山と旅のつれづれ



旅のエッセー13



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ただいま四編。収録終了。旅のエッセー14へお進みください。



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2300キロ九州マイカーの旅、第二部


カメラに収まりきらない巨大な阿蘇の火口。泉酔峡の展望台から

 「旅のエッセー12」2300キロ九州マイカーの旅第一部の続きです。

 巨大な火口はあっけないほど近くにあった

 阿蘇五岳(中岳、高岳、杵島岳、烏帽子岳、根子岳)とそれらを取り囲む広大な外輪山の内側に位置する高森町の一角に三連泊して
阿蘇と隣接の神話伝説の高千穂を巡るゆったり旅です。阿蘇の火口は何とその縁までロープウェイが通じている。観光客は歩いて10
分で荒涼とした地球のガス抜き穴を覗くことができる。一周4キロといわれる火口壁の頂上ラインはさすがに立ち入りできないが、それ
にしてもあまりの手軽さにその雄大さや自然現象の驚異的な営みを見晴るかす感動が薄れてしまいそうな気がしてならない。たった十
分で白煙を噴出する地球の釜の底を覗くことができるのだ。

 実は、阿蘇は二十年ほど前に一度訪れている。息子たちもほとんど自立して夫婦だけのなんとか記念旅行などとかっこよく銘打って
鉄道と飛行機を利用した旅だった。阿蘇の山ろくでタクシーを利用していて、運転手がヘリコプターに乗ってみませんか、という。

 タクシーに乗るのも贅沢だと思っている田舎ものに夢みたいなこと言わないで・・などと冗談を飛ばしている間もなく、原っぱに竹とんぼ
のようなヘリコプターが客を待って待機しているのを見てしまった。なんとか記念に乗ってしまうか!!!・・・で、そういうことになってしまっ
て、噴火口の上を竹とんぼでぐるぐると観て回るご身分になっていた。

 竹とんぼヘリコプターの記憶

 この時の観光タクシー運転手は夫婦の旅行客を乗せたとき、こんな勧誘の話をすると「とんでもない、もったいない」と云いながらも、し
ばしの沈黙のあと夫婦のどちらかが、大抵は女性のほうから「滅多にない機会だから乗ってみようよ」とつぶやくと即決になるのだそう
です。中年以上の夫婦旅の多くは、けちけちしながらも時としてそんな大判振る舞いをさりげなくやってしまう度胸のよさが備わっている
のだそうです。

 足元までが透明の風防ガラスになっている「竹とんぼ」が前傾姿勢でふわりと浮き上がるときの何ともいえない恐怖感が今でも忘れら
れない瞬間になっている。
 慣れとは面白いもので、そんな恐怖感も夢中で噴火口を覗いて興奮しているうちに、すっかり馴染んでしまって、フライトを終えて地上
に降り立ったときは、「あれ、もう終わりなの?」・・・なのでした。そんな記憶を辿りながらの今回の火口見物でした。

 賑わう火口の周辺とはうらはらに隣接の火山博物館は無料の施設なのに私たちを含めてたった四人で閑散としていた。もったいない
はなしです。
 ミヤマキリシマが草原を真っ赤にそめる高原地帯を巡って二箇所のロープウェイから噴火口を堪能して、この日一日の行動は終わ
り。世界最大といわれるカルデラ台地の中を一日中ゆったりと巡り巡ったことになる。そして今夜の宿もカルデラ台地の中だ。
 目的地に向かって、無理のない行程とはいえ、ひた走ってきた身に同じ宿を拠点にして周辺観光をしながらの連泊は、別荘のような
感覚にひたるようで気持ちが落ち着く。
 広い駐車場とスポーツ、レクリェーション施設を備えた宿泊施設のフロントに「お帰りなさい」と迎え入れられての二泊目です。


高千穂峡。観光バスがひっきりなしに客を吐き出し、あっという間に入れ替わっていく
神話の里の観光名所だ。


 神話伝説の高千穂

 九州観光のパンフレットなどであまりにもお馴染みになってしまった「高千穂峡」は垂直に切り立つ岩壁と滝が中心だが、そこを外れ
れば渓谷に沿った遊歩道が整備されていて、変化に富んだウオーキングがたのしめる。そして、大抵の観光地で共通しているが中心
部をはずせば信じられないほど静かな別天地が続いている。人それぞれの感性というか感覚にもよるが私はそうおもっている。

 伝説上の洞窟「天岩戸」の所在地という「天安河原神社」は要請すれば天岩戸とそれにまつわる伝説の案内をしてくれるという。当
然、お金を伴うだろうと要請を遠慮していたら、数人のグループが神官の誘導で奥の院へ案内されていて、私たちに同行を促された。 
 お布施だか、お賽銭だか、つまり、お金は要らないという。案内された天岩戸は何と、単なる山のヒダに過ぎず洞窟など影も形もなし。

 渓流の向こう岸の木の茂った斜面の一角をさして「有史以来の自然の変化で面影をとどめていない」という。其処をうやうやしく拝めと
促されて、騙されたようで気持ちがしらけてしまった。
 突拍子もない神話の世界で罪のないお話に神妙な面持ちで付き合う自分が滑稽で『これも経験か』と笑いを押し殺していた。そのあ
と、稲作を奨励したという神武天皇と「衣」を国民に与えたという皇后のアリガタアイおはなしに付き合ってきましたよ。
 とうとうと解説してくれる神官はどう見ても不似合いな20代の青年だった。

 特別サービスの三泊目

 おなじみになってしまったホテルのフロントから三度目の鍵を受け取って、たまりに溜まった洗濯物をホテルのリネン室で洗濯している
と、いやが上にも別荘気分だ。
 同じ宿でバイキングディナーも三度目ともなると、マンネリだなあーなどとつぶやいていたら、何と鯛のアラ煮とアジの姿作りの特別サ
ービスがあります・・という。

 その他はバイキングでお好きなようにということで、しっかり食べ過ぎてしまった。
 宿泊施設のこんな行き届いた配慮に気持ちが洗われるおもいだ。
 先着予約10組限定で一部屋二人16000円(二人)

 三日間滞在したカルデラ台地の「水の生まれる町高森町」は各所に湧水があり、ユニークなトンネル湧水は国鉄時代に掘ったトンネ
ルからおびただしい水が噴出し工事中断、湧水は絶えることなく今もトンネルを水源として観光施設になっているが、これらの湧水源は
記すことを省こう。とにかくキャッチフレーズの通り、各所に水の生まれる町ではある。








2300キロ九州マイカーの旅、第三部



柳川。柳川下りで賑わう水辺は各界の有名人の居宅や謂れにいろどられている。
この写真もそんなガイドがあったと思うが、さて、誰の何なのか、忘れた。

  柳川上り?

 雄大な阿蘇のカルデラ台地を後にして、ここからは遥か彼方の自宅へ近づきながら北九州を辿ります。午前中に到着した北原白秋
ゆかりの「柳川」は伸びやかな雰囲気がたのしい水の都だった。船頭さんの説明によると名物の柳川下りは日に一回、一艘だけが水
路の下手から観光客を乗せて上るのだそうです。そして、その船に丁度居合わせた客たち、つまり私たちは「幸運の川上り」なのだそう
です。下った船は当然、必ず上らなければ商売にならないわけで、その際は幸運の一艘以外は空船での上り、なのだそうです。

 わたしたちを含めた六人の客は大ぶりの船にゆったりと乗り込み、緩やかな流れに逆らって棹をあやつる初老の船頭さんの豊かな経
験に裏打ちされた名調子に、これはもう本当に時間を忘れさせてくれるひとときだった。
 満員の客を乗せて下ってゆく「柳川下り」との出会いも愉快な経験だった。

 船頭さんのガイドによると柳川の名物はうなぎ料理だという。「柳川」とはドジョウを指すのではないかといぶかってみたが、ヨコヤリを
いれるようなことはやめよう。柳川鍋がドジョウを煮込んだ味噌汁だということは、柳川や九州では通じないのかもしれない。
 阿蘇から柳川まで、時として車のワイパーも効かないほどの土砂降りの雨の中というこの日の天気は風流な柳川を都合よく避けて通
ってくれたようで、川下りならぬ川のぼりと相まって二重の幸運に身をおいていた。


吉野ヶ里歴史公園の中心、巨大な墳墓の発掘の様子。
全天候型の建物に覆われて保存されていて、周りに散在する復元集落と相まって
古代人の暮らしを知るうえで一見の価値あり。


 柳川に程近い吉野ヶ里歴史公園は広大な敷地に点在する古代の復元集落を結ぶ散策路がたのしい遺跡公園になっている。工業団
地の造成中に発見された古墳や集落跡は、そのまま、その上に竪穴住居を復元したという。工業団地は頓挫したが、それにしても広大
な遺跡が地下とはいえよくまあ現代まで破壊されずに残っていたものだと思えてならない。
 広い公園内を無料の電気自動車が足代わりにお年寄り優先で利用できるという。それじゃあ遠慮しようよ・・・と眺めていたらどうぞお
乗り下さい・・と促されてしまった。やっぱり老人に見えるのでしょうねえ。認めたくないけれど・・・
 北九州地域はさすがに大都市圏であり、北上するにつれて、人口も車も多くなる。

 都市高速と都市間長距離高速が複雑に入り組む道路をカーナビ頼りで便利になったとはいえ緊張のしっぱなしで、ようやく「海の中
道」を通過して今夜の宿は博多湾を形成する半島の先端にある「志賀島」。九州での最終泊です。
 夜、ホテルの窓から暗い海と湾の対岸の灯り、それにゆっくり移動する船の灯りにみとれていたら、眼下の駐車場に乗り入れた車か
ら、若いカップルが海岸の松林の闇に消えた。
 若いということはいいことなのです。ちょっと、いや、大いにうらやましい光景ではありました。

  九州最後の訪問地は太宰府天満宮

 広い境内は大きなクスノキが各所に群生していて歴史を感じさせる生きた証人になっている。神社とクスノキの取り合わせは本当によ
く似合う。九州はクスノキの巨樹が非常に多く、この旅も巨樹巡りを予定の行動に入れてピックアップしておいたものの、旅は予定通り
には中々運ばないもので、幾つかの忘れ物をしてきたような気分になっていたが、太宰府天満宮の巨樹群に接して一挙に清算してしま
った満足感にひたっていた。

 菅原道真の大宰府への左遷を嘆いて後を追ってきたという有名?な「飛び梅」は樹齢およそ800年に似合わず、か細い何処にでもあ
るような梅の木よりもさらに貧弱な存在だった。多分何度も代替わりしているのだろう。伝説の解説版が何とも不似合いでしらけてしまっ
た。たかが伝説されど伝説、後世の人々による配慮の足りなさを感じる。

 修学旅行の生徒でごった返すなかで、かみさんがおみくじを買っていた。おみくじには忌まわしい?過去があり、わたしは買わないこと
にしている。
 二十年近く前、京都下賀茂神社で買ったおみくじは「凶」だった。再び買ったらまた凶だった。「吉」を求めて三度目は何と「大凶」だっ
た。ふたりの息子が父親の経済力を慮ってか、学費の安い大学と大学院に揃って進学してくれたお礼参りでの出来事だった。

 意地の悪い神様の仕打ちには二度と接したくないので、それ以来おみくじは敬遠しているが、かみさんは忘れてしまっているようだ。し
かし私は執念深いのかおみくじに関しては、今もって無邪気になれない。そんなことを思い起こしているうちに賽銭を投げることも、形だ
けでも神妙にお参りすることさえもすっかり忘れていた。

 五日間巡った中部、北部九州の旅はここで終わりを告げ無事関門橋を渡ることに相成りました。長いような短かったような妙な気分
だ。限られた時間内により多くの観光をこなすという日本人に特有かもしれない、素っ飛び旅行に背を向けて、「ゆったりじっくり」を旅の
醍醐味と信じていながら、どこかに仕事の現役時代の亡霊でもある「効率」を焦る自分が旅の中に残存しているような気持ちなのです。

 まだこれから中国地域、近畿関西を横断するおよそ900キロ二泊の帰り旅が続くけれどながーくなってしまったので省きます。無事に
帰ってきたことだけは確かです。
 長旅をしていて何時も思う。カーナビがカーナビ様にみえてくる。余裕のドライブを約束してくれる上に、かみさんは人間ナビの必要も
なく、車に乗ったら朝から昼寝。
 全行程八泊九日間。我が人生最長のふたり旅でした。

大宰府天満宮。神社仏閣などに寄り添う巨樹は何にも勝る歴史の証明。










能登、宇出津のあばれ祭り



あばれ祭りといっても比較的におとなしい昼間の賑わい。


 能登半島も先端に近い富山湾側の海岸に開けた小さな町、能登町、宇出津地区。
 「宇出津のきりこ祭り」は別名を「あばれ祭り」という。

 能登の厳しい気候が育んだであろう、長い伝統に息づくそのあきれるほど勇壮な祭りは二日間にわたって延々と繰り広げられ七月四
日(2009年の場合)夜のクライマックスには街中が興奮し、祭り一色に沸き返る。四十一基の「きりこ」が、それぞれ五十人ほどの担ぎ
手によってきわめてゆっくり、それでいて荒々しく行進する。中でもキリコとは別に二基の神輿は海に投げ込まれ、陸に引きずり挙げら
れ、地面に叩きつけられ、燃え盛る松明の山に突っ込まれ、縦横無尽に火中でのた打ち回り、はたまた、流れる川の中を屈強な男たち
によって遡りながら神社にたどり着き、神前でまたまた火あぶりに晒し、原型を留めないほどに焼けただれ、ようやく神前に供えられる
という、毎年繰り返される一大神事だ。

 いかなる理由があってそんな荒っぽい、傍目には神を冒涜するような暴力的な行動に帰着するのかということについては一観光客の
わたしには分からない。ただ、この神輿、徹底的に頑丈な作りになっているようで、荒くれ男たちの手加減など微塵もみられない仕打ち
に、突起部の損傷以外はおいそれとつぶれないところが観ていて驚異的でおもしろい。

 神輿は損傷が激しいほど縁起がいいのだそうです。警察官、消防車、パトカーなど総動員体制で見守る厳戒態勢のなか、けが人も少
なからずあったであろうけれど、不思議なほど表面には出てこない。

 半島の先の小さな町は、この祭りのために全国に散らばった郷土出身者を呼び寄せ信じられないほどの賑わいを創出する。通りに
面した家並みはおしなべて全面ガラス戸の作りで開け放たれ、祭りの賑わいを家の中から堪能できるような設計さえなされていて、各
家でもその時刻に合わせて酒盛り宴会など、家の中と外とが渾然一体になっての祭り風景に酔いしれていた。

 程度の差はあれ、むかし幼い頃には村祭りや地域の祭りに身を置いていた記憶を新たにしていた。そのころの内陸農村部の収穫を
祝う、あるいは祈るという、割合に穏やかな祭りと海岸部で危険の多い漁業を糧とする暮らしの中で育まれた威勢のいい祭りは基本的
に同根であり、生まれるべくして生まれ育まれてきたものだろう。

 伝統的な祭りが生活様式の変化などにともなって衰退するなかで最近各地で目立ってきた「市民祭り」などのような行政主導による催
しとは一線を画する地域住民による凄まじいエネルギーの爆発だ。
 能登地方には「キリコ祭り」が各地で受け継がれ、なんと二十数か所で繰り広げられているという。中でも「宇出津のあばれ祭り」は、
地元とその関係者による継続に対する意欲と引き寄せられる観光客によって代表的な存在になっているようだ。
 それにしても、住民や元住民たちによる空恐ろしいほどの祭り意識というか爆発するエネルギーの源は何処に潜んでいるのだろう。

 以下、このページは下手な文章表現よりも、写真のほうがものを言いそうなので現場での写真を多用します。


海へ、そして火中へ。漁港で繰り広げられる昼間のにぎわい。

夜祭りは、火の粉を浴びて川の中を流れに逆らってひっくり返しながら・・・
火の粉は押し寄せる観衆の上にも容赦なく盛大に降り注ぐ

屈強な荒くれ男たちの水中行進。昼間の集中的な豪雨で水量は多く、流れも速い。

逆さまにして火の中へ。クライマックスは深夜。静けさが戻るのは朝の五時ごろという。
神輿はどんな作りになっているのか、最後まで燃え上がることもなく、くすぶりながらも原型を留めている。

次男が宿泊を招待してくれたコテージ。柳田村村営植物園の中にある。
柳田村は内陸部に位置していて真っ暗な夜が売り・・・
海岸部で祭り会場の能登町とは6キロ程度と適度な距離関係にあり、ざわめく祭りの街とは対照的に
足元も定かでないほどの暗さと静けさの中に佇んでいた。
コテージ専用の立派な天体望遠鏡から観る月の表面はほんとうに圧巻。








蓬 莱 橋



蓬莱橋。カメラマニアとは云えない私は、旅先で肝心のスポットでカメラに収める大事な仕事を
しばしば忘れる。そんなわけで、渡橋の際のチケットの写真にお手のもの?の
お絵描きで不要な部分を加工して貼り付けています。

 旅の途中の寄り道、静岡県島田市。大井川下流域に掛けられた、ギネスブックにも登録されているという世界一長い木造歩道橋だ。
1869年(明治2年)最後の将軍徳川慶喜を護衛してきた幕臣たちによって開拓されたという「牧之原」の茶畑に関わる交通手段として建
設されたとあるので、非常に古い話ではないが、この国としての名だたる大河に掛けた長大歩道橋としては、四国の四万十川に幾つか
掛けられた「沈下橋」とともに一時代昔の生活道路橋としての記念碑的な文化財だ。

 今の時代、もっと観光的にも意識されていたい存在だとおもう。しかし、さほど遠くない場所に建設された幹線道路を行き交う車の賑
わいの陰で、長くて細い華奢な感じの木橋はひっそりと佇んでいる。その雰囲気にぴったりの時代がかった入り口料金所で、おだやか
な感じのおばさんに100円を払ってゆったりと歩く機会を得た。

 異常なほど低い欄干と狭い橋の幅に適度なスリルと空中散歩のような快感と大河の真ん中から見晴るかす景観をほしいままにしつつ
時間を忘れるひとときだ。
 全長は890メートル。ゆったり歩けば往復で30分。周辺の歴史を垣間見ながらのウオーキングコースをたどることもできて旅の一ペー
ジとして記憶に残るひとこまではある。

 幾たびか、洪水によって流失していて、現在は残念ながら橋げたは電信柱のようなコンクリートになっているが、分厚い床板が奏でる
心地よい靴音がたのしい、風情たっぷりの遊歩道だ。
 訪れたのは、あいにく小雨まじりの天気だったけれど、一キロメートルに近い橋の遥か彼方を歩く二人ずれの旅人の雨傘の揺れる小
さなシルエットがのどかな時代を連想させていた。

 そんな風景に接して、このときばかりは、雨による旅先の不運を帳消ししてくれていた。差した傘を持て余す程度にしのつく雨は、それ
はそれで風情を感じる。
 きっと後々まで記憶に残る「大井川の現代の渡し」になりそうだ。





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