山と旅のつれづれ



旅のエッセイ21



                                      四国徳島眉山の夕景(PC絵画)

遂に21になりました。
だいぶん息切れしています。
のんびり追加していきます。
5件収録
 

収録終了
  



沖縄、慶良間諸島の旅



 旅好きなのに寒い季節の苦手な私は冬の旅を寒さ知らずの沖縄旅行にと決め込んでいる。
 ここ十数年にわたってほとんど毎年一度は南西諸島の島々に足跡を残してきた。一年に一度でたぶん元気で生きているあいだ旅への
興味を失うことがなければ島巡りの一巡と自分の寿命が尽きるのとが目出度く一致するのではないかと本気で陽気に考えてきたが、ほ
ぼ一巡を終えたにもかかわらず、さいわいなのだろうけれど、自覚的には目立った老いを感じない。足跡を刻んだ島々を列挙してみる
と、本島をはじめ西表島、小浜島、竹富島、石垣島、久米島、波照間島、宮古島、池間島、下地島、それに、沖縄本島から20数キロ、
目視も可能な鹿児島県の世論島、そこから北上して徳之島、沖永良部島、奄美大島、屋久島など、よくまあ巡りめぐったものです。

 西表島の原生林に感動しつつも、同じ島で島の雰囲気とは、まったく不似合いな豪華なホテルに失望しつつ満たされるという何とも不
思議な経験も振り返ってみれば、記憶に残るひとときではありました。自然、原生林、素朴な風情・と希求しながらも、そんな環境には場
違いな豪華ホテルへの投宿に失望感よりも満足感が優先してしまって、所詮人間は、より便利で快適な物欲主義には勝てそうにないも
のなのかと、うすっぺらな感情に嫌悪を感じる。

 竹富島の凝縮されたような、「これぞ沖縄」の風情に酔い、波照間島の住人四百数十人、「波照間一家」は、さながら絶海の孤島の
『波照間共和国』の、一面では豊かな暮らしぶりに接した。
 旅客機パイロットの訓練場というほとんど全島が滑走路という下地島に仰天し、徳之島では、思いがけず戦艦大和の慰霊碑に合掌。
 そんなこんなと思い巡らせているうちに、B767は分厚い雨雲を突いてガタガタ揺れながら那覇空港へ滑り込んだ。

 つかみどころのない雲も物体であり、突入すればぶつかることによる衝撃は砂利道を走る自動車のような感覚で感じるのが当然なの
だろうけれど、空中にあっては、それは何とも不思議に感じる。
 すっかりお馴染みになってしまった那覇空港は華やかな熱帯性の花々に迎えられて降り立った空港前の広場の街路樹の下で地元と
おもわれる老夫婦が防寒着をしっかり着込んで時おり薄日の射す天気の下で日向ぼっこを楽しんでいた。

 亜熱帯の気候の中で生まれ育った人たちにしてみれば、やっぱり冬はあるのだろう。年間通して風の強さが目立つというものの、本
州人の私たちにしてみれば、快適な空気のなかでのそんな光景に、ご本人には失礼かもしれないけれど愉快なものを見る気分ではあ
りました。


ザトウクジラ。コンパクトカメラで瞬間を捉えるのは難しい。


  クジラの子育て

 さて、今回は那覇から近く、足の遅いフェリーでも二時間余りで到着してしまう、見方によっては忘れられた島・かも知れない「慶良間
諸島」に焦点を当ててみた。
 人はえてして遠くへ行きたがる。狭い水域に小さな島が有人無人岩礁も含めれば40も群がるというこの島々を取り囲む海は意外に深
く、ザトウクジラの子育ての海として知られていて那覇の港からホエールウオッチングの小船が季節によっては頻繁に行き来している。

 しかし、それは目的が慶良間諸島沖の海上であり、クジラなのだ。島が過小評価されてきた・・と私は思った。一部のスノーケル愛好
家たちの楽園ではあったのだろうけれど、一般的には観光地として忘れられた存在であったような感じを受けてきた。本島のしかも那
覇から近すぎる立地条件もかえって存在を目立たなくしていたのだろう。私自身も一連の南西諸島観光のなかで、事実上忘れていたほ
とんど最後の諸島巡りであり、しめくくりの気持ちで地図を広げていてゴミ屑を寄せ集めたみたいに複雑に固まる小さな島の集まりに気
が付いたくらいだから、大げさに言えば宝物を見つけたような愉快な気分なのです。

 小さな島が寄り添っているので、個人旅行では船便などが分かりにくく敬遠してきた一面もあるが、今回は旅行会社が其処に目を付
けた。那覇との連絡船は別にして諸島めぐりは漁船を改造したような小さなチャーター船で面倒な手続きや航路の確認など気にせず自
由に行き来できる便利さが売りの旅行商品を見つけた。
 折も折、この島々と海域が、このたび「国立公園」として脚光を浴びることになった。

 慶良間ブルーと形容される深い海の黒いほどに碧い水平線、エメラルドグリーンに輝く浅い海原、水中を覗けばきらめく珊瑚礁。陸地
からでも確認できるザトウクジラの潮吹き、躍り上がって尻尾を高々と掲げるジャンプ、イルカのように背中をせり上げる親子クジラも運
がよければ観られるという。

 寄り添うようにちらばる40に及ぶという島々には当然それぞれ島名があるのだが、チャーター船であっちこっち行き来していると、島の
名前などさっぱり分からなくなってしまう。島々をすべて巡ったわけではないが、接岸設備もまったくない島の砂浜に船底を乗り上げるよ
うにして、おっかなびっくりで乗り降りを繰り返すうちに、島の名前も方向感覚もどうでもよくなってくる。島の住人の観光ずれしない素朴
な行動と使い古した漁船改造の船の身震いしながらうなるエンジン、そのくせ、べらぼうに早く波頭を蹴散らせながら突っ走る屋根もな
い船上で時おり波頭からちぎれて襲ってくる飛沫。

 それでも・というよりだからこそ得られる、えもいわれぬ心地よさに、いつもは当たり前に感じる深刻な船酔いを完全に忘れていた。
 島々を渡り返す途中ですぐ近くの水面にクジラを見つけた。しかも、親子クジラだった。大きな図体が潮を吹きせりあがってくる。
 子クジラがぴったりと寄り添って同じ行動を繰り返す。時おり真上にジャンプして見せ場をつくってくれる。事前のガイドさんの解説をク
ジラ自身が同時に聞いていたかのように大サービスだ。
小さな船など底から押し上げられたらひとたまりもないだろうにと、一瞬、恐怖を感じるほど迫ってくる。

 不発弾で林野火災

 無人島のアダン(パイナップルに似た食べられない実を付ける潅木)の森が無残に枯れて曲がりくねった樹幹が白骨のように累々と絡
み合っている。現地の素人ガイドさんによれば、地震で揺れた不発弾が爆発して火災が発生したのだという。こんな小さな島にさえ今で
もたまには半世紀以上も眠っていた戦時中の遺物が目を覚ますことがあるのだという。

 3月5日は国立公園指定の日だ。前もってそれに合わせて計画したわけではないが、丁度その日その時刻に除幕したばかりの記念
碑の前に立った。記念式典に石原環境大臣が列席するはずだったというけれど、代理も来なかったという。那覇からの海が荒れて高速
船が欠航したせいもあるが、足の遅いフェリーは定時で動いていたのに、ま、お偉方はフェリーではご不満なのでしょう。或いは30番目
の国立公園指定の記念式典など大臣の胸のうちには忘れても気にならない程度の意識しかないのだろう。空港もあるが軽飛行機程度
の緊急使用らしく、現在はほとんど閉鎖状態で短い滑走路と申し訳程度の建物がさみしく佇んでいるだけだ。

 この島々は何処へ行っても見所は高台から見下ろす海の景観に尽きる。最初のところでも述べたが、特筆すべきは、やっぱり海だ。
 慶良間ブルーの遠景と緑色に輝く珊瑚礁の近海、そして数々の島影、そのコントラストの美しさはどの位置から眺めても変化に富んで
いて飽きることがない。



 ホテルのお湯が出ない

 ハプニングが起きた。宿のボイラーが故障した。修理は明日になるという。何と言うことか、旅先で風呂に入れない。近くのペンション
をお借りしたのでそちらまで入浴に出向いてほしいという。しょうがなくて夜、出かけてみようとしたが、何と一寸先が闇だ。人口の希薄
な夜の集落はほんとうに暗い。年齢のせいもあるが、目の前にかざした自分の手が見えないのだ。これではキャンプ場だ。
 懐中電灯持って出かける気にもなれず、風呂は断念することになってしまった。これも旅なのだ。おもしろい経験だったことにしよう。

 地図上で直径20キロ足らずの円を描いてほとんどすべての島々がその内側に入るという小じんまりとした慶良間諸島。旅の記録とし
ては辿った島の名称を一つひとつ記憶しておきたいのだが、あなた任せの団体旅行では指示されるままに行動すればいいので、緊張
感もなく、所詮は無理だ。多くの島々を巡って人工的な飾り気の少ない島の小山や高台から眺めた海の類まれな美しさに接したことで
良しとしよう。

 旅から帰って地図を広げてみて、島々の中でいちばん大きな渡嘉敷島が行程に入っていなかったことを知りえた。旅行代理会社の都
合による結果だろうと思う。
めまぐるしく島々を渡り歩いたにも関わらず、大きな忘れ物を残してきてしまった感じだ。   平成26年4月
  同人誌「ちいさなあしあと」掲載済み






秘 境 探 訪 の 旅

(薩摩硫黄島、鰻温泉)


硫黄島、歓迎風景

  三日に一便

 鹿児島港からフェリーでおよそ4時間。竹島、硫黄島(薩摩硫黄島)、黒島の三島で成り立つ、その名も三島村は全村の人口が408
人(平成18年現在)。九州本土から隔離されたような小さな島々は、いずれも周囲が10数キロの小島であり孤島に近い。
特に、硫黄島は絶えず噴煙を上げる活火山であり、特異な環境が興味深い。そんな島を訪ねました。

 唯一のアクセスラインも商業的には成り立たず、村営で1200トンのフェリーが鹿児島港と結んでいるが、年間の営業赤字が2億円と
いう。3日に一便の足も海が荒れればさらに遠のくこともしばしばという。こんな秘境の島のひとつに物好きな独り旅です。何で独り旅か
というと、多分、連れ合いは興味を持たないであろうし、だれかを誘ってみる気にもならないし、それに、何といってもひとり・・は誰にも干
渉されず、ハプニングがあっても自分自身の責任なので、気が楽なことこの上なしだ。そんなわけで振り返ってみれば度々独り旅をやっ
てきている。 
 新幹線は早い、といっても名古屋から鹿児島中央までは、およそ6時間を要する。しかし、車窓を流れゆく風景を楽しむのも旅の内と
割り切れば空以外に何にも見えない航空機の窓際席や、不運にも真ん中の席をあてがわれてしまったときなど、退屈しながら乱気流に
よる突然の揺れにおびえたりして、短い時間ながらもんもんとしているよりも格段に旅の気分を楽しめる。

 遠距離行程での途中宿泊は大都市や地方都市の駅周辺のビジネスホテルを利用することにしている。リゾートホテルや温泉旅館な
どとちがって街中のホテルはシングルルームが主体なので、ひとり観光でも違和感がないのが何といっても魅力だ。夕食を節約しよう
と、コンビニ弁当と缶ビールを買い込んで、いささかみみっちい気分にもなるが、ビジネスホテルのフロントはそんな客の気持ちを心得
ていて、近くのコンビニを親切に略図で案内もしてくれる。夕食を提供しないビジネスホテルであれば、当然のサービスなのだろう。こん
なかたちの宿泊がリゾート地などと比較すれば、ダントツ安上がりだ。
 旅の第一日目は鹿児島市のホテルに投宿することで暮れた。


鉄分を多く含まれる鉱泉の流入で赤銅色に染まる港

 1200トンのフェリーは、中部と北海道を結ぶ航路のような15000トンの長距離型と比べれば木っ端のような船だろうと思っていた
ら、これが大違い。いったい。船の重量と見かけ上の体積との関係はどうなっているのだろう。まことに堂々とした1200トンに驚かされ
る。しかし、事前に得た資料によると、すでに前述しているが、400人余りの極小村による自主運営の定期航路は生命線ではあるもの
の、年間2億円もの赤字は村民一人当たりに当てはめれば、空恐ろしい金額になる。当然僻地対策として公金で処理されているのだろ
うけれど、僻地での人の暮らしがある以上、その環境維持、伝統的な暮らしの維持にかかわる負担の大きさに、にわかには信じられな
い思いを抱かざるを得ない。

 最初の寄港地「竹島」は、その名が示すとおりの全山が竹におおわれている。
竹といっても一般的に連想するような竹ではなく、「大名竹」というきわめて細く、まっすぐに長い、そのまま釣竿になりそうな優美でしな
やかな竹がびっしりと群生している。竹に占領された不毛の島か、といぶかってみたが、極上の筍がふんだんに得られる有用な竹林な
のだという。船はわずかな客を下ろしてすぐ隣の「硫黄島」へ。


活火山硫黄岳 小さな島の大きな山だ

  海面から突出する活火山

 ようやく目の前に迫る硫黄島。標高およそ700mの「硫黄岳」は海岸まで続く荒涼とした岩肌と硫黄の黄色に毒々しささえ纏った、人
の足では近づきがたい雰囲気に満ちた岩峰だった。当初は平地や緑地がまったく視界に入らず、死の島を連想しながらも未知の世界
に踏み入る期待のような不思議な感覚を覚えつつ、青い海とは対照的でアルプスの一角のような鋭い岩山に魅せられ感嘆していた。
やがて、回り込むとおだやかな丘陵地があらわれ、人の暮らしの領域が広がっている。

 絶えず噴煙を上げる活火山の、ほんの足元に人口過疎の島とはいえ、伝統的な暮らしが息づいてきていることが不思議なことに思え
る。この絶海の孤島に平家打倒に失敗して島流しになったといわれる僧「俊寛」にまつわる史跡それに、安徳天皇の墓所がある。安徳
天皇は幼少のころ、壇ノ浦で平家滅亡の折、清盛の妻二位の尼に抱かれて入水して果てたとされているが、実は生き延びてこの島で6
6歳で没して重臣ら10人ほどの墓標とともに森の中にひっそりと祀られ、村人に守られているのが微笑ましい。この種の伝説は、事実
はともかく、人の心を和ませるのに一役かっている・・と思う。当てにしていた硫黄岳登山は、近頃の木曽御嶽山の噴火による大量遭難
事故を契機に入山が厳しく、あきらめた。折から、霧島連山を形成する「硫黄山」が、地下の火山活動の変化を観測して噴火警戒態勢
に入ったというニュースにも接した。
いおうざん、いおうやま、いおうだけ、という山は各地に存在している。


入船風景   驚愕、赤い海

 三島村の村民の高齢化率34.8%という。小中学生の離島留学やファミリーの定住に力を入れているというが、昭和35年に604人が暮
らしていた硫黄島在住村民は現在124人。鮮魚は輸送手段の不備でかなわず、伊勢エビとアワビと筍が主な産業という。

そんな素朴な島に魅力を感じて訪れるわずかな観光客を歓迎しようと、3.4人の、存在すること自体が貴重な島の若者たちが伝統的
な太鼓演奏で迎えてくれた。
 上陸した港の水が赤い。防波堤で囲まれた水面全体が赤い、というか鮮やかな赤銅色に染まっている。

 事前知識を持たずに訪れたならば、汚染を感じて愕然とすることだろう。外海のあまりにも清らかな水との違いに接して理解に苦しむ
に違いない。実は港といっても活火山の山ふところなので、背後にそびえる硫黄岳から鉄分を多量に含んだ温泉水の流入の結果なの
だ。ためしに、手を浸してみたが、大量の水はやっぱり暖かくはない。それにしても、こんな風景はたぶん他には例がないのではないか
と、港の一角に身も染まりそうな気持ちで、しばし佇んでみた。この冊子の挿入写真がカラー扱いであることがこんなときは幸いに思う。

 当然ことだが島には温泉が多い。しかし、観光的には成り立たないのだろう。ただ、温泉があるだけ。混浴で脱衣場もなく、水着でどう
ぞ・・という。野趣たっぷりの岩場の海岸にしつらえられた温泉は満潮時には海とつながってしまう。そんな温泉「東温泉」の露天風呂に
うら若い二人の女性が入浴準備中だった。わるいところに遭遇してしまった・・と恥じていたら、ちょうどいいタイミングで来てくれた、とば
かり、入浴中の写真を撮ってくれ・という。おんなも複数いると大胆になるものです。なにはともあれ、たのしいひとときではありました。

 水着やタオルなど入浴の用意をしてこなかったことをすこーし後悔したのかなあ・・ということにしておきましょう。
当然ことだが島には温泉が多い。しかし、観光的には成り立たないのだろう。ただ、温泉があるだけ。混浴で脱衣場もなく、水着でどう
ぞ・・という。野趣たっぷりの岩場の海岸にしつらえられた温泉は満潮時には海とつながってしまう。そんな温泉「東温泉」の露天風呂に
うら若い二人の女性が入浴準備中だった。わるいところに遭遇してしまった・・と恥じていたら、ちょうどいいタイミングで来てくれた、とば
かり、入浴中の写真を撮ってくれ・という。おんなも複数いると大胆になるものです。なにはともあれ、たのしいひとときではありました。
水着やタオルなど入浴の用意をしてこなかったことをすこーし後悔したのかなあ・・ということにしておきましょう。

 フェリーは一番遠い「黒島」で一夜の停泊をして翌朝に帰ってくるので、それに乗って帰ることになる。昼過ぎから翌日の10時までの一
日足らずの滞在であわただしく島を後にした。
 民宿で快く車を貸してくれたおかげで、短時間でおおかた観て回ることができた。短時間滞在の事情を知る観光客に対して宿の配慮に
感謝です。

もう少し時間的に余裕を持とうとすれば、連絡フェリーは三日に一便なので三泊しなければならない。当初はそれを望んだのだが、三連
休に差し掛かっていて宿がとれなかったのであきらめた。週休七日の年金生活者は暦の連休日に無頓着でぬかりなく計画したつもり
が、思わぬところで失敗することが度々ある。小さな島を足で歩いてその小ささを思いっきり実感したかったのだが、残念なことをしてし
まった。小さいがゆえに宿泊者収容力も僅かなようだ。そのうえ、土木工事関係者の利用が多い。大海に浮かぶ箱庭のような火山島は
治山工事や住環境維持に代わる工事がひっきりなしなのだろう。土建国家日本の縮図をみているようだ。三連休二日前のこの日も同
宿者は私と同じ独り旅の紳士の他は土木工事やそれにかかわる調査関係者と思しき男たちでしめられていた。


静かな大人気 東温泉。設備はたったこれだけ
 

フェリーは一番遠い「黒島」で一夜の停泊をして翌朝に帰ってくるので、それに乗って帰ることになる。昼過ぎから翌日の10時までの一
日足らずの滞在であわただしく島を後にした。
 民宿で快く車を貸してくれたおかげで、短時間でおおかた観て回ることができた。短時間滞在の事情を知る観光客に対して宿の配慮
に感謝です。
 もう少し時間的に余裕を持とうとすれば、連絡フェリーは三日に一便なので三泊しなければならない。当初はそれを望んだのだが、三
連休に差し掛かっていて宿がとれなかったのであきらめた。週休七日の年金生活者は暦の連休日に無頓着でぬかりなく計画したつもり
が、思わぬところで失敗することが度々ある。

 小さな島を足で歩いてその小ささを思いっきり実感したかったのだが、残念なことをしてしまった。小さいがゆえに宿泊者収容力も僅
かなようだ。そのうえ、土木工事関係者の利用が多い。大海に浮かぶ箱庭のような火山島は治山工事や住環境維持に代わる工事が
ひっきりなしなのだろう。土建国家日本の縮図をみているようだ。三連休二日前のこの日も同宿者は私と同じ独り旅の紳士の他は土木
工事やそれにかかわる調査関係者と思しき男たちでしめられていた。


湯けむりに包まれる鰻温泉

  鰻温泉

 九州本土に戻って開聞岳の登山を計画したのだが雨だ。時おり青空がのぞくかと思うと雷が派手に落ちる。それでも多くの登山客が
駐車場で車を後にしていた。決してやさしい山ではないので、登山届受付の警告に従ってこの際は、あきらめることにしした。以前の旅
の途中でも時間の都合であきらめたことがある。この山はどうも私を歓迎してくれそうにない。

 一日借りたレンタカーが行き場を失ってしまった。そんなとき、何等の事前情報もないままに、「鰻温泉」の案内表示になんとなく導か
れてたどり着いたのが鰻池とその袂にひっそりと佇むひなびた鰻温泉。人里離れた山峡のあちこちにもうもうと立ち上る湯けむり。
西郷隆盛が逗留したという住宅も現存している。
 民家集落に混じって粗末な旅館が数軒あるだけの、時代を思いっきり巻き戻したような風景に、それはそれで旅人の感慨を誘うのに
十分な佇まいを保っている。

 100度の熱風というか、自然の噴気が各所にあって旅人も煮物、ゆでものなどに自由に使えるのも、ちょっと珍しい配慮が楽しい自
然を生かした設備だ。幻想的な鰻池と合わせて、ゆっくりと訪れてみたいところだが、なにせ愛知県からは遠い。年齢的にも見納めだろ
うと後ろ髪を引かれるおもいで後にした。

 それにしても、うなぎいけとか、うなぎおんせんというのははなはだ不似合な気がする。大鰻の伝説にもとづく名称のようだが、やぼっ
たい地名は損をしている。帰りの道すがらそんなことを思ってみたが、そのことが、かえってひなびた風情を保ってきた要因だったのか
もしれない。   2014年11月  (同人誌「ちいさなあしあと」掲載済み


静寂、幻想的な鰻池






財布にまつわるお話



 旅館でチェックアウトのとき、ルームキーを返して清算し、帰途についた。
 昼食にしようと地方色の豊かなレストランを見つけて車を止め、何気なくポケットを探ったら財布がない。代わりに旅館の部屋の金庫の
鍵が入っているではないか。忘れ物がないようにと確認して出てきたつもりが、大事なものを旅館の金庫にしまってその鍵を持ち帰ると
いう間抜けな用心深さに呆れた。部屋の鍵と金庫の鍵は、普通はセットになっているのでこういう事態には、なり得ないのだが、このと
きはそうではなかったようだ。

 電話したら、「お預かりしています。自宅へ送りましょうか」という。運転免許証も入っているし、それでは、免許証不携帯の上、旅の途
中無一文になってしまうので慌てて引き返した。そういうわけで予定が狂って、もう一泊お世話になってしまった。
 別の日、旅の途中長野善光寺に立ち寄り、こんな時ばかりは善男善女のふりをして、かたちばかりのお参りをして、しばし、境内の散
策をしていた。特定の宗旨宗派に属さない善光寺さんは、多くの参拝客で賑わっていた。

 広い境内には賽銭箱があっちこっちにあって、小銭を投げ入れているうちに、予備の小銭がなくなってしまった。やむを得ずチャリン
と、あの心地よい音のしないお札を財布から取り出して「善光寺の仏さま、おつりくれませんか?」と心でかなわぬお願いをして、未練が
ましくそっと賽銭箱に滑り込ませた。

 そんな不心得?な気持ちに仏様が罰を加えたか、大事な財布を賽銭箱のへりにうっかり置いたまま帰途についてしまった。衆目にさ
らされる位置なので、あきらめつつも戻ってみたら、何と、そのままその場所に財布が鎮座しているではないか。
 財布ごとお賽銭として差し出したという御奇特な参拝者の行為と思われたのでしょう。
 さすが文字通り善男善女が集う場所だと、よろこび勇んで財布に手をのばしたら、そのとき、背後に複数のただならぬ刺すような視線
を感じた。
 何年も前の記憶だが、たぶん、生きているあいだは認知症になっても忘れることのない出来事です。
 やっぱり旅はおもしろい。
(同人誌「ちいさなあしあと」掲載済み)








八丈島冬の旅


集落を二分する八丈空港の滑走路


 国内線最短距離の搭乗口が最遠距離

 広大な羽田空港から国内線で最短距離の航空路線は、たぶん八丈島行だとおもう。 
 その短い空路の搭乗口は、なんと、空港施設で一番遠い69番搭乗口だった。キャリーバックを引きずりながら延々と歩き、動く歩道を
何度も乗り換えて、あきれるほどのウオーキングの果てにようやくたどり着いたローカル搭乗口は、行き止まりの位置だけに、通り過ぎ
て迷うことがなく、田舎者にはかえって分かりやすい配置であることがおもしろい。空港ターミナルビルは日常的に利用している一部の
階層に属する人々であれば単なる出発地であろうけれど、たまに利用する機会を持つ庶民旅行者にとっては、巨大空港施設の見物そ
のものが旅行の目的のひとつでもあるので、気にならない。

 ましてや、愛知県住まいのわたしには、羽田空港は初めての利用なのだ。
 時間に余裕を持って搭乗口を確認した後は、いわゆる「お上りさん」よろしく退屈をたのしむことにした。
 人口8000人余り。伊豆大島よりわずかに小さい八丈島に一日3便の定期航空便は竹トンボのような小型機を期待?したが、意外
や、150人乗りのエアバスA320だった。たった50分のフライトは、上昇して巡航に入ったしばらく後にはもう下降態勢に移行する。パイ
ロットも忙しいだろうなあ・・と、的外れかもしれない空想にふけっている間にもう到着だ。オフシーズンで多くの客席に空気を乗せてきた
飛行機は、羽田の空気を八丈島の空気に乗せ替えて、いそがしくお帰りになる。他人事ながら、何となく採算を気にしたくなる。

 多肉性の植物「木立アロエ」が島の環境に合うのか、道路沿いなど人目につく至ることころにおびただしく群生し、冬枯れのこの季節、
赤い槍の穂先のような派手な花が一面に咲いていて、ビロウ樹やフェニックス、シンノウヤシなど亜熱帯性の街路樹とともに南国ムード
を強調している。観光ガイドブックなどには、東京都亜熱帯区などとおもしろいキャッチコピーで宣伝しているが、緯度では四国の南岸
地域とほぼ同じ。それほど南ではないが黒潮の流れの中に位置するので暖かいのだろう。亜熱帯性の自生植物もけっこう見られる。


木立アロエ 南アフリカ原産でありながら島のあちこちに溢れんばかりに群生している。


   空港に群がる集落

 ひょうたんのような海岸線の八丈島は海岸からそそり立つふたつの山から成っている。東側が東山あるいは三原山という死火山。伊
豆大島の三原山と山名が同じというのは島こそ違っても海域が同じ伊豆諸島のひとつなので紛らわしい。
 西側は火山の痕跡である溶岩流が平らな海岸まで分厚く、しかもおそろしく広く堆積した溶岩台地の海食断崖を形成していて活発な
火山活動の跡を色濃く見せつけているが現在は休火山だという。

 ふたつの山のつながるところ、つまりひょうたんのくびれた狭い位置に、島を分断するように空港の滑走路が横たわっていて、一日僅
か3便の定期便が静かな空港に爆音とともに滑り込み、ひとときの賑わいを見せる。騒音被害をほとんど感じさせない空港は周囲に民
家や暮らしを支える諸施設が群がり、さながら空港施設が島民の暮らしの中心施設として利用されているように感じる。このごろ国道な
ど幹線道路沿いに充実してきた道の駅のようだ。近代的な島の駅といったところか。

 八丈富士

 どうにか天気に恵まれて八丈富士に登った。夫婦での旅は、かみさんの体力や好みを慮って山登りという目的のひとつを、やむなくあ
きらめて譲歩することがしばしばだが、今回は念願を達成し、火口のお鉢めぐりもやってしまった。ただ、悪い癖だがカメラを車に置き
忘れ、証拠写真がない。

 数百年間も噴火の記録がない休火山ないしは資料によっては死火山ともいわれる山頂の火口部は荒涼とした火口原ではなく、常緑
性の樹木に覆われている。荒砂状の赤黒く、さらさらした火山灰土を踏みしめながら登った身には樹林に埋め尽くされた火口の風景に
意外な印象をうけた。数キロ先の南原千畳敷海岸まで広大な溶岩流が押し出され流れた様子まではっきりと確認でき、くぼ地の一角に
火山性の小さな植物が、ひっそりと息づいている以外は一木一草も見当たらない凄まじいほどに荒涼とした風景との対比に不思議な感
じがする。
 本土からみれば暖かい島も標高854mの山頂付近の日蔭には2月初旬のこの季節、わずかだが雪が残っていた。ほんのわずかだ
が、八丈島にも山は雪が降るのです。



八丈富士と南原溶岩流

  流人の島

 徳川家康の時代、流人第一号といわれる数奇な運命をたどった戦国の武将、宇喜多秀家は83歳で妻を本土に残して天寿を全うした
が、同じく流人のふたりの息子の子孫が現在も暮らしている。江戸の時代に送りこまれた流人たちは博徒や粗暴犯もいたであろうけれ
ど、権力批判の学者や知識人も多く、現地住民との融和による好影響ももたらし現在に至っている。いたずらカラスまで将軍の命により
島流しになった記録があるという。もちろん生きたカラスだ。資料館のこんな記述に笑ってしまった。

 滞在三日目は雨で身の置き所がなく、歴史民俗資料館で時間をつぶしていたら、係員が丁寧に案内をしてくれて、にわか歴史を、ち
ょこっと学ぶ楽しいひとときでした。天気がいいと観光客は屋内の資料館へは足を運んでくれないといい歓迎してくれた。それでも、この
日は私たちの他に客は見あたらなかった。シーズンオフの離島はまことにさみしい限りだ。

 火山島の利点を生かした地熱発電所がある。東山(三原山)の地中深くから吹き上がる水蒸気で2000キロワットの電力を生み出し
ているという。死火山扱いでも大深度の地下は果てしないエネルギーをたぎらせていて島の電力の25%を賄っている。ここでも展示館
があり、壮大な発電設備とともに、私たちたった二人のために丁寧な案内をしていただいた。発電に使った水蒸気の熱エネルギーは再
び地中に戻すほか、冬季は温 室の保温に利用されていて島の特産野菜など植物の周年栽培に役立っている。


地熱発電所

 クサヤはほんとに臭い

 ホテルの夕食の先付に八丈島名物のクサヤが出た。何気なく口にしたが、これはいけません。ウンチの匂いだ。それでもご当地名物
を食べ残すのは礼儀に反する・・などと、表情をゆがめて敬遠するかみさんの分まで目をつむって息を殺してよく噛んだつもりで食べ
た。匂いはくさいが食べれば旨いという食べ物は時にはあるが、クサヤは、どっちも臭い。これを伝統食としてこよなく食している島人の
嗜好感覚が分からない。同じ宿の連泊で二日目の夕食にクサヤが出なくてほっとした。

 島では穀類からお酒を造ると飢饉とか不漁など災いが起こるという言い伝えがあり、酒に飢えた島びとに流人が穀類ではないサツマ
イモでお酒を造ることを教えたことが島焼酎の始まりという。水田の少ない島の地形では米は貴重な食料であり、嗜好飲料に利用する
などおろそかにできなかったのだろう。焼酎は漁業とともに八丈島の主要産業になっている。芋や麦を原料とした焼酎は四国から九州
南部、南西諸島を旅行中よく薦められるが慣れが必要か、好みに合わず馴染めそうにない。
 島の先住民の暮らしを色濃く伝える玉石垣の集落を歩いてみたかったが、降り続く雨の中で断念し後悔した。傘をさしてでも歩けばよ
かったのにと・・。

 悪天候で欠航

 三泊四日間の旅の三日目は南岸低気圧の襲来で関東を中心にして荒れ模様。大雪警報が発令されて航空機の欠航が相次ぎ、一日
三便の羽田―八丈島間も全便欠航になってしまった。この日は滞在中なので私たちのスケジュールに影響はなかったが、小さな島の
観光施設などは、飛行機が飛ばなければ一日一便の客船も欠航になる。島では慣れっこで「宿命」ととらえているようだ。この日の宿泊
客は当然のことだが、前日と顔ぶれが同じだった。

 小さな島に三泊三日。レンタカーは72時間借りっぱなしで9000円(保険は別)。
本土で使い古した中古車の二度目のお勤めか、エンジンブレーキが効いたり効かなかったり、おかしなオンボロ軽自動車で同じ道路を
何回なぞったろうか。旅は遊びなのだ。効率など気にせず少々の退屈はむしろ旅の余裕と・持論にこだわっている。

 団体旅行の過密行程では、忙しかった現役時代の仕事の延長みたいで落ち着かない。
 最終日、飛行機は前日の足止め客も加わって賑わいをみせた。そのなかで黒ずくめの高校生集団が数個のサッカーボールを詰め込
んだ大きな袋とともに待合室を埋めた。
 島の高校生の遠征試合という。そういえばドライブ中に立派な校舎を見ている。小さな島に高等学校があり、サッカーのチームが存在
している。本土からは遠い離島でありながら、それに少子高齢化の時代のなかで明るい話題を仕入れた気がした。
(同人誌「ちいさなあしあと」掲載済み)


ホテルの庭を彩るソテツ 大きな種をお皿に盛り付けたように実らせている。







裏磐梯高原を目指して5日間の旅


旅の途中、姨捨の棚田

   2015年9月12日

 日本列島の火山滞が活動期に入ったようだと観測されるこのごろ、静かな火山に接してみようと、磐梯山とその周辺を選んだ。新幹
線利用であれば、数時間で目的地に達する便利な位置ではあるけれど、道中寄り道の楽しみを考えれば、多くの時間と交通事故の危
険とを嫌でも共有しながら、マイカーに頼ってしまう。

 茨城県常総市の鬼怒川の氾濫による大水害の報道に2日前に接し、何となく後ろめたさを抱きながら、その隣接地域も通過する旅で
す。前日、高速道路の一部が災害の余波による通行止めの事実をネットで確認しながら、原発事故ではあるまいし、時間差で何とかな
るだろうと期待しての出発です。

 長野道のトンネル内で、車両火災による通行止めに遭遇してしまって、国道へ下ろされたら、途端にあふれる車で動かず、さながら長
大な車の展示場?になってしまった。脇道にそれて、山道をくねくねと辿ってやり過ごしたが、方向感覚がおぼろげになり、こんなとき、
ナビが無かったらどうなることやらと胸をなでおろした。

 内陸部で一歩幹線道路を外れると、えてしてそこは深い山の中。この国が世界でも有数の長い海岸線に囲まれた島国でありながら、
複雑怪奇な山国であることを、あきれるほど実感する。高速道路は中央道、長野道を過ぎると上信越道、関東道、北関東道、東北道
と、関東圏の外郭に位置するこの地域は、やたらとつながっていて、合流分離が多く、首都高速や名古屋高速を走るような緊張を強い
られる。
 最終目的地までの距離はおよそ650キロ。高齢の身での運転では無理は禁物、それに、時間を惜しんで突っ走る必要もなし。危険と
気楽が奇妙に同居している。

 スイッチバックの姨捨駅

 休憩地長野道の姨捨SAは、水鏡で名高い田毎の月の棚田と伝説の姨捨、それにスイッチバックで乗り鉄マニアに人気の篠ノ井線姨
捨駅へ楽々の徒歩圏だ。
 スイッチバックといっても、この鉄道線路の場合は典型的なZ型ではなく、Y字型の一方の先に姨捨駅があり、線路はそこで車両止め
で終わっている。列車は客の乗り降りのあと一旦戻って本線に入り、先へ進む構造になっている。特急列車は乗降客の少ない姨捨駅
には停車せず、眼下の直線路を意外なほどの轟音を上方にまき散らして走り去る。
 ちなみに、私鉄の車両を「電車」と呼び、JRの車両を列車という。JRローカル線の多くは電化されていないので、そこを走る車両を電
車とは言えないのだろう。

 ローカルな路線の普通列車の多くは、たったの一両で1時間から2時間、路線や時間によっては、それ以上の間隔をあけてのんびり
運行していても「列車」であり、単車ではないのが面白い。車両後部のドアの脇に押しボタンがあり、それを押さないと何時までたっても
ドアが開かず、周りの客に促されて「ああ、そうなんですか」と苦笑しつつ乗りこむ、一面では面白い経験も過去に何度もしている。古め
かしさというより、冬季、車内の防寒対策として、必要以上にドアをあけ放たないための工夫と聞く。

 駅とSAから眺める善光寺平の広がりは日本三大車窓風景という。鉄道車両の場合は車窓からは、ほとんど一瞬の時間に過ぎないの
で、ここは降りて二時間後の普通列車の到着を待つことになる。今回は車なので、その制約はないが、こんなとき、サービス満点のSA
からよりも鉄道駅の古めかしく開放的なホームに佇み、風景を楽しむほうが旅の気分が、より高まって印象深い。星空と夜景が特にお
薦めというけれど、ここに宿泊しないと無理。夜の長距離ドライブは、年齢的に、とっくにあきらめている。



 信州といえばリンゴの大産地。棚田を見下ろす車道やあぜ道沿いにあふれんばかりにたわわに実ったリンゴが、重そうにひしめき、
か細い枝が危なっかしく踏ん張っている。近頃は果樹園のサクランボ泥棒が横行する嘆かわしいご時世だが、リンゴは道端に張り出し
ていても安泰なのか、あるいは、少々の泥棒など大目にみるような気持ちのゆとりが栽培農家に備わっているのか、横を向いて歩けば
道端にはみ出したリンゴと後頭部がぶつかりそうで、秋めく空の下、気持ちのいい風景だ。

 各地に存在していたといわれる姨捨伝説は、現在、この棚田の借景のようにそびえる姨捨山(冠着山)に唯一伝承されていて、数十
年も前に読んだ姨捨伝説をヒントにした深沢七郎の短い小説「楢山節考」の記憶を辿りつつ、冠着山(かむりきやま)と眼下に広がる棚
田一面の黄金の穂波に酔いしれるひと時です。
 こんな時、折に触れて言われる日本の原風景とは、遠くない昔を懐かしむ年代の、心のよりどころなのだろう。いにしえの歴史に触れ
るのもいいが昭和時代の博物館施設や風物が、中高年者それぞれの幼いころの直接的な記憶を呼び覚ます意味で人気を博してい
る。

 棚田のあぜ道で、これも今では珍しくなったイナゴの群れを蹴散らしつつ散策しながら、未だ遠くはないむかしの感慨にふけってみ
た。棚田100選に選ばれているこの風景も猫の眼農政と揶揄された減反政策のあおりで荒れ果てていたものを一部の農家や篤志家
の手でよみがえり、観光的にも見直されている。

  富岡製糸場

 上信越道へ入ると妙義山、荒船山など、標高の高い山ではないが、荒々しい稜線が屏風のように連なる山岳美に目を奪われながら
のドライブは高速道でなければ、車を寄せて、しばしの休憩と目の保養を楽しめるのに、こんなとき高速道路走行中は無情にも運転手
の緊張しながらのわき見を尻目に、となりのゲストばかりが展開する風景を堪能している。運転できないかみさんは車の危険性を理解
していないようだ。

 ほどなく、富岡出口を見つけて、富岡製糸場に立ち寄ることにした。明治3年の着工というこの大工場はその規模と精密機械が整然と
居並ぶ設備に仰天する。世界文化遺産登録の直後とあって、それに、土曜日でもあり、大変な賑わいに戸惑ってしまった。
 電気もなく蒸気機関で操業する当時の工場は、たぶん、田園か野っ原の真っただ中に建てられたであろうけれど、現在は周辺に住宅
や商店街が取り囲み、密集地の中に異質な感じの工場敷地がどっしりと構えて一見の価値ありの博物館として存在している。


富岡製糸城の内部

 館内を巡りながら、名古屋の産業技術記念館との共通点を意識していた。
 見学を終わって車に戻ろうとして、はたと困った。10年も付き合ってきた自分の愛車を休めた場所がさっぱり分からないのだ。工場を
取り巻くように発展していった住宅や商店街は、当然だが自動車交通をまったく意識しないで密集してきたのだろう。そこに割り込むよう
に大中小の駐車場が点在し、製糸場への道を歩いているうちに方向感覚を失う。散々歩き回って、ようやく見つけたときは、宝物を見
つけたような気持ちでほっとした。
 世界文化遺産登録の御利益か、あるいは、それ以前からの地域の特異性か、あふれる人並みに商店街が活気づいていて、このご
ろ、地方都市のどこにでも見られるシャッター街がここでは無縁に感じられた。

  ビジネスホテル

 一日で主目的地まで走りきるのはプロのドライバーでもあるまいし、とても無理。
こんなとき、地方都市の市街地に立地するビジネスホテルを利用することにしている。全国展開あるいはそれに近い規模のホテルが調
べてみれば地方の中小都市にも必ずある。それらのホテルは宿泊費が格段に安く、清潔な施設が多いので、中継地として大いに助か
る。
 足利市のルートインホテルは二人部屋で一室9800円。朝食は無料サービス。食べても食べなくても料金は同じ。一日の始まりは朝
食にあり、の謳い文句で申し分のないバイキングだった。おまけに、ホテル内のレストランでは夕食が定食コースで1000円。豪華では
ないが期待に背くこともない。そんなホテルをファミリーで観光利用する旅上手もよく見かける。ビジネススーツに身を固めた客に混じっ
て幼い子供連れに出会うと、年老いた宿泊客としての違和感がやわらげられ、気持ちが安らぐ。

 旅行中リゾートホテルやハイセンスな温泉旅館などで、フルコース料理など、連日食らっていては財布がもたない上に体に良くない。
それに、高齢のせいか小食になり、もったいない思いをすることも度々経験するようになった。


大内宿の賑わい

  大内宿

 会津城下から下野の国(栃木県日光市)を130キロで結ぶ参勤交代や庶民の旅で賑わった宿場のひとつ。時代に取り残され荒れ果
てた旅籠を蘇らせようと、篤志家の説得が功を奏して修理、復元がなったものという。中山道の復元宿場などとは、まったく趣の異なる
かやぶき屋根の整列が背後の借景も相まって童話の世界の挿絵のような佇まいを見せている。

 詳しく調べたわけではないが宿泊施設としてはあまり機能していないようで、茅葺建物のほとんどすべてが土産物などの店になってい
て、その、あまりの多さに辟易する。けれど、それはそれで維持管理の元手になっていると思えば、理解するべきかと思った。それぞれ
の店先を覗いて、意外なほど雪国ならではの手作りで地域色に富んだ素朴な商品が目立った。冬季、雪に閉ざされた民家の一隅で作
って溜めたと思われる手芸品など、ホテルのロビーなどの売店の画一的な品ぞろえとは明らかに異なる雰囲気に、観て廻るだけでもけ
っこう楽しい散策に時間を忘れるひとときでした。

 街並み保存のために、「売らない、貸さない、壊さない」という精神が素朴な店先にあふれる商品にも反映されていると思った。

時代を巻き戻したような旅籠の家並をそぞろ歩いていて、ふと思った。以前に温泉街の一角に駐車していたトラックのボディに「全国観
光土産品製造販売」と大書きしてあるのを見つけた。あっけにとられて、空いた口がふさがらなかった記憶がある。「全国・・」は余分でし
ょう。中身の同じものをラベルや包装をその地域に合わせて変えて、全国の観光地に送り届けているという恥ずかしい裏の事情を、自
らお知らせして廻っているようなものではないか。

 この業者の、物を売ることへの感覚を疑った。それ以来、観光地の土産物に対する興味が薄れた。大内宿の素朴な地方色の滲んだ
店先を観て歩いて、その対極とでもいうべき、そんな記憶がよみがえった。


忠実に復元された鶴ヶ城

 会津鶴ヶ城

 戊辰戦争の一局面、会津戦争で落城した会津松平家。徳川直系で忠誠のあまり、賊軍にされてしまった悲劇の歴史を秘めた壮大な
城郭だ。再建だが、忠実に復元されていることを戦乱の末に一部を破壊されながら威容を保つ当時の写真が証明している。
 城下町の常とでもいうべきか、城を囲む道路は分かりやすいようで、実は複雑に入り組んでいて不案内な旅人を戸惑わせる。ここでも
富岡製糸場のときの二の舞を演じてしまった。またまた、車の置き場がわからないのだ。
 おなじ失敗を繰り返さないようにと、意識しながら、その上でこの始末だ。

 1時間近くもうろついてようやくたどり着いた。このときはもう自己嫌悪にさいなまれた。認知症による俳諧をしているみたいだ。城の周
りは戦略上分かりにくくなっているのがたぶん普通で都市計画で見直されていない限り迷路的なのでしょう。団体旅行であれば、三角の
旗を見失わないようについて行けば、すんなり辿れるし、時にはガイドさんを困らせる意地悪な質問をして戸惑わせる面白さもある。

 しかしながら、個人の旅でドジを踏むときは、迷える羊をけなしながら着いてくるかみさんの無責任な苦言をやり過ごしつつ、孤独な気
持ちであせることになるのですよ、ほんとに。夫婦なんて50年も同じ屋根の下で飽きずに?暮らしてくると、まあ、こんなもんです。
 ちょっと脱線してしまったけれど、真面目一徹の作文に少々面白みを付け加えてみるのも良かろうと・・・。
 それにハプニングの多い旅ほどきっと後々まで記憶に残る。変な話だが逆説的でいい旅になりそうだ。

  飯盛山(写真を撮り忘れたのが悔やまれる)

 標高372m。ふもとからは100メール足らずの標高差を動く歩道が通じている。エスカレーターではない。ベルトコンベアーだ。空港な
どの平面の動く歩道を斜めに設定してある。なぜか、人間様が荷物として扱われているような妙な気分なった。平面と斜面の違いある
いはベルトと階段の違いに過ぎないのに不思議だ。斜面に立つ不安定な状態で運ばれながら、かみさんに「そういえば、この頃の回転
ずしは美味しくなったなあ・・」などとほざいて、ふざけた関連性に浸りながら、あっという間に山頂に着いてしまった。
 この程度の距離は足で歩いてこそ歴史をしのばれると思うけれど、足の不自由な旅人をおもんばかれば止むお得ないか。
 山に立てこもった白虎隊の少年兵たちの悲劇を伝える墓標がさみしく整列している。

燃え上がる街並みを鶴ヶ城の炎上と見誤って自刃して果てたという。山上から望む、あの壮大なお城は意外に遠く小さい。一説には見
誤ったのではなく、もはや勝ち目は無いと悟った結果を前に激論のうえでの自刃だったという。20名の内、たったひとり死にきれず生き
残った少年兵によって証言されている。

 武士の子弟の少年兵は15歳から17歳といわれているが、中には13歳の若年者も行動を共にしたという。19の墓標の脇に生き残っ
て天寿を全うし後世に史実を伝える役割を果たした飯沼定吉の墓碑も寄りそっていて、不幸な歴史であっても風化させない熱意を感じ
る。

 1868年、維新の動乱は会津戦争とそれに続く箱館(函館)戦争を経て戊辰戦争が終結し、徳川の時代が終わった。そのわずか3年
後には前述の、当時としては超近代的な富岡製糸場の大規模工事に着工し、その翌年には一部であろうけれど操業を開始した。当時
として世界最大の製糸工場とされている。一連の旅の行程で、計らずもこの時代の激動、そして激変ぶりの一端を見る思いがする。

  見祢の大石

 1888年(明治21年)、磐梯山が水蒸気爆発したときに、山頂近くにあった石が直線距離で5キロ離れたこの地域まで押し流されてき
たという、巨大な石だ。山体崩壊という、自然現象で山が動いた。あるいは主要な部分が無くなってしまったという。磐梯山は吊り橋のよ
うな弓なりの稜線を描く事実上二つの頂になって中央部の膨大な土砂が流れ下り、裾野に広大な磐梯高原を形成している。


見祢の大石

 石は長さ9.39m高さ3.03m、幅6.06m。自らの重みで年々沈下しているという。面白いことに、ふたつある説明版はそれぞれ大
きさの数字が違っている。たぶん、所在自治体の猪苗代町と環境省の違いだろう。計測の仕方によっては数字に違いがあっても不思
議ではない。こんなときは、大きい数字のほうが迫力を感じるのでそちらを表示することにした。

 自然の驚異を目の当たりにしてみたくて、訪ね訪ねてようやくたどり着いた巨岩は、のどかな集落の一角にさみしく鎮座していた。幹
線道路からの案内も不備で現場の近くになってはじめて控え目な案内表示にお目にかかることができた。観光的な開発行為がまったく
なされていないのが意外だ。天然記念物であってもただの石あるいは岩に過ぎないということなのだろうか。自然現象の驚異を知るうえ
で、存在をもっと大きく意識されてもいいような気がする。

 大石はこの地域に、他にも幾つかあるというけれど、その所在地の案内さえなかった。
目の当たりにすると、ほんとに大きい。磐梯山の頂も、ここからは厳しく屹立する、あるいは仰ぎ見るような高い位置にはない。平坦で
のどかな山里に、どうやってずり落ちてきたものか、にわかには信じられないが、わずか130年前の事実であり、ある高僧が携えてき
た杖を地面に刺したところ、根付いて大木に育ったというような、各地にある奇想天外な伝説の類ではないのだ。


五色沼の一部

  五色沼

 裏磐梯高原観光地の中心、五色沼も磐梯山の水蒸気爆発によって運ばれた膨大な土砂が渓流を寸断し、五色の沼になったと伝えら
れるけれど、磐梯山からの酸性の水に温泉のアルカリ成分が注いで、微妙に水面の色が異なる10以上の湖沼になっていて、湖沼を
結ぶ散策路は往復で6キロ程度か、無理のないハイキングコースで、ハイカーたちで賑わっている。
 裏磐梯高原一帯は、大小の湖沼が300を超すという説明を見受けるので、水溜りのような池や枯れたりあふれたりするような、あい
まいな池も含めれば正確な数を把握していないのだろう。

 地図を最大に拡大しても、その多くは特定しきれず、確認できても湖名さえ表示されていない。無数といってもいいような湖沼のすべて
に湖沼名を付けること自体が無理?なのだろう。北海道、知床五胡の五つの湖が熊出没注意の警告版とともに湖名が、一湖、二湖と
順に続いて五胡まで表示されていたのを愉快に思い出したが、300も存在していては、それに倣うわけにもいかないだろうと、どうでも
いいようなことを考えてみた。

 現場には足で近づけない湖沼はともかく、名称の表示はあると思うが、これほどの森と湖の織りなす広大な高原は、北海道の大沼公
園に似て日本離れした地形ではないかと、勝手に思っている。その多くは、たぶんすべてが1888年の磐梯山の噴火による山体崩壊
で発生した膨大な土砂によって水路が寸断されたり、無数のくぼ地が出来たことによる、きわめて新しい大景観なのだ。崩壊土砂は時
速80キロで流れ下ったという。
 溶岩の噴出が無く、堆積した土砂が幸いして植生の回復は早かったのだろう。500名近くの犠牲者を出しながらも地元の懸命な緑化
事業も相まって、崩壊した山肌のえぐられた跡の一部を除けば広大な高原台地に、噴火爆発の当時を物語る荒々しさは微塵も感じな
い。
 宿泊した休暇村裏磐梯は、10年以上昔に利用したことがあるが、その当時は「休暇村磐梯高原」だった。ところが現在は「裏磐梯」と
訂正している。
 高原一帯を裏・と表示しているので、それに合わせたのだろう。表に対して裏はイメージが良くないと個人的には思うが、代々馴染ん
だ地名はそれなりに重みがあるのでしょう。
 ちなみに、その反対側は風光明媚な猪苗代湖を中心としたリゾートエリアがあるが表磐梯とは言わないようだ。

  吾妻小富士

 裏磐梯から少々足を伸ばして、日本の道100選に指定されている磐梯吾妻スカイラインを経由して吾妻小富士へ向かった。豪雨災
害の後遺症か、福島方面への通り抜けが出来ず、折り返すことになるという。スカイライン中ほどの浄土平駐車場までの折り返しの予
定なので問題はなかったがスカイライン入り口で表情も分からないほど真っ黒に日焼けしたオジサンが赤旗を右へ右へと振っていた。
 

 実際は止まれ!だったが。それなら×印か、赤旗を広げてたらせば分かりやすいのに、激しく振るので、不審に思いつつ右へ寄せた
ら、何で指示に従わないのかと噛みつかれてしまった。工事中や災害時の交通規制のとき、アルバイト?整理員の赤旗と白旗の使い
分けがチャランポランで間違いや分かりにくい指示など度々経験する。こんなとき、旅の楽しみに不愉快な一石を投じられたような気分
で腹が立つ。ことは交通安全に関わる指示なので、分かりやすさを徹底してほしいとつくづく思う。

 一方で自分自身に、係員の指示に対する解釈に普通ではないおかしな判断をしてしまう癖があるのかと思ってみたりして、気が滅入
る。
 やりとりが、つい感情的になってくると、こちらは名古屋弁になるし、相手は、この場合は東北弁でまくしたてるので、お互い外国人と
口喧嘩しているみたいだ。日本は広いよ。
 最近は移動式の、赤信号による停止時間を秒単位で表示してくれる信号システムが普及して分かりやすくなったが、本来は生身の人
間による指示に信頼を置けるのが理想なのに、変な気分になる。


猛禽類(大わし?)        メルヘンチックな塔のへつり駅(

 

 吾妻小富士は磐梯朝日連峰の一角。この季節、高山植物の花たちのほとんどが活動を終え、リンドウとトリカブトの鮮やかな濃いム
ラサキだけがその派手な色合いとは裏腹にさみしく咲き残る湿原、浄土平の駐車場から、ほんの20分ほどで山頂火口壁に立つことが
できる。
 一般的には「お釜」といわれる典型的な円形の頂点めぐりは岩盤や岩くずを踏みしめながら1時間ほどで一周できる荒涼としたハイキン
グコースだ。火山活動の兆しがないという100mはありそうな奈落の底を思わせる深い火口底は、なぜか平らで水溜りもないが、それ
でも地球深部のガス抜き穴としての迫力を惜しげもなく見せつけている。数年前に登った富士山の山頂火口と規模やかたちが似てい
る。なるほど、小富士だ。

火口壁の頂にオオワシとおもわれる大きな鳥が、遠目にも猛禽類らしく、悠然と佇んでいる姿が、さながら彫刻の置物のように目に映っ
た。一枚だけ、不鮮明な写真に収めることができたが、うさんくさい人間が近づきすぎたか、次の瞬間には、大きな羽をふわりと広げ
て、湧き上がっては消え入ることを繰り返す雲の流れの向こうにゆったりと吸い込まれた。飛び去ることで、人工的な置物ではないこと
を確認したような感じがした。
 鳥類の生態系の頂点に君臨しながら、絶滅が危惧される猛禽類を期せずして直接観察する機会に恵まれて、今回の旅の幸運を思っ
た。
  今回の旅の行程

 姨捨駅―富岡製糸場―塔のへつり渓谷―大内宿―会津鶴ヶ城―飯盛山―裏磐梯高原―吾妻小富士―五色沼―見祢の大石―長 
野善光寺


 

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