とりかえばや 02
「とにかく!お前たち、男なら男らしく、女なら女らしくしろ!」
そう、啖呵を切った父だったが、次の日勤めから戻った彼は、それまでとは一八〇度違うことを言い出した。
「カガリの元服の準備を、しようと思う」
ナタルとカガリの住まう棟に足を運んだフラガは、開口一番そう言った。
突然の話に、カガリはもちろんのこと、常には冷静なはずのナタルも顔色を変える。
「どういうことですか、それは!」
妻の剣幕には動じず、しかし青い顔で、フラガはその場に座した。右手を上げて人払いをした後、一つ息を整えて、御簾の向こうの妻と子に、ゆっくりと視線を合わせる。
「…今日、女一の宮さまが俺にお言葉をくださった」
「それは…すばらしいことではないですか」
女一の宮と言えば、女性ながらにして次代の東宮、つまり第一位皇位継承者の地位を約束されている人物だ。彼女から直接言葉をいただくとなれば、後の出世は約束されたも同然。
なのに、フラガの顔は冴えない。
「問題は、そのお話の内容だ」
それは、絞り出すような声だった。
「は?」
素っ頓狂なフラガの声が、宮中の一室に響いた。御簾の向こうの相手に顔を向けたまま、彼は視線を忙しなくさまよわせる。
「宮様、その、おっしゃる意味がよく…」
「あら、宮などとつまらない呼び方はやめてください。ラクスと呼んでいただきたいと、何度も申しましたのに」
御簾の向こうから聞こえてきたのは、鈴を転がすような透明な声。その声音一つで柔らかく微笑んだ表情さえ分かりそうな、類まれな美声だった。
だが、今のフラガにとっては、地獄の底の使者の声も同然だ。
「ら、ラクス様、その…ですから…そ、そう。息子はまだまだ子供で、とても…」
「お噂はかねがね、ですのよ。兄君は聡明で果敢、妹君は慎ましやかで、可憐。お上のお話し相手にも、良いのではないかと思いますの。今東宮はお若く真面目な方ですから、なかなか釣り合うお話をできる方もいなくて…。ああ、そうですわ。そろそろしっかりとした奥方も娶られたほうが良い頃ですし、いっそそちらも…」
全く人の話を聞いていないラクスの様子に、フラガは眩暈を感じた。先ほどから、ずっとこの調子だ。いくらフラガと言えど、さすがにそろそろ手詰まりになってきた。
「あの、ですね…その…」
自分らしくもなく、しどろもどろになってしまう。調子が狂う、とはこのことだ。
だが、それでもまだ、彼は甘かった。ラクスの話をはぐらかすことができると、信じていたのだから。
しかし。
「あなたに拒否権はないのですよ、ムウ・ラ・フラガ」
唐突に変わった声音に、部屋の温度がすっと下がった気がした。訳もなく背筋が震え、フラガの笑顔が固まる。
それまでと変わらぬふんわりとした表情と口調で、しかしそれまでとは明らかに違う空気を纏って、彼女は微笑んだ。
「ご子息、カガリさんを殿上させなさい」
それは、有無を言わせぬ響きだった。
拳を震わせながら、フラガはきつく床を睨みつけた。
「噂をお聞きつけなさったようだ。有能な若い者を、眠らせておく手はないと…」
そのまま、激情を床に叩きつける。拳の立てる音が、鈍く響いた。
「俺だってこんなことはしたくない。二人の性を取り替えられればと思ったこともしばしばだが、まさか本当にそうするなどと!」
悲痛な声に、それまで詰問口調だったナタルも息を潜める。場を、静寂が支配した。
「お父様、私のことは気にしなくていい」
その中で、落ち着いた声が上がった。御簾を巻き上げ近づいてくるその姿を、フラガは呆然とした面持ちで見上げる。
「カガリ…しかし…」
戸惑う父親を尻目に、彼女はその隣に腰を下ろす。そして、不適に笑んだ。
「私は、もともとそのつもりだったんだ。自分にできることをしたい。お母様たちのように、日がな一日屋敷内に籠もっているなど、願い下げだ」
御簾を自ら上げ父の隣に並んだのは、男になるという、カガリの決意の現われとも言える。
そこまでされて、いまだ迷うフラガではなかった。
「…同時に、キラの裳着も済ませるつもりだ」
「そんな!まさか、大将、あなたは二人を入れ替えてお育てになるおつもりか!」
黙って成り行きを見守っていたナタルが、堪りかねたように叫んだ。
それを見据え、さらにカガリへと視線を向け、フラガは強く頷く。
「その、まさかだ」
突然フラガが言い出した裳着の話に、キラはもちろんのこと、マリューも驚きを隠せないでいた。だが、一事が万事フラガによって用意された後では、殊更に反対することもできない。流れに身を任せたまま、儀式の日を迎えた。
裳着は女性の、元服は男性の成人の儀である。これを済ませたからには、もう後戻りはできない。だが、不思議とキラの心は穏やかだった。裳着の儀を済ませ、一二単に袖を通したときには、穏やかさの中に胸の高鳴りを感じたほどだ。
これで自分は、煩わしい出世競争に巻き込まれることもない。日がな一日、屋敷内で遊びに興じていれば良い。
「カガリさんは、もうお勤めに出られたみたいね」
ぼんやりと庭を見つめていると、御簾の内から母の柔らかい声がかかった。その方に目を向けながら、キラは自分と瓜二つの妹の姿を瞼の裏に思い描いた。その立ち姿は、きらびやかな衣冠を身につけ、清冽なほど。
カガリは左大臣の後見のもと元服を済ませ、すでに殿上を許された身だ。殿上人、つまり帝への目通りを許される身分になった彼女は、今まで以上に輝きを増していた。
「楽しいのかな、殿上って」
「それは、お上にお会いできるのだから、楽しいんじゃないかしら。でも…」
「でも?」
ふと、母の声が楽しげな響きを帯びる。
「そうね。カガリさんのあの様子は、恋かも知れないわ」
「恋?」
母の言葉があまりに思いがけないものだったので、思わず、声が裏返ってしまった。
「僕らは恋なんてしても、報われないじゃない」
男の身を偽り女となり、女の身を偽り男となった。その自分たちに、まともな恋などできようはずもない。
胡乱げに眉を潜める息子の姿にマリューは苦笑した。
「キラ…あなたにも宮中に女官として上がるよう、再三のお誘いがあるわ。華やかな世界に行けば、あなたも恋を知るかもしれない」
どこか夢見るような眼差しで笑う母を見て、しかし、キラは眉間のしわを深くするばかりだった。
「宮中なんて、面倒くさいよ」
だが、時を置かずして、帝からの直々の招きにより、キラは宮中に上がることとなる。
朝露に輝く椿の葉を遠目に見ながら、朝食を取る。それはこの屋敷に備えられた風雅な趣向の一つだったが、あいにく、今朝は勝手が違った。
「お上のたってのご希望という話だが、実際には宮様…じゃない東宮が裏で糸を引いているに違いないんだ」
切々と訴える父の姿に、カガリはめまいを感じずにはいられなかった。
「それで、私にキラを守れって?」
「そうだ。宮様…じゃない東宮は、油断のならないお方だからな」
先の帝が東宮に位を譲ったことで、空いた東宮の地位には、予想通り女一の宮ラクスが納まった。その新東宮が、キラを自身の女房に使いたいと言っているらしい。
女房の職務は、主人の身の回りの世話をすることだ。寝食をともにするうちに、些細なことから勘づかれないとも限らない。
「わかった。できるだけ様子を見に行く」
目を血走らせ、食事も喉を通らない様子のフラガを横目に、カガリは朝餉を平らげた。
今回の譲位で、皇族のみならず官民にも大きな移動があった。フラガはその中でも、左大臣に抜擢され、名実ともに政界の頂点に立つこととなったのだが。
この、情けない姿はどうだろう。
「じゃあ、私は出かけるから」
「キサカ」と随身の名を呼びながら、カガリは女房たちに出かける準備を整えさせる。直衣を着せてもらいながら、やってきたキサカに、牛車の用意など、二、三指示を出した。
「もう、行くのか。まだ辰の刻にもなっていないぞ」
フラガが驚いた声を上げると、それまでカガリの傍らで黙していた少年が、思わずといった調子で身を乗り出した。
「それが、聞いてくださいよ。カガリったら、昨日なんて卯の刻前に宮中に上がったんですよ。付き合わされるこっちの身になって欲しいって言うか…」
「トール!余計なことを言うなよ」
「お前…何のためにそんなに早く行くわけ?」
卯の刻といえば、まだ東の空が白み始めた頃。そのような早朝から出仕せねばならぬどのような理由があると言うのか。
「ま、守らないといけないんだろう?」
頬を染め、ぶっきらぼうに口を尖らせるその姿が、怪しい。
「私が、守ってやらないと」
キラのことを言っているはずなのだが、なぜか確信的に、それはどこか違うような気がした。遠くを見つめる視線の先に果たして誰がいるのか。それはきっとキラではないと、フラガは漠然と思った。
「初めてお目にかかります。キラと申します」
父に教えられたように深々と頭を垂れてから、殊更ゆっくりと顔を上げた。最初が肝心だ。自分をより良く印象付け、また、相手を見極めねばならない。
まず、驚いたのは、その豊かな髪。波打つ桃色の髪は、もったりとしているのに、羽のように軽そうだった。そして、それに見合った柔らかな表情。しかし、柔らかさの中にも、どこか芯の強さを感じさせる。これが公家と言うものなのだろうか。
「ラクスですわ。よろしくお願いしますわね」
声も、ふわふわと夢見るような響きだ。だが、なぜだろう、キラはこのラクスに、どこか落ち着かない気持ちを感じていた。思わず、身構えるように眉を寄せてしまう。
それを気取られてしまったのだろうか、彼女は喉の奥で一つ笑って、目を細めた。
「身の回りの世話と言っても、女房は他にいくらでもいます。あなたには、私の話し相手になって欲しいのです」
突然ラクスの口から飛び出した言葉に、キラは一瞬言葉を失う。気を持ち直してようやく出てきた声も、滑稽なまでに裏返っていた。
「話し相手、ですか?」
「ええ。ですから、敬語は不要ですわ」
「は、はあ…ええと、ラクス様、それはどういう…」
そもそも、自分が宮中へと呼ばれた理由が曖昧だった。帝の希望とのことだったが、新帝は清廉で知られており、東宮時代からの妻を大切にしているという。もちろん、お上ともなれば何人も后を持つのが通例だが、彼に関しては当てはまらないと、父フラガも言っていた。
だからむしろ、自分を宮中に呼び寄せたがっているのは、この東宮なのだと。
しかし、そう心を構えて訪れた先で聞かされたのが、「話し相手」の言葉。
混乱するキラをよそに、ラクスはにっこりと微笑んだ。
「ラクス、と。呼び捨てになさってください」
「え、でも…その…」
またもや思いもよらない言葉に、キラは顔色を失う。驚くを通り越して、呆れてしまった。いや、呆れることすらも通り越してしまったかも知れない。
だが、些細にも動かないラクスの笑顔は、絶大な効果を持っていた。
「ラ、ラクス」
東宮を呼び捨てにするなどと、と思いながらも、キラはラクスに負けてしまった。
もうこうなっては、後は彼女のペースだ。
「よろしいですわ。では、キラ。これから私のお友達が来ますから、あなたも同席していてください。何と言っても、今日からあなたも私のお友達なのですから」
「は、はあ…」
よろしいですわね、と笑顔で念を押すラクスに、口答えなどできようはずもなかった。