山と旅のつれづれ




旅のエッセイ20



                                 PC絵画、西表島の夏


「旅のエッセイ」もついに20になりました。よくまあ、続いたものです。たぶんまだまだ続きます。

ただいまのところ、5 編収録。


  




巨樹巡礼北関東独り旅



長野県、群馬県、栃木県の一部を巡る巨樹をテーマにした3日間の旅の記録です。
孤独と引き換えに、予期しないことが起きたときなど、助手席のパートナーの聞きたくない苦言や雑音に言い訳しながら
気遣う必要がなく、いたってのんびりわが道を行く楽しさが捨てがたい独り旅です。


乳房イチョウ


 長野県生坂村。国道19号線の睦橋を北へ渡って、およそ200メートル地点の交差点を東へ、県道276号をたどると間もなくイチョウ
の巨体が正面に現れる。
 イチョウの巨樹に普通に見られる樹幹の垂れ下がりがこの木は美しく、乳房を連想するのもごく自然な感じさえする、などといったら世
の女性たちに失礼だろうか。恐竜時代の生き残りともいわれるイチョウの巨樹の樹幹の垂れ下がりは普通に見られる。

 その乳房になぞらえて傍らに寄り添う観音様も「乳房観音」といい、育児中の母乳不足に悩む女性たちに霊験あらたかとかで、とびき
り静かな山里集落の一角で人知れず信仰が息づいている。
樹幹に大きなわらぞうりが貼り付けられているのに、何らの説明もなく、意味も謂れも不明。写真では、樹幹に相対して小さく見えるが
実際は、かなり大きい。

 この季節(6月30日)普通なら結実しすぎた銀杏のまだ緑色の小さな実が適宜落果して地面に散らばるのだが、そういう現象がまっ
たく見られず、枝先にも実はひとつも見られない。
 イチョウは雌雄別株なので、雄株なのかもしれない。ということになると、樹肌を乳房になぞらえることの滑稽さが気になる。なにはとも
あれ、すこぶる見ごたえのある巨樹です。イチョウの自然種は日本列島では化石として認められるようで、とうの昔に絶滅していて、
1000年前に中国から導入されているという。したがってそれ以上の年輪を重ねた老樹はなく、街路樹や公園、神社などでおなじみであ
りながら、今もって人の手の及びにくい自然の山野での自生にお目にかかったことがない。

 生坂村は上高地梓川の下流、犀川の流れに沿って点在する民家集落で構成され、こじんまりとした箱庭のような静かな村だ。民家を
少々大きくした程度の村役場の建物は、ほんの数人の職員がひと家族のような雰囲気で、巨樹の所在地を尋ねてきたわたしに応対し
ていただいたのが印象に残る、近頃めずらしいお役所らしくない役所でした。平成の大合併で姿を消しつつある「村」の中でもほんとうに
小さく、いつまでも残しておきたい美しい集落です。

 こんな小さな村にも溢れる自然を紹介した詳細な観光案内パンフレットが用意されていて、役場でそれを入手してぶらついてみるのも
楽しいものです。
 北アルプスの清冽な水を上高地に集める梓川は下流で犀川となり、さらに千曲川を経て大河信濃川と名を変えて日本海に注いでい
る。信濃を流れるときは「千曲川」で越後に入ると「信濃川」に名称を変えるのが何となくおもしろい。


伊賀野のモミ

 伊賀野のモミ

 JR吾妻線長野原草津駅付近より川原湯温泉、八っ場ダム問題で揺れる国道145号線吾妻(あがつま)渓谷を経由して、中之条駅付
近から国道353号に沿って6キロで県道55号へ左折2キロほどで湯原公民館。ここで尋ねると分かりやすいが付近には目立たないが
案内板もある。案内表示に沿って県道から右折するといきなり道幅が狭くなるので心細くなる。
 内陸部の常で、幹線道路をはずれると、多くは渓流に沿った起伏も屈曲もはげしい山間の道になる。対向車が非常に少ないので助
かるが、わたしは、こんなとき2キロや3キロ程度であれば、のんびり、時にはあせりながらも歩くことにしている。
 人知れず山奥に佇む巨樹を訪ねる旅を重ねて静かな田舎の道を時間など気にせず辿ることの楽しさを経験的に心得てきたつもりで
いる。

 伊賀野のモミも心細い渓流沿いの道の基点に設けられた2、3台程度駐車できるスペースを見つけて、無理をせずそこから歩いた。こ
んな奥まったところにも数軒の民家が寄り添う集落があり、その守り神のように大きなモミの木がどっしりと構えていた。
 ホトトギスの鳴き声のいわゆる聴なしが「トッキョキョカキョク」とか「テッペンカケタカ」とかおもしろくさえずり、ウグイスの美声に酔い、

残念ながら種類の分からない幾種類かの野鳥たちの静けさを強調するかのような清らかなざわめきに見送られ、また、道の両脇やあ
ぜ道には清楚な野の花を愛でつつ独り軽やかな足取りでクルマに戻るとき、巨樹を探し当てた充足感も相まって、満たされた気持ちに
浸っていた。


伊賀野のモミ(裏と表)

 伊賀野のモミのある高台で野鳥の澄みわたるようなさえずりに酔いしれたあと、栃木県中之条町に出て県道53号へ左折、12キロほ
どで国指定の文化財【富沢家住宅】の案内板にしたがって狭い道を辿ると「日本一、喋石のモミ」の表示が目に付くようになる。やがて
大きな朽ちた丸太を利用した素朴な表示に出くわす。 日本一のモミはそのもう少し先だが、ここもやっぱり歩いたほうが無難。田舎の
集落の中に人知れずひっそりと大地に踏ん張る多くの巨樹たちと違って、地味だが案内表示によって親切に導かれてゆく配慮がたのし
い。
 ただし、ここでも古い山村集落の常で道は極端に狭く、屈曲もアップダウンも並ではない。山林作業の足として愛用される軽トラックな

ど自動車の登坂性能が良くなって、こんなところも慣れた地元の住人にしてみれば平気なのだろうけれど、不案内な旅人のわたしは、
やっぱり可能なところは歩いて訪ねることをたのしみにしている。「囀石」とか石偏に転と書いて「シャベリ 石」と読ませるようだが、この
文字はワードの手書きで検索してみても該当する文字に出会えない。

 いずれにしても、おもしろいネーミングは記憶したら忘れることはまずなさそうな気がする。この地域の地名でもあるようだ。石がしや
べる・・という奇想天外な謂れについて探ってみたい気もする。メルヘンチックな伝説に出会えそうな期待も湧くが、今回はそれについて
は、さておき、本題にもどそう。
 モミの樹はクスノキやスギのような大径樹にはならないようで、大きさに関するかぎり、目を見張るほどではないが、裏側に巨大な空洞

を抱えながら樹勢は今なお旺盛だという。ぱっくりと空けた樹幹の断面は、まるで三日月か半月状を呈していて、表と裏側では生命力に
ものすごい差を感じる。この樹はその大きさもさることながら、言わば、内臓をさらけ出しながら平気で屹立しているたくましさが、とって
おきの魅力だ。

 しかも、この開放的な空洞は集落の火事の際に延焼した傷跡だという。まばらな民家集落で「延焼」がどうにも理解できそうにないが、
それはともかくとして、あらためてモミの樹の生命力に驚嘆する。それに、目通り(目の高さでの幹周)何メートルとかいった巨樹の大き
さの基準はこの場合はどうして計測するのだろうかと、どうでもいいようなことだけれど、何となく気になる。
文化財の「富沢家住宅」が近くにありながら時間がなく、見落としたことが少々心残りだったけれど、それにしても自宅から400キロを辿
って出会えた日本一のモミに対面したたけでも収穫は十分だった。

 このモミの樹は富沢家ではなく、近隣の小渕家の広い屋敷の中にあり個人の所有だが、保護されていて観賞には差し支えない位置
にあるのもありがたい。


薄根の大クワ


  薄根の大クワは、群馬県沼田市役所から直線距離で4キロ足らずの位置にある。
 巨樹大木の所在について、群馬県は地味だが案内表示が設備されていて、その目的のためにはるばると遠征?してきた旅人にとっ
て何にもまして心強い。事前情報では、その多くが漠然としていて、尋ねる人も見当たらず、ようやく見つけた民家は留守なのか応答が
ないことも多いので、案内表示を道の端に目ざとく見つけたときは、大げさでもなくほっとする。
 

 ここまで時間とお金を使って辿ってきて探し当てたときの心境は、これぞ「巨樹巡礼」の旅なのだ・・と満たされた気持ちになり、そんな
ときには昼飯食べることさえ忘れていることが多い。街中や郊外にはいくらでもあるコンビニも山深い集落やそれらを結ぶ地方の道沿
いにはほとんど見られないのが普通なので、食べることを忘れるくらいが丁度いい・などと自販機のお茶でごまかしている。ついでなが
ら、自販機とお酒はどんな田舎へ入り込んでもその気になれば手に入る。

 とくに、お酒は田舎の暮らしにも必需品なのだ。スーパーや大型の酒類販売店の影響の及びにくい山村集落は、街中では大部分が
消滅してしまった個人商店が地元に密着して商いが成り立っているようだ。酒はドライブ旅にはご法度だが、話題のついでに付け加え
ただけです念のため。

 「薄根の大クワ」の案内表示は事前の情報にはまったく無かったもので、期せずして、すこぶる大きな拾い物をした気持ちになる。しか
も、今回のそれは幸運中の幸運だ。
 理由は巨樹を訪ねる旅も日帰りを含めて回を重ねてきたが、桑(クワ)の樹にお目にかかるのはこれが初めてだから。幼かりしころ、
蚕の餌としてのクワ畑なら普通にみられた風景として記憶に残っている。しかし、クワが大木になりうる樹種であるなど、まったく思考の
外だった。潅木としての認識しかなかったクワの樹が、のどかな集落の一角に堂々と大地に踏ん張っているすがたには度肝を抜かされ
る。

 現地の説明板によると目通り5.67メートル、樹高13メートル、樹齢1500年。日本一の山クワとされている。スギやクスノキの目ど
おり10数メートルがめずらしくないことと比較すればその差は大きいが、クワの実でくちびるを紫色に染めてむさぼったわんぱく時代の
記憶をたどりつつ観賞しながら、お目にかかった幸運をおもった。
周囲もほどよく保護されていて、均衡のとれた枝の広がりもすがすがしく、この季節「6月下旬」クワイチゴ(クワの実)がたわわに実り、
地面にはもったいないほどに落果していた。

 養蚕のための栽培クワの原種のようで、葉も実も小さいがれっきとしたクワの巨樹です。クワの樹についての認識を改めねばならな
い。わたしにとっては小さな大発見なのです。


溝呂木のケヤキ


 旧沼田街道、溝呂木の鎮守、諏訪神社のご神木とされている。
 溝呂木は宿場町として栄えた・・とあるが、現在そのよすがは神社とこの巨樹の存在のみが伝えている。巨樹の案内表示はあるもの
の、付近には駐車スペースがまったくない。ドライブ中に巨樹をちらりと見つけて、そのあとクルマの一時置き場を探すのに一苦労。集
落の中の不規則な道を右往左往しているうちに、方角が分からなくなってしまった。

 やむなく、民家の屋敷の中に頼み込んで駐車させてもらって歩くことにした。田舎の道は駐車スペースにはそんなに困らないのだが、
旧街道の宿場の名残か民家が建て込み交差する道と交わるような地点では、やはり交通ははげしく、流れに逆らって駐車が難しいこと
がよくある。巨樹大木が、こんなに大きな存在でありながら、グーグルやゼンリンの地図を拡大詳細にしてみても、国指定天然記念物
の内のほんの一部しか表示されていないのが普通なので、現地での案内表示を偶然見つけたときは気持ちがときめく。
物好きな・・とおもわれるかもしれないが、周りが何と言おうとわたしにとっては餌も用意しないで大きな魚を釣ったよう気分なのだ。
 樹齢800年。幹の一部が枯死しているものの樹勢は今なお旺盛だという。町並みの中にどっしりと構えている。


 加蘇山神社の千本カツラ


 国道122号、日光市から121号へ。栃木県沼田市に至る日光杉並木の街道は強大な徳川政権の封建制度とはいえ260年間という長き
にわたって平和を保った力の象徴のように延々と展開している。行けども行けども樹齢300年を上回る天を突くような杉の大木がやや
狭い国道の両側を覆っている。高速道と併走しているためか、クルマの通行が少ないのですこぶる快適だ。

 民家や町並み、ドライブインなど駐車場もほとんどなく、ひたすら杉並木の中を走ることになるが、余分な人工物を規制して長大な史
跡として厳重に保護されているようだ。
 鹿沼市から県道14号、さらに同240号へと自然に進み、およそ17キロ。途中に交番があるので、立ち寄ったら、まことに親切に調べて
いただいた。

 いくつかの集落を過ぎて行き止まりのようなところに立派な加蘇山神社にたどり着く。
神社の駐車場にクルマを休めて、右側の林道を歩くことになる。石裂山回遊登山道を40分登ると千本カツラに出会える。石裂山は、ハ
イキングコースというより本格的な登山路であり、鎖場や鉄梯子が展開するコースでは転落死の事故も多いという警告表示に一瞬は緊
張するが、今回は登山が目的ではないので、それに、登山コースでほんの「序の口」の位置にあるカツラの巨樹まで、往復70分程度の
 山歩きはロングツーリングで固まってしまった体をほぐす意味で丁度いいウオーキングだ。

中年のご夫婦が神社の奥の院をめざして、息を切らしながらも、わたしにつられてその先のカツラの樹まで同行してきた。そして、その
堂々たる佇まいに見とれて偶然の同行による思わぬ収穫に感謝されてしまった。小さな小さな「旅は道ずれ・・」なのです。

 カツラという樹は本当に不思議な性質をもっている・・とわたしは感じている。公園などに植樹して育つカツラの若木は、特徴のあるハ
ート型の葉でそれと分かるが樹形は一般的な普通の立ち木であり、目立つこともないのに、自然の山野に根を張るカツラの巨樹は例
外なく渓流ともいえない、源流にあたる湿った沢の急斜面に数え切れないほどの無数のひこばえ(根元から発生する子株)によって林
立し、たった一株で根を共有しながら「森」を形作っている。何処で出会っても印で押したように生息環境も樹形も同じなのだ。
 それぞれの個性がないといってしまえばそれまでだが、なんとも不思議な巨樹だ。
 このカツラは、巨大といえるほどではないが、山道をあるいて辿るという道程がたのしい。

丸嶽山神社のケヤキ(別名こぶケヤキ)

  丸嶽山神社のケヤキ

 栃木県佐野市多田町2479、丸嶽山神社のケヤキ。今回の巨樹を尋ねる三日間の旅のしめくくりです。ここでも、分かりやすい案内表
示に出会って、そこからはのどかな山里のしずかな道を歩いた。人に尋ねるまでもなく、数軒の集落を過ぎたほとんど、どん詰まりの奥
まった森のなかに小さな神社がひそやかに佇んでいた。
 別名を瘤ケヤキ・というこのご神木は、その大きさより節くれだった異様な雰囲気が神がかり的な風情で直立している。国内の樹では
 材木として製材したとき、木目が一番美しいといわれるケヤキも、ここまで瘤だらけだと、材としての個性が際立つ「銘木」テーブル板に
なるなあ・・・などと不謹慎な想像をしてみた。

 不信仰な自分が「巨樹巡礼」などと大げさなテーマで旅をしながら、こともあろうに、神聖であるべきご神木を切り刻んでテーブルにして
しまうという発想はやっぱりけしからん。不謹慎だ。永年、木材関係に携わってきた職人の片割れとして、そんな連想はごく自然ななりゆ
きではあるのだけれど、それはともかくとして一瞬の邪念の罪滅ぼしにと、お賽銭を音のしないお金ではずんでおいた。
 ついでに、帰路の道のり400キロの交通安全も欲深くお願いして帰路についた。        平成24年7月



  




青 森 紀 行




   ランプの宿

 青森県八甲田山群のふもと。いまどきめずらしくなった砂利道を行く。
変な話だが、かつて、一歩郊外へ出ればでこぼこの砂利道が当たり前だったころの記憶がよみがえって、懐かしさにひたっていた。  
 四輪駆動車を操って山奥の渓流釣りに没頭した若かりしころ、危険を伴い、時として無鉄砲だった趣味に浸っていた時代の面白かっ
た記憶が懐かしく思い出される。

 曲がりくねった下りの坂道で東北弁を強調した手書きで素朴な通行注意看板がランプの宿「青荷温泉」へと導いてくれる。
 せっかく登ってきた稜線から別れて谷底へ谷底へと下り続けると粗末な駐車場があり、さらに下までは、歩いてどうぞ、という案内板
に、不便を楽しむ・・という、時代に逆らった心意気が感じられて、おもしろいような、あるいは場違いなところに来てしまったような何とな
く落ち着かない気持ちになる。

 平屋建ての時代がかった玄関から、照明は既にランプだ。宿泊者名簿への記入も、薄暗いランプの明かりを頼りに、老眼の目でいい
かげんに書いた。小ぢんまりとした玄関とはうらはらに渓流に沿って立ち並ぶ宿泊棟や3箇所もある野外風呂など、団体客の受け入れ
余力もある収容力に、小さな宿を期待した身には意外で少々がっかりした気持ちになった。それにしても、渓流をはさんで沈み込むよう
に配置された目立たない建物の佇まいが好ましい。

 夕暮れの、まだ薄明るい中で、揺らぐ灯油ランプのほんとに小さな焔の頼りなさに非日常のときを待つ期待のような何となく不安のよ
うな、しかし、独り旅にはふさわしいような気持ちになる。職をリタイヤして以来、随分と旅を重ねてきたが、こういう雰囲気に身を置くは
初めてだ。

 ランプの焔は、大きすぎても小さくても不完全燃焼を起こすらしく、焔はたったの2センチほどの頼りない灯りだが、周囲が暗くなるにし
たがって意外な明るさで隅々まで温かみに満ちた黄色いともし火になる。とは言っても老眼の眼には、携帯した文庫本は読めそうもな
いし、それに、当然といえば当然のことだが、テレビもラジオもコンセントも無い。

 無数のランプがぶらさがる食堂で食事を終えた後は、足元に気をつけながら野外の風呂めぐり、混浴の露天風呂には、入らずにちら
りと覗いてみたりと時間をつぶしても習慣的な就寝時刻までには有り余る時間が横たわっているのだ。かつて、田舎暮らしを夢見たこ
ろ、「田舎暮らし適性度を判定するアンケート」というものに回答したら、結果は「田舎暮らしを夢見るロマンチストです」と判定されたこと
がある。合格点には程遠い中途半端な都会人・・ということらしい。

 ランプの宿を経験して今頃になって当たっているということを再確認した感じだ。いくら田舎暮らしにあこがれたといっても、電気の無い
暮らしなど想定したことも無いが、ランプに頼る暮らしが、たった一日でさえ馴染めないのでは、ナチュラリストを夢見るロマンチストに過
ぎないのだろう。都会でもなく、さりとて田舎でもない15万都市で文化的には一応は不自由もない暮らしの中にいる現在の環境をよしと
しよう。そんな暮らしの中でこそ、一年に一度ぐらいはこんなこだわりを頑固に守る宿を利用するのもおもしろいと思う。

 夜中に心地よいせせらぎの音が何時の間にか無粋な雨音に入れ替わっていた。明日からの行程が思いやられる。今日は六日間の
旅の第一夜なのだ。


九月半ば、早くも草紅葉が映える八甲田山中腹の湿原

  八甲田山

 9月のなかば、雨の東北青森の山の中、谷間の宿の夜明けは遅い。
 ランプの宿「青荷温泉」は、薄明るくけだるいような雰囲気の食堂は前日と同じ無数のランプの明かりと灯油の匂いがかすかに漂う空
気のなかで、50人ほどの団体客を交えて適度に賑わっていた。

 自然や田舎をテーマにした旅で、雨にたたられたときほど惨めなことはない。宿に連泊でもしない限り昼間、身の置き所がないのだ。
とりあえずは、もうひとつのテーマである巨樹巡りに時間を当てた。そのあと、山の中の一軒宿、といってもかなり大きな宿泊施設「酸が
湯温泉」の、山中には不似合いなほど大きなエントランスで宿泊客のようなふりをして、コーヒーをすすっていると、雨雲が割れてまだら
になってきた。山の神様は、はるか1000キロもの遠方から辿ってきた、たったひとりの旅人の気持ちを見捨ててはいなかったようだ。

 酸ガ湯温泉の、おそろしく広い駐車場は八甲田山の登山口に隣接している。この山に登るために、重い登山靴をキャリーバックに詰
め込んできたのだ。登山の開始には少々時刻が遅いがやむを得ない。八甲田山はいくつかのピークの総称であり、すべてを巡るのは
時間的にも体力的にも無理なので、主峰である「八甲田大岳」を経由する回遊路めざして、いざ出陣?だ。標高は1580メートル。高い
山ではないが、ここは津軽海峡に近い東北の北部だ。中腹にひろがる広大な湿原は既に草紅葉が始まっている。それに、中部山岳で
は2500メートルで見られるハイマツが1500メール地点で繁茂している。

 尾瀬ヶ原などの真っ平ら湿原とは異なり、緩やかな起伏が織り成す湿原の風景の中を一本の木道と急な階段、さわやかな土の道な
ど、織り交ぜて続く登山道が快適だ。ただ、回復するとおもった空模様は、思うに任せず、遠雷におびえながらの登山行になってしまっ
た。9合目の二階建てログハウスの立派な避難小屋を過ぎて岩肌にたどり着くと、時おりぱらつく雨と強烈な風に見舞われ、ときに体の
安定さえおぼつかなくなる悪天候になやまされ、それに、時間が遅いこともあって行き交う登山者もいなくなっては、少々心細い。

 わたしは、たたき上げのアルピニストではない。アルピニストにあこがれてきたロマンチストに過ぎない。それに、間もなく73歳という高
齢?も意識したくないけれど自覚せざるを得ない。視界も悪く、帽子も役に立たない強風のなかで、濃い雲の中にようやくぼんやりと認
められる山頂を目の前にして、登ったことにしよう・・と気持ちを慰め方向を変えた。

 中腹の広くなだらかな湿原でこの季節であれば、迷うような山ではないが、雪に覆われれば方向感覚を容易に失うことだろう。八甲田
山雪中行軍の訓練による悲惨な凍死事故の悲劇はさもありなん・・とおもった。
それにしても、登山としては不完全燃焼だ。機会があればもう一度は訪ねてみたい八甲田山です。


竜飛崎。レーダー基地

  竜飛崎

 津軽半島の日本海側は、平地がほとんどない。一か所しかないのに十三湖という、面白い名を持つ湖以北の竜泊ラインと呼ばれる道
路は、地図の上では海岸に沿うように表示されている部分も実際にはめまぐるしく屈曲やアップダウンを繰り返す山岳道路だ。

道を間違えているのではないかといぶかってみたが、岬に通じる道路は他には無く、カーナビの表示には、ロープのかたまりを無造作
に投げ捨てたような感じでうねっている。独り運転、一人乗車でもったいないからと、軽自動車をレンタルしたが、日ごろの運転感覚とは
ずいぶんと違いがある。坂道の登りなど、クルマも一生懸命全力走行なのだ。けれど、余裕のあるエンジンよりも、むしろ、人間的という
か、一緒に頑張っているような風情に、これも旅先での楽しみ方でもあろうかと、妙に納得していた。快適性はともかく、小さく、小回りも
効いて取り回しのよいセカンドカーとしての人気が分かるような気がした。

 インターネットでレンタカーを予約するとき、軽自動車を指定しておくと、大抵は小型車(Sクラス)を軽自動車扱いであてがわれる。た
ぶん、軽の在庫は少ないのだろう。ところが、今回は予約どおりの軽だった。受付嬢が72歳120時間レンタルの項目を見て上司らしき
男性とふたこと三言ささやいた。高齢ドライバーだが、大丈夫か・・と交わしたような気がした。まったく別の話かも知れないのに、何時の
間にか年寄りのひがみ・を感じて、やっぱり年齢だなあ、と気が滅入った。

 津軽海峡と日本海を見晴るかす竜飛崎は不似合いに大きなホテルが一軒あるほかは何も無い。駐車場の他には定番ともいえるみ
やげ物屋もみあたらない。まさに、ここは最果てなのだ。国境警備の軍事施設が最果ての雰囲気に一石を投じている。白亜の灯台なら
ともかく、軍事レーダー施設では似合うのか似合わないのか、それさえ分からない。軍事施設に似合う風景など、あるはずがないのだ
けれど・・・。

 島国に国境は無いと思い勝ちだが、日本海と太平洋をつなぐこの海峡に突き出した岬には、後に辿った下北半島の山頂を含めて、
巨大なレーダーなどの軍事施設が目立ち、海がだだっ広い国境なのだという事実を痛感させられる。正義より、国益優先で動くうわべ
だけ平和を装った国際交渉の背後に自衛隊(軍隊)という暴力装置が無言の圧力として存在している現実を思うとき、岬の最果て、そ
れも、北の最果てのわびしさがいやが上にも迫ってくる。


限りなく明るい大間崎。遥かに北海道を望む

  大間崎

 下北半島の北端、大間崎は津軽半島の竜飛崎とは打って変わって平たく伸びやかな陸地に広い駐車場と海産物を商うみやげ物屋
が立ち並ぶのんびりした風景の中にあった。
 本州の最北端、伝統の豪快なマグロの一本釣りのイメージが湧かない。ただ、ここには軍事施設が見当たらないのが救いだ。静かな
住宅地を囲むゆるやかな海岸線のコンクリートの護岸は展望が良く、最果てのイメージには乏しいが津軽海峡と遥かな水平線を眺め
ながらの散策にしばし、時を忘れる楽しさがある。

 水平線上にやさしくうねる山の稜線は北海道なのだ。紺碧の空、それを映すあくまで青い津軽海峡、ひとすじの白い航跡を描いてす
べるように走る漁船が美しい。

 この岬のすぐ近くに建設中の大間原発は福島原発の事故以来工事が中断していながら、民主党の迷走政権は世論を無視して再開
を決めた。港にも住宅地にも本当に信じられないほど近い位置にある。地元では何の表示もなく、注目しながらも見つからなかった。後
で地図を拡大してみてあきれた。小さく「電源開発」とだけ表示してある。税金による札束が乱れ飛んだことだろう。過疎に悩む北の寒
村の悲哀を見るおもいがした。

 津軽半島も下北半島も東側海岸は西側とは一転しておだやかな海岸沿いにひなびた集落が目立った。大きな天然の防波堤のような
津軽、下北両半島に囲まれ、波静かな陸奥湾を垣間見ながら青森市に向かうとき、素朴な"海の田舎の物語"の中に入り込んだような
気がした。湾といっても大きな陸奥湾は静かな時ばかりではなかろうに、無責任な一期一会の旅人の感傷に過ぎないのかもしれない。
薄っぺらな旅のロマンチストの、たぶん無害な特権?。


大牧草地、尻屋崎

  尻屋崎

 マサカリのようなかたちをした大きな下北半島の東端。
 ここには、山らしい山が無い。やさしくうねる牧草地だ。白亜の灯台と営業をやめてしまった土産物屋の小さな建物が一軒だけ、淋し
げにぽつんと残されている。一点からは丸く見える水平線は茫漠たる太平洋のわずか数キロ先を捉えているに過ぎないという。地球は
丸いのだ。打ち寄せる荒波が静かな陸奥湾との違いを見せ付けていた。

 昼寝をしたくなるような、のどかな牧草地だが、寒立馬といわれる野生の馬の忘れ物があちこちに落としてあり、踏んづけながら歩くこ
とになる。消化器官の弱い馬の落し物は堆肥のようもので、牛の落し物のような不愉快な感じがしないのが救いだが、それでもねえ・・
気持ちのいいものではありません。野生の馬たちは、牧草地という生活圏に自家製の肥料を、ほどよく撒きながら自給自足を心得てい
る。厳寒期を含めて年間を通して野生に徹して暮らしているとう。その実態が「寒立馬」の謂れのようだ。

 9月の半ば、のどかに草を食む足の太い大きな野生馬を遠望しながら、こんな穏やかな天候は、年間通せば夏のひとときの短い期間
に過ぎないのだろうと思いつつ、はるかに、1000キロを辿った旅先で、たやすく出会ったことの幸運を思った。
やっぱり旅は面白い。

極楽浄土の山上湖。 地獄を思わせる岩肌

  霊場恐山菩提寺

 下北半島の首根っこ、むつ市からクルマで僅か一時間ほど内陸へ辿ると、そこは火山ガスが吹き上がる荒涼たる高原になっている。
霊場であり、地獄を連想するのだろう。大きなお寺の境内の背後に続く巡拝コースを不謹慎だが非日常の観光ウオーキングと捉えて、
歩いてみた。隣接する高原の湖「宇曾利山湖」。周囲の山並みを蓮の花びらに例えて、ここは極楽浄土であり、湖はお釈迦様の台座で
ある蓮華の中心なのだそうです。頂のひとつに大きな人工物を認めて、後でその山、釜伏山に登ってみたが、これも、レーダーなど自
衛隊の軍事施設だった。

 極楽浄土の蓮の花びらのてっぺんに軍事レーダーとは、いくらなんでも不似合い過ぎるではないかと、あきれた。
 それでも山頂からは、清々しく広がる静かな陸奥湾を一望する幸運を得たことを付け加えておこう。宇曾利山湖は、硫黄の成分がた
っぷりと溶け込んでいるのだろう。たぶん、水生動物の生息環境には程遠い酸性湖であろうけれど、南の海のさんご礁よりも美しい水
の色が極楽浄土の虹の泉を思わせ、見かけ上は他の山上湖には見られない別天地だ。

 火山ガスの噴出と荒涼たる岩肌が累々と広がる殺伐とした風景の中に、カザグルマがそよ風を受けて乾いた音でカラカラと回る恐山
おなじみの風景も、水子の霊を慰めようと参拝者が何時の間にか持ち込んだのが定着したものらしく、お寺との関わりはないようだ。

 イタコの口寄せという、ご先祖様を呼び寄せることで知られる恐山だが、パンフレットにはそのことについても、ひと言も触れられてい
ない。恐山菩提寺はこの伝統行事にも関わってはいないようだ。お寺の雰囲気に乗じて発生した素朴で無害な?霊感ビジネスと断じた
ほうがよさそうだ。

 さいわいというか、残念ながらというか、イタコの口寄せには期間があり、この日は営業?はしていなかった。機会に恵まれれば3000
円で、まったく記憶に無い父親を呼び寄せてみることが出来たかもしれないし、死別から70年間、それでも何とか人並みに生きてきた
72歳の息子に、【36歳の父親】は、あの世からどんないたわりのお言葉を投げかけてくれるかと、ふざけた期待を抱いてみたが適わな
かった。どうでもいいことだけれど、せっかくもたげた遊び心を閉ざされて、少し残念な気がした。けれど、時として、いいかげんに生きて
きたことへのお叱りを聞かなくて良かったのかも知れない。


仏ケ浦。巨大な岩柱が広い範囲にそそり立つ他には類を見ない海岸美

  仏ヶ浦

 下北半島の西側海岸。侵食された巨大な岩肌が累々と屹立している。海上からの眺めが良く、観光バスが入れない狭い道をたどっ
た先のひなびた漁港から、格安料金で往復してくれるという。ここは、仏ヶ浦観光の穴場のようだ。

 木っ端のような観光船は津軽海峡の荒波にもまれて、船酔いに弱いわたしは、こっぴどく弄ばれて、えらいことになってしまった・・と覚
悟したが、ガイドのお姉さんがガイドなどそっちのけで、思いっきり面白い話を間断なく話しかけてくれて、船酔いの入り込む隙を封じ込
んでくれた。こんな百パーセント自然の芸術のような絶景を目の当たりにして、伝説を交えたガイドなどは、むしろ不要だ・・と思う。
 日に焼けた健康そのもの、ホントにたのしいオネエサンでしたよ。感謝かんしゃです。
 船酔いに弱い客には、楽しいお話を途切れさせないことが一番の薬なのだそうです。

 このときの客はわたしひとりだった。別の港から大きな遊覧船で遊歩道のある岩礁に、どっと吐き出された観光客に混じって、海上タ
クシーに乗ってきたような何となく優越感?に浸ってみた。
 白く大きな岩肌が立ち並ぶ仏ヶ浦海岸は、その名にふさわしく、他に類を見ない壮大な美しさを誇っている。

  ホタテの養殖に生きる集落

 旅の最終日。陸奥湾の最奥部、夏泊崎周辺はホタテの大養殖地だ。
洋々たる陸奥湾に抱かれた海岸集落の民家の庭先、背後の山陰、道路の脇など、ホタテの稚貝を海中に吊るす浮球が山と積まれて
いる。まるで、漁具と民家が同居しているようだ。何の飾り気もない素朴な漁村の佇まいの中を、ゆったりとすり抜けながら、「旅」のしめ
くくりを実感していた。

 期せずして出会った、こんな、なんでもない感じの田舎の風景が後々まで記憶に残る不思議を、経験的に実感している。新鮮なホタテ
料理に出会う度に、きっとあの、うず高く積み上げられた浮球の山に寄り添う民家集落と凪いだ陸奥湾を白い航跡を従えて音もなく滑る
小さな漁船の、のどかな動きを思い起こすことだろう。そんな気持ちを強くした旅の最終日でした。
 帰りの出発駅、新幹線新青森駅はもうすぐだ。


陸奥湾。昼寝を誘うようなのどかな風景







薩摩半島を巡る


桜島溶岩台地

  列島串刺し 新幹線

 国内遠距離の旅は、飛行機が手っ取り早いようだが、出発地に遅刻したり早く着いてしまったりしたときの利便性を考えると新幹線鉄
道のほうが融通が利く。飛行機の場合は、見下ろしてもあっけない雲海かのっぺりとした海原ばかりが展開して退屈になる。運が悪いと
 窓際の席も取れず、ただでさえ小さな飛行機の窓はなんにも映さない。
 地上を縫う列車の旅のほうが、はるかに旅情に富んでいるとおもう。地方色が薄れて車窓に展開する街の風景は似通ってきているけ
れど、それでもわたしは飽きることがない。

 子供っぽいと思われるかもしれないが、そんな好奇心は失いたくないとおもっている。野を越え、渓谷を縫い、海辺を走り、めくるめく
風景を堪能できるローカルな列車と違って新幹線、特に山陽、九州新幹線はトンネルばかりのモグラ新幹線だ。
 長いトンネルをようやく抜けると、まるでイルカやオットセイなど水棲哺乳動物の息継ぎみたいに地上に出たとおもう間もなく、またもぐ
ってしまう。その繰り返しで現在時刻が夜なのか昼なのかさえおぼろげになる。複雑な地形を串刺しするように突っ走る列車に、どうして
そんなに急ぐのかと思いつつも新大阪から乗り換え無しで4時間余り、鹿児島中央駅に滑り込んだときには、ローカル線にはない便利
さを堪能していた。

 コンクリートから人へと舵を切った民主党政権はあっけなく崩れ、またぞろ、自公政権による土建国家日本へ逆戻り。巨大設備につい
て廻る維持管理費と、その後に押し寄せる老朽化問題にどう対処して行くのだろうと、トンネルの中で、出口の分からないもうひとつのト
ンネルを思った。

 駅を出たら、路上で「名古屋―鹿児島3690円〜(ただし、うろ覚え)ジェットスタージャパン航空間もなく就航」のチラシを押し付けられ
た。今回の鹿児島までの新幹線運賃は「ジパング割引と往復割引」でおよそ16000円。飛行機の運賃体系は一体どうなっているのだ
ろう。客寄せ超目玉の裏側に潜むからくりを覗いてみたいものだ。

 鹿児島中央駅周辺は飲み食い道楽

 この日(1月26日)は日本列島がすっぽりと寒気に覆われていて、東京は雪による混乱を伝えていた。九州本島最南端の大都市とい
えども寒く、駅前のブーゲンビレアのピンクの花もふるえているようだ。ただ、亜熱帯性の花木が冬のさなかに花を咲かせるほどに、ふ
だんは暖かいのだろう。

 駅周辺はホテルだらけ、マップをざっとながめてみただけで、高層ホテルが17に及ぶ。大都市なので当然といえばそうなのだろうけれ
ど、多くは朝食付きでシンプルに運営されており、宿泊費が信じられないほど安い。利用したホテルはツインルーム朝食無料サービスで
7980円なり。もちろん二人分だ。ルームは広くはないが清潔で、大名旅行をするわけではないので、これで十分くつろげる。全国展開
のホテルであり、会員登録をすればさらに割引があるという。夕食は周辺にうんざりするほどひしめいている和洋中のレストラン、居酒
屋が客を呼び込んでいる。この日は土曜日の夜のせいもあるのか、観光客と地元の常連客で大いに賑わっていた。

 鹿児島名物黒豚と芋焼酎、これがまた、旨くて安いのだ。南国鹿児島は焼酎があふれている。200と100ミリリットルの小さなボトル
が定期観光バスの客へのサービスとしてばらまかれる。明治維新に関わる偉人たちの銅像や顕彰施設を巡りながら原液のまま、ちび
ちびとやれ・・という趣向らしい。
 街には焼酎と黒豚の看板と維新の偉人たちの像があふれている。楽しい街だ。


大爆発による埋没鳥居

  桜島、地球深部の鼓動

 JR定期観光のバスで市内と桜島を巡った。年とって交通煩雑な慣れない街なかをレンタカーでめぐるのが危険でおっくうになるし、タ
クシーが便利だが、ふところ考えるとそんな贅沢ができるほどのご身分ではないので、こうした定期観光バスが運行しているとありがた
い。
 四六時中煙を噴き上げる桜島は、時として一時間に十数回の小爆発を繰り返すという。山の風下にあたる南東部は降り注ぐ火山灰
で木の葉も草も、その他すべてがモノトーンの世界だ。路上を歩くだけでほこりが舞うし、衣服にかすかな音をたてて降り注ぎ、粒子が
頬に当たる感触さえわかる。溶岩流と火山灰で埋まり、頭頂部だけが地上に出ている神社の鳥居を眺めながら、そんな環境に面食ら
ってしまった。

 特に降灰の多いときに遭遇したのかも知れないが、ガイドさんはそういう説明をしなかった。これがこの地域では日常なのかもしれな
い。そんなところにも住宅が点在している。健康に被害はないのだろうか、商業施設ならともかく、民家にいたっては、それでも、住めば
都か、住民に聞いてみたかったが機会を逃した。後になって考えてみればそんな質問は愚問だったかもしれない。 「住めば都」なのだ
から・・・

 曇り空ながら全容を惜しげもなく見せ付けてくれた桜島火山の荒々しく雄大な山容と空を覆う噴煙が自然の雲との境目をおぼろげに
し、もくもくと湧き出す濃密なけむりに地球深部の鼓動を聞いた。

 鹿児島フラワーパークは冬知らず

 本州以東が寒気に覆われる中で県営と思われる鹿児島フラワーパークはチュウリップが路地で咲き競っていた。たぶん施設のなか
で促成したうえで移植したものだろうとおもうけれど、それにしても、一月下旬の路地に移植して耐えられるほど暖かいのだろう。黒潮に
洗われる海に面していて霜が降りないことがさいわいしているのかもしれない。

 亜熱帯性のブーゲンビレアやその他暖地性の花たちが、けっこう咲き競っている遊歩道がたのしい。こうした植物公園は各地にあ
る。たぶん、元気な高齢者に対するボランティア的な労働機会の提供という公的な機関による政策の一環かとおもわれる。四季折々成
長し変化する植物の管理は目立たず、しかし、たいへんな手間ひまを要する。植物や花を育てることが好きなわたしは、そんな裏方さ
んたちの不断の世話仕事を思いやりながら各地の植物公園でのウオーキングをたのしむことにしている。


開聞岳。海からそそり立つ典型的な円錐形

 長崎鼻と開聞岳の展望

 薩摩半島の最南端、長崎鼻。以前に訪れたかすかな記憶がある。団体旅行で巡ったようだ。ここに記憶があるということは、この地域
一帯について辿ったはずなのだが、あなた任せのツアーは、コースについては詳細に調べる必要もなく気楽なぶん記憶に残りにくい。
 下車観光のとき、集合時間ばかりが気になって辟易する。そんななかで、長崎鼻が記憶の片隅にとどめているのは、目の前の開聞岳
の端正な円錐形の山容が印象深くて脳裏に焼きついているからなのだろう。この山に登ることが今回の旅の予定の一端に入っていた
のだが、強風で断念せざるを得なかった。

 病後に登山に対する興味を失ってしまったかみさん同伴では、どだい、無理なことなのだが、指宿温泉の砂蒸しなどに遊ばせておけ
ば何とかなるかと軽くかんがえていたけれど、やっぱり、それはできそうにない。強風下では登山は危険。旅先の安全を優先したことに
しよう。近い将来、機会を捉えて気楽な単独で開聞岳を含めてこの地域を尋ねようと心に誓った。

 謎の怪獣「イッシー」で話題をまいた池田湖は、ブームが去ったいまも、清冽な水をたたえて、適度に賑わっている。イッシーよりも、大
うなぎが観光の目玉になっていて、正真正銘の大きな生きたうなぎが土産屋の奥の水槽に展示されている。食用のうなぎとは別物とい
う。胴体の直径が10センチはありそうな化け物うなぎが夜行性のためか、置物のように動かない。

 天然記念物の大うなぎはずっと南の西表島で巨大うなぎを釣り上げた映像に接したことがあるので、池田湖にもみずうみの主のよう
に生息しているのかもしれない。土産物店のおねえさんに「いらっしゃいませ」と声をかけられ、「ありがとうございました」と見送られ、大
うなぎに対面しただけで何も買わずに手ぶらで店を出るときの気持ちは、あまりいいものではない。


休暇村指宿の窓越しに見る錦江湾の朝焼け

 錦江湾の朝焼け

 今回の旅は、初日にJR桜島定期観光バスを利用したほかはレンタカーを三日間借りっぱなしで薩摩半島を巡っている。「休暇村指
宿」を拠点にしてゆったり三連泊。同じ宿に連泊する旅は効率はよくないが、別荘気分で気持ちが落ち着く。
 部屋の限りなく大きく切り取った窓から荘厳な朝焼けに出会う幸運に恵まれた。

 二年ほど前から、朝五時に起きて、居住地のお膝元である信長の足跡が残る史跡「小牧山」を90分にわたって歩く癖がついているの
で、真っ暗な夜明け前に目が覚める習慣になっている。この日は部屋から朝焼けを堪能する機会を得た。錦江湾の凪いだ海の朝焼け
はすばらしい。日々繰り返される夜明けだが、毎朝日の出に接していて、赤く輝く見ごたえのある朝焼けに出会うことは意外に少ない。

 旅先で絶好のロケーションの中で出会ったときには、今日一日の幸運をおもう
 かみさんは白河夜船、未だ覚めやらず。それもしあわせの内なのでしょう・・・
 鹿児島港から遥か南方の屋久島への水中翼船「トッピー」が早朝の錦江湾を時速80キロで水面上を疾走する光景を遠望して、以前
に二度、延べ6日間にわたって滞在した屋久島の旅の記憶がよみがえった。

 知覧武家屋敷群

 知覧武家屋敷群は文化財として保護されつつ、現住の民家として生き続けているところがおもしろい。おもしろい・・では語弊があるか
もしれないが、住宅として利用されながら観光客に極力解放している大らかさがたのしい。頑丈な石垣に囲まれた屋敷の様子はどこか
沖縄の離島の伝統的な佇まいに似ている。広い敷地には、この地域の約束事のような造園形式があるのか、各屋敷に共通する豪華
な枯山水式の庭園がすばらしい。ただ判で押したような型にはまった配置がそれぞれの個性を打ち消してしまっているようだ。
 それにしても、薩摩藩を支えた武士階級の豪勢な暮らしぶりがうかがえる。

 特攻平和会館を避ける・・・

知覧といえば、誰しも特攻平和会館を意識する。かなり以前にここは訪れているが、物見遊山の観光客が軽い気持ちで立ち寄るところ
ではない。広島や長崎の原爆記念館と同様に悲惨な過去に向き合う謙虚な気持ちで一度は接して、日本人なら心に刻むべき歴史の暗
部だ。見学するには、そうとうの心構えがいる。涙なくして見られない展示物に国家規模の間違いによる戦争の悲惨をおもう。

 以前の参観・というより、鎮魂のお参りでそれが分かっているので、この旅では、あえて避けることにした。施設に通じる立派な道路
は、延々と鎮魂を表す石灯篭が街路樹に代えて整列し、特攻平和会館の施設だけではなく、その一帯を含めて「鎮魂の聖地」であるこ
とを表していた。

 知覧は茶どころとしても知られていて、わりあいに平坦な畑が見事に刈り込まれた茶の木に覆われている。以前に静岡の茶畑で「茶
の木畑で迷ってみたい」などとふざけて無鉄砲に歩いていて、本当に迷路に迷い込んでしまって、得がたい楽しさ?にひたっていた記憶
がなつかしく思い出された。ここ知覧の茶畑は平坦地が多いので迷ってみる楽しさには乏しい。それにしても、方向が分からず自分の
居場所がおぼろげになってしまったときとか、数字の計算などで袋小路に突き当たってしまったときなどに「茶の木ばたけに入り込んで
しまった」という形容は、まことに当を得ている。


海底から引き揚げられた特攻機のプロペラ



 もうひとつの特攻、下駄履き飛行機に合掌

 指宿の松林やビロウ樹、フェニックスがそびえる広い緑地の一角。ほんの僅かな高台ともいえそうにない小さな丘の上に、その碑は
ひっそりと、あまりにもひっそりと建っていた。以下にその碑文を忠実に書き写します。

 「指宿海軍航空基地哀惜の碑。君は信じてくれるだろうか、この明るい穏やかな田良浜が、かつて太平洋戦の末期、本土最
南端の航空基地として、琉球弧の米艦隊に対決した日々のことを。稚拙な下駄履き水上機に爆弾と片道燃料を積み、見送る
人とてないこの海から万感を込めて飛び立ち、遂に還らなかった若き特別攻撃隊が八十二人にも達したことを。併せて敵機攻
撃によって果てた百有余人の基地隊員との鎮魂を祈ってここに碑を捧ぐ」

 松や雑木の林の中で埋もれるように控えめな顕彰碑には手向ける花さえ見当たらなかった。特攻隊の出撃基地は他にも鹿児島県出
水市と本土の一部にもあったと聞く。

 フェリーがドック入りで欠航

 薩摩半島南部をおおかた巡ったので錦江湾の対岸、大隈半島へ湾に沿った国道経由で南端の佐多岬へと車を走らせ、岬に近い根
占の港からフェリーで山川港経由で指宿に帰ろうと勇んで出かけたのに、根占のフェリーはドック入り定期点検とかで、運休だった。
 奥の深い錦江湾の湾口に唯一のこの航路で足止めをくらってしまった。

 個人旅は基本的に自己責任なので、十分に下調べをしてきたつもりだし、その、下調べ自体が既に旅のたのしみの内なのだ。あれこ
れ、思い巡らせ暇に任せてガイドブックやインターネットで予備知識を稼ぐたのしみに浸ってきたのに、船にもクルマの車検のような定
期点検があるということには気が廻らなかった。

 たった一艘のフェリーでピストン輸送の航路については、シーズンオフの時期をドックにあてる場合が多いので、やっぱり下調べは欠
かせない。北にしろ南にしろ、半島の先端、つまり最果ての雰囲気に浸ってみようと期待したのに、九州本島最南端の岬に立つ夢は果
たせず、やむなく来た道を戻るという時間のロスを受け入れざるを得なくなってしまった。


桜島の爆発。これは絵です。

 桜島火山の爆発

 錦江湾は広く大きい。渡り返すには着た道を戻るしかない。助手席のかみさんにぶつぶつ言われながら我慢のドライブだ。ついて来
るだけのかみさんに不平を言われると、自分でもあせっているのにみじめな「うちのやどろく」気分だ。そんなこんなでくさっていたら、正
面にそびえる桜島火山が爆発した。この日は快晴ほぼ無風。

 核爆発を思わせる巨大なキノコ雲がもくもくと湧き出してくる迫力に圧倒された。多い日には一日で十数回も小爆発を繰り返すという
櫻島は地元の人々にしてみれば日常茶飯事なのだろうけれど、一期一会の観光客にとっては千載一遇のビッグショーなのだ。一時間
余りの戻りの時間のあいだにそんな爆発を三回も目撃してしまった。まことに櫻島は、やさしげなその名とは裏腹に、物凄い生きた火山
だ。大きな観光資源であると同時に迷惑な存在でもあるだろう。

 フェリーの欠航でこの日の目的を果たせず傷心のおもいで来た道を戻るドライブが、一変して神の導き?か天の恵みか、感激のひと
ときに様変わりしてしまった。ただ、目の前に繰り返される自然の営みとはいえ余りの感動的な光景に見とれていて、カメラに収める大
事な仕事をすっかり忘れていた。幾度もチャンスはあったのに、カメラマニアとは言えないわたしは、ときどきこんなヘマをやらかす。
 悪い癖だ。

 フェリーといえば、桜島から鹿児島市街地を結ぶもうひとつのフェリーはたった15分の短い距離だが、20数億円を投じたという最新
型カーフェリーはディーゼルエンジンが無く、電気で動くという。車を二層に積む大きな図体が船特有の音も振動も感じず、気がつけ
ば、いつの間にか鏡のような海面をすべるように動いていた。信じられないほど快適な船たった。

 列島が寒気に包まれている気圧配置の中で鹿児島といえども意外に寒く、真冬を感じるのだが、アコウの大木が奇奇怪怪な樹幹を
見せつけ、ガジュマル、フェニックス、ビロウ樹などの亜熱帯性の木々が街路樹として育ち、ブーゲンビリアが花を咲かせている。
 その上、海に近い薩摩半島の畑には厳寒期だというのに、エンドウとソラマメが一メートルにも育って実をたわわに付けて収穫期であ
ることを示している。あぜ道や路肩の雑草たちは冬枯れのままなのに、露地の畑が春爛漫なのだ。

 ソラマメやエンドウはこの季節、中部地方では、寒さに耐えて地面に張り付いてほとんど冬眠中の植物なのに、育て方に秘策でもある
のかと思えてならない。
 五日ぶりに帰ったわが町の駅に降り立ったとき、寒さが身に染みた。
 南九州はやっぱり暖かいのだろう。



   




北海道縦断紀行

快晴の宗谷岬


 太平洋フェリーの新造船「きそ」の船底の車庫に閉じ込められていたマイカーは40時間ぶりに日の目を浴びたのは北海道苫小牧市
の大地だった。クルマだらけの名古屋から、のどかで新緑がまぶしい高速道路を、まるで貸切道路のようにわが道を行くこの快適さ。
 前後左右に他のクルマが見当たらない状態でのドライブはほんとうに気楽だ。それに、今回は遠方でありながらも、乗り慣れたマイカ
ーを持ち込んでいるので、有用、不要?の着替えなど身の回りに必要とおもわれるおそろしく多い荷物を積み込んでいるので、まるで
押入れ付のドライブだ。レンタカーとちがってこのことも、気楽さを増幅している。

 しかし、この快適さにしばらく浸っていると、たぶん、誰もが考えるであろう、このハイウエーを巨費を投じて作る必要があったのだろう
かと。同時に直線的で内地に比べれば通行車両のきわめて少ない一般国道を狂気のように猛速で追い越して行く地元車。カーラジオ
は正面衝突の多い北海道のクルマ事故をしきりに警告し、嘆いていた。ハンドルを握ると人格が変わるというドライバーの心理は北海
道において、より顕著に表れているような気がする。法的には速度オーバーの65キロを保ちつつ、前方より後方に注意し、それでも時
おり迫ってくる後車に先を譲りながらの北海道的安全?運転に徹して走ることにした。

 20年ほど前に、北海道の道東をレンタカーで巡っていたとき、あまりの快適さに、つい速度オーバーをたのしんでいて、「こんなときに
ポリさんが現れたらイチコロだな・・」などと、となりのかみさんとしやべっていたら、ほとんど時を置かずにほんとに現れて仰天した苦い
記憶が忘れられない。違反切符を持ってコンビニで支払ったときの屈辱感は今でも鮮明に憶えている。

 忘れられた街、留萌市

 宗谷岬、ノシャップ岬を目指した中継地「留萌」の街は、なんとも裏淋しく、駅付近のビジネスホテルに宿をとったけれど、繁華街らしき
街並みも賑わいもなく、やたらとこじんまりした居酒屋ばかりが目立った。街なかの、ほんの一部に触れただけなので、実態とは、かけ
離れた印象を刻んでしまったのかも知れないが、地方都市の中心部が寂れるドーナツ現象がここにも及んでいるのかもしれない。

 ホテルの朝、ビジネスマンは忙しい。わたしたちがゆったりと食事しているあいだに、何人ものスーツを着込んだ客があっという間に朝
食を平らげて逃げるように去って行く。充実した現役人生か、ノルマに追われて余裕がないのか、いずれにしても、自分にもかつて仕事
に追われた時代があったことを期せずして思い出された。いま、オマケの時間をたぶん、年金生活者としてどうにか人並みに楽しんで
いられる自分に、ささやかなしあわせを感じる瞬間がそこにある。

 中継地留萌市を離れるとほどなく広大なサロベツ原生花園にたどり着く。今回の旅は「原野」「湿原」「原生花園」などといわれる北海
道ならではの湿地帯と岬をテーマにしている。

 サロベツ原生花園は最初に観賞する湿原だ。清楚な花たちが、野生ならではの控えめな美しさで木道の周りを彩っている。湿原を構
成する泥炭層は6mにも達するという。標高の低い高層湿原だ。高層とか低層とかいわれる湿原は、湿原を形成する泥炭層の堆積厚さ
によって区別され、標高の高低によるものではない。海岸地帯に広がる北海道の高層湿原はその泥炭層の底は海面より低いのではな
いかと、そんなことを思い巡らせながら、よく整備された木道を歩いた。


宗谷岬の残照

 宗谷岬


 道北には高速道路がない。ところが、一般国道はほとんど事実上の高速道路だ。道幅も広く、眠気を誘うほどに真っ直ぐだ。冬季の
雪に埋まる道路端の限界を示す下向きの矢印が高い位置に整然と連なっていて、雪国であることを明確に示している。
たどり着いた宗谷岬は、日本列島最北でありながら大らかな雰囲気だ。

 勝手に厳しい地形を連想していたわたしには、先端・北の果て、という感じがしないまことに明るい岬だ。気がついてみればこの岬を
淋しく形容して歌う演歌や叙情歌などの歌詞には、わたしの知る限りでは登場してこない。なるほど・・と思った。作詞家たちは、現地を
訪ねるなどして、そのあたりのことは当然のことだが、よく承知しているようだ。
 とはいっても、ここは国境の海。ロシアの樺太と対峙する宗谷海峡だ。となりのノシャップ岬には自衛隊の軍事施設がにらみをきかせ
ている。

 列島最北の宿にこだわって投宿したプチホテルの女将さんから、今日の夕日は必見ですよ・・と告げられて、そのときを待った。鮮や
かな落日に、やっぱりここは北の岬であり、最北の国境を実感していた。
 夕焼けにしろ、朝焼けしろ、何処にいても観られるのに、こんなときは「最北・国境」を意識することで、より鮮烈に映る。絶好の夕焼け
日和に恵まれた幸運を思う。

 6月だというのに、意外な寒さに身を震わせながら、闇が迫るまで整備された海岸線を飽きもせずにそぞろ歩いた。度々訪れることの
できるところではない。衰えの進んだ脳の記憶装置の片隅にしっかりと留めておきたい宗谷岬です。
翌日。オホーツク海岸に沿って網走までは300キロ。滞在7日間の旅で一日あたりの走行距離が最長になる。のんきな旅でも、この日
は時間の配分があなどれない。

 オホーツク海の海岸線に沿った道路は特に直線的で陸側には低い山、というより丘のような起伏が続いている。一見するとのどかな
風景が展開しているが、そのほとんどの地域で森が見られず、一面の笹原や草原が覆っている。風と寒さで立ち木が育たないのだろ
う。やがて、オホーツク海と一部でつながって延々と横たわるサロマ湖の大景観に見とれていると、ようやく、というより既に網走市は近い。
ほとんど信号機のない国道は、300キロを走破した実感がない。

 監獄博物館

 立ち寄ることを躊躇した「網走監獄博物館」観てたのしいはずのない監獄なのだ。しかし、北海道開拓の礎としての歴史の一面を思え
ば、触れておくべき施設でもあろうと、思い直して、時間に余裕も出来たことだしと、消極的にかみさんを説得し、立ち寄ることに。
 道路の開削に受刑者を使い捨ての物扱いという悲惨な過去を暴きだす展示に心底気持ちが暗くなる。極めつけは教戒室の展示だ。

 刑の執行を告げられた受刑者に引導を渡すような宗教者による説教を、ローソクが灯る仏壇らしき装飾のある此処で聞く。どんな極
悪人であろうと、あるいは、無実を晴らすすべも無く陥れられたかもしれない一市民に、国家権力による合法的殺人行為がここで行わ
れてきた。一年ほど前か、表現の自由の一環とかで、処刑室の写真を一般新聞の第一面に掲載されたとき、見なければいいのに、見
てしまった私は、気の弱さからか、軽い吐き気をおぼえた記憶がよみがえってしまった。

 今回もそれを防ぐために感情移入を必死に抑えた。
 このような展示には、その制度とともに、やっぱり疑問が残る。
 網走刑務所は監獄博物館とは別に広い敷地で存在している。

 網走はその、いわゆる番外地と共に異質な印象を受けがちな街だが、立ち寄ったかぎりでは、ゆったりとした水路をはさんで、落ち着
いた雰囲気が見られる綺麗な街だ。冬には、マイナス30度になるという酷寒の街も6月はその片鱗を見ることもない。浅みどりの若葉が
風にそよぐリバーサイトの散策路を暗くなっても時間を忘れて歩いた。

 駅の付近に乱立する地元や大手のビジネスホテルは、投宿した全国展開のホテルの場合だが、デラックスツインで9980円。
会員登録すれば、さらに安くなるという。しかも、朝食と夕食は軽食ていどだが含めての金額に驚嘆する。もちろん、ツインだから二人
分の金額なのだ。街なかのホテルの料金は大都市の高級ホテルなど一部を除いて20年前より明らかに安くなっている。ケチケチ旅人
の私たちにはありがたいのだが、過当競争の行く末が他人事ながら気になる。


メルヘンなムードがたのしい小清水原生花園駅

 小清水原生花園と釧路湿原

 網走市の郊外、小清水原生花園はJR釧網本線に沿って、これもまた、海岸に沿って真っ直ぐに延々と横たわっている。清々しい大平
原だ。「小清水原生花園駅」が童話の挿絵にみられるような小さな無人駅が僅かな丘陵に寄り添って、ぽつんと佇んでいるその風情
が、なんとも可愛らしくてメルヘンムードがたのしい。ビジターセンターとその関連施設以外に民家など人の暮らしに関わるものが何もな
い平原の真っ只中の駅は遠来の観光客を意識してのものだろう。あけっぴろげだが、最近一部でブームといわれる「秘境駅」といえる
のかもしれない。 

 湿原とは僅かな丘陵で隔てられた海岸は最北端の「鳴り砂海岸」だという。鳴り砂、とか鳴き砂とかいわれる砂浜は各地にあるが、そ
の現象よりも、流木の群れが巨大動物の白骨のように横たわる光景が、なにやら連想をたくましくする。海流や流氷にまぎれてシベリ
ヤから遥かな流浪の旅の果ての安住?の地がこの海岸なのだろう。白くなめらかな木肌が長旅を象徴している。きれいに清掃された
砂浜の海岸に、白骨木だけがさりげなく置かれている。流れ着いたままの状態ではなく、決してゴミではない。

 工夫されたアートとして活用されているようだ。抽象画や、わけの分からない彫刻などより素直に素朴にわかりやすく、心憎い配慮を
感じる。
 こんな風景に接して詩人であれば、たやすく一句を詠むことだろう。残念ながらわたしには謡詠みの才能の片鱗もない。


オホーツク海の白骨木


 釧路湿原は、わが国最大の湿原。広すぎてつかみどころのない大平原。釧路市自体が湿原を固めて出現した都市だという。広大な
湿原の周囲を可能な限り廻ってみたが、とにかく広すぎて、観光的に理解するにはここだけで一日はほしい。しかし、つぶさに観て廻れ
ばどこまで行っても真っ平らで変化に乏しい。湿原なのだから当たり前だが、こういう風景は上空から俯瞰するに限ると思った。

 平原の中を流れる方向に迷いつつ蛇行する水路。写真などで見慣れたあの大平原は、地を這う旅人には無縁で高台の展望台から
でも、その片鱗を垣間見る程度で我慢の湿原大地だ。上空から撮った観光写真に惑わされないようにしよう。残念ながらタンチョウには
出会えなかった。

 湿原に隣接する宿泊施設、農村交流センターの大規模施設。場違いな宿泊かといぶかってみたが温泉付の宿泊施設は快適そのも
の。街の中のような便利さはないが、伸びやかな自然環境の中でリゾート気分に浸れるのどかさがたのしいひとときだ。こんな施設を、
ときとして人は、周辺に、なんにもない・と酷評するが、溢れる自然環境のなかで、それに勝る贅沢は望むべきではないとわたしはおも
う。

黄金道路。場所によってはもっと厳しい崖が続く。

 黄金道路

 釧路から襟裳に至る日高山脈の南端。豪快な崖を連ねて海中に没する難所に掛けられた道路はまことに圧巻。崖を削り、トンネルを
穿ち、岬へと導かれる道路は、それでも延々と快適なドライブに酔いしれる。原野や湿原、それに畑作地帯や牧場などとイメージしがち
な北海道にあって、ここは突然に視界を覆う風景は野生の動物たちも登れないというきわめて険しい山岳と、それを打ち砕こうと叩きつ
ける太平洋の荒波だ。

 この海岸の山岳道路を「黄金道路」という名称にはなんとも違和感に浸りたくなる。
 巨費を投じて開通した初期の道路は、それでも通行には時として命がけだったという。
 長い年月を経て拡幅し、崖を避けてトンネルを穿ち、ようやく襟裳地域に至る生活道路として今日があり、一期一会の観光旅行者とし
て、うすっぺらな感動にひたりながら通過するとき、必要に迫られた先人のたゆまぬ努力の結果であるということを心に刻むべき難所で
あることを記憶にとどめようと自然に思った。

 クルマの利用が極めて少ない高速道路などと違って、ここは、よくよく考えてみれば、たしかに地元の生活者にとっては、日々の暮らし
を支える待ちに待った「黄金道路」なのだろう。

 襟裳岬

 襟裳の春は何も無い春です・・といわゆる流行歌で歌われた襟裳岬。断崖から太平洋を南へ続く岩礁の群れは、出産の季節を終え
たゼニガタアザラシが岩場にゴロゴロしていた。ここには500頭ものアザラシが年間を通じて暮らしているという。観賞施設に備えられ
た望遠鏡から間近に観るアザラシは、水族館などで見慣れたなんでもないアザラシだが、自然の海で目の当たりにするときは、やっぱ
り感動的だ。アザラシの、あの、くったくのない朝から昼寝・・のような風情が、なんとも愉快でおもしろい。

 こんな光景が国内で年間にわたって観られるということ自体が感動的なのだ。
 宿泊した襟裳最南端のプチホテル「さんすいかく」北海道ならではの新鮮な刺身のなんと7種類盛り合わせに仰天しながら、それでも
全部平らげてしまった73歳と74歳の食欲に、自分で、というかふたりで、あっけにとられていた。
 宿のマスターが屋根の上に投げる魚のアラをウミネコが待ち構え、足元の道路をキタキツネがそぞろ歩いた。

 自然の大景観、この岬の強風をテーマにした「風の館」など、何も無い岬では決してない、とびきり印象的な「襟裳岬」です。かつては、
開拓による羊やその他の家畜によっ草原が食害され、荒れ果てた地面がこの地特有の烈風によって削り取られ砂漠化していた時代も
あったという。

 信じられないような烈風の岬なのだ。地道な努力で再生を果たして、さわやかな緑の草原の中に私たち旅人は、今、晴れやかな気持
ちで佇んでいる。自然の驚異による悲惨な過去とその再生を知るために、資料館「風の館」の襟裳の歴史をたどる展示物には、ぜひと
も触れておきたい施設です。


透明度を誇る支笏湖

 支笏湖

 苫小牧に至る競走馬の育成農場地域は霧の中。時おりぱらつく小雨の中、我慢のドライブ。何にも見えない馬の放牧場は晴れない
霧に覆われたまま無慈悲に通り過ぎてゆく・・。北海道の濃霧は、いつまでもとどまることを実感。天気予報も各地の濃霧情報をしきり
に報じていた。しぶとい霧だ。しかし、こんなドライブもたまには北海道らしくていいか、などと無理やり納得していた。
 往復の時間を含めれば11日間という国内としては長旅であれば、こんな天候の日も、あらかじめ想定している。それでもうらめしいこ
とには違いないが。

 支笏湖に近づくと頑固だった霧が晴れた。地図上では小さな湖だが、東北の田沢湖に次いで二番目に深く、その水の量は広大な琵
琶湖の水量の4分の3に匹敵するという。巨大な水がめは千歳川の水を集めて限りなく透明な湖面に河口の深い川底を一点の濁りも
なく鮮やかに見せつけていた。
 道南地域に位置する支笏湖は、札幌など大都市に近く、日曜日のせいもあってか、さすがに賑わっていた。

 北海道に足を踏み入れて6日目、最終泊は「休暇村支笏湖」バイキングディナーは会席料理などのフルコースに整えられた料理に比
べれば日本人には風情に欠けるが、旨い刺身の食べ放題とくれば、贅沢は言わない。刺身好きには究極の贅沢ではないか。それで、l
料金は二食付きで8500円也。しかも、会員特典で5%の還元ポイントが付く。
 北海道の宿泊施設は選択の仕方にもよるが、一般的に安く、内容が魅力的だ。

ホテルや旅館に宿泊すること自体は、旅の目的ではないが、その良し悪しは旅全体の満足度におおいに関わってくる。豪勢な宿を望ま
ない旅人にとって、この傾向は何よりもありがたい。
 一週間にわたった旅の最終日。火山ガスが噴出する硫黄山、昭和新山を懐かしく眺め、有珠山の噴火口を見下ろしながら外輪山を
半周して時間調整。19時出航予定の太平洋フェリーは、その2時間前に、すでに搭乗手続きが始まっている。なんとも、のんきな海上
交通機関だ。しかし、港で観察していると、15000トンの巨体は、大型トレーラーなど大量の貨物を次々と飲み込んでゆくのに、たいへん
な時間がかかる。その様子を空港の待合室のような搭乗口から眺めていると、これで結構飽きないものなのです。

 行きのフェリー「きそ」よりもさらに新造船「いしかり」は船倉に大量のトレーラー貨物や自動車を飲み込んでいることを忘れさせるほど
に、豪華なデザイン、広いレストラン、パブリック・スペースなどを備えた設備は最近流行の豪華客船に引けをとらないという。

 名古屋まで40時間の船旅を飽きさせないようにシアターやラウンジショーなど工夫をこらしていて、急ぐ旅でもない旅人には非日常の
楽しさをゆったりと運んでくれる。
 航空機で一足飛びに現地入りするのも悪くはないが、行きと帰りに時間をかけた行程も旅の中なのです。
 11日ぶりに我が家へたどり着いたとき、自動給水装置に頼って生き続けてきた鉢やプランターのゴーヤと花たちは、おもいっきり背丈
を伸ばしてあるじの帰りを待っていた。けなげな花たちです。

 今回の旅の行程
 苫小牧→→留萌→サロベツ原生花園→ノシャップ岬→宗谷岬→サロマ湖→網走市、監獄博物館→小清水原生花園→摩周湖→釧路
湿原→黄金道路→襟裳岬→支笏湖→昭和新山・硫黄山・有珠山→苫小牧港


旅の寄り道




 




国東半島峯道歩き旅



  このところ、ヨーロッパや中東、四国などの巡礼道になぞらえて、全国各地に歩く旅を意識したトレイルコースが不完全だが整備され
ていて、歩き人を自称する私にはその気になればけっこう楽しめるコースも多い。
 かつて、琵琶湖を一周したのに続いて、みちのく潮風トレイルを何回かに分けて継続中であり、その続きを歩きたいのだが、東北地方
の冬は厳しく、辿ることは無謀と思われるので、西というか南に目を向け、北九州国東半島に注目してきた。

 中世の仏教史跡や神社仏閣などが随所に残る特異な地域には折に触れては興味を抱いて久しく年月が過ぎてしまった。
 近年「国東半島峯道ロングトレイル」として、いにしえの巡礼道を再現するような形で整備されていることを知り得て辿ってみたくなった。
 歴史的には太古の火山活動によって形成されたほぼ円形の海岸が地形の上では目立つ地域だが、ここのトレイルコースは海には至
らず内陸を歩くことになる。

 中心部の両子山(ふたごさん)は700mほどの山だが周辺の山々は、せいぜい500mで標高に限れば典型的な里山の群がりであり、
ハイキング気分でのお出かけです。歩くばかりの旅にどうしてそんなに遠くまで行くのかといぶかられそうだが、近い地域は何時でも行け
るという意識がかえって着目を遠ざける。
 それに、すでに79歳。不自由を感じない事実上の健康年齢は平均71歳という。

 とっくに、通過していて、あえて高齢とは言わないが、先は長くないので思い立ったら遠いほうから先に回ろうという意識がついて回る。
 低山帯を意図記すると、どうしても難易度について侮り勝ちだが、ご多分に漏れず私も仏教上の修験道を意識していながら、ウオーキ
ングに似たようなものなどと明らかに侮っていた。一部ではあるが文字通り命がけの修行の道なのです。それに、一般的な観光地のよ
うな親切な道標が見当たらない。何度道に迷ったことか、ガイドの地図と案内文のプリントを絶えず片手に携えてのウオークだが、それ
でも道に迷うことが度々だった。




  トレイルの起点は熊野摩崖仏

 新幹線列車を小倉で降りて、日豊線の特急に乗り換え、さらに中津駅で普通列車に乗り換え、中山香という、ひなビタ無人の駅の集札
ボックスに「名古屋→中山香乗車券」を放り込んで現地第一歩です。
 度々思うことだが新幹線とローカル線の落差が面白い。14時に駅へ降り立つと初日の宿は歩いて1時間足らず。時間を持て余すので
トレイルの起点、熊野摩崖仏まで片道およそ4キロを、宿にとりあえず不要な荷物を預けて、足慣らしを兼ねて往復することにした。

 5時間も列車に揺られ続けた体は、二の足で歩くとき何とも言えず解放感があって気持ちのいいものだ。
 距離4キロといっても、車道から山道へ入ると長く急な上、不規則な石段が大げさにいえば延々と続く。度詰まりの巨大な岩壁に彫り込
まれた摩崖仏は国内最大級という。大野川流域の普光寺の摩崖仏も国内最大という説明があったが、比較するまでもなく、どちらの仏さ
まも大きい。それに、「最大」と「最大級」の言い回しがおもしろい。

j摩崖仏という仏様は、どこで出会っても多くは威厳・というよりユーモラスな表情で、無信仰な登山者にも、やさしく迎えてクダサル。
 国東半島の6か所の郷にまたがる修験の道、六郷満山。翌日から、その峯道歩き旅の道中安全を形通りに祈願して夕暮れ迫る道を
宿へ急いだ。登りとは違う帰り道を辿っていると、陰陽師安倍晴明にまつわるという枯草の中の奇妙な石の配列に出会った。
 下山して車道を宿に向かってとぼとぼと歩いていたら、前方から走ってきた車が停車して「迎えに来ましたあー」という。
 お願いしたわけでもないのに、宿の送迎車で拾ってくれるということに。田舎の人はみんなほんとに親切だ。

 真木大堂
 前日は時おり雨が気になる不安定な天気だったが、この日は快晴でほとんど車が通らない整備された道をハイキング気取りで真木大
堂に着いた。6体の仏像はヒノキの寄せ木造りという。威厳な雰囲気をたたえた木彫りの化粧像は撮影厳禁の国宝と伝えられる。
 拝観を終えて路上にトレイルコースの入り口を探したが、さっぱり見当たらない。うろちょろ探し回った上で拝観の入り口で尋ねてみた
らこの奥から入れます・という。

 コースはここで拝観料を払わないと次につながらない。事実上の有料歩道だ。仏様を拝んで神妙な気持ちになっていたのに、、ずっこ
けてみたくなった。なにはともあれ、分かりやすい道に出会った安心感も手伝ってしばらく歩くと突然岩山に出た。低山ながら岩場が多い。
 そうでなければ、修験の道にはなりえなかったのだろう。
 巨大な岩塊を登り詰めると左右に足場が分かれ、東側に朝日観音、裏側、つまり西側に夕日観音と岩場にへばり付くように素朴な石
仏の観音様が、いにしえの荘園の名残を今に伝えるという「田染の荘」の穏やかな斜面の棚田を見渡すことができる。岩の山肌に体を寄
せ付け安全を確保して一息ついた。

このトレイルコースには異質な風景の展望台だが、残念ながらこの季節は冬枯れの状態で典型的な盆地は、淋しい休耕田に過ぎない。
 観音様を背にして初夏の緑と秋の黄金の穂波が輝く田園を脳裏に描いてみた。
 田染の荘は歴史的には宇佐八幡宮の荘園として重要文化的景観に指定され、保護されている。
 岩山から下山して田染の荘を横断すると、しばらくは西叡山(570m)に通じる渓流沿いの穏やかな道をたどる。

 山頂直下の峠を経て高山寺へのコースは、鏡のような静まり返った山上湖のほとりをたどって快適なハイキングコースが続く。
 

西叡山高山寺(さいえいざんたかやまでら)山門

  西叡山高山寺

 やがて、ここもまた突然だが、山中には不似合いな大展望の大きな駐車場に出くわした。
 前方から這い上がってきた車道がここで終わっている。駐車場のほかにはトイレがあるだけ。人も車も皆無だった。
 この日は2019年2月4日。暦の上では立春とはいえ、事実上の真冬という季節的には閑散期だ。まあ、そんなものだろう。自販機も
売店もなく、昼食にありつくこともなかった。携えた飲み水だけをすすって、文字通り修行の道だ。これほど大きな駐車場があれば、不
随施設も備わっているだろうと期待したが見事にはずれた。

 そこが、西叡山高山寺だった。地元では、「こうさんじ」ではなく、「さいえいざんたかやまでら」と読む。東の比叡山に対して西の叡山
という天台宗の一大仏教勢力を誇ったという謎に満ちた伝説にまつわる古刹は、西暦1169年という。謎の焼失を経て再建され、現在
は単層の本堂と荘厳な山門を備えて静まり返っている。
 全行程130キロほどのトレイルコースは、無理のない一日コースとして10区間ほどに区分けしてガイドされていて、高山寺はコースの
区切りになっているが、周辺には宿がない。

 初日から、ここまで辿ってきて、あるのは歴史を感じる中規模な社寺のほかは野仏のような質素な神社や観音様点々と鎮座されてい
るだけだ。グループを組んで複数の車を起点と終点に配置するなどして踏破するのであれば、ここで区切りがつくが、単独歩きでは空腹
に耐えて先に進むしか選択肢がない。おまけに、ここから先は水の枯れた沢の中のような下山道を歩く。
 太古の火山性の山道は大石小石浮石の群れになっていて、跳び石歩きの難行苦行で、歩行距離を稼げない。

 ガイドの資料では、穏やかな下りが続く、と説明されている。おだやかには違いがないが、こういう道はまことに歩きにくくて体力を消耗
する。枯れ沢の道をぶじに抜け、イノシシやシカなど野生動物の進入を防ぐ金網の柵を開けて、車道に出ると心底、ほっとする。
 トレイルコースはこの先再び山中に入るはずだが、入り口がさっぱり分からない。時間もないので先でつながると思われる車道を歩い
た。こんなとき、コースによっては、このほうが無難であるということを幾度かの経験によって確かめている。

 ただ、車道を通ると風情に欠けるうえに、路傍の観音様など野仏のような史跡に出会う機会が失われることが度々あるる。
 全国のトレイルコースを紹介している「ロングトレイル協議会」など関係機関に遠慮がちにでも注文したい気持ちになる。

   富貴寺

 車の通行がまばらな車道を山里の風景を堪能しながら歩いて、富貴寺にたどり着いた。
 カヤの木とイチョウの大木が、さながら仁王様のように聳える古刹は、20軒ほどの集落の中心に堂々と鎮座している。
 歴史を重ねて重みを増した仏様は、ここでも撮影厳禁だ。ご神体や仏様はどうして撮影禁止なのだろうと不思議に思う。
 この日は集落の一角に控えめに佇む一軒宿に宿泊予約していた。お寺をはじめ、集落の住人組織による運営という旅館は、当日の
宿泊予約が私一人という。うらさみしい夜だった。

 歳を経て、重ねてきた旅の宿は、ほとんどが休暇村や、かんぽの宿など公共施設ないしはそれに準ずる、公園のような広いエリアを
従えた、比較的に規模の大きい施設を利用してきた身には急斜面の山肌にコテージのように配置された総ヒノキ造りで木の香が、そ
こはかと残るこじんまりとした和風の宿と、プロずれしないおばさんの家庭的なもてなしも、それはそれで、こうした歩き旅にはお似合い
の経験ではありました。

 
富貴寺本堂


 三日目の朝。この日も快晴の空に旅の幸運を思う。
 ところが、この日も車道からトレイルの山道への入り口が分からない。何度も思うことだが、山の中の道は谷筋や獣道のようなところ
でも、緑と黄色のテープを所々に巻き付けたり、ぶら下げたりして誘導してくれているが、車道には道路交通法上の規制でもあるのか、
案内表示がほとんど見当たらず、分岐点や山道への入り口を見失い、繰り返し迷ってしまう。

 歩く旅は道を間違えたときの落胆と焦りは、ときとして大きな負担になる。案内地図と解説文を片時も離さず注意していても、こんなこ
とを繰り返す。並石ダムの堰堤を渡ると、ここばかりは、分かりやすい表示板にお目にかかって、自然道を行く。
 この「自然道」の表示が曲者で、車道以外の山道や歩く道・と思いがちだが、そうではなくて、山の中の歩行可能な大地や斜面・という
意味のようだ。

 したがって、ここでは目印のテープや立ち木を利用して張り巡らせた貧弱なロープなどが誘導指標になっている。
 山中に質素に佇む三島神社を過ぎると、長安寺にたどり着く。ここでも、難儀な岩跳びを繰り返して明るい車道に出たときには、胸を
なでおろして一息ついた。長安寺は開けた丘の上にあり、のどかな集落を見下ろしている。
 花の寺として知れ渡っているというが、この季節は、冬枯れながらも、早咲きの紅梅や白梅がそれでも、春が近いことを告げていた。

 拝観料も要らない国指定の重文、太郎天像様にまずは、これまでの歩き旅の安全と、これから先の安全祈願を百円のお賽銭でお願
いしたあとは、のどかな田んぼの中の道を、ひた歩いて天念寺へ。
 古色蒼然とした天念寺の茅葺屋根に見とれていたら、不信仰の罰当たりはお賽銭の投入を忘れてしまった。
 隣接する鬼会の里(おにえのさと)歴史資料館なる施設を横に見て、時間に余裕がないので、先を急いだ。

 無明橋

 ここから先は天念寺耶馬という険しい裏山を登るはずだが、またまた、山道への入り口が分からない。眼前の岩山に目を奪われてい
たせいもあるが、一時間ほどのロスが痛い。戻って散々探し回った末に見つけたその表示板は、表通りから普通に見渡した限りでは
まったく見えない民家の庭先のような位置に、あまりにも明瞭なかたちで表示されていた。気が利かないことこの上なしだ。
 そのうえ、「この先の岩峰は危険。一切の責任を負いません」という警告板が並んでいて、一瞬怯んだが、高々300m程度の山だと
思いつつおそろしく急な斜面の丸太の階段を登った。

 無明橋につながる登山道だが、知らぬが仏の無謀さで登り付くと、其処は仏教上の峯入り懺悔の修行の場だった。
 二つの岩峰の頂点に渡した短い石の橋を渡る、決死の修行の道だ。墜落して極楽に召された行者や登山者もいるという。
 橋も危険だが、そこに至る岩山が、さらに危険という表示とともに、一般登山者のための、う回路の案内があり、ほっとしたものの、そ
のう回路は、絶壁に頑丈な鎖が設備されていて、其処をよじ登れ・という。う回路のう回路を探したが・無い。

 
天念寺


 岩登りには邪魔なストックをたたんで、リュックを体にしっかりと固定した。登山者は、季節的に閑散期で誰一人としていないし、落ちた
らムクロだなあ。79歳老人、ここに目出度く天寿を全うす・などと本気のような冗談を連想しつつ、登ってみたら、その先はトラバースだ。
 岩壁に鎖が横に張ってある。それで終わりかと思ったら、まだその先にも鎖場が続いた。
 向こう側に下山するまでに5か所はあったと記憶している。何と、これがより安全なう回路だった。

百戦錬磨のアルピニストであれば、この程度の岩壁など鼻歌交じりの部類であろうけれど、私は山好きだがアルピニストではない。
 鎖場の経験が、行きがかり上ないわけではないが、山は楽しくオン膳に歩くことを心掛けている。
 仏教上の修行の場としての「無明橋」は、国東半島六郷満山には二か所あることを、このときようやく知りえた。事前の情報入手不足
だった。もう一か所の「無明橋」は難所で知られた中山仙境の一角にあるが、この日の歩き旅にはコースに入っていないので、ここで出
会った無明橋は意識の中にはなかった。

 ふもとに下りて荒れ放題の竹やぶを文字通りやぶ漕ぎでしのぐと、冬枯れの田んぼの先に無動寺の立派な伽藍が視界に入った。
 ここまで無事に下山したお礼参りのあと、時間がないので先を急いでこの日の宿泊地へ。
 道の駅とスーパー銭湯を兼ねたようなホテル「スパランド真玉温泉」の一室に旅装を解くと、何とか予定通りの行程をあちこち迷った
ものの、大過なくこなしてたどり着いた安ど感と相まって、疲れがどっと押し寄せてきた。

 翌日は今回の旅の最終日としているが、難所の中山仙境を通るので、疲れた体では地震がない。
 そんな事態もあらかじめ予想して、以後の宿泊は現地でぶっつけ予約で何とかなるとして、事前にはとらなかった。
 運は、それを後押ししてくれたのか、翌朝は雨だ。今回はここで帰れ・と雨空が促している。朝から雨をおしてまで歩く気にはなれない。
ましてや、この先はコース中の難所を控えている。

 最寄りの駅まで、タクシーをお願いしようとしたら、送迎車で送ります・というご返事が返ってきた。
 最寄りの駅といってもJR宇佐駅までは20キロ近くあるはずだ。サービス満点のホテルの対応に、それに、天気の神様は、か弱い老人
の残存体力をおもんばかってか、計画変更を促すように降る雨のタイミングの良さに、むしろ今回の旅の幸運を思った。

 国東半島峯道ロングトレイルの起点、熊野摩崖仏からスパランド真玉温泉まで、全コース中の三分の一を歩いただけだが、文中に
記した社寺のほかに、穴井戸観音、随願寺、岩脇寺、六所神社、鍋山摩崖仏、愛宕神社、奥愛宕神社、應暦寺、などのほか石仏や山
奥深くの観音様など、各所にさみしく鎮座されている。
 人口の少ない山岳地域は半島全体が、さながら中世の神仏信仰の対象になっている感じがする。
 ここも人口過疎地で、明らかに無住や半壊状態の空き家が目立った。

 現在は、それら信仰対象や歴史的、文化的な景観の維持管理はどうなっているのだろうと、歩きながら気になってしかたがなかった。

                         2019年3月     同人誌「ちいさなあしあと」64号掲載済み