「セントレア」、の開港で主要地方空港と国際空港としての機能を 失う。難産の末に生まれそうなの
がビジネス機専用の空港だ。

 未だ全国に例のないといわれるこの種の空港が果たして問題なく運営されるかどうか見ものだ、。県営空港ということになるので確実
に予想される赤字をどうやって処理していくのだろうか。列島の 中心部で工業生産第一位の愛知県にとっては将来的には必要であろう
し、結果的に未来の先取り になってほしいものだ。現空港が移転することで航空自衛隊小牧基地の機能強化につながる恐れ もあり、
この町の生活者として騒音など環境の悪化が気になるところだ。

 現に、空中給油機の配備が決まっている。専守防衛の自衛隊に空中で給油しなければなら ないような事態の想定そのものが、おか
しな話だが空港の移転と基地の強化は一体になっているよ うな気がしてならない。
 航空自衛隊小牧基地と共用する現名古屋空港は敷地の大部分は小牧市域にあるが空港ターミ ナルビル、つまり表玄関は隣町「豊
山町」であり、所在地は豊山町ということになっている。



小牧市郊外、小木地区にある日吉神社。
小さな社はクスノキの枝葉に包まれるようにひっそりと佇んでいる。

  日吉神社の御神木「楠木」

この項目についてはシリーズ「巨樹巡礼」の一部と重複します。 まさに、灯台元暗し。
ものごころ付いてから五十数年にもなると言うのに、しかも故郷を遠く離れて暮らした経験もないの に、確かに何度か住み替えは経験
したものの、一貫してこの地域に生活していながらこの楠木の存 在については、まったく気がつかなかった。

  興味のある事柄については、誰しも自然に不思議なほど情報を入手しているはずなのに、しかも、 巨樹、大樹ともなればいやでも物
理的に目に付く大きな存在なのに、この大樹がわが町「小牧」で悠 然と枝葉を広げていながら私は半世紀もの年月に渡ってお目にか
かることがなかった。
思うに、人は遠くばかりを見ている。遠くへ行くほど旅をした気分になる。

これを機会に巨樹に限らず距離的に近い地域への旅を見直してみたいと思う。
楠木は関東以西の太平洋側の地域に広く分布しているが、このクスノキは樹齢が約500年と言わ れていて各地に存在している同種の
巨樹と比較すれば若い。
広葉樹のクスノキはまっすぐ成長する針葉樹と違って枝を四方に大きく広げる。広葉樹の大木を比 較していて気がつくことがある。500
年も1500年樹も高さ、枝の張りはそれほど差がない、決定的な 違いは主幹の横張りだ。

これほどの巨体を地球の引力に逆らって上へ上へとは行かないのだろう。
それで横太りの太鼓腹になる。そしてその現象こそが見るものにとって魅力なのだ。でも、この巨樹 はすらりとした姿態が美しい。







 年金生活一年生


 昭和41年、吹かなくても飛ばされそうな小さく多分特殊と言えるような木工業を起こして以来38年。見習い時代を含めれば半世紀近い
年月が流れている。
 15歳で親元から離れた私は、大人になって社会を経験したのではなく、社会に出てから大人になったようなものだと実感してい て、
明らかに順序が逆転している。大部分の人たちよりその分早く仕事から自由の身になることが夢であり、また仕事を通して何時 の間に
か実現出来うる夢だと思うようになっていた。

 そして、そうすることが若き日に通過できなかった、つまり、失われたかもしれない何かを取り戻す ことに少しはつながると考えて来
た。それに、細々とではあるが自営の実績を通して金銭的な裏づ けの最低限は確保した積りでいる。
 そんなことを繰り返し繰り返し考えながら悶々と時間をつぶしている内に、月日の経つのは早いもの で気が付いたら63歳が目前に迫
っていた。

 55歳で定年自由人だ!!!と豪語していたころのあの信念は何処かへ置き忘れてしまっていた。自営 業には定年がない、自分で決断し
なければならない。
 実は、これが至難の業なのだ。自営業主はある意味で自由人であり私のような単独自営はその 中でもより自由人にちかい。そんな、
仕事の性格も絡んでか、同じ仕事に飽き飽きしている自分が いながら、仕事に愛着している自分と、それに、金銭的な欲望を捨てきれ
ない自分とが、からみあっ て後一年もう一年と繰り返している内に一般的な定年年齢を超えてしまった。

 自分で自分に定年を言い渡すという、一面では冒険的定年よりも、消極的自営を続けて仕事が立 ち行かなくなったときに自然に移行
したほうがいいかもしれないなどと、年令を重ねるにしたがって、 考え方がいいかげんになってきていた。 それに、私を必要としてくれ
る取引先にある程度恵まれてもいた。

 このことが、信念に忠実な決断を先送りしてきた材料になっていたのかもしれない。
 そんな折も折、かみさんがほとんど突然、三途の川を渡りかけて途中でしばらく立ち止まってから 引き返すというような大病を患うこと
になってしまった。

 さいわい、以前にも増して元気になったが、私はこの事態を仕事の現役からの引退の「決断を促 す天の声だ」と素直に受け入れるこ
とにして迷わず実行することにした。
 地獄の底から蘇ったような経験を通して、「満たされた時間というものは、日々繰り返される何でも ない日常の中に存在する」のだと
いうことをしみじみと感じている。

 一年間をかけて関係者に迷惑をかけることなく大げさに言えば残務処理を進め、今年の初めから 晴れて「自由の身」なのです、時に
は退屈も楽しさの内なのです。

 私のホームページ「巨樹巡礼シリーズ」は元気な自由人の自由な時間を謳歌している最初の成果 であると思っている。これから取材
見物が遠方になるに従って数日間の一人旅行ということも考えて いる。さみしくて楽しい奇妙な旅になると思うとやっぱり面白そうなの
です。
 何でかみさんとペアで行かないのかと訝しがられるかも知れないが、そこはそれ、私の趣味道楽 に無理やり付き合わせる訳にはい
かないから、かみさんが希望しない限り私の方が同行を求めない ことにしている。もちろん同行してくれるのは大歓迎だ。そんな旅も時
にはありたいとは思っている。

 さて、やっぱり仕事から解放されて自由な時間というものは、いいものです。
 年金収入に見合った生活さえ心がければ何ら憂いもないのだから。

 二ヶ月近くに及ぶかみさんの入院生活で、長い療養を必要とする病気をしたときの費用の目安も 経験的に裏付けられたし、日曜菜
園は「いつでも菜園」だし、シニア、高齢者向けの教室とか講座と かに関わるのもけっこう楽しいものだし、図書館を利用すれば本はタ
ダで読めるし、退屈なときはた いくつだーと気楽に云っていられるし、これでいいのだろうと確信している。
 決して抜け殻でもなければ世捨て人でもありません。

 年金財政の今後については大いに気になるけれど、そこまで悩んでいては、明るくなり始めたおつ むの上が蝿も止まれなくなってしま
いそうなので、余り気にしないことにしている。







  住宅リフォーム雑感


 29歳のとき、現在の場所に居住して30数年特殊な木工業を営んできたが、64歳になった今年 (2004年)様々な考えが交錯するなか
基本的には自由な時間が欲しくてきっぱり仕事から卒業を果 した。
 いままで、職住一致と云えば聞こえはいいが住宅兼仕事場であり、何処までが住みかで何処から 仕事場なのか判然としない部分の
ある中途半端な居住環境に甘んじてきた。仕事を卒業してみて、 あとに残ったのが二人だけの住居としてはだだっ広い、しかし、いい
かげんな建物だ。

 本音を言えば小じんまりとした専用住宅に変えたいのだが、残された人生の短さを考えれば新築 するには無駄金を感じるし、またそ
んな金銭的な余裕にも乏しい。それに新築するためには現在の 建物を取り壊さなければならない。それを考えるとき、30数年細々とで
はありながらも営んできた家 業とともに二人の息子を社会に送り出したそのささやかな歴史を刻んだかけがえのない「城」がいと おしく
て、しかも撤去するだけで百数十万もの費用を費やしてその上で歴史の証人を消し去る気に もなれず、木造住宅の平均寿命をとっくに
超えた我が家をついの住家とすべく改装と来るべき東海 地震を意識しての耐震補強を思い立った。

 「ついの住家」と書いたけれどお墓のことじゃないんですよ、元気で天寿を全うするための拠点と云 う意味です。
 現在、木造住宅の取り壊しまでの平均年数は27年という、信じがたい短さだが昔の鉄道線路の跡に造成された私達の家は旧線路に
沿って一列に並ぶ家並みの中で、ふり返って見渡してみれば30 数年来建ち続けている家は一二割に過ぎない。
 住宅価格は土地も含めて国際的にも非常に高いはずなのに、日本人は何でこんなに住宅に飽き っぽいのだろうと不思議でならな
い。

 普通に住める住宅があればライフステージに合わせた手直し程度にしておけば余裕資金の使い 道が広がり生活が楽しくなること請
け合いなのに、私はそれまでの住居を惜しげもなくぶっ壊して豪 華な家を新築して金銭的にも気持ちの上でも余裕がなくなり、日々の
生活がちぢこまってしまうよう なことだけはしたくないと思っている。

 さて、その手直しだが、これがなかなか曲者で内部を一新するために天井をはがし内壁をめくり床 板をそっくり造り変えるという大改
装かもしれない改装をやってみると予想以上に見えないところが 見えてくる。
 30数年前といえば景気の曲折はあったとは言え概ね高度成長のただ中にあったと思われるし、 好景気の建設業界などは仕事をこな
すためにいい加減な工事を平気でやってしまったことなども考 えられる。また、こんにちのような地震対策もほとんど問題にしなかった
時代だ。骨格構造がむき出 しになると考えても見なかった手直しが必要になることが分かってきて愕然としてしまった。

 しかし、考えてみればそういう事実が解ったこと自体は落胆よりもむしろ収穫だったのだろう。
 見えないところの必要な補強工事が、リフォームとセットで出来たことをさいわいだったと思ってい る。
 それに、内部の改装については建材の進歩が見方によっては目覚しくて選択の幅が広いことも相ま って、当初イメージした改装後の
我が家が殆ど別物に変身してその部分は現代風の新築同様に生 まれ変わってしまった。

 かくして、作業場付き住宅が世間並みの「住宅」になり、永年の夢だった普通の居住空間を得た。
 この結果、玄関ホールとそれに続く居室、その付随設備などが真新しくなり、リビングルームは10 数年前に改装済みなので今回はそ
のまま、さらに奥の骨格と外装だけの旧製品置き場は私の「毎 日が日曜大工」で私流の10畳間を造り上げる予定で既に構想を練って
いる。他に二階に数部屋が あるが加齢とともに階段の上は無視することにしている。これだけのことをやって見てもまだ、車が ゆった
りと入ってしまうほどのスペースと十分な物置も備えている。

 「毎日が曜大工」でいじくりまわす楽しさを当分の間満喫できそうだ。
 今回のリフォームで、60歳の二代目大工さんの仕事ぶりをとくと拝見させてもらって、これから始ま る「毎日日曜大工」の仕事(あそび
かな?)についてのヒントを大いに学ばせて(盗ませて)もらったこ とも大きな収穫だった。
 特殊で共通点は少ないとは言え、木工関係の仕事をしてきたことも大工仕事の理解を得る上で役 立っている。

 将来ふたりの息子たちが同時にそれぞれの家族を連れて帰省したとき、さあ,いらっしゃいと歓迎で きるスペースを確保したと思って
いる。

 はてさて、我が家は30数年の歴史を刻みながらも住宅の「顔」である玄関とそれに続く部屋はプロ による新築同様になり、リビングキ
ッチンは10数年前に手がけた私の手作りの内装が生きており、 そして奥の10畳間はこれから、わたし流のアレンジで造り上げようとい
う、三つの顔をもつことにな る。

 ま、奥まった部屋は人目につかない、出来が良くなくても誰にも文句言われないで済むので気楽な ものです。そんな気持ちでやって
みると意外にうまく行くものなのです。
 以上、新築に踏み切れない熟年男の「ごまめのつぶやき」でした。





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