山と旅のつれづれ



旅のエッセイ19



                                 PC絵画 四国の風景







東日本大震災によせて



鵜の巣断崖

 地図上では、北欧のフィヨルドを思わせる入り組んだ海岸線が旅心をくすぐるリアス式海岸の東北、宮城から岩手県の太平洋岸を一
週間にわたって旅した記憶がいまも脳裏に鮮明に刻まれている。
 妻が重度の肺炎を患い、危篤状態に陥って「十日のいのち・・」と冷徹な見通しを言い渡され悲嘆にくれて三日。意識を取り戻し、三
途の川から引っ張りあげて奇跡に近い生還を果たした。五十日に及ぶ病院生活を経て健康を取り戻したその証として、絶対に忘れら
れないような長旅をやってのけようと実行したのが、陸中とか三陸とかいわれる宮城、岩手県の海岸地帯のドライブ旅だった。

 長距離フェリーで上陸した仙台から、松島湾を経て石巻、南三陸、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石、宮古と、北上しつつ都市と観
光地を結ぶ一本の道路は、太平洋に向かっていくつも連なる半島の付け根を横切り、入り江の平地をつなぐように伸びているとはい
え、多くは恐ろしく深い山の中だった。迷路のような山岳路、海の見える絶壁に刻むように架けられた車道が時おり、ぱっと開けるとそこ
は、箱庭のような美しい集落であり、入り江の広い扇状地は都市であり、活気に満ちた漁港の脇をすり抜けて、海岸美を堪能すると、
ほどなくふたたび深い山の中に入り込んでいた。

 そんな繰り返しが何と二百キロも延々と展開していた。風光明媚な地域での人々の暮らしのほとんどが自然の猛威の前に見る影もな
く奪い去られ、無残な姿と旅先で気持ちのやさしかった東北人の被災者の嘆きにテレビなどを通じて接するたびに、在りし日の記憶が
鮮明なだけに、その対比に心底、心が痛む。

 おもえば、妻が生き返って意識を取り戻したとき、ようやく自力で見開いた眼に映ったのは、デジカメの液晶画面の中に収まった、まだ
名前さえもらっていないその日に産まれたばかりの初孫の写真だった。 
 奇しくも十二月三十一日に産まれたわたしたちの初孫に「ばあさんの生まれ替わり」などとささやかれなくて安堵したことをしっかりと憶
えている。
 めでたくも生まれ変わり損なった初孫は既に小学三年生。妹にも恵まれ、遠すぎず、近すぎもしないとなりの町で元気に兄妹げんかを
繰り返している。
 よみがえったとはいえ、一時は伴侶の重篤の経験を通して、【なんでもない日々の繰り返し】が実はしあわせなのだ、という、あのとき
三陸の旅のなかで悟った心境を、歳月とともにすっかり忘れかけているようで【初心に還る心のゆとり】を失っていないかと自問してい
る。
 大震災以来「三陸・・」を見聞きする度に、そんな過去を繰り返し思い起こしつつ、いつの日か、在りし日の風景の記憶を胸に、復興の
槌音を確かめる旅の機会が早からんことを切望している。   







夏の終わりに・・


                                     河北潟のひまわり迷路

 この間までの「琵琶湖一周歩き旅」を完歩して以来、どこかを歩いて巡るという具体的な目標を失って悶々と時間をつぶしていては、
せっかく鍛えた足がなまってしまうと思いつつ当面の体力維持にと近所の小さな山を歩いている。
 昼間暑くて歩けないので、早朝の独り歩きだ。わが町、小牧市は街の真ん中に標高わずか86メートルの小牧山が居座っている。山と
いうほどの山ではないが、戦国の時代、織田信長が天下を夢見てつかの間ではあったが居城し城下町も形成されていたといわれる。
後に秀吉と家康が生涯でただ一度対峙したという「つわものどもの夢のあと・・」であり、国指定の史跡でもある。

 あまりに近すぎて、いままでほとんど意識しなかったが、日常の暮らしの中に、最適な散歩道があるということのしあわせを思うべきな
のだろうと認識を改めている。
 独り歩きは自分のペースで歩けるし、自然でいい。なじみの三氏と我が家のご近所のご夫婦に出会うことがあるが、何人に出会うか
を、その日の運勢に無理やりふざけて結びつけている。一人に出会えば小吉、二人は中吉、三人であれば大吉、さらに満願のときは、
宝くじを買うことにして、その売り場も駅前に常設されていることを確認している。大抵は誰かに会うが満願はなかなか・・

 宝くじに当たる確立よりは、現実味がありそうだが、いまのところ運に恵まれる機会が巡ってこない。
たったひとりにも出会わないときは「凶」では風情がなさすぎるしその日の運勢をどんな位置づけにしようかと、どうでもいいような悩み?
を楽しんでいる。
 早朝歩きを年間続けられるかどうかは、心もとないが、暑い季節に限っていえば、爽快な一日のはじまりではある。自宅から往復五、
六キロ。運動不足に陥りやすい真夏の体力維持に励んできた。

 話がころっと変わる。
 地震、津波、原発、政局、円高。それに加えて紀伊半島の台風水害。
 一向に出口の見えない列島の現実。
 石川県河北潟のひまわり迷路で、こちらはたやすく出口が見えてきて、ひまわりちゃんの黄金色の無数の「笑顔」に取り囲まれなが
ら、そんな物思いにふけってみた。 
 広大な干拓平原の、海原のように広がる牧草地帯の、のどかな風景のなかで、この干拓事業に足跡を残した豪商銭屋五平の悲劇を
しのびつつ、行く夏を楽しんだ。
 「惜しんだ」と、しめくくりたいのだが、最近の夏の猛暑は過ぎ去ってやれやれ・・なのだ。
 そんな気持ちの片隅に、あのやかましかったクマゼミの下品な合唱さえも聴けなくなって奇妙なさみしさも同時に引きずる秋九月です。

 





三重県、神島ウオーキング



港の背後に折り重なるように佇む集落。右は艦的廠(軍事施設、軍国時代の遺物。
小説「潮騒」のクライマックスの舞台でもある。 (共にPC絵画です)

 愛知県、渥美半島の先端「伊良湖」の港から海上を直線距離でわずか5600メートル沖合いの小島「神島」は、伊良湖から15分で到
着するのに、料金が1300円也。往復で2500円と、とびきり高額なのに驚く。距離が三倍もある三重県鳥羽の港から神島までは710円
で運んでくれるというのに。

 利用者が少ないのだろう。この航路のみを扱う小さな海上旅客運送会社が独立採算で運営しているようだ。旅行者としては腑に落ち
ない一面はあるが、三重県に所属する神島としては、公的な離島航路の補助の賜物だろう。こちらの運営主体は「三重県鳥羽市海上
交通課」とされている。自治体の運営なのだ。

 狭い伊良湖水道の真ん中に愛知県と三重県との県境が横たわっているばかりに、きわめて近距離でありながら公的な補助の対象に
ならず、べらぼうに高い運賃を旅行者は受け入れなければならないことになる。生活航路ではなく、旅行者対象の観光航路のようだ。
 志摩半島と渥美半島という天然自然の防波堤に囲まれた伊勢湾、三河湾の入り口であり、好漁場でもあるこの海域は名古屋港、四
日市港、衣浦港への航路で、大型船が速度を落として行き交う中を木っ端のような漁船の群れが散らばり、航路としては緊張を強いら
れる条件にありながら、観光客としては見飽きすることのないのどかな風景がたのしい。

 狭い水道の一角に浮かぶピラミッド型の神島は漁港の背後の斜面に折り重なるように佇む住宅群、自動車をほとんど必要としない集
落の道路は、「路地」とも言えない通路を挟んでひしめき合い濃密な隣人関係を思わせ、さながら、神島一家の様相を呈している。
 ほとんどが山林であり、海に囲まれた環境は海水温の関係で冬季に霜が降りず、温暖なのだろう。つる植物に覆われた森は、まるで
ジャングルのようだ。わずかな海域で隔たった小島の自然環境が対岸の本土とは明らかに違った雰囲気に満ちていてその違いが興味
ぶかい。

 島のわずかな平地には立派なコンクリート造りの小中学校の建物があり、かつては、児童たちでにぎわったのだろう、ひっそりとした
雰囲気につつまれ、廃校か・・とおもわれたが、眼下の岸辺に打ち寄せる潮騒に混じって授業の音が伝わってきた。静寂のなかで運動
場を隔てた校舎の一角からざわめくような人の声がかすかに届き、なぜかほっとした気持ちになる。

 神島灯台から渥美半島や知多半島を望む伊良湖水道の風景は、ここに立ってはじめて得られる雄大な雰囲気に大感動だ。灯台を
背後にしたこの一角が「恋人の聖地」なのだそうだ。こんな風景の中で若いカップルたちは、さぞやしあわせなことでしょう。
最近は灯台や岬の先端の高台などで「誓いの鍵」とでもいうのか、めったやたらとフェンスなどに錠をひっかけ、鍵をかけて記念にする
カップルが増えた。
 わたしはすでに七十歳代。いつの間にか【遠い過去に新婚カップルの記憶をとどめるジジババの寄り道】として神社仏閣に、気持ちの
安らぎをほとんど無意識に求めているその行為との対比が人知れずおもしろいと思った。

 伊良湖水道を静々と行き交う大型貨物船の船影を眺めつつ、そんな愉快ですこしわびしさも漂う気持ちに浸っていた。
 日に四、五便しかない伊良湖への連絡船に乗り遅れまいと早めに港に着くと、小さな食堂を見つけて蛸飯の昼食にありついた。
 たかがタコメシ、されど蛸飯。ほんとに旨いタコメシだった。小じんまりとした斜面上の集落にとって共同の庭先のように佇む魚港の一
角で出船を待つ時間は退屈と未練が入り混じる不思議な心持になる。
 滞在時間はたった四時間。それでもゆったりと一周出来てしまう孤島の帰り舟は、わたしたちを含めてわずか四人。さながら海上タク
シーだった。






類まれな山里、下栗集落


急峻な尾根を切り拓いた特異な佇まいが印象的な下栗の集落。
(観光ポスターの写真を借用しています)

 特異な山里「下栗」は標高1000メートルの高地にありながら、わが町小牧市からは車を使えば意外なほど近いところにあつた。
長野県飯田市。中央自動車道飯田インターからほぼ東方50キロ。
 のどかな山里風景の中をわりあいに整備された道路は行き交う車もまばらで、快適に飛ばしていると、やがて深い山あいに突入し、
突然現れる巨大なループ状の構造物に圧倒される。静岡県遠州地域から長野県南信州を結ぶ「三遠南信自動車道」の部分開通と位
置づけられる矢筈トンネルの入り口だ。何時になったら全通するのか見当もつかないこの高速道もトンネルだけの部分開通で南アルプ
スのふもとにひっそりと佇み、僻地といわれた下栗集落を含む南信州遠山郷への交通にとっては飛躍的な変化なのかもしれない。
 当面は無料通行というのもありがたい。

 遠山郷を南北に走る国道152号線は北に地蔵峠、南は青崩れ峠で寸断され、粗末な林道の迂回路はあるものの忘れ去られたような
静かな道路に沿って集落が点在している。
 その中でも国道から別れてひときわ離れた深い山の尾根を切り開いて佇む下栗の集落は特筆すべき景観が観るものの心に迫ってく
る。

 「日本の原風景」・・と形容されることが多いようだけれど、わたしには、類まれな山里の風景であって、そこにネパールやブータンの、
丘がうねる田舎の風景を重ねてみていた。
 この国の「原風景」といえば、周囲を山々に囲まれた広い谷あいの中央を流れる清流に寄り添うように開けた田畑や民家集落を連想
すると思うのだが、ここ下栗は最大斜度38度といわれる急斜面の尾根の上にうねる生活道路に沿って民家が点在していて、他には見
られないすばらしい景観をなしている。斜度30度以上の畑は、小型の耕運機さえ拒み、すべての農作業が古典的な農具による手作業
で維持されているという。

 民家に寄り添う農地は段々畑とか棚田のような形状ではない。日当たりの良い斜面をそのまま生かした耕作地は土を耕すとき、下か
ら上へ・・という重労働で斜面を維持しているという。基本的な食料がコストを度外視した自給自足で営まれているようだ。
 生活道路は登るか下るか曲がるかであり、平坦地はほとんど無い。
そんな特異な環境が土砂の崩落など大きな自然災害にも遭遇することなく数百年もの歴史を重ねているという。都会人の別荘などの
にわか造りの乱開発ではないのだ。

 なぜこういう環境に住みついたのか、そして、数百年も営み続けられたのか謎にみちていて興味深い。
 こんなとき、昔からのことわざが思い浮かぶ「住めば都・・と」  
急斜面の畑の中を農作業の体験の積もりで歩いてみたが、油断すると、転げ落ちそうになる。それでも、転落事故など聞いたことがな
いというから驚きだ。
 集落の戸数はおよそ40数軒、人口100人という。しかし、過疎、高齢化はここでもご他聞に漏れず、空き家も多いという。

 尋ねた日は折から集落の「ふれあい祭り」の当日であり、集落による地産品、各家庭での加工による素朴な商品満載の青空市場が
周辺の集落や秘境を訪ね歩く観光客に大人気で、山里ならではの土産が帰りの車の空きスペースを占領していた。
 特異な佇まいは、季節を違えてまた尋ねてみたくなるいつまでも残しておきたい別世界のような「日本の山里」です。最近はテレビコマ
ーシャルの舞台に使われたり、一部の旅の情報誌で紹介されたりして、季節によっては車が溢れ、集落の住人にとっては戸惑いもある
ようだ。観光地ではないので、多くの車を収容する余地などありはしないのだ。

 実は、この集落は十数年も前、いまだ行動的な若さを維持していたころに、無目的なドライブ中に偶然出会ったことがあり、そのとき
の強烈な印象をしっかりと記憶していた。
 今回、奇しくも下栗を故郷とする知己を得て呼び覚まされた記憶とともに再訪することになり、数人のグループ共々感動を新たにした
次第なのです。
 世間は広いようで狭い。やっぱり、人生は、そして旅はおもしろい。


宿泊してこそ出会える雲上の紅葉







小笠原諸島 父島紀行


「おがさわら丸」東京港から南へ1030キロ、25時間30分。ほとんど唯一のアクセスライン

  我慢の船旅

 小笠原諸島の主島「父島」は東京都でありながら1030キロも南に浮かぶ亜熱帯のまことに小さな島だ。岩礁を含めて18に及ぶ群
島の内、人が定住するのは母島との二島だけ。両島を合わせて2400人という。本土から遠く離れたわずかな集落の暮らしに触れて
みたくて念願の旅に出る機会を得た。

 東京竹芝桟橋から遥かな旅に出る6000トン、旅客定員1030人の定期貨客船「おがさわら丸」の二等船室は、大型定期客船の常
で、広いカーペット張りののっぺらぼうで一切の仕切りもなく、プライバシー無視の未完成な感じのフロアに畳み一畳分にも満たないよう
なスペースにごろごろと横たわるという我慢の25時間30分を強いられる。
近年一部でもてはやされる豪華客船ではなくても、一昼夜以上という行程を必要とする移動時間を考慮すれば、快適な船旅のための
一工夫はないものかと、この種の客船やフェリーを利用するたびに思いやられる。

  もっとも、ランクアップすればプライバシーの行き届いた客室も一部にあるものの、料金がバカ高く、もったいないことこの上なし。ちな
みに、2等は23900円に対して1等室は47900円也。当然往復するわけだから、夫婦での差額は10万円近くの金額になる。出発前
夜、竹芝桟橋の一等地のホテルに何とツインで一室二人9000円で朝食付きという、信じられないような金額で快適に過ごした時間と
の落差がうらめしい。

集落は新開地

地図上ではほとんど点にすぎない父島の港は、山々に囲まれた静かで本土では信じられないような透明な海とサンゴ礁が作り出すエ
メラルドグリーンに輝く水面と港を取り巻く明るい感じの適度な町並みが美しく、絶海の孤島でありながら「新開地」を思わせる白い街
に、沖縄などの古い歴史と文化を漂わせる地域とは明らかに違った雰囲気が新鮮だ。

島の成り立ちは古く、大げさな形容だとは思うけれど、「東洋のガラパゴス」と謳われ独自の進化を遂げた動植物たちとは対照的に人
が足を踏み入れた歴史は、たかだか百数十年。新しい街であり、集落なのだ。変な感想かもしれないが「ああ、やっぱりここは東京都
だ」などと的外れかもしれない気分に浸っていた。

ひなびた漁村集落の「干し網高く浜に立てカモメは低く波に飛ぶ」風景も、タコやアジなどの干物を干す棚もみられない。漁村に特有の
濃密な隣人関係を思わせる入り組んだ迷路のような路地にひしめく民家の群れもない。

 代わって、おしゃれな白を基調とした住宅群とスタイリッシュなドルフィンウオッチング、ホエールウオッチングボートその他小型の観光
遊覧船がひしめき、乗ってきた定期客船ともども、むしろ都会的な雰囲気に満ちた港町がたのしい意外なムードで観光客を受け入れて
いる。 人口2000人の父島(母島は400人)にホテル、民宿、ペンションなど宿泊施設が何と60軒。ほんの一部の例外の他はいずれ
も多くて20数人程度収容の小規模家族経営の素朴な宿だ。

それに、ダイビング、ホエール、ドルフィンウオッチング、カヌーなどのガイドを営む業者が30軒、森林(多くはジャングル)ガイドが20数
人も照会されている。さながら海と山と森林の自然探勝オールガイドで成り立っているような住人構成の島だ。


島の玄関、二見港。生活物資の流通は、ここで完結する。

  平均年齢は38歳

確かめてみたわけではないが、海辺の公園でくつろぐ初老のご婦人の話では、島びとの平均年齢は38歳という。
その多くは本土から島の環境に魅せられて移り住み、家庭を持ち自然ガイドなどに糧を得て暮らしが成り立っているようだ。島には小
中学校は当然として外見では立派な高校まで備わっている。

 健脚ならずとも、私でさえたった1日で南北に長い島の両端までを往復歩きとおしてしまうことのできる小さな島に、しかも、1000キロ以
上も離れ、おいそれと本土との往来もままならぬ絶海の孤島だ。一期一会の観光客としては魅力に満ちた島だが、定住となると躊躇し
てしまいそうな気がするのが普通一般人の偽らざる心境だとおもうのが妥当なところだろう。それでも、一部の若者たちの心情をかきた
てるものがあるのか、団体旅行の年配組みを除けば、私たちじじばば夫婦のような年配の個人旅行者は少なく、一人旅の若者たちが
目立った。

利用した宿は小さな宿だったが、同宿の旅人も私たち以外は男女の一人旅だった。 あまりにも遠く、空港も、高速船の就航もなく、6
日おきに1便の定期船で25時間30分という、その上、島に上陸したら、3泊後でなければ次の帰り船が出ないし、それに乗り遅れれば
その日からさらに一週間ほど待たねばならず、海が荒れればそれも保証されない特異な条件が、世界自然遺産に登録ということも相ま
って自然志向の若者たちの心情をかきたてているのかもしれない。

 行き場を失った高速船

 余談になるが、10年以上も前に小笠原航路を前提にして、超大型高速船「テクノスーパーライナー15000トン800人乗り」が巨額の開発
費を費やして既に完成しているという。
 定期船のおよそ2倍、時速70数キロで船体を空中に浮き上がらせて疾走する光景を観られるはずだったのが、その後の原油の高騰
で採算が合わず、受け入れ先を失い岡山県の造船所で巨体を漂わせているという。三本も掛けてしまった巨額な無駄遣いといわれる
本四架橋のいきさつにも似たバブル景気のお荷物になっているようだ。唯一の救い・・となっているのが、このたびの大震災でこのさま
よえる船が避難所として活用されているということぐらいだ。

島の先住民は欧米人だという。不確かな知識だが、石油が発見される前、アメリカの夜の街を明るくしたエネルギーは世界中で捕りま
くったクジラの皮下の分厚い油身だったといわれているので、多分日本列島の近海にまでクジラを追って住み着いたのだろう。幕末に
ジョン万次郎を交えた調査団を派遣し、維新後、国際的ないきさつを経て日本領が確定しているという。日本人が入植したのはそんな
時代からだったのだろう。

 太平洋戦争での敗戦後は一時占領されていて、欧米系の住人以外の日本人は強制退去させられ、18年後に復帰している。そんな過
去に翻弄させられた経験を持つ元気なお年寄りが経営するこじんまりとした民宿並みの宿に投宿するという、多分この島ならではの幸
運に恵まれた。
宿の主人が戦時中、要塞化されていたという島の北部、湾を見おろす高台の山中の各所に今なお残骸を晒す砲台跡や地下壕などの
戦跡を、自らの記憶をたどりつつ案内していただいた。幼いころ、飲料水に恵まれない要塞の兵隊さんのために、水を運んだのだそう
だ。
ほとんどがガジュマルや小笠原ビロウジュ、タコの樹など島特有の進化をたどった植物に覆われていて、60年の歳月を経て熱帯ジャン
グルの様相を呈していた。
 三日月山の大海原を見おろすステージのような展望台は、運が良ければクジラやイルカの群れが観られるという。宿のご厚意で持参
した立派な双眼鏡を通して探し回ったが幸運に恵まれることは残念ながらなかった。しかし、眼下に望む限りなく透明な波打ち際、黒い
ほどに碧く遠い海原、遥かに丸い?水平線、亜熱帯の明るく白い雲の群れ、二月としては強烈な日差しの中の展望ステージにしばし身
を置き、旅の疲れを癒した。

 ここでも孤独を楽しむ独り旅の若者たちの佇まいが印象に残った。


コぺぺ浜。入り組んだ景観が島の随所に観られる。

  感動的な出港

 観光客を吐き出した定期貨客船おがさわら丸は、そのまま三日間港に留まり、吐き出した観光客のほとんどを再び飲み込んで出港
する。2000人が暮らす島は入港する度に数百人、多い時には1000人もの客で膨れ上がり、そして、出港する度に静かになる。
 三泊賑わい、次の四泊は閑散となる。そんな繰り返しが日常になっているようだ。
 島での最終日、ドラの音を合図に静々と出港を始めたおがさわら丸。岸壁から別れを惜しむ島びとたちの見送りに、感激していると、
何時の間に集まったのか、数十隻のホエール、ドルフィンウオッチングボートが、おがさわら丸の両側に集まり、それぞれがちぎれんば
かりに手を振っている。次第に速度を上げるおがさわら丸に寄り添い、やがて全速力で白波をけたてて叫んでいる。

 「いつてらっしゃい」「さようなら」「またこいよー」中には、水着のはだかで海に飛び込み手を振る男たち。
そんな光景が外海に出るまでの十数分間に渡って繰り広げられた。
繰り返されるセレモニーだ・・と冷めた目で見過ごせばそれだけのことなのだろうけれど、これほどの惜別は「演技」とは思えず、素直に
迫真を感じる大感動の帰り船だった。

孤島の暮らしと相まって閑散と賑わいとを明確に繰り返す特殊な集客環境がもたらす自然発生的な行動なのだろう。
島びとたちは、この惜別を本当に素直に全身で表現しつつ、ちゃっかり楽しんでいる。
 やっぱり、離島は、人々との出会いは、そして旅は面白い。
 72歳、太平洋の荒波に翻弄される長距離航路の苦痛をおもえば、再び訪れることはかなわぬであろう父島の風景を脳裏に刻みつつ
別れを惜しんだ。








ゆったり隠岐島後の旅



残しておきたい海辺の風景「舟小屋」



 既に72歳。長距離の旅をマイカー利用で楽しむことへの、近々自覚せざるを得ないであろう年齢的な限界を想定して、少しは慣れて
おこうと公共交通で出かけることにした。
 隠岐の島への玄関口、松江までは、鉄道経由でおよそ550キロ。JRは、601キロ以上で往復割引が適用になる。51キロ以上先まで買
うことで、無駄なようでもいくらか費用の節約になりそうなので、それに65歳以上対象の「ジパング倶楽部割引」の3割引きを利用して4割
は安くなり、大幅な運賃の節約になるのがありがたい。

 名古屋から岡山までの新幹線で速さを堪能したあとは、ローカルな伯備線に乗り換えると、特急とはいえ30年もむかしから走り続ける
車両は、実にのんびりしている。中国山地の山間をうねる振り子列車は、左右に重心移動を繰り返しながら、まことにゆったりと、しか
し、山間部の車窓の風景を堪能する余裕をともなって、これで、結構楽しめる。

 スケジュールぎっしりの急ぎ旅ではないのだ。隣で退屈だ、遅い、などと苦言を呈するかみさんを無視して、のんびり特急「やくも」の中
国山地縦断のひとときを楽しんでしまった。のんびりといっても、最高時速は120キロに達しているのに、新幹線のあの速さに身をゆだ
ねた後では感覚がマヒしてしまう。

 中国山地の遅い春は、この日4月15日、平野部では散果てたサクラやコブシが満開に展開していて、花期の短いサクラのながーい花
見を満喫する幸運を得た気分だ。
 こんなにのんびりと列車に揺られていると、親しみを込めて「乗り鉄」などと、自称する鉄道旅ファンの気持ちが具体的に分かるような
気分になっていた。
 それにしても、東海道、山陽新幹線との落差がおもしろい。

 つい最近引退した新幹線列車の「鉄仮面」といわれ、親しまれた初代「のぞみ」が誕生からおよそ20年で鉄くずなのに対して30年を経
た381系のローカル線特急列車は、まだまだこれからも当分の間、きついカーブの多い伯備線で振り子列車の車両の傾きに時としてス
リルさえ提供しながら現役で走り続けることだろう。

 島根県の主要都市「松江」の駅に降り立ったらそこには、すでにおなじみになったはずの自動改札機がない。駅員が一人ひとり切符
を受け取っていて、こんな風景も地方らしくていいのかなあ・・と妙な関心を抱いてしまった。いくら地方都市といっても島根県の主要都
市だ。山陰本線との接点でもあるし、自動改札機が故障か点検中だっただけなのかもしれないし、中途半端な都会人の偏見かもしれな
い。
 キャリーバックを引いて 切符を渡すとき、係員が「山陰の旅へようこそ・・」とさりげなく発した言葉に、これから始まる旅の幸運を思っ
た。

 一桁違う人口密度

 隠岐へ渡る高速船の発着地、七類港まではノンストップの連絡バスが運行していて、市街地を何なく抜けると宍道湖沿いの道路は車
が少なく、愛知県や名古屋市郊外の諸都市とはいささか事情が違い、車がクルマらしく走ることのできる快適な交通事情に羨望を思う。
島根や隣の鳥取県と愛知県との人口密度の違いを垣間見た気がした。

 たしか、愛知県は730万人。鳥取県は60万人。島根県は76万人。その違いは歴然としている。
およそ300人乗りの双胴形の客船は、海面上3メートルに船底を浮上させて時速70キロで疾走する。海面のうねりの影響を受けにくく飛
行機のような感覚が乗り物酔いにきわめて弱い私には、めずらしく快適な船旅だ。ただ、距離およそ70キロの島後の西郷港までの運賃
が6000円也。往復割引もなく、島への往復は二人で24000円。高いねえ・・・。

 小さな島の道路地図はカーナビに入力されているデータに不備があるのか、あるいは、軽自動車のレンタカーに装備された安物のカ
ーナビのせいなのか、不親切な案内が目立って戸惑うことが多く、慣れるのに一苦労だ。ただ、どこまで間違えても島の中、五里霧中と
いうような事態にはなりえないのが楽しい。
 ときには、退屈するような、ゆったりとした旅をしようと、隠岐4島の内、島後1島だけで、3泊を予定した今回の旅、うろちょろするのも
旅のうち・・と割り切ることにしよう。

 予約してある宿へ行くのに慣れないカーナビの案内が当てにならず、小さな菜園で草取りにいそしむご婦人に尋ねたところ、ご親切に
車の後席に乗って案内してくれた。それは良かったのだが、かなりの認知症を患っておられるようで、同じことを何度も繰り返しお話に
なるので何処へ案内されるのか心細くなってきたころ、間違いなくホテルの玄関に誘導していただいて心底ほっとした。不謹慎かもしれ
ないけれど、面白い体験でしたよ。

 聞けば、若いころそのホテル「羽衣荘」で働いていたのだそうです。なつかしかったのでしょう。私たちを送り届けてホテルの係員とし
ばらく談笑のあと、嬉々として歩いてお帰りになりました。ほんと、たのしそうでした。
離島の環境と、あくせくしない島時間のなかで、はぐくまれた穏やかなお人柄を垣間見たおもいがした。


ホテルの窓からのぞむ漁火

 豪勢な海の幸

 夕食は、お魚三昧。さすが、日本海の真っただ中に浮かぶ島の料理だ。
 年とともに少食になり、量より質を重んじる贅沢を旅先では思うのだが、それはそれは、量も質も豪勢に盛られた料理に唖然としてい
ると、まだその次があるのだ。それでもこんなときばかりは、特別な食欲が湧くのか、全部平らげてしまった。
 列車で移動途中、ほとんど昼食にありつけなかったことのしあわせ?をおもった。

 夜、海に向かって最大限に開かれた部屋のガラス窓から、遥かに、隠岐島前の島影が横たわる水平線上に煌々と照らし出された漁
り火。上空の低い雲をくっきりと浮かび上がらせるほどの強烈な光源に圧倒される光景を見る。昼間、港に繋留されている漁り火を備
えた漁船の、あの、意外に小さなランプからはおよそイメージが湧かないほどに強烈な光は、人工衛星からも確認できるほど凄いもの
だという記述に接した記憶があるが、期せずしてその事実を確認する気持ちになっていた。

   とはいうものの、闇に閉ざされた大海原の一点を照らす灯りは詩情ゆたかな「漁り火」には違いない、幻想的な風景に見とれていた。
 漁船は、この集魚灯の物凄い灯りの電源を得るために大量の燃料を消費しているという。

 ホテルに隣接する港ともいえそうにない小さな船着場に接するかたちで立ち並ぶ船小屋は、丹後半島、伊根の舟屋群のような二階建
ての住宅の階下に舟を収容するものとは違って、ここは車のガレージのような漁船の収容場所の群れだ。もっとも、見た限りでは本来
の目的には使われておらず、朽ちた舟や家財道具、農産物など食料の保存場所になっているようだ。漁船が大型化してきて収容でき
ないのかもしれない。

 それにしても、潮風に抵抗して風化が進み、痛みも激しいが見方によっては風情に満ちていて、残しておきたい島の風物ではある、と
わたしは思う。玉石を敷き詰めた不安定な足元に注意しながら、それに、島びと個人の所有建物とおもわれる敷地の中を無断で歩き
回りつつ、落ち着かない気持ちでそんなことを思い巡らせていた。

 目を見張る天然林

 内陸部の深い山の中「自然回帰の森」は、天然杉の群落。急斜面に巨樹が林立している。
 巨樹を観て歩くのはわたしの趣味道楽。各地の名だたる巨樹たちは、そのほとんどが奇奇怪怪な樹形をさらしていて、そのことが数
百年あるいは1千年以上も生き続けた証であるかのような魅力をたたえているものなのだが、ここの天然杉たちは、どれも例外なく樹
幹は真ん丸く、まっすぐに天を突いている。

 しかも、目測だが樹幹の直径は小さなものでも1メートル、多くは2メートルを上回る巨樹たちが200本ちかく存在している。
 わたしの主観だが、本州では、いにしえの奈良や京都の巨大寺社建築の時代、惜しげもなく伐採され姿を消した大径木。そんな中で
建築材として不向きで役立たずとして選に漏れた一部の大木たちが難を逃れて現在があることが結果として奇奇怪怪な魅力をたたえ
た「天然記念物」として保護され巨樹ファンたちの目を楽しませている。と、わたしは信じている。

 隠岐島後内陸部「自然回帰の森」に林立する、建築材としても、とびっきり優等生に違いない天然大経木たちは本州から遠く離れた
日本海の真っ只中に位置していて輸送が困難なことが幸いしたのだろうと想像してみた。
 ここ「自然回帰の森」は、特別な森ではなく、1千年前の本州の森林は多分こんな豊かな植生が随所に展開していたのだろうと、思い
巡らしつつ、満たされた気持ちで散策していた。

 この森に続く島の最高峰とおもわれる大満寺山へ通じる鷲ヶ峰付近の鎖場、鉄梯子が次々と現れる険しい山腹を恐るおそる辿って、
時おりバランスを崩しそうになる。こんなときは72歳という年齢を実感せざるを得ない気持ちになる。

 ついでながら、20年ごとの遷宮行事に沸く伊勢神宮は、その造営に1万本(一説には1万3千本)のヒノキの特級材を消費するとい
う。伊勢神宮の背後に広がる広大な神宮の森の良材は、とうの昔に伐り尽くし、木曽の国有林に手をつけ、今や東濃の森がターゲット
になっている。1000年を経た樹木は木材となっても管理次第で1000年の年月に耐えるという。大幅に割り引いても数百年は人の役に立
ってくれるものを、わずか20年で更新するという壮大な無駄遣いが、寺社建築技術の継承という大義名分と伊勢神宮という「神の名」に
おいて批判を封じ込められている。あくまで主観ではあるけれど、わたしはそう解釈している。隠岐島後の島の心を洗われるような天然
林の中に身を置いて、そんなおもいにも浸っていた。

 神様の失敗作?

  天然巨樹林を堪能したあと、別の行き止まりの林道を辿ると「乳房杉」なる巨樹に導かれた。東北のひなびた湯治場「乳頭温泉郷」の
背後に、女性の胸元をおもわせる優美な稜線を描く乳頭山の山並みを連想しつつ期待してみたが、それとはうらはらに、これは、まあ、
あきれるほど複雑怪奇。植物としての杉の劣等性だ。まっすぐに伸びる杉の性質がほとんど見られない。

 垂れ下がる樹幹の一部に「乳房」を連想するというその発想も、世の女性たちに失礼ではないかと気になってしかたがない。こともあ
ろうに、女性のチャームポイントであるはずの乳房を、このグロテスクな垂れ下がりになぞらえるのは如何なものかと、同行のかみさん
も憤慨していた。この現象はイチョウの巨樹には普通にあるが、杉ではめずらしい。
 ここまで基本形を逸脱してしまってよくまあ、生きながらえてきたものだとわたし流の見当違いかもしれないおもいで飽きずに眺めてい
た。
 木材としての役に立たないが故の延命がさいわいしてか、それでもここまで成長してしまうと、これは、やっぱり「神がかり」としか言い
ようがない雰囲気だ。あるいは全能の神様も、ときには失敗作をやさしくお残しになるのか、造物主のふざけた遊び心の結果を見守り

たかったか、さながら、動かぬ森の怪獣のようだ。
 目を見張るほどの巨樹ではないが、そのかたちを目の当たりにするだけで、通り抜け不能の狭い林道を辿った甲斐があるような、あ
きれるような・・。

 隠岐島後を尋ねたら、ぜひともお目にかかっておきたい巨樹であり珍樹です。
 近くには「神様の腰掛石」なる上面の平らな自然石があり、造物主様はここに腰掛けてさぞやこの失敗作の行く末をお案じになったこ
とだろうと、こちらもふざけた連想をたのしんでみた。


乳房杉。神様の失敗作?

 白島崎の大展望。

 島の最北部白島崎に展開する岩礁群。限りなく透明な日本海。こんな風景を前に身を置き、時間を気にせず堪能できる個人旅。遥か
水平線のかなた、といっても直線距離でわずか500キロを隔てて、あの得体の知れない国が、国民の困窮をものともせずに軍事優先
に突っ走る愚を、それに、拉致被害者を未だに隠し続ける、おろかな国がそこに存在している。絶景を楽しみながらこんな思いはしたく
はないのに・・。


白島崎の展望    右は天然杉の巨樹

 断崖絶壁が続く浄土ヶ浦。

 ここの岩壁とそれに続く岩礁群はほんとうに凄い。それに、広く長く、落石の危険をはらんでいる。岩壁に掛けられた遊歩道は、ところ
どころ落石や崩落があり、立ち入り禁止の立て札が「ここから入れ」と不謹慎な旅行者の私たちに促して?いた。
 人は、えてしてそんなもの。山の中で「マツタケ採るべからず」といった看板を見つけて、そうかマツタケが生えるのか、それではマツタ
ケ狩りをやろう・・と、出来ごころを誘うに似ている。
 とはいえ、危険は承知で自己責任と割り切って、恐る恐る、しっかりと歩いてしまった。隠岐島後一番の絶景はやっぱりここです。

 コンビニが無く、商店やレストランも島の玄関口にあたる西郷港付近を除けばほとんど見当たらず、二日目も三日目もまともな昼食に
ありつけなかったけれど、三連泊のお世話になったホテルの心のこもった日替わり料理がそれを充分に補ってくれたし、「春に三日の
晴れ間なし」といわれる、雨の多いこの季節に四日間好天が続いて、今回の旅の幸運を思った。
 隠岐島後一島だけで3泊。レンタカー借りっぱなしで、大部分の見所をのんびりと巡って楽しんだ。
 島前3島はまたの機会に巡ってみよう。元気で生きていればのはなしだが・・。

 船に乗り、バスに乗り、JRローカル線に乗り、新幹線に乗り、地下鉄に乗り、私鉄に乗ってようやく我が家にたどり着く。
 公共交通機関利用の旅もけっこう疲れます。


一休禅師の伝説が面白い浄土ケ浦 島後第一の絶景



  




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