とりかえばや 03

「アァスラァン!」

廊下はもとより、隣接する部屋べや、果ては奥まった女房の局にまで届く勢いで、よく通る男性の声が響いた。どこか怒気を含んだその声は、平静であればさぞかし優雅なのだろう。しかし、こう大声で叫んでいては台無しだ。

その怒声を受け、今いま御簾をくぐって廊下に出てきた人物が、眉根を寄せつつ振り返る。その瞳は輝く翡翠。髪は烏の濡れ羽色、いや夏の夜空だろうか。

「イザーク…」

「貴様、なぜこんな場所をほっつき歩いている!」

「いや、今からラクスのもとに…」

自分を怒鳴りつけた人物に対し疲れた目を向けながら、アスランは、物憂げに溜息を吐く。その仕草はどこか儚げで、イザークは思わず息を詰め、頬を赤らめた。輝く水面を思わせるその瞳を見張り、絹糸のような銀髪が風になぶられても微動だにしない。

このまま時が止まるかと思えたそのとき、今までアスランの影で見えない位置にいた少年が、荒々しく足を踏み出した。

「なんだ、イザーク!お前、いくら宮家の人間だからって、アスランに馴れ馴れしいんだよ!」

苛烈な言葉を浴びせるのは、直衣姿も凛々しいカガリだ。その声を受けて、魂を抜かれたように動けないでいたイザークが、瞬時に我に返る。

「俺を呼び捨てにするな!帥の宮と呼べと、何度言えば…」

口をついて出てきたのは、このようなやりとりが日常的に行われているのだと、容易に想像させる言葉だった。心外だ、と言わんばかりに、イザークの眉がきりきりと上がる。

「だいたい、貴様のほうが馴れ馴れしいだろうが!アスラン、貴様も貴様だ!もっと威厳を持て!臣下に呼び捨てにさせるなど…」

「お前だって、呼び捨てにしているじゃないか」

八つ当りよろしく怒鳴られたアスランは、不機嫌に眉をひそめた。そのセリフを受けて、イザークの口許がわなわなと慄く。

「なっ…なっ…」

「あー、はいはいイザーク。ちょっと注目集めてるから向こうに行こうなー」

二の句を次げないでいるイザークを、金髪の少年が横合いから押し留めようとした。武官の衣冠を纏った力強い褐色の腕で、文官の衣冠を纏ったイザークの白い腕を羽交い絞めにする。ただし、文官であり繊細そうに見えても、イザークの力は少年のそれよりも強い。それでも負けてなるものかと、歯を食いしばった。

「この、ディアッカ!貴様、誰の味方だ!」

「お前だって。まわり見てみろよ」

言われて、ようやくイザークは暴れるのをやめ、周囲を見渡した。一見、誰もいない廊下だ。しかし、御簾の向こうから聞こえてくる衣擦れの音、忍び笑い、さやさやとした囁き声。

そう、彼らは注目を集めていた。

ようやく自分の置かれた状況に気付いたイザークは、ディアッカの腕を力任せに振り解くと、肩を震わせながら、大声を上げた。だが、語尾が震えているため、迫力には欠ける。

「お、覚えていろ!」

それは古今東西変わらぬ負け犬の捨て台詞ではないか。ディアッカはそう思ったが、賢明にも、口に出しはしなかった。

ため息を吐く彼に気付かず、カガリも負けずと啖呵を切る。

「おととい来やがれ!」

またこれも、期待を寸分も外さない。

「ふん!」という声が聞こえてきそうなほどきっぱりと、二人は互いにそっぽを向いた。そのままイザークは、ディアッカを引き連れて、肩を怒らせながら、どすどすと廊下を遠ざかっていく。

二人の姿が見えなくなったところで、アスランがカガリを振り返った。

「カガリは、イザークが嫌いなのか?」

「いや…そんなことはないけど」

ただ、ちょっとあいつのアスランに対する態度が気に食わないだけで。

マリューなどに鈍い鈍いと言われる自分だが、イザークがアスランに向ける眼差しの理由くらい、すぐに気付いた。

「そんなことより、ラクスのもとに向かうんだろう」

イザークのことは出来るだけ考えたくはない。誤魔化すように話題を変えたが、アスランは追求しては来なかった。代わりに、何かを思い出したかのように瞳を輝かせる。

「そういえば、ラクスのもとに入った新しい女房」

息が、止まったかと思った。

「お前の妹らしいな」

カガリが不自然に立ち止まるが、アスランは気付かない。そのまま廊下を進みながら、嬉しげな微笑を浮かべる。

「美人だと聞いている」

その言葉に、他意はないのだろう。カガリの妹を褒めているだけで、キラに懸想しているとか、そういったことは一切ないのだろう。

しかし、それでも咄嗟に口をついた。

「あいつは、キラは、お」

男。そして、自分は女。

だが、それを言って何になるのか。今、自分は男なのだ。

「どうしたんだ?」

カガリが立ち止まっていることに気付いた彼は、足を止めて振り返った。怪訝そうに見つめてくる視線に、胸が詰まる。

もし、自分が女として育っていれば。キラの立場にいれば。

そうだとしたら、この思いの行き場は、未来は。

「いや…何でもない」

イザークの視線の意味に気付いたのは、自分が同じ思いを知っているからだ。そして彼に対して辛く当たってしまうのは、彼同様、この思いを伝えられない自分を自覚しているからだ。

アスランに連れ立って歩を進めながら、カガリは締め付けるような胸の痛みに眉を顰める。

東宮の居所は、目前に迫っていた。

さやさやと衣擦れの音が近づいてくる。聞き慣れたその調子に、キラはふと顔を上げた。少し、雑に。無造作に潔く切るように歩く。彼の知る限り、この独特の歩き方をする人物は、一人しかいない。

「おいでになったようですわね」

おっとりと微笑むラクスに、キラは、対照的な余裕のない顔を向けた。予想していたことではあるが、早すぎる。まだ、心の準備も出来ていないというのに。

ふと、焦り顔のキラの表情が、固まった。聞き慣れた足音。動揺して今まで気付かなかったが、それに混ざって、もう一つ別の人間の足音が聞こえてくる。穏やかで、しかし存在感のある歩み。華やかさと優雅さを兼ね備えているのに、それを前面に感じない。敢えて言葉を選ぶなら、慎ましやかなそれ。

慌ててラクスを見ると、彼女は不可思議な笑みを浮かべていた。間違いない、こちらが主客だ。しかもどうやら、彼女は自分をその人物に会わせることを目的としているらしい。

ラクスの意図が掴めず、動揺しているうちに、足音はすぐそこまで来ていた。

「ラクス」

しっとりと穏やかな声に、胸が跳ねる。男性だ。もしや、自分を嫁にと勧めるつもりだろうか。

不安になったが、今の自分は女房、客があれば部屋を整えねばならない。ラクスの顔を窺ってから、準備のために座を立った。だがそれを、やんわりと止められる。

「そちらは良いですから、御簾を上げてさしあげてください」

どうやら、よほどの高官らしい。部屋の主人であり、東宮たるラクスが気を使うほどに。

言われるままに、廊下に面した御簾に近づき、そっと持ち上げた。しかし、緊張のあまり指が震えて、上手く力が入らない。

と、急に御簾を上げる手が軽くなった。見れば、向こうから伸びた白い手が、キラの手ごと御簾を捲り上げていく。

「ありがとう」

現れた微笑に、眩暈がした。

どれくらいの間そうしていたのか。キラは、御簾を手にしたまま、ただ食い入るように目の前の男性を見つめていた。

「キラ」

ふと、聞こえてきた声に現実へと引き戻される。

「カガリ…」

よく見知った顔に、ようやく現実感が戻って来た。憮然としたカガリと、口元を押さえ微笑むラクスと、そして目の前の男性と。

「はじめまして、ですね。キラ姫」

「は、はじめまして」

柔らかだが、けして女らしくはないその声音に、胸が高鳴る。おかしい。自分は女として生きてはいても、歴とした男であるというのに。

自分を紹介するカガリの話を聞いていても、耳には彼の柔らかい声がこびりついて離れなかった。

「あら、アスラン。そんな堅苦しい話は後にしましょう。まずは座ってください」

「は…いえ、しかし、まだ私の名前も…」

どうやらアスランと言うらしいその男性は、ラクスの言葉に弱いようだ。難色は示したものの、結局は彼女に言われるままに、自己紹介もおざなりに座に着こうとした。しかし、座るべき円座がない。

「キラ」

「あ、はい、只今!」

言われてあたふたと準備をし始めるキラを横目に、ラクスは上座を降りた。それを見て、キラは目を丸くする。いかに女性とは言えど、彼女は東宮だ。なのに、上座を譲らなければならない人物とは、いったいこの男性は何者なのか。

もしや、ラクスの婚約者だろうか。そう考えて、キラは思わず胸元を押さえた。なぜだろう、胸が痛い。

痛みに顔を歪ませながら、キラは黙々と座を整え続けた。

「本当によく似ているな」

「え」

「いや、キラ姫とカガリがだよ」

唐突なアスランの発言に、手元へと集中していたキラは、すぐには何を言われているのかわからなかった。カガリが憮然とした顔で「そうか?」と言い返すのを見て、ようやく自分達の容姿について話しているのだと気づく。

キラとカガリは、兄弟であるだけはあり、よく似た顔立ちをしていた。ただ、カガリの瞳には意志が煌めき、キラの瞳には儚げな風情がただよっていた。その点が、二人の大きな違いだった。

「兄弟だからな」

似ていて当たり前だと、カガリはそっぽを向く。乱暴な仕草に見えたが、キラは兄弟特有の勘からだろうか、その物言いの裏に隠された、カガリの思いに気づいた。と、同時に、胸が一層苦しくなる。

カガリ、と、キラ姫。本来ならば姫と呼ばれているのはカガリだったはずだ。自分などではなく。

キラは、泣きそうな顔で、アスランに訴えた。

「あの、アスラン様。どうか、キラと呼び捨てになさってください」

「いや、しかし…」

「キラが良いと言っているんですから、そうなさったら良いのではありませんか」

アスランはほとんど初対面の女性を呼び捨てにすることに躊躇いを感じたようだったが、結局、キラの泣きそうな顔とラクスの満面の笑みに押し切られるかたちで、軽くため息を吐いた。仕方がない、とばかりに、緩く頷く。

「…では、俺のことはアスランと」

困ったように微笑んだ彼の顔は、今まで見たどの絵巻物よりも美しく、魅力的だった。

そういえば、男性と御簾を挟まずに向き合うのは、父フラガ以外には初めてだ。今更ながらにそう気づいて、頬に血が上る。火照る顔を袖で隠しながら、キラは潤んだ瞳で彼を見上げた。

「は、はい…アスラン」

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