山と旅のつれづれ




PC絵画 第四部

幼かりし頃、好きだったお絵描き。仕事の現役中は、すっかり忘れていて、50年目に出会ったそれは、
思いがけないパソコンによるお絵描きです。場所をとらず、ソフト以外の道具一式の必要もなく、
手軽に描ける面白さに浸っています。
作品はすべて自分で撮ってきた写真や旅行パンフ或いは、頭に浮かんだ架空の風景を題材にしています。
写真トレースやデッサンを省略して、キャンバスに直接色描き手法で描いています。









コスモス

 花の表情をとらえるのは難しい。
 それでも、いじくりまわしている内に、何とかコスモスになってきたかなあと、思えるようになってきた。何回でも描き直しができるのが
PC画の面白くて、ごまかしっぽいところだ。本来の絵描きマニアには辟易されることだろうが、PC画ならではの新しさ良さといった面が
評価されてもいいと思う。

 かつて、「おもちゃ」と酷評されたデジカメが、今やカメラの主流になったように。
 ところで、コスモス。気温の低下と短日によってつぼみを形成する「短日開花」の代表的な草花だったはずなのに、品種改良?が進ん
で長日期の六月に花が咲いてしまう種が登場している。夏の間中だらだらと咲いて、それでも本来の季節にはまとめて咲いて花壇や野
原を彩ってくれる。人間どもに都合のいいように、いじくりまわされても遺伝子を受け継ぐことは忘れていないようだ。

 夏の暑さに弱いコスモスは平地では下葉が枯れて倒伏し、行儀の悪い咲き方になってしまうが、高原の秋のコスモスは平地とは比較
にならないほど、大きく鮮やかな色彩でスキー場の斜面などを彩っている。
 コスモスの本当の美しさは、高原のスキー場や標高の高い山里に点在する民家の佇まいとともにあると私は思っている。

 今年(2008年)の夏は異常に暑い。持ち運びの面倒なデスクトップパソコンと大きなモニタを備え付けた部屋にはエアコンがあるが、一
軒の屋内で同時に何台も使うとパンクしそうで、それに自然の風の通らない部屋で暑さを我慢いながら描くきにもなれず、しかたなく昨
年の作品を持ち出して貼り付けました。










錦秋 秋田駒ヶ岳




 東北地方五日間の旅の途中、乳頭温泉郷に通じる田沢湖畔の快適な道は、途中で秋田駒ヶ岳の登山口へと導かれるドライブウエー
に入ると、土、日曜日マイカー進入禁止の規制表示を確認して幸運にも乗り入れることができた。今日はウイークデーだ。
 二千メートルにも満たない秋田駒ヶ岳は東北もここまで来れば中部以西の三千メートルに近い高山と気象は変わらないのだろう。ま
だ九月の終わりだというのに、山頂一帯の紅葉は最盛期には少々間があるものの、鮮やかに染まっていた。

 ドライブ旅は、方々を点々と巡ることが多いが、こんな適度な登坂を伴う山歩きに丸々一日を費やす、ゆったりとしたひとときは心地よ
い疲れとともに満たされた気持ちになる。まして、たどり着いた頂が抜けるような青空と高山性の樹木の紅葉という絶景の中に佇む気
持ちのゆとりは旅の楽しさの真髄というものだろう。こんな日は宿の夕食が旨い。

 山頂は小さな池を囲むように幾つかのピークがあり、最高峰から見下ろした風景がこの絵だ。したがって最高峰は描かれていない。
撮ってきた写真をプリントして見ながら描くとき、それが二年ほど昔の旅でありながら、ついこのあいだ辿ったような気分になりながら描
くたのしさは得がたいものなのです。来年あたり、また行ってみたい気分になるのです。








白川郷雪景色

 東海北陸道が全通して、名古屋方面から世界文化遺産「白川郷」へのアクセスは飛躍的に便利になったが、御母衣ダムの湖に沿っ
て景観を楽しませてくれる国道156号とは正反対側の深い山並みを橋とトンネルで串刺しするように貫く高速道は片側一車線で対面通
行という。時間は稼げるが山岳地域のドライブの楽しさには程遠い。

 トンネル通行の閉塞感と分離帯の不備な一車線での緊張を強いられるよりはと、国道を利用したら、私にとってはこれが正解。高速
道路の全通前と比較して極めて少なくなった交通量はダム湖をいただく荘川の景観と合わせて快適なリバーサイトコースに変身してい
た。一部、幅の狭いトンネルも対向車が少ないのでほとんど緊張しないでやり過ごす快適さだ。

 白川郷は何度か訪れたことがあるが、寒さの嫌いなわたしは真冬の合掌集落にお目にかかったことがない。仕方なく、雪をかぶった
幻想的な風景をインターネットのホームページサイトから入手して、描いてみたのがこの絵です。
 正面の合掌住宅は、写真では割合に小さな倉庫風の建物だったので、三層の窓を持つ普通の合掌住宅に置き換えて描いています。
したがって、具体的な題材ではなく、頭の中に描いたイメージをかたちにしたものです。どこかにちぐはぐなところがあるかもしれない。

 雪に閉ざされた集落の、しずかに春を待つ風情が伝われば本望です。もっとも、高速道路の全通で集落は人出にもまれて『冬眠』もま
まならずで、複雑な戸惑いの中にあるのかもしれないが。

   






氷河の見える風景

 中国チベット自治区、カンリガルポ、ラグ氷河というのだそうです。
 実際にそこを歩いてきた知人から入手した写真をプリントして、それを脇に置いて描いたものです。
 パソコン絵画ならではの、写真やお手本をキャンバスに貼り付けてそれをなぞって下書きをするという細工をしていません。したがっ
て、構図のうえではイメージの異なる仕上がりになることはありうる。それが絵のおもしろいところだと思っている。
 そのことは、このサイトのすべての作品について共通していることを主張しておきます。
 上のページの「厳冬の白川郷合掌住宅」と合わせて雪景色の白い色使いが意外なほど描きやすいことに気がついて「白」の面白さに
浸っています。







ベネチアのゴンドラ


 水路で結ばれたベネチアの街はどんな過程を経て成立しているのか、興味深いところだ。
 水中に建つ石造りの大きな建物は建ててから沈下したのか、もともと水中を意識して難工事を貫徹したものか、或いは水位が上がっ
た結果なのか、深く掘り下げて追求してみる気もないせいか、その疑問の解決にむすびつく機会がない。

 この水上都市に数万の市民が生活しているという。当然膨大な生活廃棄物が発生するはずだが、それをどう処理しているのだろう。
 常時、床下浸水しているような環境でとくに、下水、きたないはなしだが、糞尿の処理などは、我々には想像もつかないような処理方
法があるのだろうか。この絵を観るたびに気になる。

 東南アジアの島国に多い水上生活者の暮らしなどは、床下の水を飲料として使い、洗い物をし、その数メートル先の同じ水面でトイレ
のおとしものを無数の魚たちがあっという間にたいらげてくれるという『自然の営み』に驚嘆したことがあるが、ベネチアの水辺でまさ
か、そんなことはあるまいに。

 それにしても、水路の水はテレビなどでお目にかかる限りにおいては、やはり透明感には程遠い。しかし、ゴンドラ遊覧が国際的な観
光名物であり、その船頭さんの職業がエリートとして認められているというから、問題になるようなことはないのだろう。奇妙な謎が深ま
るばかりだ。

 従来は男の世界だったというゴンドラの船頭さんは、女性にも門戸が解放されたという。この絵は女性船頭さんの第一号の写真をもと
にして描いたものだが、ユニホームをまとった姿はほとんど女性であることを認識できない。ま、そんなものなんでしょう・・・。








湖北の風景


 琵琶湖北部、竹生島の浮かぶのどかな風景です。
 この一帯は北陸への旅などで通過する、わりあいに見慣れた風景だが、幹線道路から見晴るかす琵琶湖は湖南の水郷地帯をともな
った海を思わせるのびやかに開けた景色とは異なり、山が湖岸いっぱいに迫る険しい地形の印象が深い。そんな中にも絵のようなの
どかな景色にお目にかかるポイントがあるということを教えてくれたのが友人から送られてきた湖北の写真だ。その写真を題材にして
少々の誇張を加えて描いてみた。

 琵琶湖の北には天女の伝説に彩られた小さな湖「余呉湖(よごのうみ)」が鏡のような湖面に周囲の山々を映して静まり返っている。
点在する戦国時代の古戦場と合わせて機会をみてゆっくり歩いてみたいと念願している。
関が原やしずが岳などの古戦場は当地から高速道路を使えば一時間足らずの距離だ。退屈する暇もなく到着する近場というのは、何
時でも行けるという意識が、かえって馴染みを遠ざける。









サクラの岡山城

 このパソコン絵画のコーナーは外国の風景を除いて基本的に旅で出会った風景を題材にしているが、岡山城は旅で訪れたことがいま
だかってない。
そういうわけで、「旅の絵日記」の一枚にはなりにくい。
PCアート同好会でのテーマ作品のひとつだが、題材になった写真は冬景色だった。
 これではさみしい・・ということで、満開の風景にしてしまった。めくらめっぽうに花ざかりにして、さながら花咲爺さんの気分で描きあげ
てしまった。
 何時の日か旅の途中で桃太郎伝説のきび団子でもほおばりながらサクラの花満開の岡山城を仰ぎ見る機会にめぐり会ってみたいと
おもっている。







近江水郷の夏

 琵琶湖の南部、琵琶湖に付随する湖「西の湖」を中心とした水郷地域。かつては広い湿地帯であったとおもわれる田園地帯は農作業
の交通路としての水路を残していて、両岸は葦が茂る風情溢れる水郷地帯を形成している。何時ごろからか、屋形船を浮かべて、のど
かな舟遊びが人気を集めている。

 最近のことは分からないが数年前に訪れたときの素朴な建物の中の受付は地元の元気な老人クラブのたまり場のようで、素人っぽ
いオジサンがぎこちない手つきで乗船料金を受け取り、静かに漕ぎ出していった。日本一遅い乗り物なのだそうで、葦の茂る水辺に好
んで生息するヨシキリやカイツブリも危険を感じないのかすぐ近くでさえずりながら観光客を歓迎?してくれていた。

 涼しげな水音と竹ざおを力いっぱいに押し出す老船頭さんの息遣いが印象的で今でも鮮明に記憶している。映画俳優などの有名人
の乗船記録の写真なども掲げているので意外に知れ渡っているか、素朴なるがゆえにロケ地に選ばれたことがあるのか定かではない
が、観光づれしない素朴さ素人っぽさをいまでも維持していてもらいたいと勝手に願望している。








お祓い神事を待つ新造漁船

 旅先でひなびた漁港に出会ったとき、きまってその風情に郷愁を憶える。
 海を臨みながらも山に囲まれた狭い平地に密集する民家の佇まい。玄関を開ければ僅か二メートル程度の生活道路を挟んでお向か
いさんの玄関に接していて、隣人関係が濃密なのだろう。プライバシーが気にならないような良好な関係でなければ息が詰まるのでは
ないかと、余計な気遣いをしながら遠慮がちに、その生活道路を歩かせてもらいながら考えた。おもしろいことに、かつて、幼かりしころ
の記憶にもそれほどの近隣関係の経験などあったわけでもないのに、こんな路地のような道にひしめく民家をそっと覗き見しながら散
策していると、不思議な懐かしさに浸っている楽しさがある。

 漁村の場合は狭い地域に寄り添って暮らしていても、庭先のような港は開放的な生活の場であり、一歩海へ出れば文字通りさえぎる
もののない大海原だ。そんな開放的な環境と板こ一枚下は地獄という真剣勝負のような暮らしが陸での濃密な隣人関係を必然的に支
えているのかもしれない。

 そんな漁港の一角に大型の遠洋漁船とおもわれる新造船が勢ぞろいして、入魂のお祓い儀式を待っているのだろう。まぶしく白い船
体が生活臭が漂う港に不似合いなほどの初々しさで「そのとき」を待っている・・・とわたしは勝手に決め付けていた。
 たぶん、当たっている。今夜あたりは、安全祈願の酒盛りで賑わうことだろう。





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