とりかえばや06
とん、とん、とん、と、乾いた音が清涼殿の西廂にこだました。適度に広い庭には、左大臣、帥の宮をはじめとし、頭の中将にいたるまで、当代の政治の要が片寄せあってひしめいている。といっても、彼らは何も、政治向きの話を交わしているわけではない。彼らが交わしているのは、鞠。蹴鞠だった。
「そーら、行ったぞ」
「わかっている!」
左大臣フラガが勢い良く鞠を蹴り上げれば、その息子であるカガリが、華麗に受け止める。
まだ若い権力者たちの華やかな遊びに、西廂に下ろされた御簾の内からは、女たちのうっとりとした溜め息が漏れ聞こえた。特に、有望株であるカガリに向けられる視線は熱い。
蹴鞠はカガリの得意な遊びの一つだ。次は誰に渡すかと、足の上で鞠を遊ばせながら考えていると、向かいから金切り声が飛んできた。
「貴様!俺によこせ」
「冗談じゃない!何でお前に渡さなきゃならないんだ」
急かす声を上げたのは、言わずと知れた帥の宮イザークだ。負けず嫌いの彼としては、カガリだけに良い活躍をされるのは我慢がならなかったようだ。しかし、カガリはそれを突っぱねて、その横にいる人物へと鞠を蹴った。
「そら!」
「貴様あ!」
「…え?」
美しい放物線を描いた鞠は、ディアッカの足にしっかりと受け止められる、はずだった。
しかし、どうしたことか、鞠は地面に落ちた。当のディアッカは、まさに呆然といった様子で、鞠を見下ろしている。
「おいおーい、どうしたんだ、少年」
「あ、いや…すんません」
フラガの言葉に、ディアッカは一つ頭を掻いた。
その日、キラはいつになく早く目を覚ました。もう端午の節句を迎えようという汗ばむ気候の近頃でも、このようなことは珍しい。東宮の世話をするものの中でも特に寝汚いことで知られつつあるキラにとっては、ほとんど奇跡に近いようなものだった。
現に、自室でキラを迎えたラクスにしても、寝ぼけ眼を見開いて、脇息にもたせかけていた身体を起こしたほどだ。
「あら、珍しいですね、月が隠れるより早く、キラが現れるなんて」
たしかに、夜も明けた空には、いまだ有明の月を望むことができる。キラもそれを確認して、気まずげに視線を落とした。
「その…人の気配がして…」
「人の気配?まあ、どこかの殿方でしょうか」
脇息を押しやり、ラクスは、「何かされませんでしたか」とキラの手を取った。
キラは、握られた手に驚き、咄嗟に振り払うような仕草をしてしまう。すぐに非礼と気づいたが、頭を下げて許しを請うほかなかった。
「申し訳ありません!」
「いえ、よいのです。急に手を取った私も悪いのですから。それより」
ラクスは、キラの頭を上げさせてから、改めてその手を取った。
「あなたは、今ではお上の妃候補と目されているのです。殿方との接触は、極力避けなければなりません」
まあ、その様子では、男性に近づくこともできないでしょうけど、と、ラクスは、あざけるでもなく柔らかく笑った。
「私に触られるのにも怯えているくらいですもの」
「いや、そんな…」
「あら、よろしいのですよ。これは性格の問題なのですから」
恐縮するキラに、ラクスの笑みは深まる。
いつまで経ってもこの女主人には適わない。キラは一つ溜め息を落とすと、袂から何かを取り出した。
「実は、気配が誰だったのかまでは、確認していないのです」
しかし、話し始めたのは良いが、すぐにラクスの人差し指に、唇の動きを封じられてしまう。何が気に障ったのか。それなりに慣れてきたキラは、即座に理解した。
「…確認してないんだ」
言い直して顔色をうかがうと、にっこりとした笑みが返ってくる。指が外されたところで、キラは袂から取り出したもの、一葉の紙をひろげ、話を再開した。
「ただ、これが紫草に結び付けられて置かれていて…」
「まあ、紫草に?」
手紙らしきそれに目をやりながら、しかしラクスは口で言うほどには驚いた様子ではなかった。ところが、その彼女でさえ、手紙の内容に目を通したときには、声もなく目を見開いた。
にほへるいもをにくくあらば
それは、紛れもない恋文だった。
歌や季語は結構でたらめです。紫草に紙を結びつけるなんて、たぶん不可能だし。そのあたりは、軽くスルーしていただけると助かります。