とりかえばや
たとえばひげが生えているとか、声が重低音だとか。そういった如何にも「男」である息子なら良かった。そして、折れそうなほど華奢だとか、華やかな声だとか。そういった如何にも「女」である娘だったら良かった。
だが現実は、無常だった。
「お前ら、いいかげんにしろ!」
瀟洒な庭園に、張りのある艶やかな声が響き渡った。ここは都でも有数の権盛を誇る権大納言家。その良く手入れされた庭園で、一家の大黒柱、帝の覚えもめでたく大将も兼ねているムウ・ラ・フラガが大声を張り上げていた。
整った顔立ち、引き締まった武人の身体、職務におけるその有能さ。彼を噂する都人の言葉は、羨望と憧憬に満ちている。その彼が、このように声を荒げなければならない、どのような訳があるというのだろう。
「ムウ、そんな風に怒鳴らなくても…」
御簾越しに、庭に面した部屋から女性の声が聞こえてきた。その響きはどこか柔らかく、たしなめるというよりも困惑している向きがある。
フラガはその声に振り返ることなく、だが、ためらうように眉根を寄せた。
「マリュー、だが…」
「北の方、あなたは甘い」
と、マリューのいる部屋とは庭を挟んで反対側の廊下から、はりのある女性の声が響く。
フラガは今度こそ、緊張した面持ちで、声のほうへと目を向けた。そこには、本来ならマリュー同様、御簾のむこうに静かに暮らすはずの女性が、まなじりを吊り上げて立っていた。
「ナタル…」
北の方、と名指しされたマリューが、戸惑いのにじむ声でその女性の名を呼ぶ。「あなたもそう呼ばれる立場なのに…」と、少し寂しげに付け加えた。
ナタルはマリューの言葉を「あなたの実家のほうが、家格が上ですので」と生真面目に流し、御簾のむこうへと向けていた視線を、庭へと戻した。
「しかし、大将の言いようも、私は納得できません」
「は?」
てっきり自分の意見に賛成してくれているものだとばかり思っていたフラガは、一瞬、言われた意味を理解できなかった。
「ええと…それはどういう…」
「ですから、子供の自主性を重んじるべきだと私は考えます」
「いや、その…」
ナタルのきつい眼差しと口調。それらに気圧されて、彼は反論することができなくなってしまう。
それを見て取って、御簾の内から、更に追い討ちを掛けるように声が上がった。
「ナタルの言うとおりよ。ムウの言っているのは、この子たちの個性を否定することだわ」
ねえ、キラ。
マリューは、自分とともに御簾の内で座している人物へと、相槌を求めた。しかし、キラと呼ばれたその子供は、御簾越しの父と目の前の母とを見比べ、視線を落とすばかりだ。
「え、ええと…その…」
まごつく声は、男性にしては柔らかく、女性にしては少し低めだった。
個性。その声に触発されて、フラガの顔に苛立ちが走る。
「こいつらのは、個性なんていう可愛いもんじゃないだろうが!」
突然の怒鳴り声。予期せぬそれに、御簾の奥でキラがびくりと身体を震わせた。その瞳は怯えたように潤み、いかにも女性らしい、か弱い仕草を引き立てる。
それを見て、たしなめるような声が庭から上がった。
「お父様!そんな言い方をしたら、キラが怯えてしまうじゃないか!」
フラガと対面しているその人物は、切るような視線を彼へと向けていた。その勇ましい姿は、如何にも男らしいのだが、それにしては少し声が高い。だが、女性の声かと言われたら、逆にそれには少し柔らかさが足りなかった。
「だからー!俺はだなぁ、お前らのそういうところが問題だと…」
フラガの顔が不満げに歪む。足を踏み鳴らし、彼はやるせない思いを爆発させた。
「子供のころは良かったさ。俺だって別に構わないと思った。ちょっと引っ込み思案な兄とお転婆な妹、そう思おうとしていたよ」
キラとカガリは、ともにフラガの子供だった。兄のキラはマリューの気質を受け継ぎ、優しく神経の細やかな少年へと育ち、一方、妹のカガリは母ナタルの気性を受け継ぎ、利発で機敏な少女に育った。
二人はともに顔かたちが優れており、行く末は世間を騒がせる若君、姫君になるだろうと屋敷のものは噂した。
だが、それは性の差を気にせぬ幼い頃だからこそ言えたこと。今では、キラを若君、カガリを姫君と呼ぶ者すらいない始末。
「お前たちももう十六だ。そろそろキラは男らしく、カガリは女らしくなっても良いんじゃないか」
フラガは何かを思い出すように遠くを見た。それは、まるで死期の迫った老人のような眼差しだった。
つい、先日のことだ。
「おお、あなたがこちらのご子息か。聞いていたのとは違い、利発そうな子ではないか」
フラガの邸宅で開かれた管弦の宴の席で、どこからともなく聞こえてきた、見事な笛の音。それに続いて現れた狩衣姿も初々しい少年に、宴の主客である右大臣がそう声を掛けた。
いや、正しくは「一見」少年であったが。
「あ、いや、その、この子は…」
しろどもどろになるフラガをよそに、(一見)少年は優雅な礼をとり、面を上げた。白い頬、無駄なく配置された端正な顔立ち、そして何より、その全てを貫くような意志の強い眼差し。続く声も力強く、威厳すら感じさせる。
「はい、大臣さま。初めてお目にかかります。カガリです」
右大臣は、思わず相好を崩した。
「そうか、カガリ君か。いや、末は位を極める殿上人となる気風を感じるよ」
「ありがとうございます」
笑顔で受け答えする息子、正しくは娘に対し、フラガは何も言うことができなかった。
苦々しい表情で、記憶を回想したフラガは、当の娘へと目を向けた。
「お前たちはすでに、カガリは若君、キラは姫君と呼ばれ、都の噂になっているんだ。つい先日も…」
カガリを一瞥してからキラのいる御簾へと目を返し、フラガはまたどこか遠くを見る。それは、老人を通り越して、まるで解脱の境地に近づこうとする僧侶のような眼差しだった。
「フラガ大将、宴を開かれるご予定はないのですか」
大内裏で突然そう呼び止められ、フラガは足を止めた。
「宴?またどうして」
目を向ければそこには、将来を嘱望されている近衛少将の姿。威風堂々とした雰囲気で有名な彼が、どうしたことかいつになくそわそわと落ち着かない様子だった。
ちらりとフラガを見ると、媚びるような表情になる。
「またまた、おとぼけになって。知っているのですよ。ご息女のキラさまは、かぐや姫もかくやという美貌をお持ちだとか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
少将は、当代随一の婿がねである。父は太政大臣、将来は大臣まで上り詰めること違いなしと言われる人物だ。当のフラガも、カガリの夫にどうかと考えていた。
ところが、彼の口から出てきたのは、妹ではなく、兄のほうの名。
「是非、宴の席ででもご紹介をいただきたいと、みな期待しております」
顔を赤らめ言う少将に、フラガは眩暈を感じた。
当時、貴族の女性は屋敷深くに籠もり、生涯で数回しか外に出ることのない生活を送っていた。当然出会いなどあるはずもなく、どこそこのご息女は美しい、だのといった噂をもとに、男の側が恋心を募らせ夜這いに行く、というのが通常のお付き合いのあり方だった。もちろん夜這いといっても、そう簡単にできるものでもないから、だいたいは屋敷のものに手引きしてもらうのだ。
少将は、フラガにその手引きをしろと言っているも同然だった。つまり、キラの噂を聞きつけ、恋心を募らせている、と。
フラガは、卒倒しそうになった。